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 層登尊の計らいで無事に宿の手配を終えた二人は、その彼に連れられて、近場にある飯堂にやって来ていた。美味いと評判の店というだけのことはあり、他人同士が相席を求められるほどの混み合いを見せている。

 経営自体が常連客からの収入で成り立っているのか、よそ者の二人が足を踏み入れると、至る場所から好意的ではない視線が突き刺さってきた。下町といえばどこもこのようなものだと、たいして気にもせず空いている席を見つけて腰を下ろす。


「ご注文は?」

「酒とつまみを適当に頼む」

「はいよ」


 注文を取りにきた女は、悠玄が佩いている剣を睨むように見ると、厨房に戻って行った。そんな物騒なものを持ってくるなと言われたように感じ、悠玄は太刀を一撫でする。未だ警戒の色を解いたわけではない。

 登尊の後をついて来るだけのことはしたが、この男を信用しているわけではなかった。ただの人好きではすませないような、そんな何かを感じるのだ。かつて葵家のお抱え鍛冶職人の弟子だったという話も、真実かどうかは分からない。相手を油断させる手段にはもってこいだが、この極端な話好きは警戒に値する。

 幸い、自ら警戒せずとも憎まれ役は志恒が買って出てくれるので、悠玄は細心の注意を払うだけでいい。

 すぐに運ばれてきた酒瓶を傾け、登尊はなみなみと注がれた酒が卓子に零れるのも厭わずに、悠玄と志恒に杯を差し出した。何に乾杯をするわけでもなく、登尊はまるで冷えた湧き水のように、酒を勢いよく仰いだ。


「今日は俺の奢りだからな、遠慮せず飲めよ」

「せっかくの申し出だが、あいにく私は酒に弱くてな」

「冗談を言うもんじゃねぇ。今日は一晩中付き合ってもらわなきゃ困るぜ、旦那」


 たった一杯の酒を飲んだだけだというのに、登尊は既に気持ちがよさそうだ。唇を濡らす程度に杯を傾けた悠玄は、そのあまりの強さに眉を顰める。


「酒はこうでなくっちゃなぁ、安っぽい酒は水みてぇで飲めたもんじゃない」


 思い返してみれば、悠玄には酒に酔ったという記憶がない。

 それは、いくら飲んでも酔いが回らないという意味ではなく、酒に溺れるほど浴びるように飲んだことがないという意味だ。娯楽に逃げる間もなく、政に追われる毎日だった。考えれば当たり前のことなのかもしれない。


「旦那方は浄州からやってきなすったようだが、出身はどこなんだい?」

「俺はここの生まれだ。廉州の麓路」

「へえ、麓路城下じゃ内乱時は酷い有様だったろう」

「そうだな」

「で、そっちの旦那は」


 登尊は性懲りもなく志恒にも声をかけた。だが、表情を窺う限りでは、答えを期待してはいない様子だ。

 悠玄が隣に座っている志恒を見やると、険しい顔がこちらを見返した。好きにしろと肩を竦めれば、志恒は呟くように「栄州の瑚郷です」と答えた。


「栄州の瑚郷か」


 意外そうに眉を持ち上げた登尊は、志恒の口から紡がれた言葉を鸚鵡のように繰り返した。それだけでは、栄州の出身だということを意外に思っているのか、答えが返ってきたことに対してそう感じているのかは判断できない。おそらく後者だろうと解釈した悠玄は、杯の酒を舐めるように口に含んだ。


「嶮迷山の向こうは、浄州や廉州とは比較にならねぇほど冷えるそうじゃねぇか。葵州とはまた違った、独自の文化が栄え、大昔からの神話がいくつも残っている神々の土地と噂を聞くが。俺もいつかお目にかかりたいものだな、光り輝く白銀の大地を」

「……あの山は秋の中頃から夏の初めまで閉鎖されますから、そろそろあちらに行くことも、こちらに戻ることもできなくなります」

「そうらしいな。雪に覆われ山道が塞がれることを理由にしてはいるが、栄州の民は神聖な神々の通り道を穢してはならないと考えているんだったか」

「古い言い伝えです」


 今度、同じように意外そうな顔をして見せたのは、志恒の方だった。まさか栄州の古い言い伝えを登尊が知っていようとは、考えてもみなかったようだ。


「形に似合わず随分博識だな。どこで覚えてきた?」


 そう悠玄が横槍を入れると、登尊は新しい酒を大声で注文しながら、豪快に笑った。


「長く旅をしていると、そういう話が自然と耳に入るのさ。だが、つまらねぇ話はすぐに忘れちまう。それでも、葵州を出た時の衝撃だけは、今も忘れられねぇがな。はじめて戦を目の当たりにした時は、この世の地獄を見たと思ったもんだぜ」

「葵州は美しいものだろう」

「そりゃそうだ、あの土地に戦なんてものは存在しない。関所の守りを強固にして、それで終いだな。被害を受けたのはほんの僅かで、それ以外はあの馬鹿げた内乱がはじまる以前からの姿を保ったままだ」


 それを思うと、登尊の言うとおり、自分たちは酷く馬鹿げたことを続けていたのではないかと、そう考えてしまう。しかしながら、後悔はいくつかあるものの、自分の思う正義に反していたつもりはない。

