-7-

 ただの木製の椅子が玉座のように見えたのは、はじめてのことだった。

 おそらく、この世界の王と呼ばれる者たちは一様にして、このような雰囲気を醸しているのだろうと、朱翔は目の前に対峙している青年を見つめて思う。

 断じてふんぞり返っているわけではない。青年は、肘掛けに文字通り肘を乗せ、そこに頬杖をついていた。何かを考え込んでいる様子だったが、朱翔が室に入ってくると姿勢を正し、すうっと目を細める。その眼差しはまるで氷のように冷たく、表情はない。

 それが不愉快そうな面構えに見え、朱翔は傍らに立っている愁蓮を、困惑気味に見上げた。


「キキ」


 愁蓮がそう言うと、青年は微かに頷いた。

 それが名なのだろうかと考えていると、青年は卓を挟んで丁度正面の位置にある椅子を指す。どうやら、座れと言いたいらしい。値踏みをするように見つめられる眼差しが、信じられないほどの居心地の悪さを感じさせていた。


「……異臭がする」


 聞こえてきたのは、酷く澄んだ声色だった。中性的と言えば分かりやすいかもしれない。しかし、その声とは不釣り合いな言葉に思わず顔を上げれば、吸い込まれそうなほど深い黒の目にぶつかった。柳眉を中央に引き寄せ、眉間にはくっきりとした皺を寄せている。

 たった今着替えてきたばかりだと、朱翔も眉根を寄せれば、青年は衣裳の袖をゆっくりと口元に添えた。


「蘭の香りか」

「今まで香蘭の室にいたからな。匂いが移ったんだろ」


 心の内を吐露されずとも分かる。その顔は明らかに、蘭が嫌いだ、と物語っていた。憎いとすら思っているのではないだろうか。

 朱翔は、何と言って返せばいいのか分からず、黙りを続けていた。そもそも、答えを求めていた言葉とも思えない。

 勝手に連れ出した上に、こうして呼びつけておきながら、あまりに不躾な態度ではないか。そう思い、不満そうに小さく口をすぼめた朱翔を見て、青年は袖口をそっと下ろした。


「愁蓮、呼びに行くまで少し席を外してくれ」

「ん、分かった」


 内心行かないでくれと思っていることが、顔に出でいたのか、愁蓮は朱翔に向かって苦笑を見せると、肩を竦めて室を出ていってしまった。これで、室には自分と不愉快そうな青年の二人きりだと思うと、少し憂鬱になる。

 愁蓮は仲間に引き合わせると言っていたが、この人物がその仲間だというのだろうか。それ以前に、何の仲間なのかすらはっきりとしていないこの状態で、どのような顔をすればいいのかも分からない。


「何か飲むか」

「あ、いえ、別に――」

「飲むだろう」


 いらないと断ったところで無意味なのかもしれないと悟った朱翔は、すぐに口を噤んだ。

 まったく読めない人物だ。偉そうに椅子へ座っていたかと思えば、椅子から立ち上がり、手ずから飲み物を淹れに茶卓へと足を向ける。

 その伏し目がちな横顔を見て、朱翔は首を傾げた。その顔を、どこかで見たことがあるような気がしたのだ。


「あの……あなたと会うのは、初めてですよね?」

「こうして顔を合わせるのは初めてだ」


 そんな青年の言い回しに、朱翔は首を傾げる。では、やはり別の場所では顔を合わせたことがある、ということなのだろうか。だが、いくら考えてみても、それを思い出すことはできない。

 その不可思議な感覚に眉を顰めていると、目の前に、真っ白な陶の茶器が差し出された。しかし、中で揺れている液体なぜか透明だ。湯気が立ち上っているため、水ではないと判断がつく。

 朱翔は信じられないものでも見るかのような目つきで、茶器を凝視した。

 両手で受け取り、持ち上げてみれば、それが無臭であることから察するに、どうやらただの白湯でしかないようだ。これは嫌がらせの一種かと青年の茶器を覗いてみたが、揺れる水面は同じ色をしていた。

