第一章

1-1

 部活動を始めるのは早くても朝七時半から、というのが高等部全体の決まりごとで、弓道部もそれに従って朝練の開始時刻はその時間だった。そもそも大会前以外は強制ではないその練習に、潮は中等部の頃からわりあい毎日律儀に参加している。週に一度くらいは寝坊して、七時半には間に合わなかったり、今日はもういいかと思って二度寝を決め込んでしまったりすることもあるものの、それを加味しても参加率は高いほうだ。

 冬が顔を覗かせてきたこの季節は、早朝ともなるとさすがに肌寒い。ブレザーの下には昨日から厚手のパーカーを羽織ることにしていた。最寄り駅から延びる学校までの道に沿って植えられた銀杏は、もう一枚残らず黄色に色づいている。吐いた息はわずかに白く曇り、潮は身震いをして両手をスラックスのズボンに突っ込んだ。

 いつもより三十分早く家を出たのには深い意味はなく、ただ、毎朝だれよりも早く来て道場とそれに併設された部室の鍵を開けているこの部の主将が、どれくらいの時間に登校しているのかを知りたいという好奇心だけはあった。五分や十分早く来たところで彼はいつももう部室の中にいて、練習着に着替えたうえで教科書や参考書を開いている。そうして、ドアが開いて自分以外のだれかが中に入ってくると、ノートを閉じてペンを置き、小さく首を傾げてから微笑んで「おはよう」と眼を細めるのだ。

 七時五分前に道場に着いたとき、そのひとの姿はドアの前にあった。潮の足音を耳にしてか、部室のドアノブに手をかける前にふり向いた彼は、いっときふいをつかれたような顔を見せたけれど、すぐにいつものように「おはよう、潮。早いね」と言って首を傾げた。この先輩より早く部室に着いたことがいままで一度もなかった。中学一年で弓道部に入ってから、高校一年のいまに至るまで、ずっと。

「おはようございます。優都先輩、いつもこの時間なんですか?」

「うん、大体は。僕、朝起きるの得意だし」

「知ってましたけど、すげえっすね」

 ドアを開けて足を踏み入れた部室は、外とほとんど気温は変わらず冷え込んでいた。靴下越しの床が冷たい。脱いだ靴を足で端に追いやった潮の横で、優都は一度かがんで靴を揃え、照明のスイッチを押し上げた。あまり広くはない部屋の壁沿いには人数分よりいくつか多いロッカーが据えられていて、中央には長椅子が置かれ、奥に小ぶりで足の低いテーブルが押しやられている。優都は自分のロッカーを開けながら、「どうして今日はこんなに早かったの」と潮に聞いた。

「や、単に早く起きただけなんすけど。優都先輩ってほんといつ来ても先にいますよね」

「鍵持ってるの僕だしね。朝早いほうが、電車も混まなくて楽だろ」

「まじ尊敬しかないっすわ……俺、先輩より全然家近いけど、この時間に毎日来んの絶対無理ですもん」

 優都の家からこの学校まではおおよそ一時間のはずで、七時に部室に着くために起きるべき時間を逆算すると恐ろしくなる。寒がるそぶりも見せないままシャツを脱いで練習着を手に取りながら、「ごはん作ってもらうのが申し訳なくはなるけどね」と苦笑した彼は、その生活をあまり苦に思っている様子もなかった。

 空いた壁には賞状がいくつか飾られていて、その半分以上にあるのが優都の名前だった。つい数年前まで廃部寸前だった弓道部をほとんどひとりで立て直したこの主将は、部内のだれよりも努力家で、結果を出すために献身を惜しまない。潮が優都の小柄な背中を追いかけているのも、もう今年で四年目だった。

「あ、そうだ先輩、物理の課題やっててわかんないとこあるんすけど、聞いていいですか」

「うん、僕でよければ。着替えたら持っておいで」

 寒さと朝の気怠さに自然と行動が遅くなる潮を尻目に、優都はてきぱきと着替えを済ませ、制服をきちんと畳んでロッカーにしまい、用具の準備まで一通り終わらせてから部屋の奥のテーブルに移動していた。潮がウィンドブレーカーに袖を通しながら問うた言葉に即答して、優都は数学の問題集に向き直る。ようやく着替えを終えて、プリントと教科書を持って潮が優都の隣に腰を下ろしたときには、優都のノートには潮には意味のわからない数式がいくつか並べられていた。驕ることもなく当たり前のように人一倍の努力を重ねている先輩のことを、潮は出会ったときからずっと手放しで尊敬し続けている。

