性別の失われた世界
結崎碧里
1. ジェンダー・チェンジ・ベッド
――本日の先端科学技術研究所の発表によりますと、一晩で性別が変えられる技術が発明されたとのことです。
――共同研究を行った松芝電工は、カプセル型のベッドに一晩寝るだけで、翌朝には心身ともに元の性別とは異なる性別になれると説明しています。思考は体の性別に沿ったものとなりますが、記憶は維持されるように設計されています。
――来月中ごろには商品化され、発売されるとのことです。
流れゆくニュース番組の間に、さりげなくそんなトピックが混じっていた。
昔なら、一部の性同一性障害を持つ人が性転換手術を受けていたと聞くが、今の科学技術では、そう難しくもないだろう。そう思った。
下らないニュースのうちのほんの一片。自分とは何ら関係ない世界の話だ。
僕は朝食を終え、テレビを消して家を出た。
通勤に使う電車はいつも満員で、ほとんど身動きが取れない。
職場の最寄り駅のホームに降り立ったとき、後ろのほうで声が上がった。
「貴方、痴漢しましたよね?」
通学中の女子学生の手はスーツ姿の男性の腕を掴んでいた。
「ち、違いますよ! 私じゃないですから!」
そういう男性のところに、駅員が来た。男性は抵抗したが、最終的に羽交い絞めにされて、どこかへ連れていかれた。いわゆる駅長室だろうか。
ああ、はなりたくないものだ。
そう心のどこかで思った。
ある朝、自宅のポストにチラシが入っていた。
――ジェンダーチェンジベッドのレンタル店が、オープンします。
――会員になれば初回は無料でジェンダーチェンジが出来ます。
数ヶ月前にニュースでやっていたやつか。
僕は特に気にすることもなく、鞄にしまって家を出た。
職場に着くと不思議な光景が広がっていた。同僚の男性がほとんどおらず、代わりに女性職員がいたのだった。
「大幅な人事異動でもあったのか?」
高校時代からの親友である、同僚の女性に訊くと、笑って否定した。
「それは違うわ。彼女たちは、性別が変わっただけで、かつての同僚よ」
そう言われて彼女たちを見ると、確かにどこか見覚えのある顔ではある。ただし、その面影は微妙なもので、メイクが下手な点を除けば女性と区別ができない。変装とか、そういうレベルではないことは見て取れた。
「どうして?」
「女性の私には女性になりたい理由は分からないけど、上司には事前に通告しているらしいし、特に問題も起こっていないようね」
「そういうものなのか」
昼休みに、同僚の男性だった女性に話しかけた。
「あら、どうしたの?」
中身は同僚の男だと思うと違和感しかないが、それを忘れれば単に女性のようだ。
「ひょっとして、ジェンダーチェンジベッドで寝たのか?」
「そうね。男だったら、大変なことってない? 男だったら満員電車で痴漢に間違われるリスクを日々背負うわけだし、部下とのコミュニケーションではちょっとしたことでセクハラとされちゃうし。だから、今の社会は男として出勤するより、女として出勤したほうが圧倒的に楽なんだって」
「そういうものなのか」
一つ分かったことは、性別が変わろうと記憶は何ら変わることなく、仕事の処理能力もさして変わらないことくらいか。
職場から帰る途中、ふと今朝鞄に入れたチラシを取り出した。確か、ジェンダーチェンジベッドレンタル店はこの近くだったような。
ネットカフェに似た建物がそれだった。
僕は少し考えて、その日は帰った。
今は同僚である、高校からの親友。
彼女とは性別関係なく、親しく何でも話せる仲だった。
男女の間に友情は生まれるか、と野暮な命題を聞いたことがあるが、僕はあると思う。
敢えて、僕らの関係は恋人関係でなく、親友だった。
しかし、時として、性別の壁はあった。
彼女の家は、彼女が一人娘であるために厳格な家で、男である僕と出かけることに否定的だった。
またあるときは、彼女の恋人である彼氏に浮気相手であると勘違いされたこともあった。
同性であったならば、こういうことなく、もっと単純に、友人関係でいられるんだろうか。
そう思うこともあった。
次の日、職場の上司にジェンダーチェンジについて確認したところ、どうやら社としてもそれを推奨しているらしく、なんなら会社の経費でジェンダーチェンジベッドが使えるとも聞いた。職務を円滑に進める上で必要な性別変更は社としても認める方針だそうだ。
また、休日に性別を戻すことも自由であり、それも会社が負担してくれるようだ。
パンフレットに載っているジェンダーチェンジベッドレンタル店が、うちの会社と提携しているので、諸経費込みで完全に無料だとの説明だ。パンフレットには、先日立ち寄った店舗の社名もあった。
僕は帰りに、その店に寄って、ジェンダーチェンジベッドレンタル店の会員になった。
性別の失われた世界 結崎碧里 @AoriYuzaki
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