睡骸花

安良巻祐介

 

 弟が死んだ。

 一度は運よく命を取り留めたというのに、再び自ら死を選び、今度こそ帰って来なかった。

 私は大きな悲しみを覚えながら、同時に、母のことを案じた。

 母は、弟の死にはとても耐えられまい。

 普通の者ならば、何かしら折り合いをつけて、何とか生きていくものだろうけれど、母にはもうそのような順応をしてゆく体力は残されていない。

 母が壊れることは、引いては私たちの家族が決定的に崩壊してゆく事を意味する。

 それだけは避けなければならない。

 だから私は、悩んだ末、医者に頼んで、近年本格的に導入され始めた、かの感傷切除法を行ってもらうことにした。

 洗面所の鏡の前に立っていた母を眠らせ、車で施術台に運んだ。

 弟の転落した知らせを受けて、何が起こったのかを徐々に理解し、まさに鏡の前で狂乱に陥る寸前であった母の顔は、これから丸め潰されようとする紙に似て、妙にだだっ広い真っ白な地に幾筋かの皺があり、そのほんの少しの皺が、ひどく忌まわしかった。

 部屋の前で座って待っていると、緑色のランプがぼんやりと点灯し、出てきた医者はゆっくりとした口調で、施術の終了を告げた。

 頭に包帯を巻かれた母は、顔に刻まれたあの皺が綺麗になくなり、安らかな寝息を立てていた。

 私はああ…と安堵の声を洩らし、座り込んだ。これで、家が壊れてしまうのを、防ぐことが出来た。弟の死は、私だけが抱えればいい。

 夜が明けたら、今度は、弟を大変に可愛がっていた祖父を連れて来るつもりだった。祖父は母ほどではないけれども、この間に長年連れ添った祖母を亡くして弱っているから、やはり耐えられない人であろう。充分に、切除術を受けさせる理由がある。

 涙をためて、胸を撫で下ろす私に、医者が、これを…といって、シーツをかけていた何かを差し出した。

 布を取り去ると、掌に収まるくらいの、小さく透明な立方体の中に、桃色の硝子片のようなものがひとかけ、包まれていた。

 医者が言う前に、私は気がついた。母から切除された感傷というのが、これであると。

 病院で安全に処分してもらうことになっているそれを、束の間、私は眺めた。

 私たちの家を壊し、めちゃくちゃにする予定だったそれは、ひそやかで、寂しげで、ひどく美しかった。

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睡骸花 安良巻祐介 @aramaki88

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