SUN
カーテンを開けると、清々しいほどの青空だった。天高く昇った太陽が明るく輝き、鳥たちが嬉しそうに歌っている。
昨晩の酷い嵐が嘘のようだ。このまま、空が崩れ落ちてしまうと思うほど、風が唸っていたのに。
空腹感があったが、朝食を作る気持ちにはなれなかった。
私は、濡れた両頬を拭って、無人のダブルベッドを横目に寝室を出る。
自分の書斎を通り過ぎた後にあるのは、妻の部屋だ。
久しぶりに開けたドアから、埃っぽい匂いが鼻へと入ってくる。
記憶よりも、そこは広くなっているように感じた。息子が家を出た時に、ピアノを持っていったからでもあるだろう。
そして、そこは信じられないくらいに静かだった。半日中音楽が流れたのは、すでに過ぎ去ってしまった。
室内のカーテンと窓を続けて開ける。そして窓際に、椅子を一脚と蓄音機の載った台を設置する。
蓄音機と椅子が向かい合い、窓と垂直になるような位置に調整する。椅子に座って顔を外に向けると、丁度太陽を正面に見上げるような形だ。
妻の部屋の壁際には、本棚が二つあり、そこの殆どにはレコードが収められていた。
棚の一角に、妻のレコードが並んだ箇所がある。どの曲でも良かったので、一枚を丁寧に取り出して、埃を払った蓄音機にかける。
じりじりと、溝をなぞる音がラッパ型のホーンから流れる。
低いブザーの音に続いて、椅子に前のめりに座る私の耳に、妻の歌声が入ってきた。
深々と溜息をついた私は、体全体を椅子の背もたれに任せる。
妻が高らかに歌い上げる歌劇の歌詞は、これから起こる物語への喜びで満ち溢れていた。
曇り空のような灰色の日々の中で、何度彼女の声を聞きたいと思った事だろうか。
好きな時に聞けるはずなのに、結局彼女の命日に蓄音機をセットする決意が付いた。
レコードは妻の歌を流し終えて、他の歌劇歌手の曲に変わった。
一幕の劇をレコードに収録しているので、ここからしばらくは主人公に苦難が陥る展開に入る。妻が再登場するまでは、暗い曲が連続していた。
室内が不意に暗くなる。
私自身の気持ちと部屋に流れる音楽に影響されたのかと思ったが、なんてことは無い。空を流れる雲が太陽を隠してしまっていただけだった。
昨晩の嵐の置き土産のような濃い灰色の雲は、大きさはそれほどだが、完全に太陽を覆い被さっていた。
このままだと、また雨が降り出してしまうのではないかという懸念がよぎる。昼には、帰ってくる娘と息子とともに、妻の墓参りに行く予定だというのに。
その時、小太鼓のドラムロールの音が勇ましく響いた。私ははっと息を呑み、ラッパ型ホーンに目を向ける。
そして、その直後に飛び出してきたのは、天を突くほどの高らかな妻の歌声だった。ただそれだけなのに、何度も聞いた曲なのに、私は目頭が熱くなる。
妻の声に追いやられたように、雲が流れていき、再び太陽が姿を現した。
太陽の光は世界中に広がっていく。この部屋を満たす、妻の歌声のように。
ささやかな風が、窓から入ってきて、室内の埃っぽさを攫って行く。
ぼんやりと髪が揺れるままに座っていると、曲は変化して、穏やかなワルツの調べが流れ始めた。
ふと、妻と共にワルツを踊った月夜を思い出す。深い闇の中で、月光を受けて浮かび上がる、妻の笑顔が美しかった。
目を閉じて、不慣れな私の手を取るあの時の妻を思い出していたはずなのに、その姿はただ一人で舞台の上に立つ、彼女の姿と重なっていた。
彼女は主役を張れるほどの人気歌手で、アリアを歌うことが多かった。
凛とした立ち姿から紡ぎ出される透明な歌声は、彼女の頼もしさと同時に孤独感も感じとれてしまう、不思議なものだったのだと、今はそう思う。
……妻が今、何をしているのだろうか。目の前で歌うのは、本物の彼女ではなく、一台の蓄音機だ。
私は、もう二度と彼女に会うことが出来ないのだと分かっている。だからせめて、彼女の安らかな生活を、ひたすらに祈る、それだけしか出来ないのだから。
太陽よりも、月よりも高い場所にいる妻へ。
すでにレコードも止まった。私は立ち上がり、窓とカーテンを閉めて、朝食をとるためにこの部屋を出るだろう。
それまでは心穏やかに、いや、私が最期を迎えるその瞬間まで、あなたと踊ったあの夜を思い返す。
闇を払い、世界を照らし、そして私を救ってくれた、あなたの歌声を恋しく感じながら。
あの日の歌のように 夢月七海 @yumetuki-773
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