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廉州が州で管理している書庫は現在、相当な人手不足に悩んでいた。
先の内乱や、未だ続いている存王派と滅王派の冷戦状態が原因で、少しでも王都のある浄州から遠退こうと考える者が多いからだ。
廉州は、浄州の東側に位置している。しかも、ここ亦呉は、浄州と廉州の州境近くにあり、絶対に身の危険がないとは言い切れない場所だ。今では、存王派も滅王派も武力を以て互いを抑止しようとはしていないものの、この先も何が起こるかは分からない。
双朱翔は、両腕に抱えた書物を棚に並べながら、昼餉のことを考えていた。
今朝は寝坊をしたために、朝餉を抜いてきたのだ。この仕事で唯一の幸いは、昼餉の賄いが出されることだろう。これのお陰で飢える心配はないが、賃金に騙されてここへ連れて来られたことを、朱翔はそろそろ後悔し始めていた。
仕事は書庫の整理整頓だけだと聞いていたのにも関わらず、渡された地図を頼りに来てみれば、やれ貸し出しの記帳やら、やれ返却が遅れている者への督促状をしたためろなどと命じられ、挙げ句の果てには、書庫の書物を年代ごとに差し替えろと無理難題を言い付けられる。
これが、養い親を通して世話になっている相手の紹介でなければ、三日も保たずにやめていたはずだ。朱翔には、そう断言することができた。
「やあ、双朱翔。掃除は済んだかな」
そう言って棚の間からひょっこりと顔を覗かせたのは、自称書庫の管理者である抄白拓という男だった。
何故自称なのかといえば、答えは一つ。朱翔はここへ来て以来早数ヶ月、この男が真面目に仕事をこなしている場面に出くわしたことがなかった。
「見ての通りです」
朱翔が視線を書物に向けたまま抑揚のない声で答えると、白拓は朱翔の足下に積み上げられた書物を見つけて、不思議そうに首を傾げた。
「君、何をやっているんだい?」
「書物を全て年代別に差し替えています」
「ひとりで?」
「あなたがやれと言ったんでしょう」
「いや、ひとりでやれとは言っていないのだけどな」
どこか呆れたように自分を見てくる白拓を見返し、朱翔は深いため息を吐く。そして、手に持っていた最後の一冊を棚に押し入れると、両腕を胸の前に組んで白拓と正面から向き合った。
締まりのない、へらりとした笑みが癪に障る。燃えるような赤毛をゆったりと背中でひとつに結わえ、着物を着崩している様を見ていると、それはまるで親の脛をかじり、仕事もせず妓楼で遊び回っている貴族の息子のようだ。
考えれば考えるほど唇の端が引きつってくると、朱翔は肩を落とした。
「どうした、眉間に皺なんか寄せて――ああ、そうか、腹を減らしているのだな、そうだろう? 午後からなら私も手伝える。今は昼餉にしようじゃないか」
この人は朱翔に昼餉を食べさせようとしているのではない。自分が食べたいから、こうやって朱翔を誘い出そうとしているのだ。午後からなら自分も手伝える、等という見え透いた嘘をついてまで。
──内乱後でも、こんなどうしようもない大人がのうのうと生きているのか、この国は。
朱翔は自分の腕を引いてにこやかに前を歩く白拓の赤毛を見やり、頭を左右に振った。この人の性格には呆れもしない。それでも憎めないのは、この後ろ姿が、何処か養い親に似ているからだろうか。
書庫は毎日静かなものだった。このご時世、書庫を訪れる者などなかなかいない。しかも、この国には現在王がいないため、王都は政どころではない、という話をよく耳にした。王都は荒れ放題で、未だ内乱の名残が色濃く残り、瓦礫が転がっているそうだ。食べ物もなく、道端で倒れたまま飢え死んでいく者もあり、内乱を終えて二年が経った今も、内乱時と何も変わってはいないという。
「ん?」
物思いに耽りながら白拓の後ろを歩いていると、中庭の方にちらりと影を捕らえたような気がして、朱翔はぴたりと足を止めた。庭といっても、申しわけ程度に木々が何本か植えられているだけで、身を隠せる場所は極端に少ない。
「気のせいか」
そもそも、国で管理している府庫とは違い、ここには金品の類が一切ないのだから、物を盗まれる心配もないだろう。印の押されている本を売り払ったところで一銭にもならないのだし、書物は煮ても焼いても食べられないものだ。それに、見えたと思った影は、空腹から来る幻覚が見せたのだと思えば、そう思えないこともない。
朱翔がぼんやりと中庭を見つめているのを、既に戸口まで足を進めていた白拓が、壁に寄りかかりながら眺めていたようだった。朱翔が横に並ぶと背を壁から離し、興味深そうににやりと笑う。
「昼間から妖でも見たような顔だね」
「そんなものは見ていません。その歳にもなって、よくそんな子供染みたことが言えますね」
「男という生き物はいつまでも子供心を忘れてはいけないものだよ」
「余計に質が悪いです」
「君はもう少し子供らしくあった方がいい。このご時世、早く大人になりたいと急く気持ちは分からなくもないが、焦るとろくな事が起こらないからね」
