第14話

 それ以来、やまとの日常には習慣が増えた。毎週土曜日に真耶の墓参りに行くことと、日曜日に奈月の視察を受けること。そして、毎日日記をつけること。時間の流れが少しだけ早くなったようにやまとは感じた。

 やまとは毎日、寝る前に日記をつけた。何時に起きて、何を食べて、何をしたか。心情は一切書かず、事実だけを記録した。

 奈月は毎週日曜、言われたとおり私服姿でやまとの部屋を訪ねてきた。部屋の様子をざっと見た後、日記を読む。起床と就寝の時間が前後するくらいで、内容は変わり映えしなかった。とても単調な一週間。楽しそうな出来事は一行も記されていない。誰一人友達がいないのも本当のようだ。

 奈月はいつも息苦しい気持ちでそれを読み、終わるとノートを閉じてこう言った。

「うん。とりあえず今週は合格」

 そう言った時だけ、やまとが少し嬉しそうな顔をするのも、奈月にとっては複雑だった。

 とりあえず合格を繰り返して、七月になった。期末試験を終え、夏休みを目前に控えた奈月に対し、やまとの方はまさに試験期間の真っ最中だった。

 夕方、部屋に来た奈月は、ぺらぺらと緩慢な速度で日記をめくった。一週間分だけでなく、今までの分も遡って何度も読み返す。やまとはその傍らで試験勉強に励んでいたが、他人が部屋の中にいれば集中力も散漫になる。ちらちらと伺うように奈月を見る。彼女はやまとの気も知らず、くつろいだ様子だった。最初の頃は立ったまま日記を読んですぐに帰っていたのに、今ではカーペットの上で足を崩している。

 一時間近くゆったりと時間を使って、ようやく奈月はノートを閉じた。

「やまと君、一緒に夜ご飯食べに行かない?」

 突然、奈月が言った。

 彼女は前々からやまとの食生活が気になっていた。日記の内容から、一日二食、ともすると一食の生活をしていることがわかる。食事のメニューも、そばとパスタとホワイトシチューの三種類しかない。不健康だ。なんとかした方がいい。ずっとそう思っていたけど。

「行かない」

 やまとがそう答えるとわかっていたから、なかなか言い出せなかった。

「他人と仲良く外食とか、できない」

 カチカチとボールペンをノックしながらやまとが言った。

 再会してから結構経ったし、もしかしたらいけるかもと思ったけど甘かった。それでも簡単には諦めない。

「じゃあなんか買ってこようか? あ、キッチン貸してもらえたら私が作ってもいいよ。普段あんまり料理しないけど、カレーとかなら」

「いい。やめて」

「だったら、今度何か作って持ってくる。これならキッチンも汚さないし」

「いいってば。なんで君が僕の生活に干渉するんだよ」

 荒れた声が奈月の言葉を止めた。やまとは投げるようにボールペンを机に放って、奈月の方に体を向けた。

「干渉されたら、僕の本来の生活が変化してしまう。君の役目はあくまでも〝確認〟だろ」

 やまとはいつもより饒舌に言葉を紡いだ。とても苛ついている証拠。

「それに、もう四か月も経った。僕が幸せじゃないことは充分わかったはずだ。なんで、なし崩しに時間を引き延ばして僕に関わろうとする」

 こんなおままごとみたいな生活、ひと月もすれば終わると思っていた。なるべく口を挟まないようにしていたが、もう限界だった。

 奈月は下唇を噛んだ。

「約束が、あるから」

 彼女らしくない、含みのある言い方をする。それが余計にやまとの癇に障った。

「真耶は君にずっと僕を監視しろって指示したの? 幸せそうにしてないことがわかればもういいんじゃないのか」

 心が乱れるほど、反対にやまとの口調は冷静になった。

「役目が終わったなら、もう僕に関わらないで欲しい」

 静かにやまとは言った。徹底的な拒絶。四か月という時間をかけても、やまとと奈月の距離は少しも縮まっていなかった。わかっていたことだけど、奈月にはつらかった。五年前、あんなに自分をかわいがってくれた人に、関わらないでと言われる。目の奥がじわりと熱くなった。心を落ち着かせようと、静かに呼吸を繰り返す。

