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葵凌青。
その名だけが唯一、烟浪玉から悠玄たちに与えられた手がかりだった。しかし、その名はこれ以上ない手がかりとも言える。
葵家といえば、葵州全土を取り仕切っている旧家の家系だ。その者たち以外に葵の姓を名乗れる者はなく、探し出すことは酷く容易なことに思えた。
「しかしなぁ」
廉悠玄にとって、その葵凌青という手がかりは、少なからず頭を悩ます種でしかなかった。
王の家系である浄家。文官を輩出し、けれどその多くは葵州から出ることはないと言われる葵家。そして、より多くの武官を鍛え上げ、王の側に仕え、護る役目を与えられてきた廉家。一部の例外を除き、直系の者のみが、それぞれの家名を名乗ることが許されている。
その昔、この三家は確かに交流を持っていた。けれど、内乱が原因となり、元々軍力を以て争うことを嫌った葵家が、その交流をいち早く断ったのだ。
有能な文官を生み出す家系だったこともあり、葵州にとっては他州や王からの力を借りずとも、己の州を今までどおり保ち続けることなど容易かった。内乱の最中も、我関せずと構え、その被害は最小限で済まされている。
『これまで通り、これからも葵家の領地である葵州は他州からの介入、王からの干渉も、一切罷りならぬ』
これは、先の葵家当主の言だった。
先の当主は先王である環笙に謁見し、多勢の官吏の前で、臆することなくそう公言して見せたのだ。主上を愚弄する不届き者だと官吏たちは激昂したが、当の王は愉快そうに笑って、それを受け入れたという。
それと時を同じくして、先の王后、瓊媛が後宮に入ったのだった。
「どうなされました?」
「ああ、いや」
悠玄は隣を歩く、自分よりも幾分身長の高い志恒を見上げて、曖昧に笑んだ。
現在、朝廷を構えている宮は宵黎宮だったが、本来朝廷が置かれるべき宮廷は、清朗の丁度中央に構えている、降露宮だった。しかし、降露宮は何年も前から滅王派に占拠されている。
どこまでも不利な状況だな──悠玄はそう思い、僅かに苦笑を浮かべた。
「志恒、知っていたか。王后が葵家当主と内縁関係にあったこと」
「ええ、お話しだけは。ご存じではなかったのですか?」
「気にしたこともなかったな。それに、王后が後宮に入った頃なら、俺はまだ生まれたばかりで、太子が生まれて、民に預けられた頃のことだって覚えていない」
「ですが、悠玄様はこの宵黎宮でお育ちになったとか」
「廉家は代々主上にお仕えする身にあるからな。世継ぎが生まれた時点で、俺は一生その方に仕え、崇め奉る運命になるだろうから、父が――この宵黎宮に早く慣れるようにと考えてのことだ。お陰で浪玉様は、幼い頃の失態を引っ張り出してきては、俺をからかうわけだが」
悠玄はそう言いきると、隣を歩く志恒をちらりと盗み見た。しかし、志恒は本当に話を聞いていたのかと思うほどの無表情で、杞憂だったかと安堵の息を吐く。
内乱は様々な恨みと不幸を招いた。それは、悠玄と志恒ですら例外ではない。何も奪われずに済んだ者など存在しないのだ。奪い、奪われ、理性に勝った更なる怨嗟が、我を忘れさせる。
たった二年。忘れるには短すぎる時間だった。しかし、思い出にするには、あまりに早すぎる。
「──その間、私は一人で叔父上のところに留め置かれていたというのにね」
その声は何の前触れもなく、二人の背後から耳に飛び込んできた。凛とした声色は、悠玄にとっては聞き覚えのありすぎるものだった。
「他人の会話を盗み聞きするとは品性に欠けるな、春凛」
「聞かれて困るような話なら、どこか余所へ行ってやってきなさい」
振り返った悠玄にそう一喝したのは、廉春凛。その姓の通り、廉悠玄の血族であり、妹だ。
内乱の最中は、本人もそう言ったように、廉州の叔父の所に預けられていた春凛だったが、元々官吏を志していたこともあり、内乱後人手不足に陥っていた朝廷へとやって来たのは、一年ほど前だったろうか。正式な官吏ではないものの、今は李嵐稀の下で、国事復興へ向けての手伝いを精力的にこなしていると聞く。
本来ならば、年に一度官吏登用試験が行われるのが常だが、このところの状態では不定期に実施することすら難しくなっている。しかも、受験者を募ったところで、定員が集まるとも考えにくかった。
いったい何人の者が、自らの命をかけてまで官吏になりたいと名乗りをあげるだろう。九十年間続いた内乱の中で、どれだけの官吏が命を落としていったかは計り知れない。数百だろうか、数千だろうか。だが数字は関係がないのだ。官吏が命を落としているという事実が、民草をより不安にさせている。
「嵐稀様からお聞きしたわよ。このところ邸にも戻らないで、何をしているのかと思えば、官位を剥奪されたのですって?」
「剥奪ではない。降格しただけだ」
「同じようなものじゃないの。叔父上が聞いたら卒倒するわ」
「もう卒倒済みだろう。面白がった浪玉様が叔父上に知らせぬはずもない」
