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「龍彰は、どうしても赤ん坊を見殺しにすることができず、その任を了承せざるを得なくなった。二十歳を迎えるその日まで、必ず護ることを約束し、それから暫くは身を隠して生活していたらしい。その後は、君が知っての通りだ」
一瞬だけ、視界がぐにゃりと歪んだように見えた。
話を理解しようとは努めている。だが、残りの一線を前にして立ちすくんだ両足が一歩、また一歩と、後退をはじめようとするのだ。その線の向こう側にあるものを、頭では理解していても、心では否定し続けている。
腰が抜けて立ち上がれそうにない。
朱翔は、そう思いながら不意に笑い声をもらした。
「そんな馬鹿馬鹿しいことを、私が信じるとでも?」
「いずれにしても、それが真実であることに変わりはない」
「ならどうして、養父は私に一言も──」
「そういう約束だったからだ。二十歳を迎えるその時まで、君を普通の民草と分け隔てなく育てるのが、彼の役割だった。双龍彰が生きていて、君が無事に二十歳を迎えていれば、彼がこの話を語って聞かせるはずだった」
「でも、もしそうだったなら、養父が死んだ時にすべてを語って聞かせるべきだったんだ。今更他人の口から聞かされても、信じられるはずがないでしょう」
「信じてもらわなければ困る。太子の御身が危険とあっては、国にとっても大事だからな」
「国の大事なんて、今更なことを」
「国に今更などという言葉はない」
「そんなことを言われて、一体私にどうしろというんだ!」
感情にまかせて、朱翔は椅子を蹴るようにして立ち上がった。勢いあまり横倒しになったそれが、予想以上に大きな音を鳴らし、朱翔はふと我に返る。声を荒げた自分を悔やむように、顔を顰めた。
卓に両手を押しつけ、項垂れるように木目をじっと見つめる。
ただ、無性に恐かった。恐怖がすぐ傍にまで迫り、退路を断つように立ち塞がっているようだった。そんなことは知らない、自分には関係のないことだと意識を遮断しようとしても、ほんの僅かな隙間にから心に入り込んで、襲い掛かってくる。
そうか、これが絶望かと、朱翔は皮肉そうに口の端を吊り上げた。
「あの時代に王都で生まれ、生き残れた赤ん坊は君以外にいない。君は王の宮で生まれ、そして、双龍彰に預けられた。当時その事実を知っていたのは、王と葵狼碧、双龍彰本人だけとされている」
終始変わらないその声色は、酷く残酷に、朱翔の鼓膜を震わせていた。事実を事務的にのみ伝えるその口調は、冷酷な子守歌のように、闇ばかりを誘う。
「だが、内々の密事ほど、知らぬ間に露見するものだ。何者かが内通を試みたとしても、別段驚きはしない。故に、情報は瞬く間に知れ渡り、手段を選ばぬ者らが世間を騒がせはじめている。昨夜、君の邸に侵入を図った男たちの会話を覚えているか?」
その問いに、朱翔は反応を見せなかった。
それが、本当に問いかけなのかも分からない。相変わらず、答えを求めているかどうかも危うい言葉尻だ。
案の定、キキは朱翔が口を開かずとも、先の言葉を続けた。
「彼らは確実に、双龍彰に少しでも縁のある者の邸を次々と狙っている。まるで何かを探しているかのように」
「……僕を、探しているとでもいうのか?」
「違う。彼らが探しているものは、人ではない」
そのきっぱりとした物言いに、朱翔は思わず面を上げた。
感情を微塵も感じさせない人形のような青黒い目が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。その中に小さく、苦痛そうに立っている朱翔の姿がある。
次の言葉を、なぜか朱翔は聞きたくないと思った。今までは推定の域を出なかった事柄が肯定をされるようで、耳を塞いでしまいたくなる。
目を閉じ、これは夢だと思ってしまえたら、どれだけいいだろう。頬を抓れば、昨日の朝に戻ることができるだろうか。寝坊をしてしまった、あの日の朝に。それなりに平和だと、幸福だと感じていたあの時間に。
すべてが嘘だったのだと、自分の見た夢を笑い飛ばせればいい。
「彼らが探しているのは、君が王であるという証だ」
これまでは、決してはっきりと紡がれることのなかった言葉が、絶望として形に現れてしまった瞬間だった。
目を強く閉じ、奥歯が軋むほど強く、噛みしめる。
両足に力を込めていなければ、その場に崩れ落ちてしまうような気がした。耳鳴りが大きく響き、酷く喉が渇いた。止まったかのように思われた心音は、次の瞬間には早鐘のように暴れ、思い出した呼吸に、息が詰まる。
「まさか、そんなこと、あるわけない。第一、僕がその人物である保証なんて、どこにも──」
「保証が必要ならば、それをしてくれる者を、ここへ連れてこよう。証拠を見せろというならば、確固たるものをここへ持って来させてもいい。君が双朱翔という人であるのと同様に、君が一国の国主に足る血筋の持ち主であることは、揺るぎない」
「そんなことは、僕が認めない!」
「君がそうであることを認めなくとも、僕は君が国主であると認識している。他の者らも同じことだ、いずれ認めざるを得なくなる。君自身もそうだ」
