門出 -1-
鴻国は王都、清朗。
その少し外れに位置する王宮、宵黎宮は現在、国の復興のために奮起していた。
先の内乱――名付けるならば、存滅の乱とでも呼ぼうか――を終え、二年。国は未だ見るに堪えぬ姿だ。穀物はなく民は飢えた。建物は崩壊し、その修復すらもままならない。他国からの支援も期待したほど得られず、ほぼ孤立した状態の鴻国は、それでも何とか誰もが飢えず、豊かに暮らしていけるような国を取り戻そうと奮起、というより――そう、躍起になっていた。
他国からの表立った支援がないことには、いくつか理由がある。
一つ。それは、表面上では終わったはずの内乱が、未だ水面下では続いているからだろう。鴻国は今や危険地帯であり、どの国も己の領地にまで被害が及ぶのではないかと危惧し、手を貸したがらない。微少な分量の穀物支援も、国境近くまで受け取りに向かわねばならないほどだ。
二つ。他国との戦争ならいざ知らず、自国内の内乱で起こった被害の復興を支援する道理がないと、そのような書簡が届けられたのは、内乱を終えたすぐ後のことだった。
三つ。この国には現在、いるはずの王がいない。先王は内乱の折りに深手を負い、勝利を収めた三日後に命を落としてしまった。王のない国など、国ではない。内乱で存王派が勝利を勝ち取ったのならば、王が玉座に腰を据えているはずだ。国を統治する者がいないのならば、滅王派に国を明け渡してしまえ。向かった隣国の王宮で、そのように言われたのは確か、一年と少し前だっただろうか。
はぁ、と気の抜けるようなため息を吐いたのは、廉悠玄だ。
丘を利用して建てられた宵黎宮。そこで与えられた自身の書房から見渡せる王都を眺め、その荒廃具合を確かめると、二度目のため息を吐く。
昔は高かったはずの建物は低くなり、まるで都全体が瓦礫に覆われているようだった。都に住む半数ほどは、飢えや冷戦状態の王都から逃れ、他の州へと移り住んでいる。それでも移る場所のない者は仕方なく王都に留まり、己の土地に閉じこもって、じっと静かに、少しでも状況が良くなれと念じながら生き続けている。
「またため息ですか、悠玄様」
突然背後からかけられた呼び声にさほど驚いた様子も見せず、悠玄は伏せていた書卓から体を起こした。
「なんだ、志恒か。何か用か?」
声を聞いただけで誰がやって来たのかを察していたが、悠玄は肩越しに振り返ると小さく肩をすくめて見せた。すると、志恒と呼ばれた男――劉志恒は呆れたように薄く苦笑いを浮かべ、許可も無しに室の中へと入ってくる。
「ご用か、と申されましても。上官であるはずのあなたがそのご用をくださらないので、ご用も何もあったものではありません」
「仕事ならその辺りで見繕え。やることなら、ごろごろと転がっている」
「丞相が小言を漏らしておられましたよ」
「知ったことか」
「悠玄様ならば、そう仰るだろうと申し上げておきました」
「……ったく。気が利くのやら、利かないのやら」
その時になって悠玄はしっかりと後ろを振り返り、志恒と顔を見合わせた。不愉快極まりない表情を見せている悠玄とは対照的に、志恒はどこか薄ら笑いを浮かべているようにも見える。
馬鹿にされているのか、それとも笑えるほどに怒っているのか。
悠玄はそこで、三度目となるため息を吐いた。そして、つい一週間ほど前の朝議の後で呼び足されたときの状況を、ひとり思い出していた。
*** ***
宵黎宮の主屋から少し外れた場所にある四阿に呼び出された悠玄は、目の前で澄ました表情を浮かべて座っている二人の人物を見て、少しだけ呆れた。よからぬ話に違いないと、咄嗟にそう感じ取る。
「人払いをしてまで私にお話ししたいこととは何です。それに剣も携帯せず、不用心にもほどがある」
「今にも影の方から誰かが矢をくれるかのような言いぐさだな」
そう言ってから、喉の奥で音を立てて笑ったのは、現在のところ国の最高責任者である丞相、烟浪玉だった。
「その可能性はいつも捨て切れません。もしもの時、そのお命をお守りできる確証はありませんから、そのおつもりで」
「使えぬものを持っていても仕方がなかろう。それに、お前ひとりならば幾分心許ないが、優秀な次官がそちらにおられるのでな」
そちら、と言って見やったのは悠玄の背後だった。
悠玄がついて来なくていいと言ったのにも関わらず、その半歩後ろにはいつものように志恒が控えていた。無表情のまま、浪玉と嵐稀に向かって軽く目礼をする。それに浪玉は僅かに頷いて見せ、嵐稀はにこりと微笑みを見せた。
