我が王よ

一色一葉

序章

 まるで大地を叩きつけるような雨だった。

 この世界の汚れを洗い流すような、しとしととした優しい雨ではない。このままでは、大地が海に沈んでしまいそうだと、廉悠玄は表情を歪め、忌々しげに外の様子を眺めていた。

 明かりのない暗闇の中で、時折鳴神が荒廃しきった世界を照らし出した。

 王都、清朗の町は現在内乱の最中にあった。いや、その内乱はつい二日前、終止符が打たれたのだと思いながら、悠玄は拳を固く握りしめる。

 この内乱で多くの命が奪われた。もちろん、命の犠牲がない争いなどは存在し得ない。だがしかし、この九十年間続いた戦いは、これで本当に終わったと、そう言い切ることができるのだろうか。


「悠玄」


 穏やかな呼び声に、悠玄は外に向けていた目を室に戻した。


「どうしたのです?」

「嵐稀様」


 李嵐稀。

 嵐稀はこの国を支え、王に仕える三公のひとりだ。位でいうと御史大夫で、常に王の傍にあり、その手となり足となる存在だった。嵐稀は悠玄の父、今は亡き太尉の古い友人でもあり、その人物が身罷ってからというもの、悠玄をよく気づかってくれていた。


「主上の、ご容態は」


 悠玄は嵐稀の問いには答えず、そう問い返した。

 この内乱に終止符を打ったのは国の最高権力者である、この鴻国の王――内乱を終えたのだから、そう正式に名乗ってもいいだろう、現国王その人だった。

 存王派と滅王派で対立を起こしたこの内乱を終わらせるには、どちらか一方の統率者が倒れるしか道は残されていないのだと、そう国王は言った。

 だが、果たしてそれで士気は削がれるのだろうか。内乱が終わったと聞かされても、悠玄の心は一向に平穏を取り戻してはいない。


「主上は室で休まれております。今は眠っておいでですよ」

「先ほど、丞相が主上のお加減はよろしくないと。その、嵐稀様、主上は――」

「あなたがいくら気を揉んでも、主上のお加減がよくなるわけではありません。まったく、彼ももう少し気の利く人間になれれば良いのですが」


 嵐稀の言う彼とは、丞相のことだろう。その表情はいつも通り朗らかだというのに、嵐稀の目元には闇のような影がちらついて見えた。

 悠玄はその顔を見ていられず、自身の握った拳を見下ろす。力加減を失ったそれは小刻みに震え、爪が肉に食い込んで、鋭い痛みを感じさせていた。


「あなたはもうおやすみなさい、悠玄」

「こんな時に眠ってなどいられません」


 なんて自分は不甲斐ないのだろう。

 王を守る立場にありながら、その王も守れず、ただ見ていることしかできない。父の時だってそうだった。そう、いつだって過去ばかりを悔やんでいる。

 誰かにとって大切な誰かが、順番に命を落としていくのだ。そして悠玄も、誰かにとって大切な誰かを、この手で斬りつけてきた。戦を終えた夜を迎えるたびに、悠玄はいつも、死者の血に濡れた顔を思い出していた。まるで、自分の身が削がれるような痛みを、感じていた。

 いや、感じたかったのだ。感じたふりをして、ただ感傷に浸りたかった。そうすることで、救いの道を求められると信じるかのように。


「嵐稀様こそ、お疲れでしょう。何かあればすぐにお知らせいたします。どうぞ、おやすみください」

「私は最期まで主上のお側を離れるつもりはありません」


 最期まで。

 その言葉はどこまでも深く響き、悠玄の心の一部をえぐり取った。途方もない喪失感が襲いかかる。膝が、震えた。

 あの方を失えば、この国はどうなってしまうのだろう。内乱に勝利したところで、国の長を失えば意味がないというのに。どうして死んでしまうのだ。大切な人から、順番に。

 悔しげに歪む表情を見て、ふと表情をなごませた嵐稀は、悠玄の肩をしっかりと掴んだ。


「悠玄の思いは、間違いなく主上のお心まで届いているはずです。主上は、あなたをまるでご自分のお子のように思っておられた。もちろん、それは私も同じです。あなたがこの国を思っていることも、民を思っていることも、私たちは知っています」

「思いだけでは……思いだけでは、どうにもならないのです」

「ですが、思わなければ何も始まりはしません」

「嵐稀様、私は──」


 ぐっと、悠玄の肩を掴む手に力が込められた。それ以上は何も言うな。

 そう、言葉では決して届かない悲痛な声が聞こえてきたような気が、悠玄にはしていた。


「さあ、おやすみなさい、悠玄。主上が目を覚まされたら、すぐに使いの者を送ります」


 その後、悠玄に入った嵐稀からの連絡は、悠玄が望んでいたそれとは違っていた。

 存王派と滅王派の内乱が終わりを告げてから迎えた三日目の朝は、まるで血に染まったような朱色で迎えられた。

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