 奈月は鋭い瞳でやまとを見た。

「真耶ちゃんとの約束には、続きがあるの」

 意を決したように、奈月が言った。

 真耶の名前が出た途端、やまとの視線は泳いだ。

「もしも万が一やまと君が幸せそうにしてたら、その時は幸せを台無しにしてって言われた話は、前にしたよね」

 やまとが慎重にうなずく。言葉の先を怖れているような仕草だった。

「そうじゃなかった時。やまと君が、幸せそうじゃなかったら、その時は」

 真耶が息をひきとる前、奈月に託した願い。

 奈月が大切にしてきた本当の約束。

「なっちゃんがやまとを幸せにしてあげてって、真耶ちゃんは言ったの」

 三月の午後、白い光に包まれて。全てを預けるように、真耶は言った。

「嘘だ」

 やまとは目を見開いたまま、かすれた声を漏らした。

「そう言うと思ったから黙ってたの。私だって、真耶ちゃんが何を考えて私にこんなお願いしたのかまだわからなくて、説明できそうになかったから」

 奈月が話す間に、やまとはみるみる混乱していった。震えるように細かく首を振る。

「嘘だ」

 ずっと単調だったやまとの声が揺れた。影響されて、奈月も感情を押さえられなくなる。

「嘘じゃない! 私はこの約束を守るために今まで頑張ってたんだよ。やまと君を幸せにできるくらい、強くならなきゃって思って、五年間生きてきたんだから」

 そのくらい大切だった。真耶とやまとと、三人で過ごした日々が。真耶との約束が、やまとと奈月をもう一度繋ぐ絆だと思った。約束の背景にある真耶の考えはほとんどわからなくて、不審に思う時もあった。それでも奈月が迷わなかったのは、ただひたすらに、もう一度やまとに会いたかったからだ。

「信じてよ、お願い」

 奈月は消え入りそうな声で言った。戸惑っているやまとにも、彼女のまっすぐな気持ちは伝わった。奈月がこんな嘘をつかない子だということも、わかっている。

「確かに、君が嘘をついているようには見えない」

 やまとは長い前髪をかき上げた。冷静になろう。もう一度奈月が言ったことを思い起こす。

 真耶との誓いどおり、僕が幸せじゃなかったら、その時はなっちゃんが僕を幸せにする。つまり、なっちゃんの今の目的は僕を幸せにすることだ。彼女はそのために関係を継続させようとした。真耶はどうしてそんなことを頼んだんだ。僕と交わした誓いと真っ向から矛盾する。真耶は僕にこの世界で幸せになることを望んだのか? まさか、そんなはず。わからない。

「やっぱり、信じられないよ。だって僕は真耶に、一生幸せにならないって誓ったんだ。真耶もそれを望んでいた」

 やまとは今まで誰にも話さなかった誓いの内容を打ち明けた。やまと自身も、言ってからそのことに気づく。

「一生幸せにならない? 何それ、そんなのおかしいよ」

 奈月は、やまとが予想したとおりの反応をした。

「いいよ、わからなくて」

 元々真耶と二人っきりの誓いだ。誰かにわかってもらおうなんて思わない。

「なんでそんなこと誓ったの? 幸せになったっていいじゃない。真耶ちゃんのお母さんだって再婚して、前向きに生きていこうとしてた。幸せになろうとしてたよ」

 真耶の母親に電話した時、奈月もやまとと同じような経験をして、そのことを知った。

「ああ、君もあの人に会ったんだ。あれはもう真耶の母親を辞めたんだよ」

 やまとは嘲笑うように言った。その声の冷たさに奈月は反感を覚えた。やまと君は真耶ちゃんのお母さんに偏見を持っている。

「なんでそんな風に考えるの? 一緒にお墓参りした時色々話したけど、真耶ちゃんのことちゃんと大切に思ってたよ」

「大切に思ってたなら、生きてる間にもっとお見舞いに来てあげればよかったのにね」

 皮肉な表情を浮かべるやまとに対して、奈月は真耶の母親を庇おうとした。

「それも、理由があったんだよ。私も、不思議に思ってたから聞いたの。真耶ちゃんのお母さん、真耶ちゃんと一緒にいるとどうしても悲しくなっちゃったんだって。そういうのがちょっとでも顔に出ると真耶ちゃんはすぐに気づいて、すごく気を使ってくれたみたいなの。真耶ちゃんらしいよね。それで、気を使わせるくらいなら会わないようにしよう、その方が気楽に過ごせるだろうって思って、だからお見舞いに来なかったらしい」

