私の屠殺人
三津凛
第1話
優しくされるよりも、ひと思いに屠られたい。
全てを読み終わった後で、私は冒頭の一文に再び目を戻した。
「ねぇ先生…私ね、先生には生命じゃなくてメスを預けるわ」
由花子は花が咲くような笑みを浮かべて私に言う。
「…どうして、メスなの?べつに間違いでもないけど」
私はわざと明るい声を出す。
「手紙、読んでくれた?」
由花子がさりげない調子で聞いてくる。本当は私が回診に来た時からこれを聞くのを狙い澄ましていたに違いない。獣が草むらの中から虎視眈々と獲物を狙うように、由花子は自分の境遇を知らないように突進してくる。いや、徹底的に知っているからあんな手紙を渡して来たのかもしれない。
「…まだ読んでないわ」
由花子は黙って私を見つめる。
本当は読んでいた。私の中のジキルとハイドがせめぎ合っている。
「今夜、読むわ」
私はなるべく、子どもを撫でるような気持ちで由花子の頭を撫でた。由花子は私の手を乱暴に振り解く。
「…先生、私に優しくしないで」
上目遣いの瞳は、黒い恨みを持っていた。
さすが、あんな手紙を書くだけあると私は妙に納得してしまった。
優しくされるよりも、ひと思いに屠られたい。
先生、私の腫瘍を取らないで。頭蓋骨を割って、絹豆腐みたいな柔らかな脳みそが見えたらそのまま腫瘍ごと、握ったメスで私の生命まで貫いて欲しい。
先生のことが好きです。愛してます。できることなら、先生と両想いになりたい。私のことも愛して欲しい。恋人同士よりも深く。
愛をくれないなら、せめて慈悲だけでもかけて、お願い。
私には優しくしないで、手術も成功させないで…屠って欲しい。
もう暗記するほど読んだ由花子からの手紙を反芻する。
こんな「お願い」をされたのは初めてだった。ゴム手袋越しに握るメスの感触が蘇る。
由花子は点滴の規則的な滴りを眺めながら呟く。
「先生、私に未来はあるのかな」
「…そのために私も看護師も全力を尽くすわ」
何千回も同じことを、数え切れない患者に言ってきた。医者は神じゃない。
ここに絶対や完璧はなかった。
「別に尽くさなくても、いいの」
「どうして?」
由花子は皮肉ぽく嗤う。そして私の目を切り拓くように見つめる。
「…先生、本当は私の手紙読んだでしょう」
私は一瞬だけ考えて、正直に答える。目の見えない人間が、異常に鋭い聴覚を持つのと似ている。死に半身を突っ込んだ人間は、生者の纏う逡巡に異常なほど聡い。
「そうね、読んだわ」
「やっぱり…だって、そういう顔してるもの」
私は眉間に皺を寄せてみせる。
「私はね、先生の皺が好きなの」
「…嫌なこと言うのね。私、あなたのお母さんとそう歳も変わらないのよ」
「でも私は先生のことが好きなの。笑った時にできる目尻の皺とかが優しくて素敵だなぁって最初に会った時から思ってたの」
ふうん、と私はわざと空返事をする。医者と患者だとか、歳の差だとか、女同士だとか…そういった諸々の屑はあまり考えなかった。感情の前に、義務がある。指先に一人の人生と生命がかかる。
「手術は明日だけど、何か気になることはない?」
「…一つだけ」
由花子は待ち構えていたように、唇を開く。
「先生が、ちゃんと手術を失敗してくれるかどうかだけ」
「物騒なこと言うのね。他のことなら、聞いてあげてもいいけどそれだけは駄目だわ」
私は笑う。由花子は笑わなかった。
「こんなに誰かを好きになったことは初めてなの、先生」
白衣の裾を掴まれて、思いの外強い力で引き寄せられる。私は冷めた思いで見下ろした。自分も由花子も見下ろすような心地で、それは無性に冷たいものを運んで来る。
由花子は綺麗だった。何もしなくても、誰かが愛してくれるだろう存在だった。不幸がそれを妬んだのか、幸福の方が嫌気して逃げていったのかは分からない。それでも人体の中で、最も致命的な器官の一つを侵した。
「そうなの」
