誇れる背中であるために

「……へ?」


 あまりにも予想外な、想定外な光景を前に、夜は思わず間抜けな声を漏らす。


 しかし、それも仕方のないことだろう。


 だって、目を開けたら今の今まで鬼の形相とまではいかなくとも、嫌悪感を抱くには十分な表情を浮かべ、更にはカッターを構えて突っ込んで来ていた賢二の横っ面にどこからともなく飛んできた拳がめり込んでいたのだ。


 そんなの、驚くなと言う方が無理な話である。


 賢二は苦悶の声を上げ、振り抜かれた拳の勢いそのままに夜の視界から姿を消した。正確には、頭から勢いよく倒れただけなのだが。


 夜は痛みに喘ぐ賢二には目もくれず、その逆の方向に視線を向ける。


 そこには。


「……お父さん……?」


 瑠璃の言葉通り、隆宏が立っていた。その後ろには、真璃と桐谷が見える。


 きっと、桐谷が夜たちと別れた後に、隆宏と真璃の二人をここまで連れてきてくれたのだろう。


 すると、その時。


「まったく、これは何の騒ぎだ……って、賢二!?」


 大きな物音に疑問を抱き足を運んだ賢二の父親――賢吾が姿を現した。


 室内を一瞥し、最愛の息子が倒れているのを見るや血相を変えて賢二の元へと駆け寄る。


 一見、素晴らしい親子の絆が垣間見える光景だが、微笑ましいとはまったく思えない。


「賢二、大丈夫か!? 一体、誰に殴られたんだ!」

「ぐ、ぅ……あのお、っさんに……」


 途切れ途切れになりつつも言葉を紡ぎ、ふるふると震えた指先で隆宏を指した。


 一応ではあるが、本来の予定通りに事が運び、瑠璃と賢二が結婚していれば。隆宏は義理の父親になっていただろう。だというのに、まさかのおっさん呼ばわり。


 幾ら立場上は賢吾の方が優位に立っているとはいえ、お見合いの場となればあくまで二人の関係は対等なはず。


 だから、おっさん呼ばわりとは何事か! と賢二が咎められてもおかしくはないのだが。


「隆宏君、これはどういうことだね!?」


 賢吾は怒りに顔を真っ赤にし、隆宏に詰め寄る。


 賢二が隆宏をおっさん呼ばわりしたことなど意にも介していないようだ。


「どういうことも何も、娘が危険な目に遭うところでしたので私は止めただけです」

「これのどこが止めたというのだね!?」


 顔は腫れていて、鼻血を流している賢二を見て、声を荒げる賢吾。


 隆宏が賢二を殴ったのは、彼の言う通り瑠璃を守るためであって、悪気はない……はずだ。


 しかし、現場を目撃していない賢吾からしてみれば、隆宏の言葉は信じられないだろう。賢二が隆宏に一方的に殴られたと解釈してもおかしくはないし、事実、賢吾はそう思っている。


「君、自分が何をしでかしたのかわかっているのかね!?」


 声を大に、目を剣呑に細める賢吾。


 お前が起こした勝手な行動で、大切な家族がどうなってもいいのか? と。


 土下座でもなんでもして、今すぐにでも謝罪の意を、誠意を示すのならば許してやってもいいのだぞ? と。


 言外に、そう言っているかのようだった。


 しかし、賢吾の怒りを沸々と煮え滾らせながらも、どこか他人を蔑むかのような、貶めるかのような下卑た笑みを見れば、最初から許す気なんてないことなど明白。


 他人を平気で脅し、悪事に手を染めることに躊躇がないどころか、寧ろ嬉々としていそうな賢吾のことだ。何も知らない家族の前で、愛する妻と娘の前で、隆宏が屈辱を味わいながら土下座するさまを。そして、そんな夫の、父親の姿を見て戸惑い驚愕し軽蔑する真璃と瑠璃の顔を拝んでやろうという魂胆なのだろう。


