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 驚愕の事実を突きつけられて丸一日が経過し、更にその翌日の朝になっても、朱翔には、これが夢物語ではないのだと認めるだけの心の準備が整ってはいなかった。

 少しだけ腫れぼったい瞼を冷やそうと、階下に降りていったのは、昨日の昼頃だ。すべての者らが何をするでもなく、各々が好きなことをして時間を潰している光景に、朱翔は思わず目を丸くした。

 あの夜、恥ずかしくも泣き崩れて床に蹲っていた朱翔は、扉の開く音を聞きつけると、逃げるようにして室を飛び出し、階段を駆け上った。ぱっくりと割れた指先からの出血は、幸い止まっていたが、じんじんという痛みは続いていた。

 ゆっくりとした足音が近づいてきたかと思うと、扉の向こう側で何かを床に置く音が聞こえ、すぐに足音は遠退いていく。堪えられない嗚咽が、食いしばった歯の合間から漏れ出ていようとも、朱翔は意に介さなかった。

 落ち着いた頃に扉の外を覗き見ると、救急箱がぽつんと放置され、どっと押し寄せてくるような申し訳なさに、押し潰されそうになる。

 その翌朝、指の傷を撫でながら室を出て行くと、予想外の静寂に意表をつかれた。昨夜の騒がしさはどこへやら、しんと静まり返っている回廊に一人佇んでいると、突然背後から声をかけられた。


「何をしているの?」


 はじかれたように振り返れば、香蘭が階段を降りてくるところだった。驚きに跳ね上がった心臓を、衣裳の上から押さえつけ、小さく息を吐き出す。


「おはようございます、香蘭さん」

「ここでは夜が昼なのよ。だから、昼は夜。挨拶は、こんばんはが正解」


 眠たそうに小さく欠伸をすると、すらっと細長い指先で、香蘭は目の縁に溜まった涙を拭った。隣に並ぶと、顔色を確かめるように、朱翔の顔を覗き込んでくる。思わず仰け反って香蘭から距離を取ると、ふふ、と頬をほころばせるのが分かった。


「顔を洗うなら、井戸はこちらよ。ついてきて」


 それほどまでに酷い顔をしているのだろうかと目蓋に触れながら、朱翔は香蘭の背中を黙って追いかけた。床をするほど長い衣裳に足を取られもせず、器用に歩く姿を、後ろからぼんやりと眺める。

 回廊から中庭に通じている扉を抜ければ、この妓楼が、中央を囲い込むようにして建てられていることが分かった。枯れ落ちた木の葉が風で舞い上がり、池の水面に着水する。それを下から突いている鯉の脇を抜けていくと、丁度庭院の中心にある四阿のような場所に、井戸はあった。夏はここで涼むのか、長椅子が二脚置かれている。

 桶を井戸に落とした朱翔は、それを引き上げながら、あまりの寒さに背筋を震わせた。その傍らでは、艶やかな長い黒髪を押さえながら、香蘭が突き抜けるような晴天を眩しそうに見上げている。

 朱翔は何度か同じ作業を繰り返し、桶を元の場所に戻すと、水が一杯に溜まった水瓶に指先を浸した。その冷たさに思わず息を詰まらせたが、朱翔は両手に水を掬い上げると、意を決して顔に押し付ける。

 ぴりっと、瘡蓋になりかけていた頬の傷と、指先の怪我が痛んだ。あとでやり直せばいいと、巻き付けた包帯を素早く剥ぎ取る。割れていた指先の傷が、一直線に赤く染まってはいたが、昨日ほど皮膚の内側を覗かせてはいなかった。

 差し出された布で濡れた顔を拭い、強張っている表情筋を、手で解すようにして触れる。寒さと冷たさで硬直している手に息を吹きかけていると、病的なほどに青白い手が、赤く凍えた朱翔の両手を包み込んだ。

 その手の平は、朱翔の想像とは裏腹に、ほっとするようなぬくもりを感じさせた。


「白拓と愁蓮は朝早くに出ていったわ。キキはふらりと出ていったきり戻らない」

「……そう、ですか」


 温めるように手の甲へと指を滑らせ、両腕ごと持ち上げられたかと思えば、はぁ、と吐息を吹きかけられる。寒さとは別の意味で、背筋をぞくりと震わせた朱翔は、反射的にその手を振り払った。


「さ、寒いですし、早く中へ戻りましょう。今すぐ、凍えてしまう前に」

「残念ね、寒いのは好きなのに」


 魅力的に微笑んだ香蘭は、そう言いながらも、井戸に背中を向けて歩き出した。

 先ほどと同じ小道を通り、回廊へと戻っていく。途中の池に、鯉の姿はなくなっていた。

 それからの時間は、やたらにゆったりと流れた。ふらりと出ていったきり戻らないと言っていたキキも、夕方には姿を現し、朱翔を一瞥すると、またどこかへ姿を消してしまったようだ。

