瞑想 -1-
悠玄は馬の背に跨り、月餅を片手に、それを租借しながら大きく欠伸をもらした。
結局、宵闇では目立った情報を得ることができず、二人が宿へ戻ったのは、朝方近くのことだった。各々の寝室に分かれて僅かな睡眠時間を得た後に出立したのだが、閉門前に次の町へ到着することができず、露宿を試みる。しかし、あまりの寒さにそれも断念し、夜通し馬を歩かせていた。
我慢がならず、悠玄が思わずくしゃみをすれば、隣を進む志恒が苦笑を浮かべた。
「大丈夫ですか?」
「……お前は平気そうだな」
「栄州に比べれば、廉州はずっと暖かいですから。上衣をお貸ししましょうか」
「いや、大丈夫だ。そろそろ麓路も見えてくる」
開店前だったのにもかかわらず、朝早く店の戸を叩いた悠玄たちが、快く大量の月餅を桐の箱に詰めてもらえたのは、廉家からの使いだと申し出たためだろう。
いつもご贔屓にありがとうございます、と深く頭を下げた主人にしてみれば、それは名誉なことなのかもしれない。しかし、悠玄にしてみれば、よく飽きもせずに食べ続けられるものだと呆れるばかりだ。希に食せば確かに美味なのだが、好んでそう何個も食べたいとは思わなかった。
「頼まれたものですのに、勝手に食べてしまってもよろしいのですか?」
「一個、二個なら問題ない。志恒も食べるか?」
「いえ、私は結構です。甘いものはあまり得意ではありませんので」
「それは賢明だな」
手綱を首にかけ、羅織りの布に箱を包み直しながら、悠玄は笑った。
月餅ひとつきりでは腹の足しになるはずもなく、むしろ胃を刺激したことで、更なる空腹を煽るだけだった。麓路の城下に到着する頃には、丁度昼餉の時間帯だ。
そのようなことを考えながら、もう何年も前に歩いたきりの道筋を、悠玄はぼんやりと思い出していた。この丘を越え、もうしばらく進めば、町はすぐにも見えてくるはずだ。
「あの男――」
唐突な呟き声を聞いて、志恒を見上げる。悠玄は手綱を片手に握り直しながら、首を傾げた。
「層登尊と名乗った、あの男のことです」
「ああ、最後は挨拶もできなかったが」
「やはり、気になりませんか?」
険しげな面持ちの志恒を横目に、悠玄は月餅の包みが傾いてしまわないよう気をつけながら、小さく唸るような声を上げた。
出立前に挨拶でもと思っていたのだが、朝餉の席にも顔を出さなかった登尊はどうしているのかと思い、宿の主人に尋ねてみたのだ。すると、二日酔いで寝込んでいるという答えが返ってきたので、言伝だけ頼んで出てきてしまった。
「お前には何がどう気になるんだ?」
「彼のような存在が我々の前に現れただけで警戒するに値します」
「それは勘か?」
「経験に基づいた推論です」
「似たようなものだろうが」
「あなたのそれよりは信頼できると思いますが」
からかうように悠玄が笑えば、志恒は真面目に聞けと言わんばかりに、睨みを利かせてくる。だが、悠玄の勘に比べれば、志恒の経験に基づいた推論の方が信頼できることは確かだ。
「葵家に縁を持つ者にしては、多少配慮に欠ける点が目立ちます」
「だが、それについても確信めいたことは何一つ口にしていなかったぞ。嘘を話している様子もなかった」
「そこが問題なのです。事実を話しているように思えても、実際には偽りを語っていないというだけで、我々にしてみれば、相手が聞きたがっている情報をいいように聞き出されただけ、という可能性もあります」
「お前も思わず口を滑らせるほどだからな。俺も警戒を怠るまいとしていたつもりだったが、実際には、あの男の話術にまんまと乗せられていた」
「ただの男とは思えませんと、はじめからそう申しておりました」
「悪いやつではないと思う」
「悠玄様」
「分かっている。俺は人を信頼しすぎると言いたいんだろう?」
耳にたこができるほど聞かされてきた言葉を、言われるよりも先に口にすると、悠玄は苦笑を浮かべた。人を見る目はあると自負しているが、ここは何も言わずに口を噤む方がいい。志恒の言にも、一理あるからだ。
悠玄たちが、あの男から聞き出せた話など、考えてみれば微々たるものだ。男が葵州出身者であること、刀鍛冶として林家一門に名を連ねていたが、破門され、今では国を旅して回る流浪の民だということ。
