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 結局、弓道部に入部したのは予想通り潮と京の二人だけだったけれど、仮入部の最終日に、入部を決めたと二人で伝えたとき、優都と千尋が顔を見合わせて安心したように息を吐いた姿は印象に残っている。優都は最後まで自分からは言わなかったものの、あとから千尋に聞いた話によると、この学校で部活動を成立させるためには、年度初めに最低三人の構成人員が必要だったということで、「おまえらが入ってなかったら潰れるとこだった」と千尋は肩を竦めていた。

「去年卒業した先輩と、優都は結構いい成績残してるし、潰すのは惜しいと思ってたんだけど。やっぱり、ちゃんとやりたいと思って入ってほしいから、言いたくないって言われてさ」

 バカ真面目なんだよ、と優都を評した千尋の横でその会話を聞いていた優都は、小さく眉をひそめて「うるさいな」と返した。優都は入部前の印象とまったく違わず、なににも手を抜かずに努力を積み重ね、結果を求めることに妥協しない男であったけれど、もう片方の先輩である千尋はむしろそれとは対称に、どんなことに対しても要領よく対応して、ずば抜けているとまでは言えないまでも一定の成果を挙げることを得意としていた。一見嚙み合わなそうな性格の二人が互いをかなり信頼し合っていることも最初はすこし意外だった。

 あまりにこぢんまりとしたたった四人の部活は、決まった指導者もいなければ顧問の先生も名ばかりでほぼ活動に関与することはなく、ときおり附属の大学の先輩が指導に来てくれることがある以外では、潮たちに弓道に関してのあらゆることを教え、的前に立って弓を引けるようにすることは主将の優都の仕事だった。潮たちが入部した直後にあったらしい都の個人選手権で、二年生にして三位に入賞して賞状を持って帰ってきた優都は、後輩の指導のために自分の練習時間が削れていた最初の数か月には、朝も昼休みも、オフの日も弓道場に足を運んで練習していたという。彼はいつだって、「弓を引くの好きだから」の一言で、決して楽ではない努力を片付けてしまっていた。

 入部してから二か月ほどが経ち、的前に立って実際に弓を引くことを許してもらったあたりから、潮は優都がやっている朝の自主練に頻繁に付き合わせてもらうようになっていた。家で寝ているよりはすこしでも長く優都の引く弓を見ていたいと思っていたのもあったけれど、できる限り早くこのひとの役に立てる実力がほしいというのも大きな理由だった。優都はいつでも潮より先に部室に足を踏み入れていて、潮のことを「おはよう」と迎え入れた。教室の中で友人と過ごす昼休みや、カラオケやゲームセンターで騒ぐ部活のない放課後よりも、一時間目の授業が始まる前の、その静かな朝の一時間が好きだった。優都は普段はさほど口数が多くはなく、潮と二人でいても会話のない時間はそれなりにあったが、優都といるときに限っては、途切れた会話をどうにか繋ぎ直そうと必死になることもなかった。

「うーやんって意外と真面目だよな」とは京の言だった。

 優都や潮に比べると来る頻度は劣るものの朝練に参加していたとき、京は練習が終わって着替えている潮の横でしみじみとそう呟いた。

「毎朝これに間に合うように起きて練習してんの普通にすげえと思うんだけど」

「や、俺ちょいちょい寝坊してんぜ。毎日七時に部室開けてる優都先輩がすごい」

「いやまあ優都先輩は次元が違うけど。俺、うーやんの第一印象、適当でへらへらしてるやつって感じだったから、ちょっと意外な感じはする」

「まあな、やるときはやる男だっていうギャップは魅力だろ」

 京の言葉に適当な軽口を叩いて返した潮に、京は「そういうとこだろ」と茶化してみせたあと、それ以上なにかを問うことはなかった。


 七月に入って、潮も京も的前でそこそこ様になる弓が引けるようになってきたころ、夏休みに入ってすぐの全国中学総体全中都予選の団体戦に、潮は優都と千尋とともに出場していた。試合は夏休み明けからと当初優都は予定していたらしいが、三人で一チームが作れる団体戦にせっかくなら潮を出してみようかと考え直したのだそうだ。それを潮に伝えたとき、「おまえは朝練にも毎日来てるし、上達も早いから」と言った優都の言葉に、二つ返事で「出ます」と潮が答えると、優都は「言うと思った」と微笑んだ。