そうでなくとも、内示はいっているはずだと悠玄は考えている。仮にも、相手にしているのは廉家の長子であり、内乱時は英雄と謳われた廉璃衒の息子だ。そう蔑ろにしていい問題でもないだろう。
「それよりお前、嵐稀様から官位以外のことで何かお聞きしたか?」
「いいえ、何も聞いていないけれど」
「そうか、ならいいんだ。志恒、行くぞ」
悠玄の妹にすらその事実を伝えていないということは、全てを内々のうちに済ませよ、という意味なのだろう。
確かに、存王派が太子探しに繰り出したと分かれば、滅王派も黙ってはいないはずだ。こちらが隠密に事を運びたいのならば、あちらも同じことを考え、行動しているのだという仮定の元で、作戦を練らねばなるまい。
不満そうな表情を見せている春凛に軽く会釈をした志恒は、思案げな顔をして前を歩く悠玄の背中を追いかけてくる。
もうひとつの足音がすっかり遠退いたことを確認すると、今度は少しだけ注意深く辺りの気配を探った後で、悠玄はいつでも半歩後ろをついてくる志恒を振り仰いだ。
「滅王派が太子の存在に気づいていることはありえるか?」
「存分に。こちらが内密にお探ししていることはもちろん、密偵が忍び込んでいることを前提に考えれば、今回我々が動き出したことも合わせて、既に露見済みだという覚悟していた方がよろしいかと思います」
「そうだな。凋華清が相手では一筋縄にもいくまい」
「彼は切れ者です」
「知っている。いや、知っていたつもりでいたのか」
悠玄はそう言って自嘲的に笑むと、歩く足を速めた。
昔、この国には凋華清という男がいた。丞相として烟浪玉の前任を勤めていた男だった。能吏で、誰よりも王への忠誠心が強いと思い込んでいたのだ。そう、それは、ただの思い込みでしかなかった。
事実、凋華清は存王派を裏切るどころか、当初から味方でもなかった。はじめから密偵として朝廷に忍び込んでいた男だったのだ。
そして、気がつけばこちらの情報すべてが、滅王派に筒抜けとなっていた。誰も華清を信じて疑わなかった。しかし、唯一あの男を疑ったのが、当時御史大夫であった烟浪玉である。
それでも、なかなか尻尾を掴ませず、告発することができた頃には、調査開始から既に数年が過ぎていた。処刑を待たずしての逃亡はまるで、厳重に施錠をされ、何重にも兵士たちで見張られた牢獄から消えるようだったと聞いている。
おそらくは、何者かの手引きで脱獄が行われたのだろうと結論づけられ、王はその場で疑わしき者の首を次々と切り落としていった。
城下にて死線を切り抜けて戻った、その時の玉座の間の光景を、悠玄は忘れることはないだろう。胴と首の切り離されたいくつもの死体が転がり、戦場と同じ死臭が、辺り一帯に漂っていた。広間は血の池となり、玉座はどす黒い色に染まっていた。
そこに腰を据えた王は、今まさに血の滴る剣で体を支え、ただじっと、血の池を見つめていた。
王が泣いていると、悠玄はそう感じていた。
実際にどうだったか分からない。誰も王に近づくことができなかったからだ。悠玄の父ですら、王の放つ殺気に体を萎縮させていた。それでも、悠玄はそう感じたのだ。声もあげず、涙も流さずに、心で叫んでいると。
浪玉が丞相となり、嵐稀が御史大夫である現在の体制になると、御史府は官吏の調査を徹底した。僅かにでも疑わしい者は、次々と処刑をしていった。
王がそれを命じたのではない。そのすべては、烟浪玉の指示だった。
「主上に、これ以上の何を背負わせろというのだ」
酷く不器用で、本心すら上手く語って聞かせることのできない浪玉が言った、数少ない本心だったように思う。守り方も知らなかったのだろう。他のどのような方法にも、考えが及ばなかったのだ。だから全ての責任を、自分の背中に背負い込むことしかできなかった。
「他にどうしろというのだ。国という重荷を既に背負っている背中に、今度は人の命までもを背負わせようというのか」
それはあまりに切実で、悲痛で、苦痛に満ちた言葉のように感じられた。誰もが裏切られたいなどとは思わない。それが信じていた相手ならばなおのこと、最後まで信じていたかった男だったからこそ、まるで心が抉られるほどに、張り裂けそうな痛みを訴えるのだ。
その痛みは今も、忘れられることなく傷口をちくり、ちくりと蝕み続けている。おそらくそれはこの先も、決して癒されることはないのだろう。
裏切ろうという気持ちを、悠玄は理解することができなかった。そこにどのような信念があり、忠義があるのか。心のない人形となり、ただ相手の欠点を見定めるためだけに存在する。
「知らなかった」
ぽつりと、吐き出すように囁かれた言葉をかろうじて聞き取った志恒は、前を行く悠玄の横顔を見つめた。
「いつまでも思い出にすることのできない記憶も、あるのだな」
その独白に答える志恒の声はなかった。
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