「うん。まあ、あの人が言いそうなことだね」

 やまとの反応は薄かった。奈月は意地になって、さらに話を続けた。

「誕生日だって、真耶ちゃんが六歳になるまではお祝いしてたんだよ。ただ、来年の誕生日はどうなるだろうって考えると苦しくて、お母さん、泣いちゃったの。そしたら真耶ちゃんがそれを見て」

「知ってるよ。ごめんなさいって言ったんだ、真耶は。歳をとってごめんなさいって。それを悪いことだと思いこんで」

「うん。だから、もうそんな思いさせないようにって、誕生日のお祝いはやめたって」

 やまとはその話を真耶本人の口から聞いた。彼女はそれをまるで他人事のように話した。六歳の時、涙を流す母親を見て、真耶は確かに申し訳ないと思った。誕生日が来る度に母親が悲しむのなら、早急に死んでしまう方がいいのではないか。幼い情緒でそんなことまで考えた。だが、母親を悲しませるのは真耶の運命それ自体だ。だったらもうどうすることもできない。考えるだけ無駄だ。だから、真耶は誕生日をどうでもいいと思うことにした。それは祝うべき日でも、悲しむべき日でもない。一年の内、ほとんどの日がそうであるように。

 やまとは真耶の冷たい横顔を思い出した。母親のことを話す時、彼女はとても気高かった。ひたすら感情に振り回されている母親と対照的に、真耶はどこまでも冷静に他人を思いやっていた。それと比べたら、浦和美加の感傷的な思いやりなんて、自己満足でしかない。

「結局は言い訳じゃないか。自分のためだよ」

 そう言い捨てるやまとに、奈月はどこまでも食い下がった。「そうだとしても、真耶ちゃんのお母さんは真耶ちゃんのことをちゃんと考えてた。もしかしたらもっといいやり方があったのかもしれないけど、でも、気持ちは本物だった」

「残念ながら真耶にはそんな気持ち伝わってなかったよ」

「そうだったなら、悲しいけど仕方ないよ。真耶ちゃんはもういないから。だけど、そのことをずっと後悔し続けるのは違う。だって、終わっちゃったことだもん。いつまでも過去に縛られるなんて苦しいだけで何も生まれない。だから、真耶ちゃんを大切に思う気持ちさえ忘れなかったら、前向きに生きていいと思う。真耶ちゃんのお母さんが再婚したみたいに」

「そんなの生きてる人間のエゴだよ。真耶がそれでいいって言ったわけじゃない」

「エゴでいいじゃん! それが生き残った人間の権利だよ」

 やまとと奈月は対立した。相容れない考え方。

 話すだけ無駄だと思うやまとと違って、奈月は自分の考えをきっとわかってもらえると思っていた。諦めなければきっと伝わる。一生幸せにならないなんて絶対におかしい。やまと君だって、本当はこんなのよくないって気づいてる。心のどこかで、幸せになりたいと思ってるはず。そう思わない人なんて、きっといない。

「やまと君は幸せになっていい。幸せになるべきだよ。きっと真耶ちゃんもそう考え直したんだよ。だから私にお願いした。私が会いに行く時までやまと君が頑張って、真耶ちゃんとの誓いを果たそうとしてたなら、もう充分だって思ったんだよ。そこから先は解放されて、幸せになっていいってこと。それを私を通してやまと君に伝えようとしたんじゃないかな」

「都合がよすぎるよ。真耶は僕を試してるんだ。君が僕を幸せにしようとした時に、僕がちゃんと抵抗できるかどうか。降りかかる火の粉を払いのけろってことだ」

 矛盾する真耶の言葉に納得のいく説明をつけるなら、これしかないと思った。しかし、奈月は首を縦に振らない。

「それだって、やまと君にとって都合のいい考えじゃない。真耶ちゃんはもう死んじゃったんだよ。ずっとそれに縛られる必要ないよ」

「必要だからじゃない。これは僕の意志だ。真耶が死んだ世界になんか、なんの価値もない。僕はこんな世界で妥協して幸せになんかならない」

「価値がないって、なんで決めつけるの? やまと君が価値を見つけようとしないだけじゃないの? わざとつまらない生き方をして、価値のあるものから目を背けてる。本当は気づいてるんじゃないの? ちゃんと探せばこの世界にも価値あるものが見つかるって」