 直前の練習までは調子は悪くなく、潮自身、人前に立つことにはあまり緊張しない性格だったのもあり、初めての試合には特に必要以上に気を張ることもなく臨んだものの、その試合で、潮は理由もよくわからないままにまったく矢を的に中てることができなかった。緊張をしている自覚もまるでなかったのに、的前に立った途端頭が真っ白になり、どうにか教わったとおりの動きで矢を放つことはできても、まったく見当違いの方向に飛んだり、的まで届かなかったりと散々な結果で、自分に与えられた四本のうち一本たりとも的に掠りすらしなかった。

 結局予選を勝ち上がることはできずに終わってしまった試合のあと、優都や京がかけてくる言葉はなにひとつうまく聞こえなくて、両耳に冷たい水が入り込んだようにあらゆる音が浮ついて響いてくる。期待にまったく応えることができなかったという恐怖が背筋をゆるゆると上り詰めて来て、しばらくタオルに顔を埋めてうずくまったまま動くことができなかった。京が背をさすって声をかけてくれているのがなんとか聞こえてはきたけれど、耳が拾う音は完全に遠近感を失ってしまっていて、遠くの音と近くの音がかき混ぜられて揺れる。その感覚に背筋を震わせたあと、うまく呼吸をすることすらできなくなってしまった。心配そうに自分に向けられる声も視線も振り切って、駆け込んだトイレの一番奥の個室の床にへたり込むと、ふいにこみ上げてきた吐き気に身を任せるまま、胃の中身をひっくり返した。

 吐くものもなくなるまで嘔吐を繰り返して、ようやくある程度視界ははっきりとしてきたけれど、相変わらず聴こえる音は歪んでいたし、自分の浅い呼吸が耳障りだった。立ち上がろうとする気力すらわかずに壁に背中を預けて座り込む。新品の袴が汚れてしまうことには、考えが至らなかったわけではなかったが、どうにかしようと思う余裕もなかった。狭い空間に響くノックの音を三回聞き流した後に、自分のいる個室のドアが叩かれているのだということに気が付いた。

「潮?」

 どんな音も歪んでいて曖昧だったというのに、その声だけははっきりと耳に届いた。「ドア、開けてくれないかな」と続いた言葉に、ほとんど無意識に手を錠に伸ばしていた。冷えた指先は、金属の冷たさすらほとんど感じなかった。ゆっくりとドアを開いた優都は、なにも言わずに潮の隣に屈みこんだ。

「――優都先輩」

 掠れ切った声で名前を呼ぶと、優都は潮にまっすぐ視線を合わせたまま「うん」と返事をした。うまく整わない呼吸のあいだに必死に探した言葉は、どうにもまともな形をもちそうにはなかった。

「ごめんなさい、先輩。――迷惑かけて、足引っ張って」

「そんなこと気にしてたの? おまえはまだ一年だし、試合慣れもしてないし、うまくいかなくたって当然だよ。おまえがいてくれたおかげで、僕たちメンバーを揃えて団体に出られたんだから、それだけでも感謝してる」

 優都の声は優しかったけれど、顔をあげたままでいることがどうしてもできなかった。息苦しさにすこし咳き込むと迷わず背中をさすってくれた手は、あまり大きくはなくとも体温が高くて温かい。それに素直に縋ることができないくらい潮の身体は冷え切っていた。喘ぐように息をしながら、こみ上げてくる吐き気にまたえずく。ほとんど液体しか出てこなかったものの、喉が痛んだ。