 その翌日になっても、白拓と愁蓮は戻ることがなかった。朱翔は香蘭と向かい合わせに座って碁を打ちながら、目の前にある現状に対して、酷く困惑している。

 まるで、幾月も前からこのような生活を続けているという錯覚に陥りながら、黒い石を置き、白い石を取り上げる。顔を上げれば、なぜか興味深そうに自分を凝視している香蘭と視線がぶつかり、朱翔は反射的に目を伏せた。


「あなた、変わっているのね」


 香蘭は、ある意味では感心したとも取れる口振りで、そう静かに言った。表情を変えることもせず、ただ黙々と手を動かし続けている。朱翔は、手元の碁石を取りこぼしながら、その不可解な言葉に眉根を寄せた。


「白拓やキキから話を聞いているはずなのに、何にも変わらないんだから」

「あんな話で何がどう変わるっていうんですか」


 僅かに劣性の碁盤を熱心に見つめながら、香蘭がつまみにと用意した茶菓子を口に放った。ほろほろと口の中で崩れていくそれを舌先で転がし、それを言うなら、と顔を上げる。


「あなただって十分に変わっていますよ。目の前に王かもしれない男が座っているのに、手心を加えてくれようともしない」

「商売柄よくお客に付き合わされているから、碁は得意なの。手加減がお望みなら、次からはそうさせてもらうわ」

「私は囲碁より将棋で育ってきたんです」

「確かに、龍彰様は将棋の方がお得意だったわね」


 朱翔の負け惜しみに小さく吹き出した香蘭は、黒い碁石を囲い込むと、それを中指と人差し指に挟んで、優美に摘み上げた。


「将棋は兵隊を動かす戦の遊戯ですから」

「それだから、将棋の弱い軍人は話にならないのよ」

「どちらも不得手な場合は?」

「致命的ね」


 圧勝の白い碁石だけを掻き集めながら、香蘭は面白そうに言った。

 吐き出された言葉に、自分は武人ではないのだと言い訳をして、三戦全敗の黒星に理由を見つけようとする。

 黒い碁石を朱翔が仕舞い終えると、香蘭は思い出したように立ち上がり、何も言わずに室を出て行ってしまった。勝ち逃げの背中を言葉もなく見送り、朱翔は椅子の背もたれに身体を預ける。仰け反るようにして天井の一点をじっと見つめ、大きく息を吐き出した。

 核心を突く話を聞かされたかと思えば、今はこうして蚊帳の外だ。気を使っているのだろうか。もしそうだとしたら、大きなお世話である。

 三日前の夜に、朱翔の邸へ侵入を試みたのが本当に滅王派なのであれば、キキの言っていた王の証というものを、未だ探し続けているはずだ。しかし、そのように大層なものが、あの邸にあったとは思えない。

 そもそも、隠しておけるような場所などなかったはずだ。それが、持ち運べるほど小さなものなのか、大きなものなのかも分からない朱翔には、考えようのないことでもあった。双龍彰に縁ある場所を捜索していると言っていたが、その住処であったあの邸にも、目的のものはなかったというふうな口振りで話していたのを、今になって思い出す。

 他には何と話していたかを思い出そうとしても、記憶に靄が掛かったかのように、細部まで引き出すことは不可能だった。


「白拓の旦那は――なんだ、やっぱりまだ戻ってないのかい」


 朱翔が物思いに耽っていると、そんな声が頭上から突然聞こえてきた。

 足音も聞こえなかったと勢い余って起きあがれば、そこには、いつか見た浅黒い肌の男が、にやけ顔で立っていた。


「あなたは……」

「よぉ。無事なようで何よりだったぜ、陛下」


 すべての元凶の始まりだと言っても過言ではない、あの日の昼下がりに現れた男が今、目の前にいる。一瞬、理解が追いつかなかった。しかし、頭の回転速度が戻ってくると、朱翔は何度も瞬いて、座った状態のまま男の姿をじっくりと見る。

 朱翔の唖然とした様子を見て、愉快そうに笑った男は、先ほどまで香蘭が座っていた場所にどっかりと腰を下ろした。


「白拓の旦那に用があるってのは表向きの理由でな。本当は旦那の代わりに、あんたのことを見張っていただけなのさ」

「それじゃ、やっぱりあなたも」

「こう見えても、密偵はお手の物でね。悪く思わないでくれよ、仕方がなかったんだからな」

「悪く思うもなにも――」


 知っていると思っていた相手が、まるで別人に成り代わってしまったような感覚に、少しだけ混乱する。騙されていたのかと思う反面、この男にも人知れず守られていたのだと、朱翔は何も言えなくなった。

 これまでも、白拓が不在の間に訪れていた客人たちは、同じような理由の元に集った、同士たちだったのだろうか。何も知らずにのうのうと過ごしている朱翔が、どんなに滑稽に見えたことだろう。