おそらく、名乗った名前にも、その話の内容にも、嘘偽りはない。下手に嘘を吐くよりも、当たり障りのない事実を語って聞かせた方が信憑性を得られると、志恒のように経験上知っているのだ。
もちろん、悠玄も登尊に対して、当たり障りのない事実以外を語ったつもりはなかった。
「だが、廉州麓路の出身で名を悠玄、武人とくれば、いくら何でも気づかれるか」
何とも感じていないような口調で、あっけらかんとして言った悠玄を、志恒はため息交じりに見据えている。呆れている様子を隠そうともしない。
「別段特定されても構いはしないが」
「あの男が滅王派の回し者でないと、あなたは断言できますか?」
「断言はさすがに無理だな。判断材料が少なすぎる」
「そうと分かっていて、なぜそんなにも楽観視していられるのです?」
「考えるのはお前の方が得意だろう? それに、疑うことも面倒だ。俺が不用意に人を信用すれば、その分お前が警戒を強くするのだから、これくらいで丁度いい」
その言葉に悠玄本人は笑い、志恒は笑わなかった。
難しい表情を浮かべている志恒を横目に見てから、悠玄は次の話題を探そうと、空に視線を彷徨わせる。
「もしお前が言うように、層登尊が滅王派支持者だったとして、件の少年についてはどう考える? 俺たちを本題から遠ざけるための時間稼ぎか?」
「一概にそうとは言い切れませんが、あえて真実を述べ、こちらの出方を窺おうとする魂胆かもしれません。それについては、宵闇でも有力な情報は得られませんでしたから、自信はありませんが」
「双龍彰の養い子が、先王の息子であると仮定して、彼が実際に攫われたとするならば、犯行に及んだのはやはり滅王派だと想定するのが妥当だ。でも、それにしては妙だろう? 既にその少年が手中にあるなら、こちらには交渉の余地もない。にもかかわらず、律儀にも少年の動向を探らせるよう差し向ける素振りを見せるのは、一体なぜだ?」
「太子の命は、滅王派が握っているのだと匂わせるため。もしくは、太子を拉致した集団は、滅王派とは別にあると暗に伝えるため――でしょうか?」
自分の口から語られた言葉であるにもかかわらず、その事実にたった今気がついたと言わんばかりの顔で、志恒は目を瞠った。にやりと満足そうに笑んだ悠玄の顔を、ばつが悪そうに見やり、顔を顰める。
「滅王派には、斜に構えているような連中が多く集う。世界を斜めの位置から見下して、人生の屁理屈ばかりをご託のように並べ立てる連中だ。多少の毒気はあっても、あの男の言葉は真っ直ぐだったからな」
「……では、彼は一体何者なのです?」
「さあな。少なくとも、件の少年が拉致されたことに何枚か咬んでいるとは思うが、とりあえずは、叔父の知恵を借りればいくらかは解決するはずだ。論争はそれからでも遅くはあるまい」
元々、知恵を拝借するために訪れることを決めたのだ。
廉州全土をある意味で統括する者として、泉介以上の知識を持つ者などいまいと、悠玄は考えている。政治的意味で右に肩を並べることのできる廉州牧以上に、その知識は豊富だろう。
邸から外へ出ることは少なくとも、その目が黒い内は、廉州の隅々にまで意識を向け、昔からの領地をたった一人で守り続けているのだ。それでも、当主を名乗ることが許されないのは、剣士としての誉れを知らないからだと、誰かが嘲笑う。
「志恒ならば、武力を以てして民を抑止する王と、知力のみで国の平定を願う王、どちらを名君と取る?」
「それはまた、随分と極論ですね」
ふと思い立ったことを悠玄が口にすれば、志恒は目を丸くしたが、顎に手をあてると、少し考え込むような様子を見せた。
先の内乱で、王族が葵家に賛同を得られなかった理由は、そこにあったのだ。
葵州では、ここ数百年もの間、争いが起こった歴史はない。
葵家は争いを嫌い、武力を疎んだ。その理由は、国という概念が覚束ない足取りで歩き始めた頃にまで遡る。鴻国が国として成立する影では、いくつもの争いが存在していた。誰かが勝利をし、別の誰かが敗北をする。その繰り返しで勢力は徐々に拡大し、各領地を占領し、独占していった。