「おふたりともお掛けなさい。お茶を淹れましょう」
「嵐稀様、それなら私が──」
「話しがあると呼び立てたのは私たちの方です。さあ、お掛けなさい。志恒殿も」
嵐稀がお茶を淹れている間、陶器がぶつかり合う音以外には、小鳥のさえずりすら聞こえてはこなかった。志恒は姿勢を正して瞼を降ろし、まるで聞こえもしない何かに耳を澄ませているかのようだ。悠玄が卓子に肘をつきだらしなくしているのを、浪玉が目を細めて見ている。
ここに集まっている四人の内、三人はこの国を支える三公たちだった。
この国には、王の下に三公九卿と呼ばれる者らがおり、基本的にはその者たちが中心となって、国の政を支えている。
丞相、烟浪玉は王の政務を補佐し、行政を司る官にある。最高位の官であり、朝廷の全責任を担う者だ。細身の体から見て分かるように、武術の嗜みはほとんどないのだろう。だが、もし自身が命の危機に陥ったとしても、浪玉ならば動じもせず、最後の最後まで堂々たる様を保ち続けるに違いないと、悠玄は思っている。
御史大夫、李嵐稀。御史大夫は、国の監察や政策立案を司る官だ。御史台の長官で、官吏の弾劾を取り扱う。監察業務はその部下である御史たちが執り行うが、それを取り仕切るのが御史大夫だ。穏和で、他の官吏たちをよく気にかけている信頼の厚い者ではあるが、上辺だけでは何を考えているのかよく分からない、腹の内が読めない人物だった。幼い頃から知っているせいか、悠玄を自分の弟のように思っている節がある。
そして太尉、廉悠玄。太尉は軍を司る最高官であり、それを指揮する任にある。先の内乱で戦死した太尉は悠玄の父親で、同じ軍の次官として補佐をしていた悠玄が持ち上がりでその任を引き継いでいた。
二十一という若さで太尉は荷が重すぎるという意見が大多数だったが、半ば丞相と御史大夫の独断で、今の立場に持ち込まれたと言っても過言ではない。いい迷惑だとは思いつつも仕事は的確にこなす悠玄に、皆一目置き始めているという事実を知らないのは、本人ばかりのようだ。
ずずず、と茶を啜る音が耳につき、悠玄は不快そうに眉根を寄せた。音の方向を見やると、浪玉が陽光を反射させている池の水面を眺めている。
「それで、そのお話しとやらはいつお聞かせ下さるのでしょうかね」
痺れを切らして悠玄がそう口を開くと、浪玉はちらりと悠玄を見たあとで、また池へと目を向けてしまった。
「まずはそのだらしのない佇まいを正せ」
「何を今更」
「太尉」
「はいはい」
幼い頃、内乱で母親を亡くした悠玄は父親に育てられてきた。廉家の屋敷にいることよりも、この宮にいることの方が多かったため、母親代わりはいなかったが、父親代わりや兄のように思い、慕う者は多くいる。浪玉もその一人だったが、その口喧しさには少々呆れていた。
「太尉がそんな様子では、武官たちが哀れだな」
「放っておいてください。それに、そんな私を太尉に任命したのはどこの誰ですか」
「私は璃衒様の遺言を果たしたまでだ。誰が疑わずとも、私はお前が太尉である事実を一番に疑っている」
璃衒。
それが、廉悠玄の父親の名だ。悠玄にとっては偉大な父であり、尊敬すべき師でもある。
しかし、悠玄には父の死で悲しみに打ちひしがれている時間などありはしなかった。内乱の最中、太尉としてその任を果たすことを命じられたのだ。内乱を終えればその任は解かれると信じていた悠玄だったが、残念ながらその地位は未だ維持され続けている。
「だったら、私を太尉の任から解けばいいじゃありませんか」
「そうだな、それはいい考えだ」
この人ならばきっと肯定するに違いないという悠玄の予想は、見事に的中した。
まさか、本当にそんなことを言い出すほど唯我独尊ではないと思っていたが、どうやらそれは見当違いだったようだ。唖然としている悠玄の隣で、小さく嵐稀が息を吐いた。
「浪玉、そんな言い方をするものではありませんよ」
「あいにく遠回しな言葉遣いが苦手でね」
「まったく、仕方がありませんね」
浪玉相手では、なかなか話が前に進まないことを、悠玄は知っている。
悠玄は先を促すように嵐稀を見た。王のいない国をまとめる立場にあるべきは、嵐稀の方が適任ではないかと思う反面、御史大夫として御史府を任せられるのは彼しかいないことは分かり切っている。
「ご存じの通り、我が国には主上がいらせられません」
何を、今更そのようなことを。