「まじで、優都先輩への頭の上がらなさ尋常じゃねえっすわ。ほんとすごいっすよね」

「いきなりどうしたの。朝からテンション高いな、おまえ」

 呆れたような笑みを浮かべた優都は、自分のノートを閉じて潮の開いたプリントに眼を通した。優都の声はさほど大きくはないが、まっすぐでよく通る。芯のしっかりしたその声で語られる言葉に耳を傾けながら、冷たい床に座り込んで数式を追いかける朝は、静謐でありながらはっきりと潮の眼を覚ましていった。


**


 彼の引く弓に惚れ込んだ日のことを、いまでもよく覚えている。坂川潮が森田優都に出会ったのは、中学の入学式の三日後だった。

 吹奏楽部のディズニー・メドレーに背を向けてあてもなく歩く校内は、ひとりでいるにはあまりに広かった。昨日までは一緒に仮入部を回っていた友人たちは概ねめぼしい部活を決めてしまったようで、いまだなににも心惹かれることなく放課後を持て余している潮は、入学三日目にして完全にその流れからは置いて行かれてしまっていた。エスカレーター式の翠ヶ崎みどりがさき大学附属中学では、初等部からの持ち上がりの生徒もそれなりの数いるなか、中等部から入学してきた潮の中学生活は知り合いがひとりもいないところから始まっている。ここ数日、クラスメイトとはそれなりに仲良くやれているつもりではあったが、この状況は早速友だちがいないみたいだと自嘲しながら人気のない体育館横を歩いていると、同じ色のネクタイをした、見覚えのある顔の男子生徒とばったり出くわした。お互いに眼が合って、「同じクラスだったよな?」と笑顔を浮かべて声をかけると、相手は一瞬きょとんとしたように眼を丸くして、潮につられたように笑った。ひどく色素の薄い瞳をしていて、どこか臆病そうな雰囲気を備えていた彼は、その見た目に反して明るい声で「そうだよ」と言った。

「潮、だっけ? 中学からだよな、たしか」

「うん、そう。えっと――悪い、名前なんだっけ」

けいって呼んで。中学からだと、まわり知らねえやつばっかで大変そう」

 そう言って人懐こそうに潮の隣に並んだ京は、話しぶり的に初等部からの持ち上がりなのだろう。「ひと多いし、学校広いし、まじしんどい」と大げさに肩を竦めてみせると、京は「おまえ、友だち作んの一瞬だったじゃん。テンション高いから目立つし」と笑って返した。

「なんでひとりなの? 中山たちと仲良さそうだったから、同じ部活行くのかと思ってたけど」

「いやあ、あいつらばりばり運動部って感じじゃん? 俺運動神経微妙だし、それは絶対ついてけねえなって思って」

「ふうん。ちょっと意外。なんか行きたいとこあんの?」

「んにゃ、全然。あんま興味あるもんなくてさ。みんな結構最初っから決めてっから、置いてけぼり食らっちまったわ」

 クラスメイトの前ではおどけてみせつつも、内心焦りを感じていないわけではなかった。所属する場所が不安定だという感覚はあまり好きにはなれない。適当にふざけながら周りとテンションを合わせて場を盛り上げるのは得意ではあったけれど、その人間関係に限界があることくらいは、中学に入ったばかりの歳でもすでに察していた。潮のことをまっすぐ見てくる京の眼はやはり茶色とも金色とも深い緑ともつかない、そのどれもが混ざり合ったような不思議な色をしていて、その視線にそこはかとない居心地の悪さを感じながら「ハーフかなんか?」と問えば、「よく言われるけど、全然日本人」という答えが返ってきた。

