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だが、扉に手を伸ばそうとしたその時、朱翔の視界に飛び込んできたのは、燃えるような赤だった。扉が向こう側からゆっくりと開き、一人の男が姿を現したのだ。
驚いて足を止め、その人物を見上げた朱翔は、思わず目を瞠った。その見知った姿に、開いた口が塞がらなくなる。
「やあ、朱翔」
「……白拓、さん?」
「ずいぶん驚いているようだね」
くすりと面白そうに笑ったその人物、抄白拓は、後ろ手に扉を閉めると真っ直ぐにキキを見た。
「あまりこの子をいじめてはいけないよ、キキ」
「苛めてなどいない。それよりお前、まだそんな名を名乗っていたのか」
「存外気に入っていてね」
見るからに気の合わなそうな二人の会話を耳にしながら、朱翔は困惑していた。
突然現れた抄白拓に対しても、ここを出ていこうとしていた自分に対しても、同じように動揺していた。
「失礼だとは思ったのだけれど、話は外から聞かせてもらったよ。でも、その様子だと、あの邸に戻るつもりだったようだね」
図星をついてくる白拓を、朱翔はばつが悪そうに見上げ、すぐに視線を逸らした。
視界の端に倒れた椅子と、流れた水の跡が見える。それは徐々に乾きつつあり、朱翔に時間の経過を思い出させた。
「どうしてもと言うなら止めはしないが、やめておいた方がいい。昨夜の者たちが君を捜しているし、別件でいろいろと嗅ぎ回っている輩もいるようだから」
「……それじゃ、白拓さんも全部知っていたってことですか?」
「君のことを、だね。そう、知っていたよ」
突然の問いにも、淀みなく答えた白拓は、少しだけ困ったような顔をした。
それならば、どうして何も言ってくれなかったのだと、喉まで迫り上がってきた言葉を、朱翔は呑み込んだ。言いなしたところで、返ってくる答えは、きっとキキのものと変わらないのだ。
「とにかく、夜が明けるまでは、ここにいた方がいい。どんなに腹立たしくてもね。さあ、かけなさい」
倒れた椅子を起こし、キキから距離を取った壁際にそれを引きずって行きながら、白拓が朱翔を手招いた。
もう一脚の椅子をその傍らに置き、自身も腰を下ろす。壁に頭を預け、そっと目を閉じる姿は、少し疲れているように見えた。
「キキ、何か淹れてくれないか」
片目を開けて頬杖をついているキキを見やり、白拓が言った。すると、キキはため息を吐きながら立ち上がり、茶卓へと向かう。
「……もしかして瑤俊様も」
「ん? ああ、そうだよ。あの方は所用で麓路に向かっているが、近い内に顔を出すだろう。私も文を交わす程度で、最近はお会いしていないな」
自分の与り知らない場所で、何かが始まり、終わっている現実に、何の疑問も抱かない。けれど、自分に関わる事柄で、こうも蚊帳の外だったという事実を知らされれば、妙な疎外感を覚えると同時に、何も気づかずにいた自分自身に呆れ果てた。
まるで、朱翔がそう思っていることを見透かしたかのように、白拓は吐息を漏らすようにして笑った。
「朱翔は何も悪くない。君が今まで何も知らずにいたのは、私たちがそれを隠そうと必死だったからだよ。絶対に気づかれまいとしていたんだ。逆に気づかれてしまっていたら、龍彰様に何と言い訳をすればいいか分からないからね」
「……私は、まだ」
「うん?」
椅子にも座らず、ただ立ちつくしている朱翔の顔を覗き込むようにして、言い淀んだ先を促すように、白拓が壁に預けていた身体を起きあがらせた。
それでも、朱翔は黙っている。そうしているうちに、花の模様が描かれた茶器を盆に乗せて運んできたキキが、無言のままそれを差し出した。中身は朱翔の予想に反して、白湯ではなかった。少し香ばしい香りのする琥珀色の液体が、滑らかに水面を揺らしている。
「ありがとう」
指先で摘むようにして茶器を取り上げた白拓は、それを大きな両手で包み込むようにして、膝の上に置いた。盆を卓上にそっと戻したキキは、何かを言いたげに朱翔を一瞥した後、白拓に目をやる。
「少し愁蓮たちを話してくる」
「香蘭だったら、外で一服していたよ。キキからも煙管を控えるよう言っておいてくれないかな。彼女は私の言うことをちっとも聞かないから」
「そういうことを僕に頼るな、自分でどうにかしろ」
そう冷たく切り捨てたキキは、その場で踵を返すと、室を出ていった。静寂の中に外の喧騒が紛れ込み、扉の閉まる音が、余計に無機質に聞こえる。