 流石は、クズといっても過言ではない、寧ろぴったりとしか思えない賢吾だ。葛野代表みたいな賢二同様、見事なクズっぷりである。


 きっと、賢二がクズなのは賢吾からの遺伝もあるのかもしれない。まぁ、全部が全部遺伝のせいではないだろうが、賢二が生粋のクズである一因なことは間違いないだろう。


 だが、賢吾は勘違いをしている。


 一つ。そもそもの話、真璃も瑠璃もすでに隆宏が賢吾に脅迫されているということを知っているから、賢吾の言葉の真意に気づいているということ。


 そして。


「何をしでかしたか、ですか。そんなことわかっていますよ、葛城さん……いや、葛城賢吾」


 言葉を区切り、隆宏は賢吾の目を見据え。


「私は、最愛の娘である瑠璃に手を出そうとする不遜な輩をぶん殴っただけだ!」


 拳を握り締めながら、思いの丈を叫んだ。


「なっ……!? き、貴様、まさか忘れたわけではあるまいな!?」

「えぇ、しっかりと覚えていますよ。そのうえで、私は今、こうしてここに立っている!」


 もう一つ。隆宏に、賢吾の言いなりになる気など、脅迫状に屈する気など、何よりも瑠璃を渡す気などないということを。




 瑠璃の部屋まで案内した桐谷が、二人を呼びに来る前のこと。隆宏は、真璃にすべてを打ち明けたのだ。


 市長である賢吾の悪事を世に公表しようとしたところ、それがバレてしまったこと。


 そのことに逆上した賢吾がでっち上げた身に覚えのない横領の証拠を突き付けられ、家族がどうなってもいいのかと、嫌なら娘を差し出せと脅されたこと。


 大切な家族を天秤に掛けられて、どうしても言いなりになるしかなかったこと。


 それを瑠璃に話して、賢二との結婚を無理強いしてしまったかもしれないこと。


 それらすべてを、隆宏は話したのだ。


 口を挟まず、相槌も打たず、ただただ隆宏の言葉を静かに聞いていた真璃はただ一言。


「隆宏さん、一つだけ聞かせてください」

「……」

「隆宏さんは、後悔していますか?」


 何を? と聞き返さなくてはわからないほど隆宏も馬鹿ではない。


 賢吾の悪事を世に公表しようとしたこと。


 脅迫状を受け入れてしまったこと。


 瑠璃に最低なことをしてしまったこと。


 そのすべてを、後悔しているかと問われているのだ。


 何度も、何度も考えた。もし、余計なことに足を突っ込まなければこんなことにはなっていなかったのではないか、と。


 いい大人が正義感なんぞに振り回された結果が今ならば、見て見ぬ振りを続けていればよかったのではないか、と。


 だけど。


「……私は、後悔していない……!」


 脅迫状を受け入れてしまったこと、そして、瑠璃に最低なことをしてしまったことは後悔してもしきれない。きっと、死ぬまで後悔し続けるだろう。いや、死んでもなお悔やみきれないかもしれない。


 だが、賢吾の悪事を公表してやろうとしたことを後悔したことはない。それだけは確実だ。


「その言葉に、嘘はありませんか?」

「ない」


 隆宏の真剣そのものな瞳を見据え、真璃は微笑を浮かべた。


「でしたら、隆宏さんは隆宏さんの信ずる道を歩んでください。私と瑠璃に格好の付かない姿を見せまいとしないでください。ありのままの背中を私たちに見せてください。そして、私と瑠璃が自慢できるような、誇れるような隆宏さんでいてください」


 それは、隆宏を責めるわけでもなく、慰めるわけでもない、妻としての真璃の切実な願いだった。


 その時、気付いた。正確にいうのならば、目が覚めたというべきか。


 どうして、家族を守るためとはいえ、どうして賢吾の言いなりになっていたのか。


 どうして、脅迫に屈し、最愛の娘を脅迫状の文面に従って渡そうとしたのか。


 どうして、自分は間違っていたと思っていたのだろう。


 きっと、隠し事などせず、最初からすべてを打ち明けていればこんなことにはならなかっただろうに。


 それもこれも、すべては恥ずかしい姿を、格好悪い姿を、無様で滑稽な様を真璃瑠璃に見せたくなかったから。


 しかし、本当に恥ずかしくて、格好悪くて、無様で滑稽だったのは、今の自分自身だった。


 家族の平和が脅かされようとしているからといって、賢吾の言いなりと化して、戦おうとせずに逃げ出して、機嫌を損なわないようにぺこぺこしている今の自分こそ滑稽なことこの上ないのだ。


