-6-

 頭が妙に重たい。

 まだ休んでいたいと訴える目蓋を無理やり押し上げると、世界が大袈裟なほど揺れたような気がした。見上げた天井には、青く彫刻のような模様が刻まれている。視界が揺さぶられるたびに、青い模様が蛇のように歪み、朱翔は耐えきれずに固く目を閉じた。それでも、世界の震えは止まらない。

 人はこれを二日酔いと呼ぶのだろうか。しかし、酒など飲んだ記憶はない。それどころか、自分は酒が一滴も飲めなかったはずだとまで思考が至ると、朱翔は突然我に返り、勢いに任せて起きあがった。

 額を支えるように手を添え、不意に香った花のような匂いに、眉根を寄せる。

 朱翔は見慣れない一室の寝台で眠っていたようだ。事の経緯を思い出そうと、昨夜の記憶を掘り起こす。だがその前に、この甘ったるい匂いを外へ追い出してしまおうと、立ち上がって窓を開け放った。


「……はあ」


 無意識にため息が漏れる。それは、徐々に昨夜の記憶が戻りつつあるからだった。

 賊の話を聞かされたその当日に、まさか自分自身がその手中にはまるとは、誰も思うまい。昨夜の混乱していた状態から考えれば、あまりに冷静すぎる今の自分に、朱翔は新たな疑問を提示した。

 ここは、どこだ――?

 開けた窓から町並みを見下ろしてみる。すると、そこは見慣れない、いやに寂れた場所であることに気づいた。人通りもやけに少ない。亦呉ではないのだろうか。

 太陽の位置から考えると、午が近いことが分かった。

 無断で仕事を休んでしまったことに僅かな罪悪感を抱きながら、今頃邸はかなりの騒動になっているのではないかと不安になる。家主である朱翔の姿がどこにも見当たらなければ、騒ぎが容赦なく拡大することは目に見えている。


「やっと目を覚ましたか」


 背後に扉を開閉する音が聞こえた。

 瞬時に昨日の者とは別人と判断し、振り返った人物を見て、朱翔は思わず目を見開く。その、間の抜けたような話口調には聞き覚えがあった。眠たそうな顔はいつも通りで、面倒臭そうな態度も相変わらずだ。


「……愁蓮?」

「おう。久しぶりだな、朱翔」


 鷺愁蓮。

 この男も以前、双龍彰の道場へと通い詰めていた者のひとりだった。しかし、龍彰が死に、道場を閉鎖してからは、一度としてその顔を見ることはなかった。

 あまりに唐突すぎる再開を喜ぶ言葉が出てこない。年頃が近かったこともあり、気の置けない友ができたと思っていた矢先の出来事だったのだ。

 再開の喜びを言葉にするべきか、それとも三年前の事実を問い詰めるべきかで朱翔が頭を悩ませていることも知らず、愁蓮はその腕に抱えていた荷を押し付けるように手渡してきた。


「なに、これ」

「着替えとか、必要そうなもんを持ってきた。他にも何か欲しいものがあったら言ってくれ、すぐに買ってくる」

「……あ、ああ、うん」


 あまりのことに混乱し、適当な相槌を打つことしかできない朱翔の後ろで窓が大きく開いているのを見ると、愁蓮は眉間にしわを寄せた。朱翔を押し退けるようにして窓の傍まで進み、少々乱暴にそれを閉める。


「お前の頭は平和惚けでもしているのか? 不用意に窓へは近づくな」


 まるで、窓から顔を覗かせた瞬間に矢でも貰うかのような物言いに、朱翔は表情を引きつらせた。

 この男は、突然現れ、知ったような口ぶりで何を言い出すのだ。

 その明らかな不満顔をどのように受け止めたのか、愁蓮はため息混じりに頭をかきながら視線を彷徨わせている。


「お互い積もる話もあるが、詳しいことはまだ何も言えない。ただ、昨日お前を助けに行ったやつは、俺らの仲間だ。今はちょっくら出ているけど、帰ったら礼のひとつでも言ってやってくれ」

「ああ――ああ、是非そうするよ。ここにきつい一発をいただいた礼をね」


 世界が揺れているのはおそらく、酒気だけが原因なのではない。首の裏側に入れられた手刀が引き起こしたものだろう。それは次第に治まってきたが、今度は首が回らなくなるのではと心配になった。


