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朱翔は左右に松明の灯る町の大通りを歩いていた。
日の暮れた後も、町はまだ賑わいを失わない。それどころか、仕事を終えた者たちが肩を組み、酒楼へと繰り出し、飯堂は込み合いを見せ始めている頃だ。
内乱から過ぎた年月はたった二年。それでも、この赤呉の町は、息を吹き返しはじめている。子供たちの笑い声が人々に幸福を運ぶのだ。二年前までは決して聞くことのできなかったものである。
その足で邸のすぐ近くにある馴染みの飯堂に向かった朱翔は、混雑している店内を見回して、思わず眉根を顰めた。いつもはもう少しだけ早い頃に訪ねてくるので、客の数もそう多くはないのだ。しかし、今はどの席も埋まり、酒の入った男たちの姿も目立つ。
「おや、今日は随分と遅いお越しじゃないか。もう来ないんじゃないかと思っていたよ」
「仕事が長引いてしまって……どのくらい待ちます?」
「さあねぇ。こうなっちまうとみんな、なかなか席を立っちゃくれないもんだから」
厨房から出てきた女主人、雪姫は朱翔の姿を見付けると、すぐに近付いてきた。唖然とした表情で店内を眺めている様子を見ると、困ったねぇと苦笑を浮かべる。
だが、思い付いたように手を打ち「ちょっと待っておくれね」と言ったかと思えば、また厨房の方へと入っていった。
「ん? よぉ、双師匠んとこの坊じゃねえか」
近くの席に、酒を飲み交していた男の三人組がいた。朱翔が振り返れば、三者三様の酔い方をした男たちが軽く手を持ち上げ、手招きをしている。
「久しく顔も見ねえからよそへ移ったんじゃねえかって話してたところだ」
「心配しなくても、あの道場を手放してよそへ行くつもりはありませんよ。また竹刀を振り回したい時は声をかけてください。いつでもお貸しします」
「ったく、道場の床は毎日しっかり研いてるんだろうな。双師匠が死ぬまで大切にしてきた道場だ、お前も大事にしろよ」
「そういや、双師匠が亡くなってどのくらいが経ったっけなあ」
「三年です。内乱が終わるちょうど一年前でしたから」
「そうか、まだそんなもんか」
それは懐かしむような声色で、そう言った男の表情は、酷く穏やかに見えた。
この三人は以前、双龍彰の道場に通っていた者たちだ。いわゆる弟子というもので、あの寡黙な男をよく慕っていた。
「よし、お前ら杯を持て! 双師匠に乾杯だ!」
三人組のひとりが大声でそう言ったかと思うと、急に立ち上がって、周りの卓にも酒瓶を片手に回り始めた。
それに慌てたのは朱翔だ。養い親とはいっても父親であることに変わりはなく、恥ずかしく思いながらそれを止めようと手を伸ばす。
「いいからやらせておあげ。そうでなくても、酔っ払いは放っておくに限るよ。後々しつこいんだから」
運んできた料理を掲げながら、雪姫は呆れたように笑った。それを注文客の卓まで持っていくと、酒にふらついている男を椅子に押し戻す。
「龍彰のためってなら、仕方がないね。今晩の酒はあたしが奢るよ、じゃんじゃん飲みな」
その気前のよさに客たちは口笛を吹き、両手を打ち鳴らしたりしながら、雪姫をはやしたてている。今もその片鱗を確実に残してはいたが、若い頃は間違いなく町でも指折りの美人だったはずだ。しかし、この男らしさでは、容易には近寄りがたかったに違いない。
「ほら、坊。お前も飲め」
確実に興奮状態へと陥っている男は、朱翔の腕を思い切りよく引っ張った。それを予期していなかった朱翔は、脇腹を卓にぶつけ、思わず息が詰まる。肩を押さえ込まれながら口に近付いてくる杯を、身体中で精一杯拒んだ。
「お酒は飲めないんですよ」
「飲めないんじゃねえ、飲まないだけだろうが。男なら根性見せてみやがれ」
「だったら根性なしのままで構いませんから」
「ほらほら、いい加減におしよ。酒は徐々にならしていくもんなんだ。今日はやめときな」
毎晩酔いどれの相手をしているだけのことはあると、朱翔は思った。
ぴしゃりと朱翔の腕をつかんでいる手の甲を叩けば、渋々というようにその手が引いていく。
「仕事あがりで疲れてるだろう? うちのガキ共と一緒で構わないってなら、奥へ行きな。料理はすぐに運ばせるからね」
その申し出をありがたく聞き入れた朱翔は、酔いどれた男たちから逃れると、店の奥に延びている戸口をくぐった。正面には厨房があり、料理人たちが世話しなく働き続けている。その中の一人が朱翔の存在に気が付くと、鍋の中身を皿へ移し変えながら、申し訳なさそうに口を開いた。
「悪いな、坊。もうしばらく待たせることになると思うが」
「今日は昼食が遅かったんで、大丈夫ですよ。相変わらずお忙しそうですね」
「嬉しい悲鳴には違いないんだがなあ」
「じゃあ、奥で待ってます」
亦呉でも下町に位置するこの界隈は、居心地がよく暖かな場所だった。他人すらまるで己の家族のように付き合い、内乱の最中も互いに支えあいながら生きてきたのだ。龍彰の本当の息子ではないと知っていてなお、坊と呼んでくれる優しさが、朱翔には嬉しかった。
