第15話

 それから奈月は地道な努力を積み重ねた。毎週日曜日の習慣は継続したまま、授業以外の自宅学習に力を入れた。その甲斐あって、中間・期末テストの成績は着実に上昇した。一年生の時は明るさ以外とりわけ特徴のなかった彼女が、二年生の夏には頭のいい子としてクラスメイトに認知されるようになった。明るくて成績もいい。小柄でかわいらしい。奈月は当然男子生徒の好意の対象になった。三年の春までに、四人の男子生徒に告白された。奈月は好意をありがたく思いつつ、全て同じ理由で断った。他に好きな人がいるの。

 奈月はテストや模試の結果が出ると、必ずそれをやまとに見せた。やまとはいつもちらりと一瞥して「まあまあ」と言うだけだったが、その言葉は奈月に向上心を起こさせた。いつかよく出来たと言わせたい。そんな気持ちが彼女の闘志に火をつけた。

 やまとは張り切る奈月を冷静に見ていた。どうやら彼女は本気でやまとを幸せにする気らしい。それが不可能なことは明白だったが、やまとは何が奈月をそこまで動かすのかが気になった。最初は、死んだ真耶に筋を通そうとしているのだと思った。奈月は真耶の死と向き合う手段として、約束を守ろうとしている。だが、時間を重ねるにつれてそうではないことがわかった。

 奈月はいつもまっすぐにやまとを見ていた。輝きに満ちた青いまなざしは、決して真耶に向いていない。奈月は間違いなくやまとのために行動していた。だからやまとが彼女の好意に気づくことは容易だった。今になって思えば入院している時からそんな気配はあった。当時はそれを兄に対して抱く家族愛のようなものかとも思っていたが、成長の過程で恋心に昇華してしまったらしい。

 入院中でさえ、奈月は院内学級で多くの知人を作っていた。退院した今、その交友関係はさらに広がっていることだろう。単に付き合う人間が少なくて、消去法的にやまとを選んでいるわけじゃない。もっと明るくて恰好いい異性を、彼女は選ぼうと思えば選べるのだ。

 それなのに、なんで僕なんだ。

 やまとにとって奈月の恋愛感情は不可解で、迷惑だった。やまとはなんとか奈月に諦めてもらおうと策を弄した。徹底的な拒絶は彼女を強情にさせるだけで、あまり効果がない。ならば逆に、奈月の好意に応えてしまえばいいのではないか。当然、偽りであっても奈月と交際する気にはなれなかった。やまとがかろうじてしてもいいと思ったのは、昔みたいに他愛ない話をするとか、一緒に食事するとか、その程度のこと。やまとは身を削る思いそういうことをした。奈月は毎回子どもみたいに喜んだ。

 不規則な報酬は反って執着を生む。それをやまとは知っていた。思惑どおり、奈月の瞳はますます輝きを増した。やまとはじっと機をうかがっていた。重要なのは落差だ。最初から地面を這いつくばっているのと、高いところから落ちて叩きつけられるのとでは痛みが違う。とにかく落差を大きくすることだ。奈月を高いところまで連れて行って突き落す。残酷な方法。でも、諦めてもらうにはもうこの方法しかない。真耶との誓いを果たすためだ。

 そんな暮らしが二年半も続いた。やまとが時折優しくしてくれることを、奈月は本当に嬉しく思っていた。だが、その心が決して自分に向いていないことにも彼女は気づいていた。結局、一緒に過ごして楽しいのは自分だけ。奈月の手はやまとの心の奥に届かない。いつまでたってもやまとを幸せにしてあげられない。受験勉強が本格化するにつれてストレスも増え、奈月は消耗していった。成績は伸び悩む。気持ちばかり焦る。やまとと同じ大学に受かるかどうか、五分五分だった。

 本命の入試を間近に控えた二月の日曜。奈月は張り詰めた表情でやまとの部屋に来た。過度の緊張と不安。余裕がなくなったことで、元来の臆病な性格が強く出ていた。努めて他人に無関心なやまとにさえ、その表情は痛ましく思えた。

「受験が終わったら、聞いてほしい話があるの」

 不自然に明るい声を装って、奈月は言った。その一言を言うのに、とても勇気が必要だったとわかる。

「どんな話?」

 察しがつかないでもなかったが、あえて聞いた。

「今さら、言うほどでもないことだよ」

 奈月は言いよどみ、顔を赤らめた。

 だったらもう言わなくていいのに。やまとは思う。きっとそうやって楽しみな目標を作りたいのだ。奈月はきっといつも想いを伝えたかったのだろう。ただ、それを言えばやまとが困るとわかっていたから、ずっと黙っていた。大学受験という節目に、溢れそうな想いを吐き出そうとしている。

 どこまでも素直でまっすぐだ。昔と変わらない。僕のことなんて今すぐ忘れてくれたらいいのに。そしたら傷つけないですむのに。

「受かったらね」

 やまとは静かに言った。冷えた室内にしんと声が吸い込まれる。

「次の本命の試験に、受かったら聞くよ」

 奈月は苦しそうな顔でやまとを見た。

「わかった」

 自分で自分を励ますように、ぐっとうなずく。

 たった一言、やまとが「大丈夫」と言えば、彼女の表情は和らぐのだろう。落ち着いた気持ちで試験に挑める。今日、奈月がそういう言葉を欲してこの部屋に来たことも、わかっていた。だけど。

「精々、頑張りな」

 やまとはぞんざいに言った。今まで何度も奈月に与えてきた、使い古した言葉。

「うん、頑張るよ」

 奈月は精一杯明るい笑顔を見せた。

 その壊れそうな輝きに耐えきれず、やまとは目をそらすしかなかった。

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