「……ごめんなさい」

 試合で足を引っ張ってしまったことも、いまこの場でまさに面倒をかけていることも、優しいこのひとをきっと本気で心配させてしまっていることも、潮にとってはなにもかもが苦しかった。堂々巡りで吐き気も過呼吸もおさまらず動けずにいる潮の背を、優都の手はずっとさすり続けていた。途中、千尋に「京を連れて先に帰ってて」と連絡しているのが聞こえたとき、申し訳なさで死んでしまいたくてきつく眼をつぶった。

 ようやくいくらか落ち着いたときには、疲労と酸欠で割れるように頭が痛かった。優都に引きずられるようにしてトイレを出て、近くのベンチに腰掛けた潮に、優都は自販機で水を買って手渡した。冷たい水が胃に落ちて、すこしだけ気分がすっきりする。「体調が悪かったの?」と隣に座った優都に問われ、潮は首を横に振った。

「そうか。――なにか、僕が聞けることはあるかな」

 タオルを差し出してくる優都の声はやはりひどく優しくて、また言葉を見失う。潮がどれだけ散々でも、隣でいつものように弓を引き、的に矢を送っていた先輩の姿を思い出す。歳はひとつしか違わないのに、優都のように強くはなれないと思った。それだけのものが、この小柄な体の内側に詰まっているように感じられてならなかった。

「怖く、なっちゃって」

 ようやく潮が絞り出した言葉を、優都は聞き返しもせずに拾い、「なにが?」と柔らかい声が続きを促した。そこに急かすような響きがひとつもなかったことに、息を吸うのがわずかに楽になる。

「本気で、なにかをすることが。――一回、失敗してるから。だめなんじゃねえのかな、って、思って」

 脈絡がないのはわかっていたけれど、きちんと話をまとめることもできそうになかった。強く握ったペットボトルが、軽い音を立ててひしゃげた。

「失敗?」

「ほんとに、しょーもない話なんですけど、……いいですか」

「もちろん」

 目の前のこのひとが、こうして即答してくれるというだけで、まだなにを話したわけでもないのにどことなく救われたような気分になってしまう。試合が終わってからしばらく経った会場はもう片付けもほとんど終わり、人気が少なくなっていた。音が減ったことにわかりやすく安心する。

「先輩、音楽好きですか。クラシックとか」

「うん。詳しくはないけど、有名どころならすこし聴くかな」

「……うち、親父が音楽家で、兄貴二人も音大行ってるんです。クラシック聴くひとなら、名前聞いたことあるかも」

 俺と同じ苗字の音楽家知りませんか、との潮の問いに、優都は一瞬考え込むようなしぐさを見せたあと、数秒もしないうちに潮の長兄の名前を答えた。「たしか、クラリネットの奏者だったと思ったけど」と添えた言葉を肯定して、「上の兄貴です」と返すと、優都は「そうだったのか」と目を丸くした。だれもが知っている、というほどではないものの、つい最近、日本人としては初めての大きな賞を史上最年少で獲ったことでニュースに大きく名前が載ったことがあり、その後も大学に在学しながら数々の最高峰のオーケストラと共演を果たしてきた人物だ。

「俺も、ちっちゃいときから音楽ずっとやらされてて、自分で言うことじゃないですけど、結構できたんです。小学校のときまで、学校行く以外はずっと楽器触る生活してました。小学校も、吹奏楽が初等部から高等部まで全国区のとこ行ってて。サックス吹いてたんですけど、三年生のときから、クラブの中ではずっと俺が一番でした。……いま思うとバカみたいですけど、そのことも当然だと思ってて」

 胸につかえていたものをひとつずつ解きほぐすように語る潮の言葉に、優都はときおり頷いたり相槌をはさんだりしながら耳を傾けていた。言葉に詰まっても、優都が待っていてくれることがわかっていたから潮も自然と焦ることなく言葉を繋げられていて、声にして息を吐くことで呼吸もすこし落ち着いてきていた。

