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待つという行為は、嫌いではない。
日が暮れるまでの時間は、たいして長くも感じられなかった。冬も近づき、日照時間が短くなってきているせいもあるだろう。それでも、夕暮れは未練たらしく西の空に居座り、東から徐々に夜の帳が下り始める。藍色から深い紺色へ、そして最後には闇色に染められていく空の色は、見ていて飽きることがない。
しかし、今日ばかりは不用意に窓へ近づくことを禁じられているため、その変わりゆく様子を眺めることはできなかった。それを、心のどこかで残念に思いながら、柔らかな寝台の上で寝返りをうつ。
卓子で灯っている蝋燭の炎は、微動だにしない。橙の勾玉型をしたそれは僅かずつでも蝋を溶かし、じりじりと芯を焦がす。その様子を惚けたように眺めていた朱翔は、室の中に愁蓮が入ってきたことに気づきもしなかった。
「おい」
そう声をかけられ、寝台の上でびくりと身体を震わせる。瞬くことも忘れていた目を扉の方へ向ければ、午に見た顔が、そこに立っていた。
「どうした、大丈夫か?」
「何でもない。ぼうっとしていただけだ」
「たまには何もしないで、日がなごろごろしているのも悪くないもんだろ?」
「たまにはね。でも、多分僕には不向きなことだよ」
室内の空気が動いた。微動だにしなかった蝋燭の炎がゆらりと揺れ、同時に、落ちていた影もそれを追いかける。
鈍さを訴える頭を叱咤して起きあがれば、午は確かに思考を奪っていたはずの、甘ったるい香りを感じなくなっていることに気づいた。換気をした風もないため、どうやら朱翔の嗅覚が、その酷く甘い香りに慣れてしまったらしい。
「件の会合とやらは?」
「そろそろだ。その前に着替えをすませろよ、室の外で待ってる」
扉の閉まる音を聞きながら、朱翔は午に手渡された荷を足下から拾い上げた。中身をすべて寝台に並べ、衣裳だけを抜き取っていく。着ていたものを脱ぎ捨てるように長椅子へ放り、用意された衣を淡々と身に着けていった。
普段好んで着るものより幾分上等そうなそれは、朱翔に着心地の悪さを感じさせる。薄藍の酷く肌触りのいい質感は、上等な絹だろうか。裾を縁取るように独特な銀色の刺繍が織り込まれ、民族衣装のようにも見えた。
腰紐を脇で結わえながら室の蝋燭を吹き消した朱翔は、暗くなると同時に窓の隙間から入り込んできた明かりと、ざわめくような喧騒に首を傾げた。
扉を振り返り、磨り硝子越しに愁連があちらを向いて立っているのを確認してから、朱翔は窓に歩み寄った。少しくらいならば構わないだろうと、指一本ほどの隙間分だけ、窓を押し開ける。
そこに見えたのは、午の寂れた様子からは微塵も想像のつかない町の姿だった。
松明の炎が惜しみなく燃え、肩がぶつかり合うほどに人々が行き交っている。艶やかな恰好をした女たちが道に立ち、男を誘う姿が、やけに目立って見えた。閉じていた店は門戸を開き、道を行くすべての者たちを歓迎するかのようだ。
まるで知らない町のように思えた。少なくとも、同じ亦呉の町とは思えない。
「宵夜、か。よくいったものだね」
確かに、いつまでも夕暮れ時の賑わいが続くのではないかと思わせる。華やかさでいえば、亦呉の表通りを幾重にも勝っていた。景気でいっても宵夜が劣ることはないだろう。
世界の裏側はこんなにも不平等だ。そんな理不尽さに、呆れや憤りよりも、笑いが込み上げる。
朱翔が夜の町に魅入られていると、背後で扉が叩かれた。たかが着替えに時間をかけすぎだと痺れを切らしたらしい。扉が開く前に窓を閉じた朱翔は、わざとらしく襟元を正しながら、後ろを振り返った。
「なんだ、終わってるじゃないか」
扉を開けて入ってきた愁連は、朱翔の姿を上から下まで、じっくりと眺めていた。居心地の悪さを感じながら、朱翔は着慣れない衣装を見下ろし、たっぷりとした上衣をそっと持ち上げる。
「へえ、馬子にも衣装だな。お前が一介の貴族に見える日がくるとは」
「素直に褞袍の方が似合うと言ってくれて構わないよ」
「そう悲観するな。言うほど悪くもない」
愉快そうに笑った愁連は、ついてくるようにと言って朱翔を手招いた。