刺すような視線が消え、肩にのし掛かっていた緊張感から一気に解放された朱翔は、崩れるようにして椅子に座り込んだ。
額に手をあて、項垂れている朱翔を横目に茶を啜りながら、白拓はただ沈黙している。
「……僕は、あんな突拍子のない話を、はいそうですか、なんて言って、簡単には受け入れられません」
「それはそうだろうね。私がもし君と同じ立場なら、事実を否定し続けるだろう」
「人違いではないんですか? 私が先王の息子だなんて、笑い話にもなりませんよ。出生の分からない同じ年頃の男子なら、誰でもよかったんじゃないですか?」
「そうだよ、とでも言って私が頷けば、君はそれで納得するの?」
故意に、琥珀色の茶を器の中で揺らしながら、白拓は静かな声で言った。
それから、少しだけ言葉を探すように黙り込み、顔を持ち上げる。朱翔の方は見ず、正面に置かれていた花瓶を、じっと見つめていた。
「朱翔にしてみれば、たった今聞かされた話であったとしても、時計はもう何年も前から動き始めていたんだ。龍彰様は何年もかけて信頼の置ける仲間を募り、君を守ることに命をかけた。剣士としての栄光を捨て、主上の命を受けて、君を生かすためだけに残りの人生を捧げたことは、たとえ信じたくなくとも、間違いのない事実だよ。私はずっと、それを助力してきた。内乱時も、私が君の邸を出入りしていたことは覚えているだろう?」
「……はい」
「私たちは、朱翔が小さい頃からずっと、傍にいたんだよ。それを間違えるなんて、おかしな話じゃないか。君を私の所へ来させるようにしたのも、滅王派が妙な動きを見せはじめたからだ。私の傍に置いておくことが、一番の安全策だった。実はもう一人、いつも影のように君の後をついて回っていた子がいるのだけどね」
「もしかして、それは白銀の髪の?」
「おや、知っていたのか。実は、あの子は私の子でね。もしかしたら昨日の午にも、昼餉前に書庫で見ているのじゃないかな」
そういえばあの時、中庭に黒い影のようなものを見たことを、朱翔は思い出していた。ただの錯覚だろうと考えていたが、そういう裏があったらしい。
それならば、邸の周りで子供たちが白銀の髪の男を見たと言っていたことにも、合点がいく。
「……白拓さん、子供がいたんですね」
「おや、何か言いたそうな目をしているね? 私に子供がいてはおかしいかい?」
「いえ、所帯持ちには見えなかったもので」
「誰かと結婚したことはないよ。家庭を持ったという自覚もない。龍彰様が町で拾った子を預かっていたら、いつの間にかこんなことになっていたんだ。あの方は、存外子供がお好きだったのだろうね。もしくは、懐かれやすいお方だったのか。あまり珍しい話でもないんだよ」
朴訥としていて、愛想のない人だった。けれど、目を閉じてみれば、膝の上に抱き上げられた温かさを思い出すことができる。ごつごつとした武骨で大きな手の平は時々、少し不器用そうに朱翔の頭を撫でてくれた。
「ひとつだけ、これだけは勘違いしないでほしい」
ゆっくりと目を開けば、真面目な表情を浮かべた白拓が、朱翔を見つめていた。
「龍彰様は、君を愛しておられたよ。はじめは偽善だったかもしれない。君を仕方なく引き受けたと考える方が自然だからね。でもあの方は、朱翔のことを私の息子と呼んで、穏やかな表情を見せていた。それは、他の多くの言葉よりも雄弁に、あの方の心を物語っていたのだと思う。それだけは、忘れないでほしいんだ」
「私の前では、息子だなんて呼んだことは、一度もありませんでしたけど」
「寡黙な方だったからね。面と向かって口にするのは恥ずかしかったのだと思うよ」
「……養父は、本当に僕を思ってくれていたでしょうか」
「朱翔はどうなんだい?」
「私は、あの広い背中と、大きな手が好きでした。いつも背中しか見ていなかったような気がしていたけど、今思えば、あれが養父なりの守り方だったのかもしれません」
「ならば、それが答えだ」
白拓はそう言うと、酷く優しい笑みを浮かべた。冷めてしまったお茶をすべて飲み干し、立ち上がって茶器を卓に置く。
「私も龍彰様のように子供から尊敬される父親になってみたいものだな」
冗談なのか、それとも本心なのかを判断しにくい口振りで言った白拓は、卓子に放られていた純白の小刀を、手に取り上げた。それを危なげなく手先で玩んでから、朱翔に向かって軽く放り投げる。
慌てて受け止めた朱翔は、不可解そうに白拓を見上げた。
「護身用に持っているといい」
「でも」