「音楽が、ない生活を知らなかったし、そんな人生を想像したこともなくて、いつかは俺も、親父や兄貴たちみたいに、その道に進むんだって当たり前に思ってたんです。――だけど、俺はそうはなれなくて。自分に、ほんとは、ああいうふうになれる才能なんかないって気付きたくなかっただけで。親父も兄貴も、とっくに気付いてて俺に期待なんかしてなかったのに、そのこと認めたくなくって、毎日ずっと練習して、そこそこでかい賞も獲ったし、俺だってちゃんと才能はあるんだって、思いたくて」

 この数年間ずっと抱えてきたことは、言葉にしてみるとあまりに陳腐な表現にしかならなかった。ずっと頑張ってきたことがあったけれど、才能がないから挫折した。それだけだ。だけどどうしても、その一言だけで片付けてしまうことができなくて、いまでもそのことを引きずっていた。

「小六の四月のコンクールで、俺、曲の冒頭のソロを吹くことになってたんです。だけど、俺たちの前に演奏した学校の、俺と同じサックス吹いてた子のソロが、すごくて。才能ってこういうもので、親父や兄貴にはあるけど俺にはないもので、頑張ったから手に入るとか、そういうもんでもないんだって、それ聞いた瞬間もう認めるしかなくって。親父が俺のこと期待しねえのも仕方ないなって思った途端、いままで一度も失敗したことなかったフレーズ吹き損ねちゃって、あとはもう頭真っ白になって、なにも聴こえなくなって、曲のしょっぱなから音止めちゃって。――それ以来、楽器触さわれてないんです。だけど、音楽なしで生活してくやり方なんて知らなかったし、学校もわりと実力主義のとこあったから、本番でヘマやらかした俺のこともうだれも期待してくれなくなったし、そっから一年学校行けなくなって。だれも俺のこと知らない中学行こうと思って、することねえからひたすら勉強して、なんとか翠ヶ崎受かって、いま、です」

 おまえには期待しない、と言われることを、なによりも恐れてただひたすらに、先が見えないことから眼を逸らして楽器を吹き続けていた幼いころの感覚は、いまになってもまだ潮の中に色濃く残っていた。

「仕方ないのは、わかってるんです。才能がないのは、どうしようもないし、それで結果も出せないんじゃ見限られて当然だし。――でも、才能なんかなくても頑張ろうって、どうしても思えなかったんです。親父や兄貴みたいになれねえなら、もう俺が音楽やってる意味はないなって、思っちゃって」

「――見限られて当然だなんて言わせてしまうことが、仕方ないとは僕には思えないな」

 再び震えだした手を握りしめた潮の横で、優都はそれだけはっきりと口にした。

「おまえに、それ以外の選択肢を与えなかった環境が、勝手におまえを見限って、それを才能というものだけを理由にして、正しいことのように言うのは、理不尽じゃないか」

 優都が呟くように発した言葉の意味がすべてわかったわけではなかったけれど、この思いをいままで打ち明けた相手が判を押したように使う言葉を、優都は言わないであろうということだけはわかった。才能があるとかないとかなんて、この年ではまだわからないだろう、才能なんて言葉で言い訳するな、才能なんてものはなくて、ただ努力の差があっただけなんじゃないか。そういうことをこのひとは言わない、という確信だ。

「先輩は、才能ってあると思いますか」

「思うよ」

 試しに聞いてみたら、潮が想像した以上に優都はその問いに即答した。意外であるような気もしたけれど、本当に優都が才能というものを信じないひとだと思っていたなら、潮がこの話をすることもなかった。どこかで、そういうものの存在はわかっていながらも、そういうものには頼らずに生きているひとなのだろうと直感していた。

「それがすべてだとも思わないけど、生まれもったものっていうのがなにもないってことはないだろうし、そういうものに恵まれていないと選べない生き方があるというのにも、納得はするよ」

