終章、過去(イモウト)か未来(アネ)か。

「……世界の入れ替え、だと?」

「実はSF小説的なタイムトラベルなんかによらずこの現実世界で、現実性リアリティをまったく損なうことなく未来や過去に時間移動する手段が、ただ一つだけあるの。それこそがあくまでもこの現代世界が未来や過去と入れ替わってしまうことなんだけど、しかもときみの巫女姫ならほぼ意図的に世界を入れ替えることだってできるのよ」

「現代が未来や過去と入れ替わってしまうって? しかも時詠みの巫女姫なら意図的に行えるだと⁉」

「確かにあくまでもこの世界はただ一つだけであって、過去や未来の世界や異世界が存在したりすることはなく、タイムトラベルや異世界転移なんてけしてできないわ。でもその一方で、未来において──例えばにおいて、私たちがいきなり過去や未来の世界や異世界に放り込まれてしまう可能性も、けして否定はできないの。なぜならほんの子供でも知っているように、我々自身が遥か大昔から常套句として使ってきたように、『未来というものにはあらゆる可能性があり得る』のだから。そしてこのことはまさしくカズにいもよく御存じの、量子論によってこそ明確に保証されているの」

「へ? 量子論がタイムトラベルや異世界転移の実現を保証しているって⁉」

「ええ。ちなみにカズ兄は、多世界解釈量子論のいうところの『多世界』って、いったい存在していると思っているわけ?」

「ど、どこって。いや、あれってあくまでも量子という超次元的な存在の特異なる性質を論理的に説明するために編み出された概念的存在なのだから、どこに存在しているとか言われても……。まあ強いて言えばそれこそSF小説でいうところの並行世界のようなものだから、この我々の現実世界と文字通り並行して存在しているんじゃないのか?」

「あ〜あ。いい歳してSF小説ちゅうときたら、これだから。さっきこの現在世界と同時に並行して他の世界が存在することなんて、けしてあり得ないと言ったばかりでしょうが?」

「何だよ、自分から聞いておきながら。まさか『多世界なんて存在しないというのが、この場合の正しい答えなのだ』とか何とかいう、どこかで聞いたような臭いオチじゃないだろうな?」

「何言っているのよ。多世界を否定することは、量子論ひいては現在の物理学そのものを否定することと同義なのよ? あなた本当に現役のきゅうだいの物理学部生なの? 多世界はちゃんと存在しているわよ。ただしあくまでも我々のこの現在世界よりも、まさしくほんの『一瞬後の世界』においてだけどね」

「は? 一瞬後の世界って……」

「それこそ過去や未来の世界や異世界を始めとして夢や妄想の世界や文字通りSF小説そのものの創作物フィクション的な世界も含めたありとあらゆる世界が存在し互いに干渉し合っている、まさしく多世界解釈量子論のいうところの多世界そのものの無限の可能性としての世界の集合体のことよ。実は多世界解釈お得意の『量子というミクロレベルではあらゆる多世界が干渉し合っている』とは別に並行世界SFみたいな荒唐無稽な話なんかじゃなく、この一瞬後の世界の存在を念頭に置けば極当たり前のことを言っているのに過ぎなくなるわけ。言わば我々のこの現在の世界が世界として確固たるものになるためにこそ、一瞬後の世界においてあらゆる可能性が干渉し合っているのであって、いわゆるミクロレベルならぬ『未来の時点レベル』においてのみ無限の多世界が干渉し合っていると言うべきなのであり、まさにこれこそが『未来というものには無限の可能性があり得る』ということなの。本来はほんの一瞬後とはいえ我々のように『現在』に存在している者にはアクセスすることのできない隔絶された世界なのだけど、実は唯一この世界において量子だけが一瞬後の世界にアクセスすることができるという特異な性質を有しているのであり、だからこそ量子は確率的存在なのであって、存在形態自体が多重的に存在しているのであり、己自身が多世界の同じ量子同士で干渉し合えるのよ。そう。まさに『量子というミクロレベルではあらゆる多世界が干渉し合っている』とは、このことを言っているわけなの。そして何度も言うように現在と並行して同時に他の世界が存在することはないけれど、その一方で未来という可能性としての無限の多世界が存在し得ることも、世間一般の常識的にも多世界解釈においてもしっかりと肯定されているのであり、むしろ否定する意味なぞどこにもなく、リアリティ的にも何ら問題はないのよ」

「──‼」

 な、何と。多世界が我々のこの現在世界よりもほんの未来に位置しているとするだけで──つまりは、『一瞬後の世界』という概念を持ち込むだけで、あれだけ抽象的で難解だった量子論の基本概念を、こんなにも明快かつ現実的に説き明かすことができるなんて!

 おいおい。量子コンピュータの実現に引き続いて、こんな画期的な新理論を編み出してしまうとは。この子そのうち、ノーベル賞でも受賞してしまうんじゃないのか?