六つの家系は、争いによってひとつの国となったのだ。すべての戦に勝利した浄家が、それぞれの家系と主従関係を築き、忠誠を誓わせた。しかし、今では当時の血筋も半分以上が途絶えて、血塗られた歴史も、人々の中から忘れ去られつつある。
浄家との争いに、最後まで抗い続けたのは、他ならぬ葵家だった。
武力で民を平伏させ、恐怖による政治を行おうとした浄家に対抗し続けたが故に、葵家の血が大量に流され、一族は衰退の危機にさらされる。それだけはどうしても避けたいと、当時の葵家当主はある条件を提示すると共に、鴻国へ属することを約束した。
『以後、葵家一族は如何なる争い事にも介入することをせず、我らが領地に軍隊が足を踏み入れることを禁じ、その誓約が砕かれし時は、葵焔峰の名の下に即刻鴻国からの除名を約束すること。以降、主上への忠誠は消え果て、その心が戻る日は決してやっては来まい』
それを受け入れた浄家、現在の王族は、今でもその時の約束を忘れることなく守り続けていた。代々葵家当主の名が葵焔峰なのは、この誓約があるためとも言われている。
そのため、九十年もの長きに渡って内乱が続こうとも、葵州だけは荒廃することがなかった。例外を除き、武力の一切を州から排除し、知力だけで州の平定を行っているのだ。同じ国の中にあるとは思えないほど、浄州とは対極に位置した物の考え方をしている。
「これまでの九十年間を思えば、後者が名君と呼ばれるに相応しいと考えるのが普通なのでしょう。ですが、これだけ多くの人々の頂点に立ち、それらを統括するとなると、多少なりとも武力が必要になるのは必至です。どちらが名君かと問われましても、今の私には到底答えることのできない、難しい質問です」
きっと、答えなどはじめから存在しないことは、悠玄にも分かっていた。
この世界に、正解などありはしない。だからこそ人は迷い、選択をしながら生きていくことができる。過ちを犯しても、やり直す機会を与えられるのだ。それでも人は誰しも、あるはずのない答えをいつまでも探し求めてしまう。
「臣下にとっての良き王と、臣民にとっての名君は、別にあると思わないか? この二つは必ずしも合致しない」
民に望まれる王と、臣に望まれる王とでは、根本的に違う。
民を虐げず、臣下には平等であり、政を滞りなく行うこと。玉座を空けることなく、迷うことをせず、常に最善の判断を望まれる。
王とは完璧でなくてはならないという固定観念を持った国民の意識は、今も深層心理の中でで目を閉じ、耳を塞いでいるのだ。
「何者にも認められ、非難を受けない王など、存在しません。必ず、どちらか一方では、王に批判的な集団が現れる。だからこそ、存滅の乱が起こったのではありませんか?」
「結局は堂々巡りで、最後には同じ回答に行き着くのだな」
「私の答えでは気に入らないとでも言いたげですね」
「そんなことはない。時々、思いもしない考えを聞くことができて、俺には新鮮だ」
誰かと意見を共有したその時から、理解は生まれる。
思考の段階では不完全な情報も、共通の思考を持ち合わせている者と照らし合わせてこそ、完全なものになる。会話は重要な情報共有の手段であり、悠玄は他者と言葉を重ねることが好きだった。
「ですが、どうして突然そのようなことを?」
木枯らしが吹き荒ぶと、風上に進み出た志恒が、僅かに首を傾げた。
ただでさえ寒がっている悠玄が、凍えてしまわないようにと気を使ったのだろう。むき出しの両手に暖かな息を吹きかけながら、悠玄は曖昧に笑った。
「武力とは、時に知力の足元にも及ばないのだと、そう思い知らされただけだ」
一体、俺たちの目指す先はどこにあるのだろうな――遠くを見つめるような眼差しで、悠玄は独白するように呟いた。
必死になって、何かを守ろうとしても、終わってしまった後はこんなにも虚しい。
この世界にあるはずのない正解を、誰よりも求めているのは、他ならぬ自分自身なのではないかと、そう思わずにはいられなかった。
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