「私の方こそ、失望させてしまわなかったどうか」

「俺はこの国そのものに失望させられているさ。これ以上何に失望しろって言うんだ? むしろ、あんたを見て安心した。そう思ったのは、俺だけじゃないだろうよ。最後まで、龍彰様ってお方には面識を得られなかったが、白拓の旦那が手塩にかけて護ってきた次期王陛下が、勤勉で誠実ってだけで、いくらか国の将来にも希望が持てるってもんだ」

「僕が勤勉で誠実かなんて、分からないじゃないですか」

「それはどうかな。ま、俺らは旦那の決断に従うだけなんだが――ん?」


 話の途中で怪訝そうに眉根を寄せた男は、朱翔の腰に佩いていた小刀を見て、それを寄越すようにと手を出してきた。言われるがままに差し出した朱翔は、呆れた顔で小刀を撫でている男を見て、目を丸くする。


「誰のために鍛えたと思ってんだ、あの男」

「その小刀は──」

「美人だが、とんだじゃじゃ馬だろう?」


 目を白黒とさせている朱翔を見て、男は笑う。

 柄の部分をこちらに向け、朱翔が受け取るのを待ってから、まるで我が子でも見るかのような眼差しを浮かべ、目元を和ませた。


「朧月は、俺が故郷を出てからはじめて鍛えた太刀なんだ。旦那に贈った時はもっと刺々しかったが、段々と角が取れてきたみてぇだな」

「この太刀はあなたが鍛えたんですか?」


 朱翔は自身の手に戻ってきた小刀と、目の前の男を見比べた。

 この見るからに女性的な美しい線の太刀を、目の前にいる雄々しい男が作ったとは到底思えない。あの骨張った手から、こんなにも繊細な刀ができあがるものなのかと、朱翔は不思議に思った。


「まあ、はじめは作り手の性格が出る。それから徐々に、使い手の性格が馴染んでくるもんだ。その小刀には、あの旦那らしさが出てるじゃねぇか。腕のいい刀鍛冶ってのはな、その太刀を見ただけで、持ち主のすべてが分かるようじゃなきゃ話にならないんだぜ」


 そう、どこか誇らしげに男は言った。

 はじめて話した時と何ら印象の変わらない、竹を割ったような人物だと、朱翔は思う。


「旦那がそれを渡したってことは、今のあんたには朧月が必要ってことなんだな」

「あ、いや、これは」


 確かに白拓から受け取ったと言っても間違いではないのだが、最初にこれを差し出したのは、キキだった。しかも、この小刀を使って死んでしまえとまで言われたのだが、まさか、作り主に向かってそのようなことは言えない。


「その小刀はこれまでに二度、最悪の状況から二人の命を救っている。誰かを殺すためじゃない、守るための太刀だからこそ、小振りで構わねぇんだ。きっと、あんたの命も救ってくれるだろう」

「……何だか、縁起でもないですね」

「これから何が起こるのかは、誰にも分かったもんじゃねぇからなぁ」


 男はそう言って豪快に笑い、開け放したままだった扉に目を向けた。

 朱翔もつられるようにそちらを見れば、少し誇りっぽい箱を抱えた香蘭が戻ってきたところだった。


「戻ってたの?」

「ああ。旦那は?」

「夕暮れまでには戻ると思うけど」


 香蘭は腕に抱えていた箱を卓に置くと、うっすらと積もった埃を吹き飛ばした。それから蓋を開き、中に入っていた将棋盤と駒を取り出す。


「碁に将棋、か。お前ら賭けでもやっていたのか? 若いうちからそんなことばっかやってると、ろくな大人にならねぇぞ」

「それは、あなたみたいなろくでもない大人になるって意味? それなら気をつけないと」

「……おい、言ったなこの小娘。おい坊、そこを空けてやってくれ」

「え? あ、はい」


 言われたとおりに朱翔が立ち上がると、香蘭は挑戦的な様子で、その椅子に腰を下ろした。一体何をはじめる気なのかと見守っていれば、持ってきたばかりの将棋盤に揃って、二人は駒を配置していく。


「いつも通り、碁と将棋で一局ずつ。勝負がつかなかった場合は、どちらでも好きな方を選ばせてやる。まあ、勝敗は火を見るよりも明らかだがな」

「私が勝ったら、今度こそ一振り鍛えてもらうわよ」

「おう、いいぜ。勝てたらな」

「――放っておけ」

 二人の様子を唖然として眺めていると、丁度室の前を通りかかったらしいキキが、呆れたように息を吐きながら言った。その手には、擦り切れた背表紙の、文字が読めないほど古い本が数冊抱えられている。

「でも」

「いつものことだ」


 そうして去っていこうとした背中を、朱翔は僅かに躊躇ってから、追いかけることを選択した。ここに残ったところで、二人の対局を眺めていることしかできない。結局のところ、蚊帳の外だ。


「あの人は?」

「層登尊。刀鍛冶だ」


 階段を降りながら朱翔が尋ねると、キキは振り返りもせず、面倒臭そうにそう答えた。

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