 受け取った茶器を卓に戻すと、朱翔はそれを脇へと押しやった。


「白湯は嫌いか」


 その様子をじっと見つめていたらしく、青年は無感情な声でそう言った。


「……嫌いというか、好きな方はそうそういないのではないかと思いますけれど」

「僕は好きだ」


 自分が好きなら、嫌いな者などいるわけがないとでも言いたげな口振りに、朱翔は僅かに唖然とする。それでも、言い返すことはしなかった。言い返すだけ無駄のような気がしたからだ。

 青年が、まるで茶のように白湯を飲む姿を黙って見つめながら、朱翔は続く会話を待ち望んでいた。それとも、こちらから切り出した方がいいのだろうか。そんな葛藤を繰り返しながら、自然と瞬きを繰り返す。

 とにもかくにも、この男は酷く美味そうに、白湯を飲んでいた。


「あの」

「キキだ」

「え?」

「僕のことは皆そう呼んでいる」

「私は――」

「双朱翔。知っている」


 キキと名乗った青年は、朱翔がどれほど居心地悪くしていようと、お構いなしの様子だった。何とか会話を続けてみようと試みるも、それは容易く断ち切られる。

 朱翔は小さくため息を吐き、白湯の入った茶器に手を伸ばした。考えてみれば、今日は一度も喉を潤す機会に恵まれなかったと思いながら、そろそろ冷めてただの水になったそれを、一気に飲み干した。

 意外にも、白湯は予想に反して甘く、美味かった。


「やわらかくて甘みがある、葵州の露々山で湧く水だ」

「……美味しいです」

「そうか」


 考えていることを先回りされる感覚に、キキという青年の、独特な会話の流れを感じ取った。

 よくよく見てみれば、朱翔とキキは、似たような衣裳を身に着けていた。キキが着ているものは、朱翔が着ているものよりもずっと濃い色をしているが、また別の空色の刺繍が、美しい衣裳だ。

 自分とは違い、よく似合っている。そう朱翔が思っていると、キキは長い袖を優美にたくし上げ、急須から次の白湯を注ぎ足す。わざわざ朱翔の茶器にまで注ぐ様子をじっと見ていると、キキは徐に口を開いた。


「昨夜は手荒な真似をして、申し訳なかった。本来ならば慎重に事を運ぶべきだったと理解しているが、そう悠長にも構えてはいられなくなった」

「さ、昨夜って、もしかして──」

「君をここへ連れてきたのが僕かという問いなら、その答えは否だ。ただし、そう命令したのは僕だ」


 何でもないことのようにそう言ったキキは、手の平で茶器を弄びながら続けた。


「僕たちは、双龍彰が死んでからのこの三年間、密かに君の監視を行ってきた」


 やはり造作もないことのように言うキキの言葉を、朱翔は思わず聞き逃してしまいそうになった。取り留めのない単語の羅列と同じように紡がれ、それを重要視していないかのような口振りに、ぞっとするよりも、唖然としてしまう。

 右から左に抜けていきそうになった言葉を引きずり戻し、朱翔は何か言おうと口を開いた。しかし、そこからは空気がもれるばかりで、肝心の声が出て来ない。


「……か、監視?」


 やっと口にできた言葉は、たったそれだけだった。


「この監視とは、守護の意味を持つものだ。双龍彰は君を守るために選出されたが、当初の予想に反し、君が二十歳を迎える前に命が絶たれてしまった。それ故に、君を守る唯一の存在は、四年の期限を残して消失してしまったというわけだ」


 聴覚が思考に追いついてこない感覚がまだるい。

 頭の中で文章になった言葉たちが、消えてしまう前に理解しようと必死になればなるほど、徐々に問題から遠退いていく。

 けれど、キキは困惑している朱翔を置き去りにして、話を先へ進めようとした。


「しかし、龍彰だけはそうなることを想定していた。もし何らかの理由で自分が面倒を見られなくなった場合、自分以外の誰かが双朱翔の助けになるようにと、生前から働きかけていた。それが――」