 衝動に近い怒りがやまとを襲った。

「うるさい」

 低く唸るような声で奈月を制す。言ってしまってから強く後悔する。こんな反応をしたんじゃ、まるでなっちゃんの言ったことが当たっていたみたいに見える。違う。僕と真耶はそうやって僅かな可能性に期待して、いつもこの世界に失望してきたじゃないか。

「幸せにならない生き方を選ぶ自由だってあるだろ」

 幸せになることを押し付けるな。

 睨むやまとを、奈月も目を据えて見かえした。

「だったら、私がそれを阻止するのも自由だね」

 やまとは奈月が成長してしまったことを嘆かわしく思った。知恵がついた分、口がよく回る。扱いが面倒だ。やまとは言葉に詰まった。

 その隙を奈月は見逃さない。

「私は、あなたを絶対に幸せにする。やまと君が望まなくたって」

 無駄だ。どれだけ頑張ったって、わかりあえることはない。それなのに、奈月は少しも諦めようとしない。

 やまとはうっすらと汗が滲んだ額を手の甲で拭って、息をついた。他人と言い争うことに慣れていないから、体力の消耗がひどい。目の前がちかちかした。気持ち悪い。口を開くと吐きそうだった。諦めない人間を諦めさせようとするのはとても大変だということを、やまとは知った。

「ねえ、やまと君」

 やまとが急に黙ったおかげで、奈月も少し落ち着いた。棘のない穏やかな声を意識して呼びかける。

「大切な人が死んじゃったら、それで世界全部に価値がないなんて、悲しいこと言わないでよ。真耶ちゃんがいなくなっても、この世界にはまだきれいなものがいっぱいあるよ」

 真耶がいない世界に全く価値がないとやまとが言うのなら、奈月の存在もまたやまとにとって取るに足らないものだということだ。奈月はそれをとても寂しく思った。

 やまと君が今でも真耶ちゃんのことをすごく好きなのはわかる。その想いは簡単に変わらないだろうし、それでいいと思ってる。だけど、ほんの少しでいいから、私のことも見て欲しい。それをきっかけにして、外の世界に目を向けて欲しい。どうかもう一度、昔みたいに笑って見せて。

「それで?」

 やまとがぴくりと眉を動かして言った。

「え」

 ぼんやりしていた奈月は不意をつかれた。

「それで君は、どうやって僕を幸せにするつもりなの?」

 やまとが覗き込むようにじっと奈月を見た。予想外の質問に奈月はうろたえる。

 どうやって幸せにするか。どうするんだろう。そもそもどういう状態になったら幸せなんだろう。奈月は頭を悩ませた末、きまり悪そうに言った。

「ごめん、まだあんまり考えてなかった」

 やまとは呆れて、少し笑ってしまった。

 向こう見ずでまっすぐ。目の前のことに夢中で他のことが見えていない。付け焼刃で口は上手くなったみたいだけど、やっぱりまだ子どもだ。

「じゃあ、とりあえず勉強」

「へ?」

 奈月がぽかんと口を開ける。

「本気で僕を幸せにするつもりなら、ある程度頭がよくなくちゃ話にならないよ。馬鹿とは関わるなっていうのが我が家の方針だ。これに関しては僕も同意見」

 やまとは淡々と話した。今までの話の流れと違いすぎて、奈月は上手く切り替えができない。

「頭がいいって、どのくらい?」

 促されるように尋ねる。

「そうだな。できれば僕と同じ大学に入れるくらい」

 あるいはそれより少し低くてもいいけれど。目標は高い方がいいから、やまとはそれを言わない。奈月は一度難しい顔をして考え込んだ。やまとが通っている大学は、奈月が努力なしに入れるようなところじゃない。加えて、現在の奈月の学力も決して高いとはいえない。きっと、かなりの努力が必要だろう。だけど時間はある。奈月はまだ高校一年生だ。

「わかった、頑張る!」

 奈月は大きくうなずいた。ささやかではあるが希望が見えた。奈月の表情が明るくなったのを確かめてから、やまとは言った。

「うん。精々頑張るといいよ」

 そんな冷ややかな言葉さえ、奈月には最大のエールだった。

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