 真璃や瑠璃のためと言っておきながら、隆宏が今までしてきたことは二人のためになどなっていなかった。


 それでも、二人は幻滅しなかった。


 少しくらいは軽蔑したかもしれない。呆れられたかもしれない。嫌われたかもしれない。


 でも、見放されたりなんかしなかった。


 それは、家族だからなのもあるが、二人が隆宏のことを信じてくれているからだろう。


 だったら、隆宏が為すべきことはただ一つ。二人の信頼に応えること。


 恐れることなど、もう何もないのだ。いや、最初からなかったのだ。


 だから。


「私は、あなたの脅しには屈しない。当然、瑠璃も渡さない!」

「……そうか。やはり、脅迫なんていう生温いことなど最初からしなければよかったのだろう。泣いて許してくださいと懇願するなら、特別に許してやらんこともないのだがね?」

「……」


 賢吾の問いに、隆宏は答えない。


 その沈黙が何を意味するのか、それは拒絶。すなわち、お前に下げる頭なんて持ち合わせていないという表明に他ならない。


「……隆宏君、君の言いたいことはよくわかったよ。ならば、これからは愛する家族とともに、平和の一生訪れない生活を続けるといい! この私を、葛城賢吾を敵に回したことを後悔しながらな!」


 市長とは思えない賢吾の発言。きっと、これこそが葛城賢吾という男の本性なのだろう。


 愉悦に嘲笑を浮かべる賢吾。


 しかし、隆宏は何も言わずに、自分の胸ポケットから機械を取り出した。


「これが何かわかりますか?」

「今さら何を……って、それは!?」


 隆宏が突き付けるその機械を前に、取り乱す賢吾。


 口を餌を待つ鯉のようにぱくぱくとさせ、手足はわなわなと震えており、瞳には怒りが込められ、今にも食い殺してやろうといわんばかりに歯ぎしりを鳴らしている。


 それもそのはず。なぜなら、隆宏の手には。


「今までの会話は、すべて録音させていただきました」


 音声を記録することの出来るボイスレコーダーが握られていたからだ。


 隆宏の言う〝すべて〟とは、隆宏がこの場に来た時、つまるところ賢二を殴り飛ばした時からだ。


 もしかしたら尻尾を見せるかもしれないと、地雷を踏むかもしれないと淡い希望に期待してボイスレコーダーを持ち歩くようにしていたのが功を奏したのだ。


 録音された会話自体は少ないし短い。だが、警察に証拠として提示するには十分な情報が多分に含まれている。


 それに、隆宏が手にした賢吾の行ってきた悪事の数々を記した証拠と一緒に警察に提示すれば、賢吾の逮捕は確固たるものとなるだろう。


「これで終わりだ、葛城賢吾」


 今までの騒動に終止符を打つ隆宏の言葉。


 賢吾は膝から崩れ落ち、その場に蹲る。今まで築き上げてきた地位や名誉が崩壊したことによって、いよいよ耐え切れなくなったらしい。


 隆宏は四つん這いになっている賢吾と父親の無様な姿を前にして何もできない賢二を横目に、警察へと連絡をするために部屋を後にした。


 隆宏を見送っていた夜の背中に、こてんと温かさと重さが襲い掛かる。


「……瑠璃先輩?」

「……ごめん、夜クン。少しだけ背中貸してくれる?」

「……俺の背中でよければ、いくらでも貸しますよ」


 ありがと、とお礼を言われたのと同時に、うっ……ぐすっ……と嗚咽が背中越しに聞こえた。


 緊張が解けたからか、はたまたほっとしたからか。どちらにせよ、今までせき止められていた感情が一気に押し寄せてきたのだろう。


 隆宏の呼んだ警察が到着するまで、その嗚咽は響き渡っていた。


 誰も、瑠璃を泣き止ませようだとか考えなかった。


 何故なら、その涙に込められていたのは悲しみではなく、喜びだったから。




~あとがき~

 ども、詩和です。いつもお読みいただきありがとうございます。

 まずは一言。お待たせしてすみませんでしたぁ!

 バイト忙しかったし番外編の改稿に時間食ったりウ〇娘をやってたり(主にこれ)とまったく手に付かない状況でした。因みに、ラ〇スちゃん推しです。

 ですが、もう大丈夫です。エ〇ァ見てきた今の俺は創作意欲に満ち満ちているので!

 まぁ、感想は何を言ってもネタバレになりかねないので何も言いませんが、全人類が見るべき作品とだけ言っておきましょう。

 あまり名前出すのもどうかと思って伏せましたが、関係ない話しかしてないですねすみません。

 長きにわたって続いてきた三章ですが、次回で終わるかと思います。

 ぜひとも、最後までお付き合いください。

 それでは次回お会いしましょう。ではまた。

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