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どれほどの時間、馬車に揺られていただろう。互いに後ろ手を縄できつく縛り上げられたまま、朱翔と愁蓮は向かい合うように座らされていた。
蹴られた脇腹と、塀からの着地に失敗した足首が今更になって痛みはじめ、朱翔は小さく身動ぎをする。その様子に、一度は顔を上げた愁蓮だったが、すぐ興味を失ったように目を伏せ、悠長にも寝起きをたてはじめてしまった。一体どのような神経をしているのだと、そう疑わずにはいられない。
朱翔は寒さに身を震わせ、沓の上から、両足の爪先を擦りあわせた。縄が手首に食い込むほど強く縛られていたため、指先は氷のように冷たい。感覚を失いつつある指先同士を触れ合わせても、痺れるような感覚があるだけだ。
どこへ向かっているかも分からない馬車の揺れに身を委ねながら、朱翔は嘆息する。
今頃は、いつまでたっても戻らない愁蓮と、室から姿を消した自分が原因で、青楼は大きな騒ぎになっているのだろうと思うと、酷く憂鬱になる。今ならば、自分がどれだけ愚かかということを理解することができた。冷えた頭で考えてみれば、白拓と愁蓮の言葉が耳に痛い。
監視の者は、一人だけだった。それも深く頭巾を被っているので、眠っているのか、起きているのかも分からない。
朱翔は男の様子を窺いながら、そっと立ち上がった。腰掛けに膝を乗せると身を乗り出し、目線の高さにある物見を口で開く。薄暗かった車内に、その小さな窓から痛いほど眩しい光が取り込まれた。
しかしそれは、外の様子を確認する以前に閉じられてしまった。朱翔の行動に気づいた監視の男が、それを阻んだのだ。
突然のことに鼻を挟んでしまいそうになった朱翔は、思わず身を仰け反ると、馬車の揺れに合わせて後ろに倒れ込む。腰掛けの縁に後頭部を打ちつけると、痛みを感じるよりも先に、すとんと意識を失っていた。
××× ×××
朱翔が次に目を覚ます頃には、太陽は頭上高くにまで昇りきっていた。
馬車から引きずり出されるようにして降ろされ、後頭部の痛みに顔を顰めながら、ゆっくりと辺りを見回す。
そこに人の姿を捉えることはできなかった。それどころか、人のいる気配も感じられず、屋根や壁の破損した家々ばかりが目立つ。明らかに人が暮らしているふうではない。低い手入れの行き届いていない長屋がまるで瓦礫のように続き、朱翔は無意識に、二年前までの内乱を思い出していた。
建物は崩れ、人の姿はなく、耳鳴りがするほど静かな町がどこまでも続いている。
そこは、見たこともない場所だった。亦呉から馬車に揺られること約半日で、辿り着ける町はどこだったかと考えていると、後ろに止まった馬車から降りてきた雹鸞がその答えを口にした。
「ここが陛下のお生まれになった王の都、清朗です」
どうです、この見るに耐えない荒廃しきった故郷の姿は――薄気味悪く微笑した顔が、朱翔にはそう言っているように感じられた。
そして、もう一度辺りを見回し、本当にここが王の都清朗なのかと思いながら、朱翔は愕然とした。想像していた様相とは、あまりに食い違っていた。内乱を終えて二年、着々と復興を研げていく亦呉とは対照的に、この町は二年前のままの姿を写していた。民家の壁には、変色した血飛沫がいくつも残されているのが見える。
吹き荒ぶ冷たい風が通り抜けていく音は、あまりに切ない音色をしていた。
この場所でたくさんの人々が生き、そして、死んでいったのだろう。戦いのために理不尽な招集を強いられ、断る術を知らない弱者たちから順番に、命を落としていったのだ。
「さあ、我々の根城にお連れしましょう」
じっと町を見つめ続ける朱翔に、雹鸞はそう声をかけた。感傷に浸っているかのような横顔を見て嘲笑うように一笑し、背を向ける。
朱翔は乱暴に腕を引き寄せられ、雹鸞の言う根城と、正面から向かい合った。
高い城壁がどこまでも伸びていた。朱色の城門が、重く閉じられている。だが、雹鸞が近くまで歩み寄ると、それはゆっくりと内側に開いた。
背中を押されながら進んだ朱翔は、外の世界とはあまりに違う有様に、開いた口が塞がらなくなった。その場所だけが別世界のように、美しい外貌を保ち続けている。穢れ一つない純白の壁に、朱色が色鮮やかだった。至る所に背の高い殿が建ち、塔が天に向かって伸びていた。
