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所詮、こんなものなのだと諦めてしまうしかない。割り切ることしかできないのだ。こんな人生、こんな世界ならば、生きていたって仕方がない。
それなのに、どうしても生に執着してしまう――そうだ、これは本能と執着でしかない。未だ死を恐れてしまうのは、一体なぜなのか。
「そういやお前、昔は官吏になるんだって意気込んでなかったっけ?」
「もう忘れたよ、そんなこと。今では前ほど官吏職に希望を感じてはいない」
「そうか? お前なら結構上手くやっていけるんじゃないかと思っていたけどな。書庫の管理を手伝っているのも、官吏になるための準備っていうか──違うのか?」
「偶然だよ。知人の紹介で断れなかっただけ。ただの成り行きなんだ」
「へえ。成り行き、ね。じゃあ俺と一緒だな」
そう言って意味深に笑う様子を朱翔が訝しげに見ていると、愁蓮は小さく肩をすくめた。
「俺も成り行きで州武官になった。だったら、朱翔も成り行きで官吏になるかもって話だよ」
「愁蓮には武術の才能があった。でも、僕には武術の才もなければ、政に関われるほどの知識もない。土台からして根本的に違うんだ、同じに考えるだけ間違っている」
「その自己否定的な考え方、ガキの頃からちっとも変わらないのな。前々から思っていたけど、ちょっと異常だぞ」
「自分を過剰評価する陶酔者よりはまともだろう?」
「まあ、確かに。だが、謙遜も過剰すぎると相手に不快感を与えるもんだ。本人にそのつもりがなくてもな。覚えておけよ、そういうのを嫌味というんだそうだ」
「妙に実感がこもっているようだけど」
「俺もこの三年で思うところがあったってわけ」
人生と世界が同一として捉えられるのであれば、それらは常に、無能という生き物を優しく抱き留める。時に慈悲と哀れみは同一であり、対極だ。ならば世界は常に、有能に対して尊厳を失うことはない。
だとすればきっと、世界は愁蓮に厳しく、自分には甘くあるはずだと朱翔は考えていた。けれど、この世界は一度として、双朱翔という青年に対して優しくあったことはない。
世界の答えはいつでも、朱翔にとって否定的であり、透明な壁を隔てた向こう側に用意されている回答に、手が届くことはなかった。故に今こうして、少なからず何も得られることのない世に、絶望に近い何かを感じている。
「聞いてもいいか?」
問いかけてくる朱翔に、愁蓮は微かに首を傾げるだけで応じた。無言を了承と受け取った朱翔は、窓から見えた町並みを思い出しながら、思考を言葉に表していく。
「ここはどこなんだ? 廉州の――亦呉ではないだろう?」
「いや、ここは亦呉だ」
自分の考えを否定する断定の言葉に、朱翔が眉根を寄せると、愁蓮は先ほどまでの表情を消して声を低くした。
「ただ、真っ当な生き方をしている奴らには、とんと縁のない場所だ。望まずしてここへ足を踏み入れる者もいるが、大抵は社会の裏側に生きる、夜の狢が集まるような場所さ」
苦笑とも違う、どこか困惑しているような微笑を見せた愁蓮は、遠くを見つめるように目を細めた。見えない窓の向こう側を窺うように、じっと凝視している。
「この地に名称はない。誰もが好き勝手に、呼びやすいように呼んでいる。宵夜、闇夜、常闇――まあ、好きに呼べばいいさ、全てたいした違いはない。お前の邸からもそう離れていないぞ」
「ちょっと待て。ここが本当に、日の下で真っ当に生きられない連中が集まるような場所なら、賊は出入り自由という事じゃないのか?」
「まあ、そうなるな。だが、心配はいらないさ。ここは馴染みの女郎屋だから、お前が売り飛ばされるようなことはないと約束できる」
「女郎屋――青楼か」
朱翔は呟くと、柱や天井に目をやった。確かに、青漆で柱や模様が塗られている。言われなければ気づきもしなかったと、その程度の反応しか見せなかった朱翔を見て、愁蓮は少し笑った。
「こればかりは男の習性だからな。特に俺らは仕事柄、他の野郎どもに比べると繁殖思考が強いらしい」
「だろうね」
彼ら武官は常に死と隣り合わせに存在している。その昔、誰かが言っていた。死と友人関係を築かなければ、武官などやってはいられないと。死を恐れていては、武人は成り立たない。
死を深く感じれば感じるほどに、子孫を残そうと体が働きかけるのだという。一種の職業病だと聞かされていたため、朱翔はそれを簡単に肯定してみせた。
こうして話していると、三年間の隔たりなど、実際にはなかったかのように思える。あまりの自然さが、逆に不自然さを煽っているように感じられて仕方がなかった。まるで、久しぶりに会ったと思っているのは自分だけのような、そんな違和感があった。
その違和感を確かめようと口を開きかけると、それを見計らっていたように、室の扉が外側から押し開かれた。開いた扉の向こう側から顔を出したのは、病的なほど色白の顔に、うっすらと紅を引き、艶やかな黒髪をゆったりと肩の辺りで結わえた女だった。
「そろそろ時間だよ、愁蓮」
「香蘭だ」