「けーくん? は、どっかこれから行く予定あんの?」

「や、俺も全然部活考えてなくって。ふらふらしてただけ。おんなじ感じのやついてちょっとほっとした」

 そう言った京は鞄から部活紹介のプリントを取り出して、「どっか一緒に見に行こう」と潮を誘った。礼を言いながら潮もその提案に乗り、二人でプリントに載った部活を吟味しつつ、ばりばりの運動部と潮が避けている音楽系の部活、それからお互いに苦手意識の強い美術系の部活を除いていった結果、いまいる場所からそう遠くないところで活動しているらしい、弓道部というほとんどまわりから名前を聞かない地味な部に白羽の矢が立った。副キャプテンの欄に書かれていた名前が、京が小学校時代所属していたミニバスのチームの先輩だったということもあり、とりあえず行くだけ行ってみるかと、校内地図を頼りに弓道場という建物に向かって歩くことに決めた。その道中、京にもうバスケはいいのかと問えば、「初日にバスケ部行ったけど、無理だなって思ってやめた」とあっけらかんと答えられた。


 十分ほど二人で校内をさ迷ったのちに辿りついた弓道場は、建物としてはいままで見たこともないような不思議な外観をしていた。フェンスに囲まれた広い芝生の一方の端には的が並んでいて、他方の端には半分が屋内で半分が屋外のような空間が開けている。この時期はどの部活も新入生を獲得するのに躍起でにぎわっているというのに、場所を間違えたかと思うほどにこの建物の周りは静かだった。フェンス越しに道場のほうを覗くと、その場所に人影があるのは見えた。フェンスに張り付く姿が見えたのか、そのひとのほうも二人の姿に気付いたようで、しばらくもしないうちに袴姿の少年がひとり外に顔を見せた。

「新入生?」

 白い着物と黒色の袴を着こなしていた彼は、潮や京よりもすこし背が低く、新入生でも通るような幼さの残る容姿をしていたが、その反面、声や仕草は上級生だとすぐにわかるくらいに落ち着いていた。答えのわかり切ったその問いに潮たちが軽くうなずくと、彼はうれしそうに表情を緩め、二人を道場の中へと通した。

 道場の中は直接外と繋がっている開放感がある一方で、グラウンドや体育館の喧騒とは一線を画した静寂が隙間なく張りつめているような感覚もあった。フローリング張りの床の冷たさに、足の裏から体温が奪われる。体験入部の期間だというのに、新入生はおろか上級生の姿すら見受けられない空間の静けさに、やり場を失った視線があちこちを泳ぐ。袴姿の先輩は、潮と京のその様子を見て口元にわずかに苦笑を浮かべ、二人に腰を下ろすように促した。

「見ての通り、ひとの少ない部活なんだ。僕は、この部の主将を務めている、二年の森田優都といいます。大した歓迎もできなくてごめんな、だけど来てくれてほんとうにうれしいよ」

 小柄な印象だった彼が、自分よりも大きく見えて潮は一瞬瞬きをした。美しい姿勢で座るひとだった。自分のことを大きく見せようとするわけでもなく、緊張で力んでいるわけでもなく、ただそうしていることが当たり前だという雰囲気で隙なく背筋を伸ばすその姿に、自然と潮も姿勢を整えていた。彼はそのまま、この部にはいま三年生がいないことと、二年生も彼ともうひとりしかいないこと、そのもうひとりは生徒会の仕事があって遅れてくること、などを潮たちに話した。それが京の知っている初等部時代の先輩らしい、という話を京がしているあいだ、やはり優都は背を丸めることはないままに、真剣な表情で京の言葉を聞いていた。

 優都が自己紹介や、簡単な部の説明を終えた頃に、制服姿の背の高い男子が道場に入ってきた。「あ、千尋。お疲れ」と声をかけた優都に「遅れて悪い」と声をかけ、潮と京に視線をやった彼は、「新入生来てたのか」と言ったあとに京で目を止めて、「あれ」と声を上げた。

「矢崎先輩、お久しぶりです。覚えてますか?」

「おう。京だろ、久しぶりだな。バスケ辞めたの?」

 優都が千尋、と呼んだ彼は、京の隣までやってきて京と初等部時代の話を交わし始めた。まったくわからない話題が広がり始めたのを横目で見ている潮に、優都は「中等部から入学してきたんだっけ?」と声をかけた。