回廊へ出ると、左手には顔の高さに小窓があり、行き止まりになっている。愁連は右に進み、中央の階段を下っていった。朱翔も遅れて階段を下りようとすると、故意にとしか思えないほど胸元を大きく開かせた衣裳の女が、ゆったりと上ってくるのが見えた。
午に会った香蘭という女とは別人だ。手すりに背中を押しつけるようにして道を空けた朱翔の前を通りかかり際、真っ赤な口内を覗かせ、上目遣いに可愛らしく微笑をした。
「驪姫、連れをからかうのはよしてくれ」
どうしたものかと朱翔が困惑していると、階段を降りきった場所でこちらを見上げていた愁蓮が苦笑していた。
「だって愁蓮様ったら、この頃私の相手をちっともしてくださらないんですもの」
「悪いが、君の相手をした覚えはないな」
「あら、連れないお方」
「なんとでも言ってくれ。朱翔、さっさと下りてこいよ」
背を向けてしまった愁蓮に頷き、朱翔は傍らに立っている女をちらりと横目に見た。すると、女は先ほどと同じように微笑み、軽く会釈をして階段を上っていく。
完全にその背中が見えなくなる前に追いついた朱翔は、隣に並ぶと、疑り深い視線を愁蓮に向けた。すぐさまその眼差しの意味に気づいたらしい愁蓮は、少しだけ慌てたように頭を振った。
「勘違いするなよ。お前が思っているほど、俺は遊んでいないからな」
「どうだか」
「やめろって、そんな目で俺を見るな」
「廉州軍所属ともなれば、相当な給金が出るに違いない」
「朱翔」
「冗談だよ」
そう言って朱翔がからかうのをやめると、愁蓮は不愉快そうに眉根を寄せた後で、諦めたように肩を落とした。言い訳するだけ逆効果だと考えたのだろう。朱翔は困り果てたというふうな顔をしている愁連を見て、少しだけ笑った。
「これから一度外へ出るが、あまりきょろきょろして俺を見失うなよ」
妓楼の外へ出ると、昨夜と同じようなひんやりと冷たい空気が、身震いを誘った。腕を抱きながら、言われた通りに愁蓮を見失わないよう、後を追いかけた。
自分以外の道を行き交う者たちに、関心を向けている者は少ない。
誰もが自分の目的のためだけに存在しているかのようで、しかし、同じ信念を抱いている者同士のような統一感があるようにも思える。
似ていると感じるのは何故だろうと、自身の左右を見回して、不意に気がついた。
目が物語っているのだ。多くがその目に闇を潜ませ、威嚇するような眼差しをしている。そうと理解した途端、自分が酷く場違いな場所に立っていることを、朱翔は自覚した。
追いかける背中は、遠からず近からずの場所にある。朱翔は歩調を早めると、その背中との距離を詰めた。肩と肩とが触れ合うことすら恐れるように、肩をすぼめて歩く。見渡せば、剣を佩いている者の姿が目立った。この区域では、人を殺める理由すらほんの安易な選択事で、それを躊躇すること自体が過ちであるかのような、恐怖の通則を感じた。
人の間を縫うようにして巧みに歩く愁蓮は、辺りへは見向きもせずに進んでいた。その背中が嫌にたくましく見える。その表情を窺い見ることはできないが、朱翔は自分が思い描いているものと幾分の狂いもないだろうと、そう確信していた。おそらく彼の表情は、周りを行く者らと大差ない。
次の瞬間、止まった歩みに、朱翔は言葉もなく近づいた。肩越しに振り返った愁蓮が顎をしゃくり、とある邸に入っていく。朱翔は一度その邸を振り仰ぎ、その外方を確認した。
古びた邸だった。一見するだけでは誰も見向きをしないような、視界に捉えても目の前を素通りする、特に何の変哲もない邸だ。扉は固く閉ざされ、他の店とは対照的に、何者も門扉を潜ることを許さないような威圧感があった。外からでは灯りも見えず、とかく怪しい雰囲気である。
扉を開いたまま早くしろと咳払いをする愁蓮に促され、朱翔は半ば恐る恐るというふうに、暗い邸内へ足を踏み入れた。空気が淀んでいて、埃っぽい。暗闇に目が慣れてきても、どこに何があるかを把握することができなかった。何かの木箱に躓きかけると、前を進んでいたはずの愁蓮の背中に追突した。
「ここなのか?」
静かに問いかければ、しぃ、と空気の擦れ合うような音が愁蓮の唇から漏れた。
じっと動かないでいるのを見ると、何かを待っている様子でもあった。言われるがまま大人しくしているしかない朱翔は一歩後退し、そっと目を閉じる。耳を澄ませて、遠退いた喧騒を追いかけていた。
