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その通達が悠玄たちの元に届いたのは、翌日の未明だった。
文字通り、汪巽に叩き起こされた悠玄は、寝ぼけ眼のまま、突きつけられた書状に目を通した。それは酷く簡潔だが、的確で、半分眠った状態にあった回転の鈍っている悠玄の頭でも、十分に理解できる内容となっていた。
一晩中早馬に跨り、亦呉から駆けてきた騎手は、あまりの寒さにその身体を凍えさせ、衰弱しきってしまっていた。書状を届けると同時に高熱で倒れた騎手は現在、美玉城の客間にて、手厚い看護を受けている。
「陛下の御身は心配いらぬと申し上げておきながら、このような事実が起こりましたことは、すべてにおいて私の不徳と致すところにございます」
日も完全に昇らない内から、昨日の一室に男たちが集まると、瑤俊が深々と頭を下げた。
誰よりも先に、それを馬鹿なことと否定したのは、他ならぬ泉介だった。
大きな欠伸を噛み殺しもせず、現地の者らの責任に違いないと、昨日の上機嫌な状態からは一変して、酷く不愉快そうに言う。安眠を妨害されたことが、余程気に入らなかったようだ。
「今現在滅王派の長、凋華清の手に入れたがっているものが太子のお命ではなく、王の証だとするならば、それらがこちら側の手にある内は、少なくとも御身はご無事でしょう。人質として十分に価値があります」
自分の元へと最後に回ってきた書状に目を通し終えると、志恒が淡々と語った。
元滅王派の一員として語られたその話には、信憑性がある。ただ一人だけ、それを疑わしそうに眺めていたのは、汪巽だった。
「逆に考えると、太子を無事に取り戻したければ、王の証となるものを差し出さなければならない。ただし、素直に差し出したところで、太子のお命が助かると断言することはできません。兄君がいらっしゃるとはいえ、浄家直系の血筋は、太子たったお一人を残すのみです。ともなれば、華清は躊躇いなく太子に手をかける可能性も、否定はできません」
「いずれにせよ、石のすべてを回収する必要があるな」
悠玄は手の平で、璽、の文字が彫り込まれた石を転がしながら言った。志恒の手に渡っていた書状を取り上げ、それを卓子に広げる。
「ここに記されている通りだとすると、殿下ともう一人の男を乗せた馬車が、深夜近くに関所を抜けている。行き先はおそらく、清朗──降露宮へ連れ帰ったのだろう。駿馬に繋いだ馬車で休まず走れば、今日の夕暮れ前には到着するはずだ」
「ならば、今すぐに早馬を出しましょう。宵黎宮の丞相にお伝えすべきです」
「いえ、その必要はありません。私と志恒が王都へ帰還します。その方が早い」
叔父上、と悠玄が呼びかけると、泉介は面倒臭そうに顔の前で手を払った。
分かっているから好きにしろと言っているのが分かり、悠玄はすぐさま志恒に目を向けた。
「家人に厩まで案内させよう。適当な駿馬を二頭見繕っておいてくれ、俺もすぐに後を追う。汪巽、頼めるか」
「分かりました」
汪巽は室の外に控えていた家人を一人呼びつけると、志恒を厩まで連れて行くよう命じた。泉介の趣味が乗馬ということもあり、廉家では馬が数多く育成されている。どの馬も質がよく、緊急時に備えて、駿馬も何頭か揃っていたはずだ。
長椅子から立ち上がり、泉介と瑤俊に向かって挨拶代わりに深く拱手した志恒は、家人に連れられて足早に退室した。それを無言で見送り、すっかりと足音が聞こえなくなった頃に、瑤俊は未だ書状を覗き込んでいる悠玄に声をかけてくる。
「日の入りまでに関所へ到着できるでしょうか」
「ここの馬なら何とか間に合うはずです。閉門までなら登尊殿が待機しているとありますが、もし遅れたとしても、清朗に入るより以前には追いつけるでしょう。その後二手に分かれ、私と志恒は一度宮城に戻ります」
「凋華清のことだ、道中容易に王都へ戻れると思うなよ」
「心得ています」
あまりに珍しい泉介からの気遣うような言葉に、悠玄は少しだけ照れたように微笑を浮かべた。
長椅子の傍らに立てかけていた白蒼を手に立ち上がると、志恒の時と同じように簡単な挨拶で済ませようと、その場で両手を合わせる。
「見送りはしないぞ」