「あなたにだけは言われたくありませんよ」
框窓を出たところで朱翔が言うと、白拓は「それは手厳しい」と声を上げて笑った。
実は以前、まだ養い親が生きていた頃に、この抄白拓という男と朱翔は何度か顔を合わせていた。その頃の、腰に剣を携え、切れ長の瞳で辺りを常に警戒している様は、朱翔にでさえ只者ではないのだろうという印象を与えていたというのに、今ではただの放蕩者に成り下がっている。
おそらく、これが抄白拓本来の姿なのだろうと、朱翔は人知れず落胆をしていた。しかし、当の本人はそんな朱翔の心情など知る由もなく、今日もまたへらりとした締まりのない笑みを浮かべて、亦呉の町を闊歩している。
この亦呉は、壊滅状態の王都に比べると、幾分かましだろう。朝廷で正しい政が行えない分、廉州は王が立つまでのあいだ、王都への負担を軽減させるために、州牧が独自に政を行っているのだ。その為、二年前に比べると町には活気が戻り、建物の修繕も進んでいる。
「そういえば、君はどこの出身だったかな」
黙って街並みを眺めながら歩いていた朱翔に、白拓が唐突にそう問いかけた。
「浄州の清朗です。多分、ですけど」
「多分?」
「自分では何も覚えていませんが、養い親からはそう聞いていたので」
「内乱の最中に王都で生まれるとは、君は随分図太い御霊をお持ちのようだね」
「いくら自分の事でも、そこまで責任は持てませんよ。生まれて来る場所なんて選べないんですから」
この人はどうやら、突拍子もないことを言って他人を困惑させることが好きなようだと、朱翔は最近になって学習していた。いちいち驚いていたら身が持たない。
「私は葵州の生まれでね。他の州に比べると内乱の被害が少なくて、きっとそれだけが幸いだった」
鴻国には、全部で六つの州が存在している。王の都、清朗のある浄州。その西側に位置するのが、この廉州だ。東に弥州、北には斉州があり、南は栄州が浄州の周りを固めている。そして、白拓が生まれたという葵州は唯一、浄州から離れ、孤立した場所にあった。
「葵州は昔から閉鎖的な州だから、政も普通とは違うって聞きますけど」
「政は他と大差ないね。ただ、官吏が世襲制ってだけで、他からの介入をあまり良しとしていない」
基本的に、この国の官吏は世襲制ではない。王のみ例外ではあるが、官吏たちは常に実力で入れ替わっていく。その制度がないのは葵州だけで、その州一つがまるで一つの小さな国であるかのような、今ではそんな扱いを受けていた。
「それじゃ、州府長官だけ中央からの派遣なんですか」
「州牧、いや、葵州の場合は刺史と呼ぶべきかな。あそこは軍を持たない州だから。その任は葵家の者が果たしている。廉州にも廉家があるだろう? 廉家は政に介入したがらないようだが、地位的には同じようなものだね。以前の刺史は主上に謁見してその立場を認められていたけれど、現在の刺史は主上に謁見すらしていない。まあ、その肝心な主上がいらせられないのだから、仕方のない話ではあるけど」
その昔、まだ一つの大きな国という概念がなかった頃の話だ。
この広大な領地を、六つの家系が統治していた。それぞれ浄家、斉家、弥家、栄家、廉家、葵家と呼ばれ、それらがいずれ統合し、この鴻国として一括りにされるようになる。
六つに分けられたそれらを州と呼び、浄州に王都を置くとして、その時代から王族は浄家の者と決まっていた。しかし、その由緒ある血筋も今ではほぼ絶え果て、浄家、廉家、葵家を残すだけとなっている。
「あれ、でもそういえば──」
昼餉はいつも、書庫から歩いて少しの場所にある、宿館の飯堂で取っていた。どうやらそれは、朱翔が仕事の手伝いを始める以前からの習慣のようで、宿館の主人と白拓は非常に親しげだ。
二人はいつも使用している席に許可もなく腰を下ろした。いつもなら馴染みの客が白拓に声をかけてくるのだが、今日はいつもより時間帯が遅いせいか、飯堂内は閑散としていた。
「何だい?」
「廉州の州牧の姓は葵でしたよね? 確か、葵狼碧とか」
「ああ、そうだね。あれは葵家の次男だよ」
仮にも州の書庫を預かっている官吏が、州牧をあれなどとぞんざいに呼んでも構わないのだろうか。まるで、気の置けない友人のことを言われたかのような物言いに、朱翔は眉根を寄せた。
「お知り合いなんですか、州牧と」
「そう思うかい?」
「同じ葵州出身のようですし、あれ、などと呼ばれていますから」
「まあ、知り合いと言えば知り合いだね」
毎朝顔を合わせているから、と白拓は曖昧に笑んでみせる。
「いつも朝議で顔を合わせていたって知り合いとは言えませんよ」
実際にそれだけならば、州牧をあれ呼ばわりできる関係性にはないだろう。
朱翔が運ばれてきた料理を口にしながら疑うように見ると、白拓は参ったとでも言うように、後頭部に手を持っていった。それから、いつものへらりとした笑みを見せ、肩をすくめる。
朱翔は、その様子を見て何を言っても無駄だと悟り、大きくため息を吐いた。
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