「……いや。大変貴重なお話を聞かせていただいて光栄なんだけど、それがいったい時詠みの巫女姫なら意図的に世界を入れ替えることができるという話と、どう繋がるわけなんだ?」

「だから言っているじゃない、量子ならば一瞬後の世界にアクセスすることができると。まさしく時詠みの巫女姫こそ量子の性質を有する量子コンピュータなのであり、そもそもが多世界である一瞬後の世界にアクセスすることができるからこそ、巫女姫には未来予知の力があるんじゃないの」

 あ。

「特に巫女姫が夢の中でのみ未来を──まさしく無限の可能性としての存在である多世界を観測することができるのは、実は時間と空間の概念自体が存在せず過去や未来やその他あらゆる非現実的世界が存在し得る夢こそは、量子論のいうところの多世界──つまりは一瞬後の世界そのものとも言えるからであり、しかも夢の世界の中で意図的に行動し無数の多世界の中から特定の世界を選び出して観測することのできる巫女姫なら、本来ならあくまでも突発的な現象であるはずの『世界の入れ替わり』を能動的に起こすこともできるの。なぜなら多世界解釈において基本原則として述べられているようにあらゆる可能性としての存在である多世界は、観測された瞬間にその者にとっての唯一の現実世界として確定されてしまうのだから。しかも時詠みの巫女姫は己の語り部の夢の中に入って来て、己の見た未来予知の夢──すなわち多世界の有り様そのものを見せることができるのであり、任意の世界を語り部であるあなたに観測させて、あなたにとっての新たなる現実世界として確定させることで、カズ兄の世界を入れ替えることだってできるというわけなのよ。それこそ、異世界だろうが未来だろうがだろうがね」

「いやいやいや。おっしゃっていることは理解できないでもないんですけど、それはあまりにも御都合主義というものではないのか? これまで散々現実性リアリティがどうしたとか言っていたくせに、よりによってただ夢を見るだけで世界を丸ごと入れ替えてしまえるなんて、よほどタイムトラベルなんかよりも荒唐無稽じゃないか⁉」

「あらあら。何を言っているのやら。カズ兄自身だって実際にただ単に夢を見るだけで、世界の入れ替わりを経験しているじゃないの。それこそ毎日のようにね」

「はあ?」

「つまり毎朝目覚める際においての、それまで見ていた夢と現実の世界との入れ替わりのことよ。たとえば大学受験の試験中に問題が解けず焦りまくっていたら目が覚めて、『ああ、夢でよかった♡』と胸をなで下ろしたことはない? その時カズ兄は夢の中で夢であることに気がつくことができたかしら? いいえ、おそらくあなたは確かに現実の出来事だと思っていたはずよ。すなわち現実のはずだった大学受験当日という過去の世界が目覚めとともにその瞬間現代と入れ替わって、夢と消えてしまったわけなの。このように私たちは毎日のようにして、自分の世界の入れ替わりを体験しているという次第なのよ。だったらある日突然目の前の世界が別の世界と入れ替わってしまい、新しい世界こそが唯一の現実世界となり、以前の世界のほうはあたかも夢や幻であったかのように消え去ってしまうことも、けしてあり得ないとは言えないじゃないの」

「──‼」

 そ、それは確かに、そうだけど。……何この、詭弁と極論の集合体のような理論は⁉

「うふふふふ。良かったわね。この世界の入れ替え能力だったら、ただ単に催眠誘導をしているだけの私のインチキタイムトラベルとは違って、過去に戻ってもちゃんと意図的に行動できるからもう一度人生をやり直せるし、カズ兄にとっては万々歳じゃないの」

 そう言われてみればそうなんだけど、今いち納得がいかないのは、どうしてなんだろう。

 だいいちこれはすべて光葉の時詠みの巫女姫としての力の話だというのに、彼女自身はさっきから沈黙を守り続けているばかりか、何だか苦々しい表情すら浮かべているし。

「……いや、ちょっと待てよ。僕が元の世界に戻って人生をやり直せるってことはつまり、過去の歴史を変えてしまえるってことだよな? そうなるとこの未来世界のほうはどうなってしまうんだよ?」

「あら、よく気がついたわね。そう、御想像の通りよ。当然この世界のほうは、最初から無かったものとして消え去ってしまうわ。──少なくとも、あなたにとってはね」

「なっ⁉」

「だから言ったでしょう? 世界の入れ替えとはまさしく、夢と現実の逆転現象のようなものだと。何せそれゆえに現実性リアリティを守っていられるわけなんだし。つまり一言で言えば、『世界というものはあくまでも一つだけ』ということなの。自由自在に過去や未来と行き来できるタイムトラベルや、別の世界に召喚されて勇者になって魔王退治等で大活躍しておいて最後には現代日本に帰ってこれる異世界転移なんてのは、SF小説やファンタジー小説だけの絵空事に過ぎないの。この現実世界で時間移動や異世界転移なんてものが起こるとしたら、それはあくまでも一瞬後の未来において突発的に世界が過去や未来や異世界と入れ替わってしまう場合だけで、そしてその瞬間よりその世界こそが我々にとっての唯一絶対の現実世界だったことになり、元の現実世界は夢幻の存在として消え去ってしまうしかないの。これは時詠みの巫女姫による意図的な入れ替えの場合も同様であって、言わば巫女姫は入れ替え能力を使うごとに、ようなものであり、カズ兄が今回元の世界に戻るために入れ替え能力に頼るということは、あなた自身の意志でこの五年間の私との日々を、この身に宿ったあなたの子供もろとも消し去ってしまうということなのよ」