「はい。この度は、久方ぶりの帰郷にもかかわらず、快く迎え入れていただいたことに感謝します。叔父上のお元気そうなお顔を拝見できて、安心しました」
「いつでも帰ってくればいい。ここはお前の家だ」
「国に決着が付いた暁には、必ず」
「私もできうる限り早急に清朗へ向かいますと、そうお伝えください」
「無事のご到着を、一足先に王の都にてお待ちしております」
踵を鳴らし、それきり二人に背を向けた悠玄は、汪巽に軽く目配せをしてから室を後にした。しばらく歩いたところで待っていれば、汪巽は心得たように現れ、悠玄を先導して歩き出す。互いに無言を貫いていたが、汪巽はため息を吐くと根負けしたように歩調を緩め、悠玄の隣に並んだ。
「昨日からいやに物言いたげだと思ってな」
「私はあなた方ほど心が広くなければ、武人のように、人の生死について達観的な信念を持っているわけではありませんので」
「志恒を許した叔父上の気持ちが分からないか?」
「分かれば苦労はいたしません。私は璃衒様をお小さい頃から存じ上げておりました。あの方を殺したという者が現れて、冷静でいられたことが不思議なほどです」
「俺もそうだった。自分がなぜ理性を失わずにいられたのか、その答えをずっと探していた」
誰に求めても、決して得られないものの答えを、自分の中で模索し続けてきた。
自分を納得させられるだけの答えを見つけ出すのに、長い時間を有し過ぎてしまったのかもしれない。未だにその答えが正解だとは思えないが、限りなく不正解に近い正解だとは、思うことができるようになっていた。
「どこかで誰かが許さなければ、一生終わりなど得られはしない。俺たち軍人にしてみれば、戦場で戦い、死ぬことが本望だった。望んで軍に属することを志願した者なら尚のこと、常に死ぬ覚悟はしていたはずだ。それは父も同じだった、分かるだろう?」
「……分かりたくなどはありませんが」
「戦場に一歩足を踏み入れれば、殺すか、殺されるかの二択しかない。もちろん、自分は絶対に死なないと信じてそこに出ていく者もいるだろう。だが俺は、毎回自分の死を確信しながら、戦場に赴いていた。いつも奇跡のようだと思っていたよ、自分が生きていることを」
なぜ生きているのだろうと感じるよりも、なぜ死なないのだろうと思う気持ちの方が、ずっと強かった。何度死を覚悟したかは知れない。しかし、その度に生き長らえ、まるで拷問のようだと思ったものだ。
「ふとした瞬間に、死んだ方が楽になれるのに、どうして自分はこんなにも必死になっているのだろうと感じるんだ。父と供に出陣した最後の戦場で、それを殊更強く感じた。長く戦場に留まりすぎると、誰もがそう思うようになる。誰か俺を殺してくれ、もういいだろう、終わりにしてくれないか、とな」
その日の戦が終われば、悠玄は敵も味方も関係なく、死者に向けて杯を傾けた。
たった一杯の酒を大地と自分で飲み交わし、その一日を終える。目を瞑れば、興奮と恐怖に冴えた頭が、戦場の様子を思い出させ、決して眠らせてはくれなかった。
「殺し、殺された者同士は、互いに恨み合うなんてことはしない。戦場に立つ男たちを恨むのは、死者に置いて行かれた生存者たちだけだ。悲しみを憎しみに変換して、己の気持ちの逃げ場所を作っているだけだということに気づくことができるか、できないかで、叔父上とお前とのような差が生じるのだと、俺は思っている」
「……失礼なことを申し上げるかもしれませんが、どうかお許しください」
なんだ、と言って首を傾げる悠玄を見ずに、汪巽は微かに潤んだ目で、遠くを見つめながら語尾を震わせる。
「あなたのような若造の語る言葉で、涙を誘われる日が来ようとは、思ったこともありませんでした」
どうか、ご無事でお戻りください――切に願うようなその声が、心に染み入った。
××× ×××
馬からも、己の身体からも、汗が絶えず流れ続けていた。額から流れ落ちる水滴に視界を歪ませ、それを拭う間もなく馬を駆る。麓路から一度たりとも休息を挟まずに駆け続ければ、西の空が橙色に染まった頃になって、亦呉の端をその目に捉えることができた。
身体の内側が燃えるように熱い。上下する腰が、慣れない動きに軋みはじめているのを感じながら、悠玄は汗で滑る手綱を強く握り直した。両足で更に馬の脇腹を圧迫すれば、四肢の回転速度が上昇する。