「正直、もう坊は卒業したい頃だけど」
今年で丁度二十歳を迎える朱翔は、思わず苦笑を浮かべたまま、厨房の隣に並んでいる部屋の戸を引いた。途端に甘辛い香りが鼻をかすめ、朱翔の食欲を刺激する。
その部屋では既に、二人の子供たちが食事をはじめていた。
「あ、朱翔兄!」
扉を開けたのが朱翔だと分かると、飛びかかろうとしてきた少年は剣英だ。両親が内乱で命を落として以来、ここで暮らしている。
この時代はこうして、子供が取り残されることなどざらにあった。もちろん、後に死ぬべき子供たちが、栄養失調などの原因で先に逝ってしまう場合の方がずっと多かったのだが、この少年の場合は文字通り内乱で家族を失ったのだ。
屈託なく笑った表情にえくぼが印象的な剣英は、朱翔によく懐いていた。
「やあ、剣英」
「朱翔お兄ちゃん、どうぞ」
「ありがとう」
剣英の隣にちょこんと座っていた少女は浬琳といい、年頃は剣英とさほど変わらないだろう。前者は拾われ子なのに対し、後者は雪姫が産んだ実の子供だ。
「二人とも今日は随分と遅い夕食だね。いつもなら空いてる時間帯に終らせてしまうだろう?」
どうぞ、と勧められた二人の間に腰を下ろした朱翔はそう言って、持っていた荷物を後ろに置いた。食べるかと差し出された料理を朱翔が丁重に断ると、剣英は少しだけ悪戯な顔を覗かせる。
「さっきまでお説教だったんだ。ちょっと帰りが遅くなっちゃって、それで」
「浬琳も一緒に?」
そう言って隣を見下ろせば、黙々と箸を進めていた浬琳が黙ったまま頷いた。
「それは珍しいな」
朱翔が正直に言えば、どこか不満そうに下唇を隠した剣英だったが、しかし持っていた箸を卓に置くと、突然佇まいを正した。
「そんなことより、オレたち朱翔兄に話さなきゃいけないことがあるんだ、な? 浬琳」
「そりゃいったい何の話なんだろうねぇ、あたしにも是非聞かしとくれよ」
その声が聞こえた途端に、嬉々としていたはずの剣英の顔がくしゃりと歪み、雷が落ちることを恐れているような様子で肩をすぼめた。両腕で抱えるように持ってきた盆を卓の隅に置き、雪姫は料理を並べながら睨め付けるようにして剣英を見る。
「反省の色がまったく見えないね、剣英。夜はまだ危険だって言い聞かせていたはずだよ。ただでさえ最近は賊が出るっていうんだ、危ないだろう」
「……でも、何にもなかったろ」
「減らず口はこの口かい」
「い、いて、痛いって!」
卓に手をつき身を乗り出した雪姫は、まだ子供の柔らかな頬を力一杯つねりあげた。
「分かった、悪かったよ! 悪かったってば!」
「なんだい、その偉そうな言い草は。ごめんなさいはどうした? ん?」
「……ご、ごめんなさい」
剣英は恐る恐るというふうに謝りながら、卓の上の料理と雪姫の顔を見比べるように見た。どうやら、ここで謝っておかなければ、夕食が奪われるとでも考えたようだ。
ため息をついた雪姫は仕方なさそうに苦笑し「もういいからお食べ」と食事を促した。
「朱翔の坊も早くお食べな」
「はい、いただきます」
小さな子供に挟まれながら食事をはじめると、雪姫が丁度三人と向かい合うような位置に腰を据え、卓に頬杖をつきながら、じいと朱翔の顔を見つめた。
「……あ、あの、雪姫さん」
「なんだい?」
「私に何かお話ししたいことでもあります?」
「いいや、これといって何もないね」
「……そうですか」
では一体、なぜそれほどまでに凝視する必要があるのだと思いながら、朱翔は重々しく箸を進めた。その隣では、剣英が妙にそわそわとしはじめる。話したいことはあるが、やはり雪姫がいる前では出来ないような内容らしい。
「もう三年になるんだねぇ、あの人が死んでさ」
呟くような声に、朱翔は顔をあげた。相変わらず雪姫は朱翔を見つめ、懐かしむように目を細める。
「あんたはちっとも龍彰に似なかったね。剣術の腕もからっきしだろう?」
「どうしたんです、突然」
「なんだかねぇ、急に懐かしくなったんだよ。昔話ってのはしみったれて嫌いだがね」
そう言って曖昧に微笑した雪姫は、朱翔から剣英に目を向け、そういえばと切り出した。
「坊に話があるんだろう? そりゃなんだい?」
「せ、雪姫さんには関係ないよ!」
「へぇ、男同士で内緒話ってわけかい。だったら浬琳も出ていかなきゃならないね」
「浬琳はいたっていいんだ。いいから雪姫さんは早く出ていってよ!」
むっとした顔がそっぽを向くと、雪姫さんは少し大袈裟に肩をすくめてから、ゆっくりと立ち上がった。
「別にただの内緒話なら構いやしないけど、坊に迷惑かけんじゃないよ」
「迷惑なんてかけないってば!」
むきになる剣英をからかって楽しんでいる様子が、雪姫から見て取れる。
「ほら、早く出てって!」
「はいはい、分かったよ」
お邪魔したね、と雪姫が引き戸を閉めると、剣英はまるで大人がそうするように、大袈裟にため息を吐いてみせた。
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