重々しい音をたてて門が背後で閉じられると、今度こそこの場所は、隔離された世界になる。朱翔と同じように辺りを見回していた愁蓮は、気に入らないとでも言いたげに眉根を寄せていた。
「元は降露宮も王の所有物だった」
「だが、今は我々の城だ。環笙に従っていれば、城を奪われずに済んだものを、我が長を臣と疑わずにいたのだから、環笙王の実に愚かだったことよ」
「お前たちはこの城が欲しくて九十年間も無意味な争いを続けていたのか」
「無意味なものか。王という存在こそが、この国にとって無意味なものに他ならぬ」
くつくつと笑いながら、雹鸞は口元を服の袖で覆った。
朱翔がはじめてキキと顔を合わせた時、確かにキキの中の王の器を見た。自分が自分であることの誇りを持ち、孤高の存在であることを、深く朱翔に印象づけたのだ。
そして今、この雹鸞という男の中にも、己の王を見ている。だが、そのあまりに不快な王の姿には、反吐が出る思いだった。
「王がいるから争いは起こる。王がいるから民は飢える。王がいるからこそ、世界はこんなにも不平等だ」
「ご立派すぎて笑える理屈だな、雹鸞。そんなことだからいつまで経っても葵州牧の足元にも及ばないんだ」
「――私の前でその名を口にするな!」
挑発するように笑んだ愁蓮を、雹鸞は鬼のような形相で睨み付けた。
歩みを止めたかと思えば、足の向きを変え、愁蓮に迫る。胸ぐらを掴み上げると、その恐ろしい形相のまま、吐き捨てるように言った。
「俺がこれまでに何度お前の首を落とせたか、教えてやろうか。俺がそうしなかったのは、お前が葵州牧の前で屈辱的に平伏す姿を見たいがためだ」
「平伏すのはあの男の役目だ。私の膝下に跪き、懇願する姿が目に浮かぶ」
「凋華清はお前を簡単に切り捨てるぞ」
「馴れ馴れしくあのお方の名をお呼びするな! 華清様は私の働きを高く評価してくださっている」
「へえ、そうかい」
愁蓮は勢いよく身を引き、胸ぐらから雹鸞の両手を振り払った。そして、今度は自分から雹鸞ににじり寄り、その鼻を噛み切ろうとしているのではないかと思うほど近くまで顔を寄せ、にやりと笑った。
「それが本当だったら、華清は救いようのない愚か者だな。だが、華清はお前がどんな男かを知っているぞ、雹鸞。忠誠ごっこに身を費やす、仮初めの臣下だってこともな。あいつのために死ぬこともできない、配下を盾にして逃げる腰抜けの――」
「黙れっ!」
怒りに目を血走らせている雹鸞が叫ぶ正面で、愁蓮は相変わらずほくそ笑んでいた。唇を真横に引き結び、わなわなと震わせていた雹鸞は、その手を腰に佩いた太刀に伸ばそうとしていた。
愁蓮はそれを誘っているのかもしれないと、朱翔は思った。何か狙いがあるのだろうか。その実は、何も考えずに、からかって楽しんでいるだけのようにも見える。
二人が以前から顔見知りであることは、教えられるまでもなく明らかだろう。
「その男を女子供と同じ獄舎へ放り込んでおけ!」
だが、雹鸞がその手で柄を掴むことはなかった。愁蓮の視線を振り払うかのように、上衣の袖を翻して踵を返すと、後ろについて歩いていた男に命じる。
女子供という言葉に朱翔が思わず反応すると、それに気づいた愁蓮が、心得たように小さく頷いたのが見えた。
「朱翔」
「うん」
「これだけは覚えておいてくれ。人間という生き物は、誰しもが二面性を持っているものなんだ」
追い立てられるように行ってしまった愁蓮は、気軽そうに「じゃあな」と手を振っていた。なぜか、朱翔はその後ろ姿から目を離すことができない。養父との、呆気のない別れを思い出してしまったのだ。
これが最後になることはない。たとえ、いつか永遠に別れる日が来るとしても、それが今日になることはないと、そう自分に言い聞かせる。
そう思う以外に、自分を納得させる方法が見つからなかった。
「ついてこい。華清様にお目通り願う」
愁蓮の姿が見えなくなっても怒りが治まらないのか、雹鸞は感情を抑えつけた声でそう言い、歩き出した。途端に口数も少なくなり、暫くは沈黙が続いた。
それは朱翔にとっても非情にありがたく、願ってもないことだった。
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