あと少しの辛抱だと鬣の辺りを叩くように撫でてやり、二人は町の周りを回り込むようにして進んだ。西の空を確認すると、既に太陽が半分ほど沈みかかっていた。約束の日の入りまでは、もう幾ばくもない。
約束の時間には間に合わないかと、そう悠玄が思っていると、急に反響する蹄の音が増えたことに気づいた。手綱を握りしめたまま背後を振り返ると、五頭の馬が二人の後ろを猛追してきているのが見えた。
亦呉の町を抜ければ、あとは関所まで一直線に伸びる道を進むだけだった。関所の閉門時間が間近なこともあってか、幸いにも、道行く人の姿は見られない。
悠玄はもう一度だけ夕日の状態を確認すると、僅かに速度を落として、志恒の隣に並んだ。
「追っ手は俺が何とかする、お前は先に行け。清朗までついてこられては迷惑だ」
「それならば、私が──」
「いいから早く行け。直に日の入りだ」
暗に約束の時間が迫っていることを伝え、悠玄は志恒の乗っている馬の尻を叩くと、先に進ませた。自分はわざと速度を落とし、追っ手に距離を詰めさせる。
さて、どうしてやろうかと面白そうに舌なめずりをした悠玄は、綱で吊り上げられている跳ね橋を目に捉えると、小さくほくそ笑んだ。振り返れば、すぐそこにまで迫っていた追っ手に驚くこともせず、悠玄は腰から短剣を引き抜いて、蹴散らす準備に取りかかる。
関所の向こう側で、志恒が手綱を引き寄せ、馬を止める姿が見えた。こちらを振り返り、様子を見守るようにしている。背後からは何本もの矢が射られ、すぐ脇を掠めていった。馬は驚かずに駆け続けている。
丁度その場所へと差しかかった瞬間、悠玄は手にしていた小刀を思い切りよく、吊り橋を支えている綱に向かって投げつけた。そして、腰から太刀を引き抜き、もう一本を通り抜け際に斬りつける。
上げられていた鉄の門は支えを失い、悠玄を追いかけるようにして勢いよく落下してきた。馬の振り上げた尻尾が寸前の所でそれを避け、悠玄が関所を抜けると同時に、鋼鉄の門が轟音をたてて閉ざされる。
興奮したように荒々しく嘶き、前両足を持ち上げた馬を落ち着かせながら、悠玄はその場で足を止めた。志恒の周りをぐるりと旋回し、林の手前で木に寄り掛かってこちらを見上げる男を、その目に捉える。
「遅刻だぜ、旦那方」
そう言って、西の空を顎でしゃくる。だが、その顔には、面白い余興を目の当たりにした後のように、にやりとした独特な笑みが浮かべられていた。
「許容範囲内だろう?」
「あいにくだが、それを判断するのは俺じゃないんでね」
閉じた跳ね橋の向こう側が、にわかに騒がしくなる。しばらくは心配の必要もないだろうと、悠玄は馬の背から久しぶりに滑り降りた。額に浮かぶ汗を拭い、層登尊の前まで進み出る。
興奮で研ぎ澄まされた感覚が、登尊以外にも人の気配を感じ取っていた。
誰かがいると確信をしながら、その背後を覗き込むと、暗がりの中から出てくる人物の顔が、夕日の余韻に照らし出された。
そこに現れたのは、一人の青年だった。年の頃は、悠玄よりも少し若いくらいだろう。夕暮れ色を受けてもなお漆黒の髪と同色の瞳が凛々しく、意志の強い眼差しが力強く悠玄を見返した。
「こちらは?」
紹介を促すように言うと、登尊は青年を見て、肩を竦める。仕方がなく悠玄がもう一度青年に目をやれば、形のいい唇が言葉を紡いだ。
「――葵凌青だ」
表情のない顔でその名を告げられ、悠玄は驚きのあまり目を見開いた。
この旅はそもそも、葵凌青と出会うためにはじめたとも言えるのだ。葵州に出向くまでもなく、本人は廉州の地にいたのである。
予期せぬ人物の登場に、驚きを隠せずにいる悠玄に更なる追い打ちをかけようと、二人の背後にある低い木がわさわさと揺れる。同じように馬を下りた志恒が傍までやって来ると、その人物も姿を現した。
葵凌青の背後に隠れ、こちらを窺うように見たのは、幼い少女だった。まだ十歳ほどだろうか。自分を見上げてくる目を、どこか別の場所で見たことがあるような錯覚に見舞われながら、悠玄は驚きと呆れを同時に感じ、小さく苦笑を浮かべた。
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