音は好きだ。それは何者に対しても平等であり、裏切られることもない。対して、目に見えるものは時に、容易に人を裏切った。
がたりと何かが振動する音に、朱翔は閉じていた目を開いた。愁蓮の肩越しに見える扉がゆっくりと開き、何者かの手がぬっと現れた。
「すまない、少しばかり伝達に齟齬が出たようだ」
「気にするな。時刻通りだ」
掠れるほどの囁き声でそのような会話がされたあと、愁蓮は扉から外に足を踏み出し、そこに立っていた人物の肩を親しげに叩く。そして、後ろの朱翔に進行方向を指して見せた。
次いで同じように扉から外に出れば、人一人通るのがやっとなほどの幅しかない道が、迷路のように続いていた。普段ならば野良猫が抜け道として使う程度で、それ以外の用途はないように思える。
一体どこへ連れて行かれるのだという疑問を改めて抱き、朱翔はため息を吐いた。
扉の外に立っていた人物は、男なのか女なのかも分からず、黒い頭巾でその顔を覆い隠していた。朱翔に向かっては一言も声をかけようとせず、ただ立ちつくしているだけだ。
朱翔は昨夜の誰かを思い出しながら、少しの間その人物を見つめていたが、愁蓮が最初の角を曲がろうとしている姿を視界に入れると、その場で申し訳程度の会釈をしてから早足に進んだ。
角を曲がる間際、誘惑に負けて振り返れば、黒頭巾の人物は既に、跡形もなく姿を消していた。ぞわりと背筋を駆け上がる悪寒に頭を振り、朱翔は愁蓮を追いかけ続けた。
落ち着いて観察してみれば、左手には先ほど歩いていた大通りが見える。少し考えれば、来た道を逆走していることが分かっただろう。どういう訳かと問いたくとも、問いかけたところで、それに答える声はない。
一度その場で足を止めた朱翔は、大通りに向かって伸びている細い路地から向こう側を覗き込んだ。そこには丁度、松明が明々と燃え、小さな火の粉が風に煽られて舞っている。
男、女、男、男――見境なく人々が流れていく。それを初めて波と称した人物は誰なのだろうか。人の波の中で転がされている自分を、時々惨めに思うことは、口に出して語ったことがない。
時折、誰かが予想もしていなかった荒波をたてることがあった。それは得てして唐突なできごとであり、事前の予告など一切ありはしない。荒波は渦を呼び、人を次々と呑み込んでいく。
その一瞬、朱翔は時間が止まったかのような感覚に、心臓を鷲掴みにされた。
暗闇の中にいる朱翔を見つけられるはずがない。それなのに、相手を射抜こうとするような鋭い視線と交わったような気がして、朱翔は身体をすくませた。
「――っ」
息苦しさを感じて我に返れば、それは随分前を歩いていたはずの愁蓮に首根っこを掴まれ、路地裏に引っ張り込まれている瞬間の苦しみだった。
射抜かれるような視線から解放されて安堵している朱翔に構うことをせず、愁蓮はそのまま引きずるようにして先を急ぐ。縺れる足下で何度か転びそうになりながら到着した場所は、なんと先ほどまで朱翔が一日をぐうたらと過ごしていた妓楼の裏口だった。
「何のために用心してこんな回りくどいことをしたと思ってるんだ」
裏口の扉を蹴り開けるようにし、朱翔を中へ放り込むと同時に、愁蓮は小さく激高した。
朱翔は絞まっていた首をさすりながら愁蓮を見返し、少なからず怒っている様子に多少の申し訳なさを覚える。だがしかし、謝る気は更々ない。何の理由も語って聞かせない者を相手に、対等を求めたところで仕方がないのだ。
「誰かに見られたりしていないだろうな」
「見られてはいない、と思う」
多分という言葉を飲み込み、朱翔は衣裳の乱れを整えた。
「つけられていた気配はないから大丈夫だと思うが、用心は必要だ」
誰に物を言っているのだと問いたくなるような口調で、愁蓮が言った。明らかに朱翔へ向けられた言葉ではない。かといって、独白でもないようだ。しかし、この場所には二人以外の者は存在せず、がらんどうとした狭い部屋があるだけだった。
まさか、あの暗がりの中から朱翔の姿を見つけだせるとは思えない。だが、確かに交わり合ったと感じた視線は、朱翔に言いしれぬ不安を与えていた。
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