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「なんだ、白拓の若旦那は今日もいないのかい」
昼餉後、午後からならば手伝えると言った抄白拓の姿が書庫にあるわけもなく、早々と賊についての情報収集へと出向こうとする後ろ姿にかけるべき言葉も見つからずに、朱翔が無言のまま見送ったのは、もう数刻ほど前の話になる。
書物の整理はいつまで経っても終わりが見えず、たとえそれが済んだとしても、延々と同じ作業を繰り返すしかない。これだけたくさんの本があれば、読み物には困らないだろうという当初の考えは踏みにじられ、朱翔が目録ばかりを追いかける日々に飽き飽きしていることは、今更語るべくもないだろう。
「はい、また昼餉後に飛び出して行ってしまって」
ごく希に、こうして突然に客が顔を出すこともあった。
それは十中八九、白拓に用件があってやって来るのだが、そういうときほど決まって本人の姿はない。
朱翔は苦笑を浮かべながら、茶器を差し出した。受け取った男は椅子に座ったまま片膝を立て、豪快に笑い声を上げた。
「まあ、あの方は糸の切れた凧のようなお人だ。繋ぎ止めておくなんざ、容易なことじゃないだろうさ」
「でも、自分の仕事を放ってまで街の探索に出るなんて、私はどうかと思いますよ」
「そうするために君を雇ったのだと思うがね」
至極当たり前のことのように言った男は、お茶が冷めた頃を見計らって茶器に口をつけた。
だからといって、全ての仕事を押し付けてどこかへ消えていいものではないと思いはするが、そこまできっぱりと言い切られてしまっては言い返すこともできないと、朱翔は諦めたように頭を振って、仕事へ戻ることにした。
「出仕時と夕刻だけは大抵顔を出して行きますから、どうします? もう少し待ってみますか?」
「いや、今日はこれで帰るよ。私が来たことだけを伝えておいてくれ」
「分かりました、伝えておきます」
「頼んだよ。お茶をごちそうさま」
「いえ」
そこまで見送ろうかと思った朱翔が棚の影から姿を現すと、構わないというように手を振った男は、空になった茶器を窓枠に乗せて出て行ってしまった。
ここへは何度も足を運んでいる男だったが、その素性を朱翔は知らない。気のいい、三十代後半ほどの、細身の男だ。いつも少しばかり薄汚れた恰好をしていて、肌もよく見ると煤けている。
白拓とは、外見も内面も正反対のような人物だった。
「ああ、また名前を聞き忘れたな」
あまりに自然な態度で接してくるためか、相手がまるで昔から馴染みのある者のように思えてしまうのだ。昔ながらの知人に、改めて名を尋ねることが不自然であるのと同じように、朱翔は毎度うっかりと失念してしまう。
「あの人が戻ったら聞いてみるか」
午を少し過ぎた頃に頂点を迎えたはずの太陽が、今では室に西日を差し込ませる。書物が焼けてしまうことを避けるため、朱翔は西側の窓を次々と閉めていった。
室内の湿気と黴の臭いを取り除く用途で、角に置かれていた木炭の木箱を取り替え、古くなったそれを布に包んで持ち帰る準備を整える。まだ燃えるだけの能力を持っている木炭を捨てようとしている白拓を見たとき、朱翔は驚いて目を丸くしたものだった。
もったいないから捨てるなと言った朱翔に、そうなのか、と不可解そうな表情を見せていたのを、今でも覚えている。朱翔はそのとき、白拓が筋金入りの貴族なのだということを、改めて思い知らされていた。
けれど、その日はいつまで待っても、抄白拓が書庫へ戻ってくることはなかった。
いつもならば陽の沈む頃になるとひょっこり戻って来ていたというのに、今日はこっそりと忍び込んでくる足音も聞こえてこない。代わりに、陽が沈んだ頃、ひとりの武官と思しき人物が書庫に現れた。
本を両腕に抱えていた朱翔は、不思議そうに瞳を瞬かせ、その武官を見つめた。
廉州では、州内の治安を維持させるため、定期的に州軍の武官たちが町を巡回している。よって、その姿を見ることは珍しいことでもないのだが、書庫に姿を現したのは、これが初めてのことだった。
「双朱翔殿、ですね?」
「……そうですけど、なにか?」
両腕の本を抱え直しながら朱翔が頷くと、武官は小さく礼を取った後で、懐から一通の封書を取り出してみせた。
「抄白拓様より書状を預かって参りました。所用で今日は戻ることができないと。ここの施錠は私が仰せつかりましたので、本日はお帰りくださいとのことです」
なぜそのような話を州武官が運んでくるのだろうと考え、朱翔はすぐに納得した。白拓もあれで、一官吏の端くれなのだ。町中を闊歩している武官をつかまえ、伝達係を調達したのだろう。どうやら、誰に対しても人使いは荒いらしい。