 優都の言葉はなにひとつ潮を責めることはなかったけれど、安易に同情することもなく、必要な分だけの距離は置いたところから潮の語る思いに寄り添っていた。

「俺の音楽に限界があるのはわかってるし、そういうものを無意味に評価するのが無駄だっていうのも、わかってるんです。……でも、俺は物心ついたときから、音楽よりできることはなにもないし、努力だけならあのときできる限りしてたし、あれでダメならもうなにやったってダメなんじゃねえかって思って。弓道やるって決めたときも、そのことがいちばん怖かったんです。――ごめんなさい。先輩は本気なのに、俺、こんな中途半端で的前立ってて」

「弓を引く理由なんて、ひとそれぞれでいいと僕は思うし、それがなんらかの意味で自分に必要だと思うなら、中途半端ではないんじゃないかな」

 必要、という言葉を潮は声に出さず口の中だけで反芻した。自分の人生に音楽以外のものを必要としたことがなかった。けれど、初めて優都の弓を見たあのとき、あの弓の正しさが自分のことを救ってくれるように思えてならなかった。そういう意味で、たしかにこの場所にいることが必要だということは、存外すんなり潮の胸に落ちてきた。

「――優都先輩、あの」

「うん?」

 ほとんど空になったペットボトルに口をつけて、底に残ったほんの数滴を喉に流し込んだ。もうほとんど呼吸はもとに戻っている。潮が名前を呼ぶと、優都はいつものようにすこし首を傾げて潮に目を合わせた。

「先輩は、本気でやってうまくいかなかったこと、ありますか」

「そうだな、それなりにあるかな。小学生のとき珠算やってたんだけど、どうしてもかなわない相手がいたし、僕、第一志望の受験に落ちてここにいるし、去年一年でも、思ったように結果が出せない試合はいくつもあったし」

「――頑張るの、嫌にならないんですか」

 まだ出会ってたったの数か月でも、優都が毎日重ねている努力の量が並大抵ではないことは知っていた。時間があれば練習をしている傍らで、学年では上位の成績をキープしているし、周りの友人や教師からの人望も厚い。それでも、優都が、頑張れば頑張っただけ報われるという単純な理屈を頭から信じているとは潮にはどうしても思えなかった。それが一度の挫折でいとも簡単に折れてしまう信念だということは潮自身がだれよりよく知っていた。

「諦めるのが下手なだけだよ。僕は、自分がやれば必ずなにかを成功させられるような才能のある人間だと思ったことはないけれど、それでも、決めたことは納得いくまでやりたい」

「結果がでなくても?」

「それでいいとは言わないけどね。ただ、自分ができることをやり尽くしたと言えるまではやりたいし、僕はそうじゃないと諦めがつかないんだ。――おまえほど、才能というものを身近に感じたことがないから、言えることなのかもしれないけど」

 このひとはこちら側だ、とそのとき強く思った。彼もまた、天才と呼ばれる領域には決して辿りつけない生まれついての凡人だ。それでも、優都は自分のいまいる場所に先があることを信じて愚直に努力を積むことのできる人間だ。それは、音楽を諦めたあの頃の潮には絶対に選べなかったありかただった。

「それがあたりまえだったとはいえ、苦しいくらいしてきた努力に見向きもされずに、生まれもったものだけで評価されるのは、辛かっただろうな」

「努力だと、思ったこともなかったんです。たぶん。だけど、どれだけ一生懸命吹いても、俺の音に価値がないのは変わらないんだって気付いたら、どうしようもなくなっちゃって。――本気になるだけじゃ、どうしようもないことあるんだって一度思っちゃったら、もうダメでした」

 優都が噛みしめるように潮にかけた言葉に、声が震えた。ずっと、だれかに認めてほしかったことだった。努力をするのは当然で、そもそも評価されるようなことではなくて、価値を与えられるのはいつだってそのもっとずっと先のことだった。だというのに、最初からその世界で生きていくことは許されていなかった。それでも音楽を手放して生きていく方法を知らなかったのだ。それがこの十二年間と半年、潮の内側にあったあらゆるものだった。