「元々は私のものだから、気にする必要はない」
それは、肌に吸い付くような、滑らかな手触りをしていた。まるで人の肌に触れているような錯覚を感じる。驚くほどに軽く、鞘から抜き出した刃は、鳥肌が立つほど美しい曲線を描いていた。
「朧月というんだよ」
この国では、刀鍛冶が自らの鍛えた太刀に名を付ける風習がある。
それは、ただの鉄の塊であった太刀に魂を込めるという意味合いを持ち、魂を宿した太刀は、持ち主の危機を助け、命を救うと言われているからだ。名付けることで持ち主の心が移り、太刀は名刀にも妖刀にも化ける。
蝋燭の灯りに照らされ、誘うような妖艶さを漂わせているその刃に、朱翔は触れてみたくなった。橙の刃に指の腹を押しつけ、ゆっくりと滑らせる。痛みはなかった。それなのに、朱翔が触れた場所に。、つう、と血の道ができる。
驚いて手を離すが、後の祭りだった。指先から血を流す朱翔を見て、白拓が呆れたように笑った。
「よく切れるから気をつけてと忠告しようとした矢先に──まったく、君もせっかちだね。薬を調達してくるから、待っていなさい。血が止まるまでは、これで押さえているといい」
すぐに戻ると言って、白拓は朱翔に手巾を押しつけると、室を出ていった。
残された朱翔は、渡された手巾で刃についた血をよく拭ってから、ぱっくりと割れた指の傷口に、それを巻き付けた。切れた時はまったく感じなかったはずの痛みが、今になって押し寄せてくる。どくり、どくりと、心臓のように傷口が鼓動を繰り返しているのが分かる。
昨夜、頬に受けた傷は手当は、目が覚めた時には既に済んでいた。浅い傷だったのあ、もう痛みは感じていない。
血が流れる度に、生きているのだと幸福を感じ、生を実感する時代は終わったと思っていた。この身体に感じる痛みや苦しみが、生への執着を一層深くしていたのだ。剣を振り回すばかりの時代が続き、人々の麻痺した心には、平和が違和感を運ぶ。
またいつ、先のような内乱がはじまるかは分からない。常に不安を抱えている者たちの心配を、朱翔はよく理解していた。朱翔もまた、同じような不安を抱えているからだ。
「僕が、この国の――」
信じられるはずがあるだろうか。
ほんの数刻前までは、何も知らずに生きていたただの平民の青年が、今では一国の王なのだと聞かされる。それでも、先ほどより落ち着きを取り戻した今は、問題に向かい合おうとしている自分自身のことを、少しは懸命だと思った。
手巾に血が滲んでいる方の手で、衣裳の上から強く、心臓の辺りを握りしめた。
龍彰が死んだ日、朱翔は涙を見せなかった。本当に突然、何の前触れもなく、眠るように死んでしまったのだ。
大戦中に酷使したことで、ぼろぼろになっていた身体を、たいした治療もせずに放置し続けていたため、最後は相当な痛みを伴いながら逝っただろうと、医師は話していた。
前線を退いて十数年が経っていたというのに、無数の傷が、身体を蝕み続けていたのだ。痛む身体に鞭を打つように、毎日を過ごしていたのだろうか。
後悔ばかりしてしまう自分が、酷く愚かしく感じられていた。失ってから気づく命の尊さに、遅すぎる思いは行き場をなくし、言葉にできない感情が、今までは心の奥底で燻っているだけだった。
最後に交わしたはずの言葉を、今も思い出そうと考えることがある。
きっと、他愛もない話をしていたはずだった。あの夜は、下弦の月が地上を見下ろして、庭の木々が紅葉で葉を色とりどりに染めていた。そうした、どうでもいいことばかりをよく覚えていても、肝心の記憶は欠落してしまっている。
毎朝、池の鯉に餌を与えている背中も、武骨な手の平も、生きている時と変わらずそこにあった。それなのに、不器用そうに頭を撫でてくれた手は、氷のように冷たかった。
「……何も、何も知らなかったんだ」
養父の身体のことも、自分自身が守られていたという事実も、朱翔は知らずに生きていた。本当ならば、知らなかったでは済まされないことなのだろう。知らなければならないことだったのだ。
それでも、知らなかったのだと言い訳をする朱翔は、誰よりも自分自身から、顔を背けようとしている。
朱翔は、椅子から転がり落ちるようにして、冷たい床に座り込んだ。手に握りしめていた小刀が、音を立てて床に落ちる。
三年前には決して流れなかった涙が、今になって堰を切ったように、どっと溢れ出していた。
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