「それはどうも、わざわざすみません」
朱翔は抱えていた十数冊の本を適当な卓子に置くと、武官が差し出していた書状を受け取った。それはとても簡易的なもので、一目見ただけで急いで書き認めたものだと分かる。
後で読むことにしようとしまい込んだ朱翔は、曖昧そうに微笑んで男を見上げた。
「帰宅の準備を何もしていなくて。悪いんですけど、少し待っていてもらえますか。この本をしまって、灯りを消してきます」
「お手伝いしましょう」
まったくと言っていいほど愛想のない男だった。何かを見定めているような目を向けられ、朱翔は居心地の悪い思いをしながら本を持ち上げる。
いくつもの死線を乗り越えて、今を生きているのだろう。鋭い目元が酷く冷めた印象を与えている。そこには朱翔の養父に通ずるものを感じ、優れた剣士ほどその瞳には闇を宿らせているものなのだと思い出させた。
人間という生き物は、その影を消してしまえるほど器用にはできていない。忘れたいことほど忘れられず、思い出から順番に忘却をはじめてしまうのだ。
朱翔にはもう、養父の笑った表情すら、思い出すことができない。
手際よく数冊の本を棚に押し込んだ朱翔は、急いで荷をかき集めると木炭の包みを小脇に抱え、武官が待っている入口に向かった。途中、開け放したままの窓に鍵を掛けながら到着すると、完全に陽の沈んだ世界の闇が、昼間よりも空を近くさせていることに気づく。
今日は朔の夜だったかと思いながら朱翔が空を見上げていると、その背後では了承を得ることもせず、武官が古びた扉に頑丈そうな南京錠を掛けていた。
書物は確かに知的財産だ。これまでの歴史や文化、様々な思想などを読み解くことができる、数少ない財産である。しかし、その価値を見出せる者は極端に少ない。特にそれが多いのは、政に関心を向けない民草や、腰に剣を佩いている武官たちだ。
先の内乱で大量の書物が失われ、多くの歴史が灰となってしまった。今ではもう想像の中ですら決して甦ることのない、かつての帝国がいくつも存在していたことだろう。
だが、今を生きる者たちの大半は、人間がこれまでに築いてきた歴史に興味を抱くことが少ない。目の前に引かれている道を当たり前のように思い、この先も果てなく続くものと信じているのだ。誰が疑うだろう。誰も、これ以上の不幸が続くのだとは思いたくもない。
顔も知らない君主のために税を納め、戦ともなれば命すら擲ち、見返りの望めない愛を捧げるように、平伏し続ける。国の安定は国民があってこそだという事実を時折忘れる官吏たちに楯突く手段もなく、ただ真っ直ぐに舗装された道の上を歩かされるだけだ。
それでも双朱翔は書物の重要性や、現在の国の置かれた状況を理解しているつもりだった。微々たるものであったとしても、この書庫に保管されている本の数々は、数十年、数百年先の世界で、現在の歴史を知るために読み解かれるものと思っている。
そう信じていなければ、正直やっていられないという気持ちもあるのだ。この、飽き飽きとする日々の繰り返しには、半ば嫌気がさしている。
「そういえば今日、白拓さんを訪ねてきた人がいるんですけど」
にこりともせずに礼をして去ろうとしていた武官の背中に、朱翔は思い出したように言った。伝えることは何もなかったが、やはり来たことは知らせておくべきなのだろう。
振り返った男の鋭い視線から逃れるように、町から漏れる灯りへ目を向けた朱翔は、小さく肩をすくめる。
「名前は聞いてないのですけど、長身で細身の――浅黒い肌をした男の人です。もしこの後で白拓さんにお会いするなら、伝えておいてください」
まさか、薄汚れた恰好をした、いつ湯浴みをしたかも分からないような男だったとは言えず、朱翔は当たり障りのない説明で留めておくことにした。どうしてもという用件ならば、また明日にでも出直してくるだろう。
「分かりました、必ずお伝えいたします。それでは」
終始表情なく話していた武官がその場から立ち去ると、朱翔も邸に帰るべく歩き出した。
今日もまた、昨日までと何ら代わり映えしない一日が終わろうとしている。しかし、その一日ずつの積み重ねで、この国が僅かずつでも復興への道を進んでいるのだと、そう言い聞かせれば、変哲もない日々が少しでも彩られるだろうか。
もう、奪われるものは何もない。奪い返そうとも思わない。朱翔はいつから自分のために泣くことも、誰かのために泣くことも止めてしまったのだろう。
悲しみはそれ以外の何も生み出しはしないのなら、痛む心を忘れてしまえばいい。誤魔化し続けて生きて行けばいい。
今を生きる者たちは皆、そうして太陽を見送るのだ。
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