「はい。ぎりぎり滑り込めました」

「お疲れさま。僕も中等部からだったんだけど、最初に知り合いが少ないとなかなか疲れるだろ」

「少ないどころか、俺、知り合いゼロなんです。新しい友だち作んのは楽しいですけど、覚えることとかやること多いっすね」

「うん、僕もそうだったからよくわかるよ」

 たわいもない話をしていてすら姿勢のいい優都は、潮が一言喋るごとにしっかりと潮に眼を合わせてきたけれど、彼がすこし首を傾げて浮かべる微笑みはその視線をあまり重圧とは感じさせなかった。潮が慣れない正座をしているのに気付いてか、足を崩すように促したあと、優都は「弓道部にはどうして来てくれたの?」と潮に問うた。

「えっと、……なんとなく、って感じで。あんまり、これがやりたいっていうものもないし、がっつり運動するのも好きじゃないし、これといって、得意なもんがあるわけでもないし、とりあえずなんか見てみようかなって思って。すみません、こんな理由で」

「いや、聞いておいてなんだけど、理由なんてなんだって気にしないよ。たまたま来てくれたのだって、立派な縁だしな」

 優都がそう言い切ったところで、京と千尋の会話もひと段落ついたらしく、潮と京、優都と千尋はそれぞれ眼を合わせた。

 千尋が「優都」と名前を呼んで、「弓引いて見せれば?」と提案をした。弓道という競技を、名前こそ知らないわけではなかったが、テレビですら実際の動きを見たことはなかった。京もそれは同じなようで、二人して興味津々に「見せてください」と言えば、優都は頷いて立ち上がり、立てかけてあった弓を手に取った。離れたところから見ると大きさがよくわからなかったけれど、その弓は優都の背丈よりもはるかに大きい。「触ってみる?」と言われて恐る恐る触れてみても、木の手触りがする、という感想以上のものが思い浮かばないほど、いままでの人生で出会ったことのない不思議な存在だった。

 優都が的前に立った瞬間は、きっと一生忘れることができない。それは、記憶でも思い出でもないものとして、いつでも眼前に呼び起こすことのできる光景だ。あまり背の高くない彼は、それに似つかわしくない大ぶりの弓を持って、遠くにあるように見えた的の前でほんの一瞬だけ眼を伏せたあと、顔を上げて的を見据えた。左手で弓に矢を番え、右腕が目いっぱい弓を引き絞るまではあまりに流れるように進んでいて、気付けば彼は的よりももっとずっと向こう側のどこかを見ているようだった。彼がいっとき呼吸を止めた瞬間、あらゆる音が世界から消え失せた。なにもかもが、あるべき場所に整然と存在する、そういう実感が背筋を駆け上り、自分をつくる粒子のひとつひとつが正しく並び替えられていくかのようなざわめきに、自然と潮の姿勢も正された。ただまっすぐに的を見据える意志のこもった瞳は、あどけなさすら残る彼の横顔にはそぐわない。けれど、それはそこにあった。音もないのに内側に入り込んでくるものは、数えるならばまごうことなくたったひとつだった。心臓がそれを飲み込んで、どくり、と一度拍動する。

 優都が矢から指を離したとき、潮は矢の行き先には目もやらず、息を吐き出して目を細めた彼の姿に視線を奪われていた。矢が、的に中ったかどうかなどということはどうでもよかったし、そもそも中らないということを想定すらできなかった。

 的に矢が吸い込まれ、薄い膜を突き破る音がする。それを耳が拾ったとき、ここまでの一連の動きの中には、ひとつとしてそれを邪魔する雑音が含まれていなかったことに気が付いた。

「――すっげえ」

 言葉を探すことすらままならず、喉の奥から絞り出されたのは陳腐な感嘆だけだった。それを聞きとめてか、優都は照れたように笑みを浮かべて、「あたってよかった」と言った。隣では京が頷きながら何度も手を叩いていた。

「うまいとかへたとかわかんねえっすけど、なんか、――すげえ、いいなって思いました」

「ありがとう。そう言ってもらえるのがなによりだよ」

 試合より緊張した、と言って笑う優都は先ほどよりもいくらか幼い表情をしていて、背の低さも相まって隣にいる千尋と同い年のようには見えなかった。あの小柄な背と細い腕が放った矢は、力強さを感じるというよりも、むしろを乗せていた。なにも知らない潮ですら、あの射が正しくて、矢が的の中心に中るということを、優都が矢から手を離したときにはもう疑えていなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る