「違う!」
「違わない」
「それなら、この国に王など必要ない! 王がいれば必ず争いが起きる。戦が絶えず、人が大勢死ぬことになる! そんな王なら、僕はいらない!」
「ならば、死ぬがいい」
躊躇いなく言われたその一言に、朱翔は言葉を吐き出そうとしていた口を唖然と開いたまま、一切の思考を停止させた。驚きに目を見開く。そうして沈黙していると、自らの荒げられた呼吸が耳に不快だと、朱翔は思った。
「王がいらないと言うなら、君がこの世界に存在する意味などない。反対に、君がこの世界に存在していられる理由は、王であるという裏付けがあるからだ。君がこの世に存在する限り、王という存在もまた、消えることはない」
その言葉と同時に、卓の上に小刀が投げ出された。柄と鞘は雪のように白く、鍔の部分だけが黄金色をしている。装飾品と見まがうほどのそれは、血に赤く濡らすのが惜しいほどの一品だ。
しかし、今の朱翔にはそんなことを考えている余裕など、あるわけがなかった。
「死ぬ前にひとつ教えておいてやろう。これで気が変わるとも思えないが、たとえ君が死んだとしても、争いは終わらない。戦は絶えず続き、民は次々と死んでいくことになる。王制が消えれば、また新たな最高権力者がこの国を統治し、それに抗う者がまた、新たに内乱を呼ぶ。国というものは、往々にしてそのようなものだ」
目の前には、冷たく小刀が横たわる。
なぜ、そのようなことを会って間もない人物に指図されなければならないのか。冷たい硝子玉のような目で、死刑を宣告するかのように冷血そうな顔で、感情の一切を排除されたかのような声で、言われなければならないのか。
朱翔は、すべてを否定されたような気持ちになる。まるで、昨日までの人生など、意味のないものだったと嘲笑われてるようだと思った。
「ありがとう、君には大いに失望させてもらった。はじめから我が王に足る人物が現れるとは思っていなかったが、これほどまでに愚かとは思ってもいなかった」
「……黙って聞いていれば、あんたはさっきから、勝手なことばかり言っているだけじゃないか」
小さく囁いた声がその耳にまで届かなかったのか、キキは微かに眉を持ち上げた。
沸騰をするかのような、沸々とした怒りが腹の底から込み上げてきても、朱翔には理性を保たせる自信がなかった。体中の細胞が、目の前に座っている青年に殴りかかりたいと口々に呟けば、筋肉はそれに従うだろう。
小刀に向かって、勝手に伸びそうになる手を押さえつけ、朱翔は勢いよく顔を上げた。
「僕が王であるとか、王である証がどうとか、それがどうしたっていうんだ。死ねと言うなら、あんたが僕を殺せばいい。僕はそんな話を聞かされていないし、今更知りたくもない。それにもし、この僕が本当に王なのだとしたら、内乱を終えたこの二年間、朝廷は一体何をしていた? なぜ誰も、僕を迎えにやって来ないんだ?」
「宮城には、君が生まれたという記録が一切残されていない。残ったのは、先王には子供がいたかもしれないという噂話だけだ。先王は己の知己にすら、その秘密を明かすことなく死んでいった。故に、たとえ王の手足と呼ばれていた、現在の朝廷の三公であっても、君のことを知らないはずだ。龍彰に君を預けた先王は死に、双龍彰も、もうこの世にいない。そして、件の一件以来、朝廷との関わりを断った葵狼碧は口を噤んだままだ」
「噂だけだったとしても、探そうと思えばそうできたはずだ。それなのに、朝廷は太子を探そうともしなかった。必要がないからじゃないのか」
「乱が終わって、たった二年しか経っていない。それが朝廷の考え方だ。何よりも国の再建を最優先させること、それが朝廷の下した結論だった。新たな王を迎えるだけの準備もなく、文官武官問わず、多くの命が失われたことで、官吏の数も捜索に割けるほど多くない。粛々と差し出すべき王の国が荒廃したままの状態では、些か問題がある」
「……僕が自分を王と認めたとして、途中で政を放棄するかもしれない」
「そうしたければ、そうすればいい。君の国だ、君の勝手にできる」
キキは、半ば投げやりにそう言った。もう説得を諦めているのかもしれない。頭を傾けて、仰ぐように朱翔を見上げている。
何かを言い返さなければならないと思った。だが、何を言ったところで戻ってくる言葉が的確だからこそ、躊躇してしまう。答えを求めているのに、その答えを受け止めることが、酷く不快だった。
爪が肉に突き刺さるほど強く拳を握りしめた朱翔は、キキをきつく睨め付けた後で、その場に背を向けた。それを呼び止める声はない。
どこかでは今すぐに引き留めて欲しいと望んでいるのか、朱翔は一度だけ、踏み出した足を止めた。すぐに後ろを振り返ろうとするが、まるで見えない手で頭を押さえつけられているように首が強ばり、そうすることができない。
そしてまた、朱翔は足を踏み出した。扉まではほんの数歩の距離しかない。その距離が嫌に長く感じられ、気が遠くなる。足が地に着いていないような浮遊感が、身体全体を覆っていた。
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