そう口にしようにも、嵐稀の表情は至極硬く、悠玄は開きかけた唇を噤んだ。代わりに、不可解そうな顔をしたまま、こくりと頷いて見せる。
「先の内乱で主上が御隠れになり、存王派が内乱に勝利したにも関わらず、実質的には滅王派が望んだ通りの国情となっています」
「ですが、先王にはお子がおられたとか。御身のため、民に預けられたと」
口を噤んでいた志恒が、ここに来て初めて発言をした。
その理由は、隣に腰を据えている上官にある。一体何のために、そんな昔話を引っ張り出してくるのだ──そう言いたげな表情を見せ、仕方なさそうに嵐稀の話を聞いていたからだ。
嵐稀は口を挟んできた志恒に向かって微笑み、頷いた。
「ええ、おっしゃる通り、先王には男子のお子がおられます。御身のため民に預けられたことも事実ですが、実際のところ、その所在は明らかではありません。養い親の死は確認されていますが、その子供の記録がどこにも残っていないのです。今もご無事で生きておられるのなら問題はありません。探し出せばいいだけの話ですから。しかし──」
「もし死んでいるのだとしたら、この国の行く末は目に見えている」
「こちらがあちらに飲み込まれ、鴻国は本当の意味で国王の存在しない国になる、ということでしょう?」
「随分気安く言ってくれるな、悠玄」
「死んでいるのなら仕方がない、そう思うだけです。今頃大騒ぎしたところで、その太子が生き返るわけではないんですからね」
実際、悠玄は先王の息子が無事に、この鴻国で生きているとは思っていなかった。
その息子が、どこに預けられたのかは知らないが、養い親が既に死んでいるのなら、その養い子が無事とは到底考えられない。
内乱での死なら、存王派の手で己の王を手にかけていたのかもしれないと思うと、皮肉を通り越して笑いすら込み上げてくる。
悠玄が自嘲的な笑みを浮かべていると、それを見た浪玉が小さく鼻で笑った。
「お前がどう考えていようと、私たちには知ったことではない。とにかく、太子の生死の確認が最優先だ。生きていれば、その者が正当な王位継承者なのだからな」
「生死の確認などと簡単に言われますが、内乱が終わってこの二年間、内々に探し続けていたというのに、私たちはその影すら捉えられていないではありませんか」
「探し方の問題だ、と言ってしまえばそれまでだが……仕方なかろう、太子の情報がこの上なく少ないのだ。似顔絵を描かせ、国中にばらまくことすらできん」
内々に王を探していたのは、悠玄の配下だ。一部の軍を以て、王都や他の州にも出向かせていた。だが、そのような言い草はないだろうと、悠玄は沸騰しかけた感情を抑え込みながら、できる限り抑揚のない声と表情で浪玉を睨み付ける。
「あいつらはできる限りの努力をしています。私の配下を愚弄するのはやめていただきたい」
「愚弄とは人聞きの悪い」
「私の指揮に文句がおありなら、どうぞご自分の臣をお使いになればいい。私のことをどう言おうと構わないが、私たちの代わりに城下へと下り、捜索に尽くしている者のことをあなたがとやかく言う道理はないのです」
「記憶違いでなければ、丞相のこの私には、王に仕える全ての臣に向かってとやかく言う権利があったと思うが。それはお前も同じだ、悠玄」
「俺はあなたの臣ではない」
「同じようなものだろう?」
そう言った浪玉は、どこか勝ち誇った笑みを浮かべているように見えた。優美な動作で音もなく立ち上がり、背を向けて立ち去ろうとする。
その背中を、悠玄が変わらず睨み付けていると、浪玉は「ああ、そうだ」とわざとらしく思い出したように呟いて、前を向いたまま振り返りもせずに、こう告げた。
「廉悠玄、今を以てお前を太尉の任から解く。それから劉志恒、お前も次官の任から除する。異動先については、そうだな、郎中令から適当に任命書を発行させておこう」
「はい」
口をあんぐりと開け、突然のことに言葉を失っている悠玄とは対照的に、志恒は動じる風もなく浪玉の背中を見送った。
「いつものことですが、あの人の傍若無人ぶりはどうしようもありませんね」
やれやれと曖昧に笑む嵐稀は、その顔のまま悠玄に目を向けた。
悠玄は怒りを通り越して呆れ果て、また卓子に肘を立てると、項垂れて見せる。
「浪玉の言葉の意味が分からないほど、あなたも馬鹿ではありませんね、悠玄」
「……あなたまで私を馬鹿者扱いしないでください」
「その言葉を聞いて安心しました」