 ……何、だと。

「いやでも、それだと実際に世界の入れ替えを行う光葉本人も、この未来世界ごと消え去ってしまうことになるだろうが? 少なくとも彼女自身が好き好んで、そんな自殺行為みたいなまねをするわけがあるものか!」

「大いにあるんじゃない? だって五年前の時点に時間を巻き戻せば、私が行った復讐行為はすべて無かったことになり、しかも自分のほうはあなたを取り戻して一からやり直すことができるんだから」

 ──っ。

「それに今言ったのはあくまでもカズ兄を主観にした場合の話であり、量子論で言えばコペンハーゲン解釈に則った見解なの。すでにインチキだと暴露された後で何だけど、実際に観測されて確定した世界以外も可能性の世界としてなら存在し続けることになる私の多世界解釈的タイムトラベル論で言えば、あなたにとってはなかったことになってしまうこの未来世界も、ここに現に存在している私たちの主観ではちゃんと存続することになるの。まあ、元の世界に帰ってしまうあなたにはそれを確認する手段なんかないし、事実上滅んでしまうも同然なんだけどね。──それで、どうするつもり? 世界を入れ替えて元の世界に戻るのも、このままこの世界で生き続けるのも、結局すべてはあなた自身の選択次第なのよ」

 ……いや。世界が滅んでしまうとか言われて、おいそれと下手な選択はできないじゃないか⁉

「あはははは。あなたにとっては、いい迷惑よねえ。実のところは、私たちの自分勝手な姉妹ゲンカに巻き込まれたようなものなんだし」

「へ? 姉妹ゲンカって……」

「つまり私たちは両方とも、どうしてもあなたを自分だけのものにしたかったの。確かに私は利己的な復讐のために今回の騒ぎを起こしたけれど、それは光葉だって同じことよ。考えてもみなさい。何で未来を始めとするあらゆる世界を己の夢の中で視ることのできる時詠みの巫女姫が、私のたくらみを事前に見抜けなかったわけ?」

 あっ。

「実は彼女は最初からすべてを知っていて、あえて私のやりたいようにやらせておいて最後にこうして何食わぬ顔をして現れて、絶好のタイミングですべてを完膚なきまでたたきつぶそうとしたわけなの。それというのも、たとえ世界の入れ替えによってしても世界というものは夢幻のごとく完全に消し去ることなんかできず、元の世界に戻ったあとのあなたの心の奥底にも文字通り夢の残滓的に、この未来世界の記憶が残り続けることになるの。だからこそ元の世界に戻った際に同じ過ちを繰り返さずに済むと同時に、私に対しては無自覚の警戒心を抱き不用意に近づくことを避けるようになって、すべては光葉の思惑通りになるという次第なのよ」

 ……何……だっ……てえ……。

 思わず当の巫女姫のほうへと振り向くが、端整なる小顔に張り付けた能面のごとき無表情を微塵も揺るがすことなく、ひたすら沈黙を守り続けるばかりであった。

 一方姉のほうも鮮血のごとき深紅の唇を閉じるや妹のすぐ隣へと歩み寄り、お揃いの二対の黒曜石の瞳でこちらへと見据えてくる。


 あたかも後は僕の選択を待つだけだと、言わんばかりに。


 ……もちろん戻れるものなら元の時代に戻り、すべてを本来のあるべき姿にやり直したいとは思っている。

 しかしそうするとすずとのこの五年間の日々を消し去ってしまい、彼女の中に芽生えた小さな命を摘み取ってしまうことになるのだ。

 だからといってこのままこの世界に居続ければ、本来光葉と共に育んでいくはずだった、二人の未来の日々を永遠に失ってしまうことになるのである。


 何でこんなことになってしまったのだろう。


 これもすべてはタイムトラベルなどという、世のことわりに反したことに手を出した報いであろうか。

 たとえ本当にタイムトラベルを為し得たところで、結局は自分や他人の人生をねじ曲げ狂わせたり、過去の大切な思い出や未来への希望を奪い取られてしまうだけなのに。


 そのように己の愚かさを痛感しながらも、過去みつば未来すずかとのどちらか一方を選ぶことなぞできないままに、僕はただいつまでも無様に立ちつくしていたのである。

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忘却の旅人 881374 @881374

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