「待ってください、私には、その、何の話をしているのかさっぱりで」


 震えた手が茶器に触れると、それは音を立てて倒れた。白湯がじわりと卓に広がり、角を伝って床に落ちていく。ぴちゃり、とはじけるような水滴の音を無視して、朱翔はキキを睨むように見た。


「私にも、こう、分かるように、もっと──」

「僕はこういった話が得意ではない」


 変わらずの淡々とした口調で、キキは朱翔を見つめ返した。


「だが、善処はする」

「よ、よろしく、お願いします」


 相変わらず状況を把握することはできていないが、朱翔は座った姿勢のままで大きく深呼吸をすると、キキの話を聞く心の準備を整えようとした。

 キキはそれから少しの間、じっくりと考え込むように沈黙していた。木製の卓にゆっくりと水が染み入っていく様子を、ぼんやりと眺めていたかと思えば、また唐突に口を開いた。


「生まれは浄州、王都清朗だな」

「……養父からは、そう聞いています」

「当時、王都は戦乱の最中だ。どの時代よりも酷かったと言われている。兵の死体は放置され、腐敗し、死臭が常に漂っていた。衛生面も十分とは言えないその最悪な状況下で、母が子を産むことなどほぼあり得ない。そうでなくとも、多くの女子供は戦渦を離れて暮らしていた。子を腹に抱えている母親なら尚のことそうするはずだ」

「それが、どういう──」

「関係があるから、こうして回りくどく話をしている。君も黙って聞く努力をしてみろ」


 どこか面倒臭そうに言ったキキは、朱翔が室へ入ってきた時と同じように、頬杖をついた。どうやらその恰好が落ち着くようだ。


「君が清朗で生まれたのと同じ頃、廉州も浄州ほどではないにしろ、酷く荒れた状態にあった。男なら、それが子供であっても徴兵された時代だ。必要なら、女にも武器を与えた。存王派も滅王派も関係のなかった民たちが、意味もなく殺し合う。それも、たったひとりの人間のためにだ。狂った時代だった。その時、廉州軍の指揮を執っていたのが、君の養い親である双龍彰だということは知っているな?」


 言われた通りに黙って頷く朱翔を一瞥し、キキは更に続けた。


「双龍彰は、国でも名を争う剣豪の一人だった。後に、後期大戦中の三英雄の一人として数えられるほどの男が、一人でも多くの兵を必要とし、有能な指揮官を欲しているその時期に、突然将軍職から退いている。廉州軍としては計り知れない痛手だったろう。だが、龍彰はまるで消えたように、その姿を見せなくなった。それが、王からの勅命だったからだ」


 我慢が続かずに口を開こうとする気配を感じ取ったのか、背筋を正したキキは手の平を朱翔に向け、言葉を挟ませまいとした。言いたいことはすべて分かっているとでも言うふうな表情で、小さく首を横に振る。


「王の勅命を受け、龍彰は内々に清朗を訪れた。そして、主上に謁見し、とある任を与えられる。それは、生まれて間もない王の子を、然るべき時が来るまで護り抜け、という内容だった。国に太子が生まれたと分かれば、滅王派は必ず亡き者にしようと考えるだろう。ならば、先手を打って、公的には太子などなかったこととして振る舞えばいい。もちろん、龍彰が二つ返事で承諾するはずもないのだが、最終的には、どうしてもそれを断ることができなかった」

「……なぜです?」

「断れなくする方法ならいくらでもある。引き受けなければ、この場でお前を殺すと脅すことや、家族を人質として取ることも、当時の王ならば厭わなかっただろう。しかし、王はそうしなかった。双龍彰を推挙した葵狼碧という少年に、信頼を置いていたからだ。その目に狂いはないと信じていた。ただ、もしその任を引き受けることをしないのならば、私は私のために息子を殺すと、目の前で剣を抜いた」


 それはまるで、その場に立ち、すべての場景を見てきた者のような口振りだった。

 けれど、キキという青年を見たかぎりでは、二十二、三歳程だろうと想像することができる。朱翔とさほど年齢の変わらない者が、その場にいたとは考えにくかった。

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