抑揚をつけずに、淡々と流す。由花子は白衣を掴んだまま、離そうとしなかった。私が白衣のポケットに手を入れると、由花子は指を開いて白衣の上から私の手を握った。
布一枚が医者と患者の境界だった。それを教えるために、私はポケットから手を出さず指も動かさなかった。
由花子は諦める気配がなかった。私は時計を見る。
患者から告白されることは、これまでにも何度かあった。死の恐怖と、自分のものであったはずのものが色や形を喪っていくことに直面すると、何でもいいから人は握り締めたくなる。溺死の恐怖が、藁をも人に掴ませるのと同じように。
そのまま死んでいく人もたくさん見たし、その淵から這い上がって、私を振り返らない人も見た。それが健全で、この白い病室で渡された言葉や想いは水に溶かせば消え失せるオブラートのようなものだった。
だから、指は動かさない。
「…もしも生命が助かって、この想いが消えてしまうくらいなら死んだ方がずっと幸せだって思うの」
由花子の指から段々力が抜けていく。
「…ねぇ、あの手紙に書いたこと以外なら聞いてもらえるの?」
「さっきそう言ったわ」
「じゃあ、私がキスしてとか抱いて欲しいって言えばしてくれるの?」
「そうね」
私は無表情に答えた。
「先生は鉄壁なのね」
由花子は手を布団の上に置いて笑った。
そうじゃなければ、揺れ動く人間の中にある動かない生命を救えないのよ。
「…私は先生に、生命じゃなくてメスを預けるわ。それだけ」
「ダブルミーニングみたいで、ちょっと違和感あるけど…預かるわ」
私は最後に少しだけ笑ってみせた。由花子は上目遣いに私を見て頷いた。
絹豆腐のように、柔らかな脳みそ。
見たわけでもないだろうに、どうして由花子はあんなことを書いたのだろうと不思議に思う。
自我はここにある。絹豆腐のような、致命的な器官に。
目に見えないほど微細なピアノ線を張り巡らせるような緊張感に包まれる。
ほんの数ミリずれただけで、生命は絶たれる。それを由花子は望んでいる。
「優しくされるよりも、ひと思いに屠られたい。先生、私の腫瘍を取らないで」
白い脳みそから由花子の声が立ち昇る。
「頭蓋骨を割って、絹豆腐みたいな柔らかな脳みそが見えたらそのまま腫瘍ごと、握ったメスで私の生命まで貫いて欲しい」
白衣越しに感じた由花子の指の感触を思い起こす。
私はメスを預かった。腫瘍を切り取っていく。
義務と祈りの境界を慎重にこそげる。私は義務のために奉仕した。
「先生のことが好きです。愛してます。できることなら、先生と両想いになりたい。私のことも愛して欲しい。恋人同士よりも深く。
愛をくれないなら、せめて慈悲だけでもかけて、お願い」
私は慈悲をかけられない。
私は知っているから、義務だけを見て切り取るの。
「手術も成功させないで…屠って欲しい」
私は決して屠ることはできない。
私は医者で、あなたは患者だから。腫瘍ごと私への思慕も憧れも全てを切り取って、生かすことしかできない。
「…先生は、私の屠殺人ね」
麻酔から醒めて、やっと話せるようになった由花子は開口一番そう言って泣いた。
「でも、生きててよかった。また先生に会えてよかった…怖かったの…本当は」
私も頷く。
それでも由花子は苦痛に満ちた目を向けた。
「もう誰のことも好きになれないかもしれないわ。こんな風には誰のことも愛せない気がする。死ぬつもりだったから、先生が腫瘍ごと殺してくれるって信じていたから…」
私は広がる未来を思った。
努めて暖かいものを持とうとする。
「あなたはそうやって一度死んだのだから、もう誰のことだって愛せるわ…誰よりも優しくなれるわ。私はそんな風に手術をしたから」
由花子の若い頰を撫でる。目線を合わせて、私は言った。
「だって私はあなたの屠殺人だったから…分かるのよ」
「ありがとう、先生…」
私は一つの想いを、こうして屠った。
私の屠殺人 三津凛 @mitsurin12
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