深く腰を下ろしていた椅子から立ち上がり、愁蓮が言った。
香蘭と紹介された女は、淡い色彩の衣裳を身に纏い、壁に寄り掛かりながら腕組みをして朱翔を睨むようにして見つめている。
そんな彼女の様子に呆れたような表情を浮かべた愁蓮は、朱翔に向かって肩をすくめると、扉の方向へ足を進めた。
「俺は夜まで留守にする。何かあったら香蘭に言ってくれ。時間がきたら迎えにくる」
「時間? 迎えって――」
「会合があるんだ、お前と仲間と引き合わせる。必要な説明はそこでされるはずだ」
では、また夜に──と言って片手をあげて笑った愁蓮は、香蘭の耳元に唇を寄せると何事かを囁き、足早で室を後にした。
残されたふたりの間には、妙な沈黙が訪れた。何とも言い難い空白の時間は、朱翔に威圧感を与える。それは、香蘭という女からひしひしと感じられるものの、向けられる威圧感の真意が分からない。
ふたりはこれまでに出会ったことなど一度もなかったはずだと、朱翔は内心首を傾げていた。
「不躾ですけれど、以前どこかでお会いしましたか?」
朱翔がそう尋ねると、香蘭は少しだけ意外そうな表情を浮かべ、口元に笑みを含ませた。真っ赤な紅をさした唇が誘うように開き、一層妖艶さが増す。
「ずいぶん陳腐な口説き文句ね。もう聞き飽きた言葉だわ」
衣裳の裾をはためかせ歩く様は、どうすれば自分が一番魅力的に見られるかを熟知しているかのようだ。
先ほどまで愁蓮が座っていた椅子を、愛撫するようにねっとりと撫で、香蘭は朱翔を見つめた。猫のように細められた目が、朱翔を値踏みするように上下する。
「別に、口説いているつもりでは」
「私も特に口説いてほしい気分ではないわね」
しかし、その言葉は行動に反していると思わざるを得ない。
まるで、誘いかけるような視線の重圧感に負けてしまうより先に、朱翔は香蘭から目を逸らした。そうした瞬間に、朱翔の負けは決まったようなものだった。
途端、肩に重くのし掛かるようだった何かがすっと消滅し、解放されたかのような感覚に、ふう、とため息がもれた。
「根性のない男。ここへきて会話を楽しもうなんて考える男は、二人いるかいないかだと思っていたのに」
先ほど見せたものとは明らかに違う、まだどこかあどけなさの残る笑みを香蘭が見せた。着飾り、化粧を施しているために、ずいぶんと年上のような気がしていたが、実はそう変わらない年頃なのかもしれない。
「こっちは取って食われるのじゃないかと気が気じゃなかった」
「それが私の仕事だもの。隣、座っていいかしら」
拳ひとつぶん開けた同じ寝台に腰を下ろした香蘭からは、この室と同じ甘ったるい香りがした。どうしようもなく、嗅覚に思考が奪われていく。朱翔は僅かに腰を上げると、更に拳ふたつぶんの距離を置いた。
「龍彰様のことはよく覚えているわ」
「面識が?」
「ええ、とてもお優しい方だった。でも、お会いしたのはもうずいぶん昔の話よ。私が子供の頃だから」
香蘭は卓子の花瓶に生けられている花を見つめながら言った。
花瓶に生けられているのは、道端にならばどこにでも咲いているような、黄色い花が一輪だけだ。比較的豪奢な室内には似つかわしくない。
「厳格そうな顔で、眉間には絶えず皺が寄っていたわね。でも笑うと、目元がとても優しいの」
「生前を知っている人は、口を揃えてそう言います」
「あなたは幸運だったのね。もちろん、私も同じように幸運だった」
「養父と出会えたことが?」
「それも含めて、今を生きていることが」
この世界では、誰かが誰かに生かされている。朱翔が龍彰に生かされていたように、香蘭もまた、誰かに生かされているのだ。
「あの方は不幸な子供を助けてばかりで、私もその中の一人だった。龍彰様がいなければ、私は今を生きていなかったかもしれないわ。どんな人生であっても、私は今を幸福に思う」
「それが遊女としての暮らしであっても、ですか」
何のことはないように言った朱翔を見て、香蘭は目を丸くした。
「単刀直入ね。女に嫌われる典型だから、気をつけた方がいいわ」
「気に障ったのなら謝ります」
「いいえ、あいにくと私は正直な人が嫌いじゃないの。遊女である今の自分も、同じように嫌いじゃないわ」
外へ出ればいつも、朱翔は龍彰について聞かされてばかりだった。聞きたくないわけではない。ただ、自分の知らない養い親の姿が顔を見せるたびに、戸惑ってしまうのだ。
自分を子供として育てる傍らで、同じような子供たちに手を差し伸べては、素知らぬ顔で朱翔の待つ邸へと戻ってくる。
朱翔は誰からも、自分がなぜ龍彰の元へ引き取られることになったのか、その経緯を聞かされたことがなかった。聞くことも、またなかった。
尋ねれば答えてくれただろう。しかし、本当は怖かったのかもしれない。同情や哀れみで引き取られたのだと知ることが。たとえ真実がそうであったとしても、自分は確かに愛されていたと、信じたかったのだ。自分だけが特別であったと、かつての自分は信じていたかった。
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