ハードボイルドレイニー
かみのやま
第1話
(こいつは参ったな)
馴染みの店を出て、これからネグラに帰ろうとしていた男を迎えたのは、冬には珍しい急に振り出した冷たい雨だった。
戻って雨宿りを頼もうかと思ったが、いまさら店に戻ったところで迷惑がられるのは間違いない。
それに馴染みとはいえ、守銭奴な店主のことだ。もう一品、余分に請求されてしまうだろう。男としては一向にかまわないがこれ以上飲むと、家のご婦人方のご機嫌を損ねてしまう。
「まったく。天気とご婦人には叶わないな」
男はひとまず軒下でタバコを咥えた。
マッチで火をつけ、左手で口元を覆いながら、紫煙をくゆらせた。
風が冷たい。
トレンチコ―トの襟を立て、少しでも寒さを防ごうとする。せっかく暖まった体から熱が逃げていく。ネグラには走って帰れない距離ではないが、この雨だとすぐにびしょ濡れになる。雨は一向に止む気配がない。
男は二本目のタバコに火をつけた。
煙と雨が男の記憶を呼び起こす。
(そういえば、あの日もこんな夜だった……)
それは男が駆け出しの頃。一人の女との甘く苦い記憶。
男にとっては苦いがゆえに忘れたい思い出。しかし苦いがゆえに忘れようとしても忘れられない思い出だった。
こんな雨の日だった。
敵対する組織に追われ、傷ついた男を救った女性がいた。
すぐに出て行こうとする男を、完治するまではと、彼女が引きとめて、看病をしてくれた。
厄介事に巻き込みたくないと考えていた男だったが、彼女と過ごす時間は心地よく、つい長居をしてしまっていた。
いつしか互いを意識するようになり、思いを寄せ合うようなるまでそうは時間はかからなかった。
だが運命は残酷で……。
パシャ。
足音が男の物思いを中断させる。
下を向いていた男の視界には、あの時と同じ可愛らしいスニ―カ―。
あの時と同じ状況。
(まさか……)
ありえないと思いつつ、しかしわずかな希望を込めて顔を上げる。
すると、そこには。
「馬鹿じゃないの!」
傘を持った妹が立っていた。
「また妄想でごっこ遊びしてたの!」
「なじみの店を出たんだが、急な雨でな」
「松屋をなじみの店って言う!?」
男の後ろには、オレンジ色に光る牛丼チェ―ンがあった。
「もう! 兄貴の中二病に付き合う身になってよ」
水溜りになりかけている道路をなんども踏み付け、雨を飛び散らせながら、妹は怒り心頭な様子だった。
「電子タバコにマッチはいらないわよ! しかも何? このマッチ。スナックまどかって? 行ったことないじゃない!」
「お前、なんでも気に入らないんだな」
「うるせ―! 怒りをぶつけたいの!」
「まぁ、聞けよ。俺は敵対する組織のやつに追われて、怪我をしていた所、ある女性に助けられてな」
「その設定、本当の話は兄貴がイジメられている時、助けてくれた女の子がいたんでしょ? でも転校しちゃったっていう」
「まぁ、プロットではそうかもな」
「プロットって何よ! 事実よ! 事実! 現実なの!」
松屋の前で、地団駄を踏みながら怒鳴り散らす女。なじみの店の店員が店の中から、迷惑そうに見ている。
その視線に気づいた妹は、地面に怒りをぶつけるのを止め、顔を赤らめながらも持っていた傘を男に差し出した。
「……もういい。わかったから、もう帰ろうよ。……はい。傘。」
「ありがとうウサギ」
「何? 馬鹿にしてる?」
妹は一度渡した傘を引っ込めようとする。
「……感謝してます」
尋常ではない強い力で、傘を奪われそうになったので、男は素直に謝る。
傘を渡すと妹はもうなにも言わず、前を見てズンズン進んでいく。
その後ろ姿に、口元をニヒルに吊り上げながら、男が言葉を雨に溶け込ませる。
「お嬢さん。俺の愛車で帰らないかい?」
「自転車じゃ、濡れるわよ! 」
終わり
ハードボイルドレイニー かみのやま @kaminoyama
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