「結果を求めなくていいとは言わない。上手くなるための努力はしてほしい。だけど、結果が出ないだとか、それが特別じゃないだとかいう理由で、おまえの努力を見捨てるようなことは絶対にしない」

 きっぱりとそう言い切った優都は、また俯いてしまった後輩の横で、「潮」とその名前を呼ぶ。ゆっくりと顔をあげた潮をまっすぐ見据え、優都はいつもの柔らかな笑みを浮かべて口を開いた。

「おまえの努力は、僕が後悔させない」

 その言葉がすべてだった。ずっと欲しかったけれど声に出して求めることの許されていなかった感情が、そこにはすべて込められていた。耐えることもできずに泣きだした潮が再び落ち着くまで、優都はそれからさきなにも言わずに隣に座っていた。


**


 潮が優都の助けを借りながら物理のプリントと三十分ほど格闘した頃、開いた部室のドアから「おはよう」と入って来たのは、朝練に姿を見せるのは珍しい人物だった。

「千尋先輩。おはようございます」

「おう。今日ひと少ねえな」

 中等部時代から生徒会に所属している千尋は、その仕事もあってあまり朝練に来る頻度が高くはない。部室を見回して、優都と潮しかいないことを確認した千尋が発した言葉に、優都は「おはよう」と声をかけたあと、「古賀は朝に補習があるんだって」と返した。

「ゆっきーは委員会のなんかあるとか言ってたかもです。けーくんと風間は知らないっす」

「風間って試合前以外に朝練来てんの?」

「二週間に一回くらいは来ますよ。あいつ朝くっそ弱いんで」

 中学時代は、二代合わせて優都と千尋、潮と京の四人だけだった弓道部は、高等部では、高等部から入学して来た優都の同期一人と潮の同期二人を加えた七人の体制となった。現在は副将を務める古賀雅哉という二年生と、高校から弓道を始めた早川由岐ゆきという一年生は朝練の常連であり、ほぼ毎日朝七時半に部室に現れている。そのため、潮たちが高校に上がってから、優都と千尋と潮の三人だけが部室にいるというのは珍しい光景だ。

「せっかく三人だし、三人立で四つ矢やろうよ。この面子久しぶりじゃない?」

 そう言った優都の声は懐かしさを感じてかすこし弾んでいて、彼はそのまま記憶を辿るように宙を眺め、「もしかして、僕が中二のときの全中予選だけだったかな」と呟いた。

「そうじゃねえか? 俺中二のときは夏以降試合出てねえし」

「え、俺のほろ苦いデビュー戦じゃねえすか」

 潮も中学時代の記憶を掘り起こしてみたものの、たしかに、このメンバーで試合に出たのは、優都が指摘したその大会ひとつしか思い当たらなかった。ひどい失敗をした、という実感だけは残っていても、大会中の行射についてはほとんどなにひとつ覚えていなかった。けれど、その日があったということだけはなによりも鮮明だ。あのときもらった言葉に何度も縋りながら、ここまで弓を引いて来た。

「上等っすわ、あのときの生まれたてぴよっぴよの潮くんとの違いを見せつけてやりますよ」

「おまえが三年前から進歩なかったら僕さすがに悲しいよ」

 潮の軽口に、茶化すように肩を竦めた優都は、弓を手に取って道場へ続くドアを押し開けた途端、その横顔から表情を消し、隙なく背筋を伸ばして朝の冷たい空気が張り詰める道場へと踏み込んで行った。彼の後ろ姿よりも自分の背筋を伸ばす存在を、出会ってから三年以上経ったいまでも、潮は見つけることができずにいる。毎日見ているはずのその背中は、首元から忍び込む初冬の寒さや、足裏から上り詰めるフローリングの冷たさが想起させるよりもはるかに透き通った呼吸を潮の喉に送り込む。潮はそれをまた白い息に変えて吐き出して、優都の隣へと歩幅を広めて歩み寄った。

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