万年筆
三津凛
第1話
偉くなりたいなら、万年筆を持つべきだ。
巨大なフラッシュを浴びながら、古い言葉を思い出した。
胸に収まった万年筆が少しだけ重くなる。偉くなるために、私を偉くするために、15歳の誕生日に万年筆を貰った。迷わず高価な万年筆を差し出してくれたあの手はもうない。それは親を失うよりも、悲しかった。
私が産まれた時から、ケイズは隣の家に住んでいた。私よりも3つ歳上で、母親同士の仲が良かったこともあって毎年お互いの誕生日を祝い合っていた。
ただの女の子と男の子の時はそうでもないのに、ケイズの背がグンと伸びて私の輪郭が滑らかになるにつれ、次第に私たちは会わなくなった。散々クラスメイトに冷やかされ、私は理不尽にもケイズを嫌っていたのだ。
常に女は男に、男は女に興味を持っていなければおかしい、とでも言いたげなあの雰囲気が心底嫌だった。女はハイヒールのみで語られるべきでもなく、男もスーツのみで語られるべきではない。
私は何を変えるべきなのか、15歳の時に考えたのだ。そして、一つの夢を立てた。無邪気に話そうものなら、それはいつも必ず否定をされた。
「そんなの、前例がないじゃないか」
「女の幸せは、働く中にはないわ…それも、男と同じように働く中になんて絶対に…」
だから私は、その夢を語ることを辞めたのだ。そして、15歳の誕生日がやって来た。私とケイズの母親は、まだ男の子と女の子が一緒にいても冷やかされないと思っている。無邪気に同じテーブルにつかせてチキンを食べ、ケーキの蝋燭を消させようとする。
ケイズは来ないだろうと、タカをくくっていた。
それなのに、彼はやって来たのだ。私はケーキのもチキンも蝋燭も、お祝いの言葉も、何もいらないと思った。これまで生きて来た中で最も不快な誕生日会だった。お互いに近寄らないことは、私たちが秘かに敷いたルールであったはずなのに、酷い裏切りのように思えたのだ。
ケイズはわざわざ誕生日に来たくせに、ケーキにもチキンにも、ほとんど口をつけなかった。
食後の紅茶だけに唇を申し訳程度につけながら、ケイズが思い出したように言った。
「……君は、将来何になりたいんだ?」
私は適当にあしらおうとした。女の子が望みそうな明るくて可愛い夢を言おうとした。
花屋でもいいし、ケーキ屋でもいい、保育士や看護師…とにかく本当のもの以外ならなんでもよかった。
それなのに、私は本当の夢をケイズに伝えていた。
「へぇ、君らしいね」
嘘ならいくらでもつけたのに、私は自分でも恥ずかしくなるほど、私を晒した。
女はハイヒールのみで語られるべきでもなく、男もスーツのみで語られるべきではない。こんな窮屈さを、根底から変えたかった。
そのためだけの夢だった。
「嘘を言おうと思ったのに…馬鹿よね」
「どうして?」
「…二言目には女のくせにってどの人も言うからよ」
ケイズはしばらく黙ってから、片目を瞑って見せた。こんな風にウインクをする時は、何かを許して欲しいことの合図だった。
「僕も嘘をついていた。本当は君の夢を知ってたんだ。…噂好きの奴らの言うことは早いだろう?」
「そうね」
私は手のつけられていないケーキを眺めた。ケイズは何かを誤魔化すように、紅茶を啜るふりをしている。
「…誕生日プレゼント、って言うのも今更変だけど君にこれだけ渡したかったんだ」
ケイズは細長い包みを出して、私に差し出した。この人の手首はこんなに細かっただろうか、と私は不思議に思った。その不思議さを追いやるように、ケイズは口を開く。
「君は万年筆を持つべきだ」
「…どうして?」
まだ未熟な私の夢を固めてやるように、励ますようにケイズは続けた。
「大統領や首相は、シャープペンシルやボールペンを署名するときに使わない、万年筆を使うんだ。だから君も万年筆を持つべきだよ」
ケイズは滑らかな黒色の万年筆を取り出して、私に渡した。こんなに重いものは持ったことがなかった。
私は私の夢の大きさを、そこで初めて本当に見たのだ。
「…これは君が持つべきだ。偉くなりたいなら、万年筆を持つべきだからね。条約の署名に、国を背負う人間に安いボールペンは使えないさ」
「ありがとう、ケイズ」
私は初めて垣根のない優しさに触れた気がした。男も女もない、あぁこういう所に本当の優しさと愛があるのだ。
ケイズは目を逸らして笑う。これから起こることを予見しているような、静かな視線を私に向けて言われる。
「…君のような人に使われた方が、万年筆も本望だよ。独りよがりな作家になりたいと君が言ったのなら、万年筆は贈らなかった。国を救う人間になりたいと言ったから、これを託すんだ」
ケイズは穏やかな声で言った。
それから二度と、ケイズと話すことはなかった。
あの後、ケイズは突然引っ越して行ったのだ。さようならも言わず、言えず、重い万年筆だけが私の中に残された。それから半年もしないうちに、ケイズが亡くなったことを知った。大学病院に入院するために引っ越したことも、あの誕生日会をした頃には随分悪くなっていたことも、彼が土に還った後で聞かされた。
私はただ万年筆に誓いを立てた。
「…もう時間になります」
秘書官が表情を動かさずに告げる。
ここは巌のように、峻厳だった。
私の肩には国が乗っている。もう軽々しく笑うこともできない。丹田に力を込めて一歩踏み出した。
それを見た秘書官が一瞬だけ、頰を緩めた。
「おめでとうございます。大統領」
万年筆を収めたまま、私は前を向く。
万年筆 三津凛 @mitsurin12
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