「それより、詳しいことって何の話だ? 僕の邸に賊が押し入って来たこと? それとも、僕がここにいる理由?」

「それを説明しようとすると、言えない内容を必然的に話さなければならなくなる。だから、まだ何も言えない。お前をここに連れてきた理由も、賊がお前んところの邸を襲った意味もな」


 にっと笑んだ表情が何かを企んでいるようで、思わず疑いの念を抱いてしまう。

 朱翔は乱れたままの寝台に腰を下ろすと、呆れた様子を窺わせながら、愁蓮を見上げた。この三年で、面構えが変わってしまったようだ。眠たげに垂れた目尻の奧で鋭く光る眼孔が、武人のそれを物語っているように見えた。


「あと、ほとぼりが冷めるまでは、この楼から外へ出ない方がいい。賊のやつらがいろいろと嗅ぎ回ってるらしい」

「顔を見られた覚えはないけど」

「だろうな。だが、賊に見られていないとは言っても、お前はあの界隈じゃそれなりに顔が知れてる。このご時世だ、金に目が眩めば、人間なにをしでかすか分かったものじゃない」


 窓のちょっとした隙間から外を覗くように見ていた愁蓮が、室内に視線を戻した。荷の中身を確認している朱翔を横目に見てから、手近な椅子を一脚引き寄せて、どっかりと腰を下ろす。


「お前、近頃じゃお役人の手伝いをしてるそうじゃないか」

「手伝いっていっても、小さな書庫の管理を任せられてる人の――待て、どうしてそれを知っている?」

「この街に抄白拓の名を知らない者なんていないさ。良くも悪くも有名な人だ、その上人使いが荒いことには定評があって、これまでに職を辞した者の数は知れないと言われているくらいでな。双朱翔って侍僮は長続きしてるってんで、巷じゃちょっとした噂だ」

「……しょうもない噂だな」

「そういってくれるな。おかげで俺は、お前が無事で、元気に暮らしているってことが分かったわけだし」

「そういう愁蓮、お前こそこの三年間どうしていたんだ?」

「俺か? 俺は――まあ、いろいろと」


 言葉を探すような少しの黙りの後、愁蓮は腰に佩いていた太刀に手を置いた。


「実をいうと、あの後すぐに廉州軍から引き抜きがかかったんだ。内乱で兵も足りなかったし、ちょっとでも剣が扱えるならそれだけでよかったんだろうな。以来、ずっと廉州軍にいる。商売柄いつ死ぬか分かったもんじゃないが、餓死だけはないと思って安心してるよ」


 冗談のように言って聞かせている鷺愁蓮もその昔、相当な飢餓に命を落としかけたことがある。食べる物も、寝る場所も、帰る家もありはしない。当時はそんな子供たちでどこも溢れていた。帰りを待つ家族もなく、今にも死のうとしていた命を拾ったのは、他ならぬ朱翔自身だった。

 どうしても、他人事とは思えなかったのだ。自分と同じ年頃の子供が、まるで見せ物のように道で横たわっているのを、放っておくことができなかった。もしどこかで生き方が違っていれば、代わりに横たわっていたのは、自分だったかもしれない。


「うまくやっているさ。生きてさえいりゃどうにかなるって、ほんとだな」

「なんだよ、唐突に」

「あれ、覚えてないか? お前がそう言ったんだぜ」

「自分の言ったことなんて、いちいち覚えていられないよ」

「そりゃそうか。いい加減忘れちまうよな、そんな昔のこと」


 生きていれば何とかなると信じていた頃は、まだ何とか、この世界にも希望を抱いていた。今思えば、それは読んで字の如く、薄っぺらい望みでしかなかったのだろう。

 道端に転がる、石よりも小さな砂の中から、たった一粒の光り輝く原石を探し出すように──幼い頃は、そんな途方もない作業を苦とも思わなかった。そして、いつしか自分も、その数多の砂粒でしかないことに気づかされるのだ。

 最初に絶望したのは、そう、養い親が死んだあの日だ――朱翔は現実を嘲笑った。

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