現在は守るべき主上がいない。それ故に、王の護衛官を統率する郎中令付きになったということは、暇を出されたのと同義だ。しかも、それぞれ太尉と太尉長史の位を持っていたのにも関わらず、格下げもいいところである。
「あの人は、少しあなたをからかっただけでしょう」
「からかわれていると分かっているから、余計に腹が立つのです」
「三つ子の魂百までと言いますから。今更浪玉が誠実な人となりになろうものなら、天と地がひっくり返ってしまいますよ」
いっそのことひっくり返ってしまえばいい。
悠玄は忌々しそうに歯を食いしばり、茶の入った陶器を持ち上げると、それを杯のようにぐいっと煽った。
「しかし」
そう続けた嵐稀の表情が真剣そうに引き締まったのを見て、悠玄は思わず姿勢を正した。
「殿下のことは早急にお探ししなければ。もし御身がご無事なら、あちらに気づかれる前に、ここへお連れしなければなりません。もしお亡くなりになっているのだとしたら、残る一手にかけなければ」
「残る一手、ですか?」
太子は既に死んでいる。それは最悪な結末だ。だが、その確立は限りなく高い。
「后妃を覚えておいでですか」
「記憶は曖昧ですが、ご病気でお亡くなりになって……」
「ええ、そうです」
王后は元々身体が弱かったと、悠玄はそう話に聞いたことがある。
亡くなったのは、世継ぎを産んでから数年後のことだ。その時、悠玄はまだ五歳にも満たなかった。記憶は曖昧で当たり前だろう。
「後宮へ召し上げられる以前、后妃はとある貴族の奥方として迎えられていました。そして、后妃にはお世継ぎ以外にももう一人、お子がおられたそうです」
「それはつまり――いや、でも、それでは鴻国の正当な王には──」
「ですから、最後の一手と申し上げたでしょう? 太子をお探し申し上げるより、先にこちらを当たってみた方が早いはずです」
不安げに言う悠玄に、嵐稀は新たな茶を差し出した。それを受け取り、手の中で揺れる水面を見つめる。すると、思ってもみなかった不安そうな自分の顔が見え、悠玄はそこから視線を引き剥がした。
「協力していただけると思いますか?」
「おそらく――こちらの出方次第、でしょうね」
そう言って笑った嵐稀の笑顔もどこか懐疑的で、そうすることが正しいのか正しくないのか、まだ疑わしく思っているようだった。
このままではいけない。誰もがそう思っているはずだ。
しかし、どうすることも出来ないのは、現在の情勢を認めたくないからではないかと、悠玄はそう感じていた。
*** ***
「そもそも俺はもうお前の上官じゃないって、何度言えば分かるんだ」
ふと我に返り、悠玄は傍らに立つ志恒を見上げた。
ぼんやりと何かを考え込んでいたかと思えば、そのようなことを口走った悠玄を、志恒は少しだけ困惑気味に見下ろす。
「太子の所在が分かるまでの間だけですから」
「その件だって、いつ解決するかも分からないだろう」
「それは悠玄様のやる気次第です。よもや、この一週間何もしていなかったわけではないのでしょう?」
確かに、この一週間はそれなりに、やれることはやって来たつもりだった。
宵黎宮に収められていた太子についての記録は調べ尽くし、当時乳母をやっていた者の話も聞いてみた。だが、肝心の情報は何も得られず終いだ。
念のため養い親も調べさせたが、確かに先の内乱で命を落としている。養子として迎えられている子供の覧には、それと言って特別な何かが記されているわけでもなく、本当にこの人物が太子――主上なのかすら疑問に思えた。
悠玄はちらりと城下を見下ろした。
荒廃の進む王都、清朗。しかし、悠玄はこの町が好きだった。あの丞相、烟浪玉の思惑通りに進むのは癪だが、今は文句を言っていても仕方がない。
「志恒」
「はい」
「少し出てくる」
重い腰を上げ、悠玄は立ち上がった。
きっと、この清朗も昔は美しい町だったに違いないのだ。九十年続いた内乱が全てを腐敗させる以前は、木の葉は青々とし、花が咲き誇り、町は活気に溢れ、怯え、飢えることもなく、誰もが自由に暮らしていただろう。
誰のためでもない。自分自身のために。かつて美しかったであろうこの国を見たい、ただそれだけのために、歩き出してみるのもいいかもしれない。
「ご一緒いたします」
小さく笑みすら浮かべて城下を見下ろす悠玄の横顔を見て、志恒は深く頭を垂れた。
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