 主上がすべてと信じていた。守るために生まれてきたからこそ、少しの疑問も抱かなかったのだ。だが、君主を失った今、簡単に心が揺らぎそうになってしまう。

 あれは真実、必要な戦いだったのだろうか。大切な誰かを失い、国を破壊し、民草の命と信頼を奪われ、残ったものは、手の平に包み込めるほどの小さな誇りだけだ。

 新しい君主に、自分は先王と同じ忠誠を誓えるだろうかと、悠玄は自問した。

 だが、返答はない。命をかけて仕えるに値する人物ではなかった場合、自分がどのような判断を下すのかを想像すると、妙に恐ろしかった。


「それじゃ、旦那はお供を連れて里帰りってわけか」

「まあそんなところだ。叔父と会うための帰郷でね」

「てぇと、明日にはもう麓路に向けて発つのかい?」

「ああ、あまりのんびりしていられない旅でな。必要なら葵州へも行かなければならないから、これを里帰りとは言い難い」

「麓路なら、ここから三日ほどの距離だな。お二人さんの馬なら、急いで一日半か二日程といったところか」

「登尊殿はこの後どちらに?」

「俺は、そうだなぁ、しばらくは亦呉に腰を落ち着けるつもりでいるが。旅費を稼ぐ必要もあるからな、適当な職を探すさ」


 盆に料理を載せて女がやってくると、一度会話が途切れた。

 野菜と肉の炒め物と、塩を振っただけの焼き魚、小鉢には塩漬けした豆が入っている。それらが卓に並べられ、悠玄は傍らにあった箸挿しを中央へと押しやった。それは漆塗りの上等なもので、美しく光沢を放っている。


「――雪姫さん!」


 小鉢から摘み上げた豆を口の中に放っていると、飯堂内に子供独特の高い声が響いた。時間帯から考えて、場違いな時に聞こえてきた声を不審に思い、悠玄はそちらにこっそりと目を向けた。

 一人の少年が、この卓にも注文を取りに来た女の元へ駆け寄っていく姿が見えた。その表情は、何かを悲観視しているようで、鬼気迫るものを感じる。少年は女の衣に掴みかかり、胸の辺りから険しい顔のまま、勢いよく振り仰いだ。


「朱翔兄はもう帰ってきた?」

「お前は、また坊の邸を覗きに行っていたのかい?」


 腰にまとわりついてくる少年を引きはがし、雪姫と呼ばれた女は、呆れたように息を吐いた。盆で頭を小突かれると、少年はそれを煩わしそうに払いのける。


「お役人が早く家に帰れって追っ払うんだ。何を聞いても教えてくれないんだよ」

「だったら何もなかったんだろう? そんなに心配しなくても、坊だってもう子供じゃないんだよ。自分の世話くらい自分でしっかりできて当たり前さ」

「でも!」

「ほらほら、いい加減店にいられると邪魔だよ。坊のことならお役人に任せて、さっさと寝ておしまいな」

「昨日だって、その前からだって、ずっと変な奴らが彷徨いてるって言ってるのに、お役人なんてちっとも話を聞いてくれないじゃないか!」

「そんなのは今に始まったことかい、どうせお役人は私ら民草の話なんざ真面目に聞いちゃくれないよ。さあ、もう室にお戻り」

「雪姫さん!」

「明日になればひょっこり顔を出すよ。そうじゃなけりゃ、ここらの顔役に掛け合ってやるから、今日はもう勘弁しとくれ」


 注文を叫んでいる客を軽くあしらいながら、女は少年を店の奥へと追いやっていく。少年は納得のいかない表情を浮かべ、訴えかけるように抗議を続けながら、店の奥に姿を消した。戻ってきたのは女一人で、その顔は何かを思いつめているようにも感じられた。


「耳がいてぇ話だな」

「――なに?」


 その声を聞いて視線を卓に戻すと、向かい側に座っていた登尊が、酒瓶をひっくり返して最後の一滴まで杯に移し替えているところだった。皮肉そうに笑っているのが、視界に入り込んでくる。

 不可解そうに眉根を寄せる悠玄を見て、登尊は大きく肩をすくめた。


「この場に役人がいたら、間違いなくそう思うだろうと思ったまでさ。お高くとまった官吏なんてもんに、ろくなやつはいやしねぇ。そのことに早いとこ気づかせてやらなきゃ、この国はいつまで経っても変わらねぇだろうよ」

「……知ったような口振りだな」

「知ってるさ。この国の民は全員、しっかり理解しているぜ。気づいてないのは、俺たち民草が汗水垂らして必死に働いた税金で、のうのうと生きてる官吏様だけじゃないのかねぇ。廉州だって、ちょっとやそっと復興を見せたところで、臣民の信頼を取り戻せたわけじゃないんだ。浄州から廉州に逃げ込んでくる者たちを見たろうが?」


 この男は、どうしてもこうも憎たらしいことばかりを口にするのだろう。

 無自覚だった事柄を、自覚せざるを得ない窮地にまで思考を追いやり、逃げ場を失わせるのだ。考えざるを得ない状況を造り出し、答えを出させる暇もないまま、次の問題を提示してくる。

 どうしようもなく腹が立つのは、そのすべてが正論だということだ。反論すべく口を開いたところで、言葉が見つからずに、唇を噤むことしかできない。己の地位を公表していないために、下手な言い訳を論ずることもできなかった。たとえそうしたところで、この男は微塵も態度を変えることをしないだろうということが、悠玄には分かっていた。

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