第12話

 やっと会えた。

 やまと君を見つけると、私の体は勝手に動き出していた。目を見開いて立ち止っているやまと君の前まで、走っていく。

「よかった、ちゃんと生きてて」

 やまと君は私を見たまま、何も言わずに固まっていた。もしかして、私が誰だかわかってないのかな。そっか、もう五年も経ったもんね。私も大きくなったし。

「覚えてる? 私、奈月だよ。渡田奈月」

 私は髪の毛を耳の後ろの位置でぎゅっと掴んでみせた。二つ結び。昔の私のトレードマーク。

「覚えてるよ。久しぶり、だね」

 やまと君はぎこちなくうなずいた。

「よかった! 本当、久しぶり。私、四月から高校生になるんだよ。制服、昨日届いたから着てきたの」

 まだ着慣れない硬い制服。入院していたから、私は結局中学校の制服を一度も着られなかった。だから、これが生まれて初めての制服。嬉しくなって、まだ学校も始まっていないのに着てしまった。

「そう」

 やまと君は興味なさそうに言って、私の横をすり抜けた。ガサリと花束の包みが擦れる音がする。

「あ、お参りするんだね。早くしないと、もうすぐ閉まっちゃうよ」

 私は慌ててやまと君を追った。墓所の手前で、やまと君が手際よく花を挿す様子を眺めた。私が供えたお花もあったから、花立は溢れるほどいっぱいになった。やまと君は慣れた手つきでロウソクとお線香に火をつけ、合掌した。

 お参りを終えると、やまと君は花を包んでいた紙をくしゃっと丸めて、また私の横を通り抜けた。

「それじゃ」

 軽く手を挙げて、早足で立ち去ろうとする。

「ちょっと待ってよ! 一緒に帰ろ」

 私がそう言ってあとを追うと、やまと君は露骨にいやそうな顔をした。私はちょっと傷つく。でも大丈夫。こんなことじゃ挫けない。いいよとは言われなかったけど、私はやまと君の隣を歩いた。もちろんやまと君は歩く速さを合わせてくれたりなんかしない。私は少し早足で坂道を下った。

「やまと君、変わったね」

「そうかな」

「うん。思ったとおりだよ。静かになった。あと、病気の時より病気みたいな顔してる」

 私はちらりと隣のやまと君を見た。

 目の下の深い隈。やつれた頬。何より表情が暗い。昔は太陽みたいに明るかったのに。

「そう」

 私の目から逃げるように、やまと君は顔をそむけた。

「私、今日真耶ちゃんのお母さんに案内してもらって一緒に来たの。昼前に」

「ふうん」

「お墓、きれいにしてるのやまと君だろうって言ってた」

「ああ、そうだよ」

「よくお参りしてるの?」

「まあ、それなりに」

「そっか。すごいね」

 すごい。やまと君と真耶ちゃんの絆の強さ。誰も入り込めない二人の世界を感じて、少し寂しくなる。小さい頃はそんな二人を眺めるのが好きだったけど、今は違う。だって、真耶ちゃんはもういない。やまと君が一人で世界を閉ざしているようにしか見えない。それは寂しいことだと思った。

「それじゃ」

 駅に着くとやまと君はまた軽く手を挙げて、颯爽と立ち去ろうとした。帰りの電車、同じかもしれないのに。聞いてもくれない。一刻も早く私と離れたいのが伝わってきた。

「ちょっと待った!」

 私は思い切ってやまと君の服の裾を掴んだ。やまと君がぐっと引っ張られて立ち止まる。周りの人たちが怪訝そうな目で見ていた。すごく恥ずかしい。けど、離したらたぶん逃げられる。

「何」

 不機嫌そうな低い声。私は必死で言った。

「私、今日昼前に来たって言ったでしょ。ずっと待ってたんだよ。命日に真耶ちゃんのお墓にいたら、絶対やまと君に会えると思ったから」

「暇だね」

 ふん、と馬鹿にしたように笑われる。

「暇じゃない! 真耶ちゃんと約束したの。私が元気になったら、必ずやまと君に会いに行くって」

「約束?」

「そう。やまと君が別の病院に移った後、二人で約束したの」

 やまと君の表情がパッと変わった。ようやく私のことをまともに見てくれる。やまと君はすごい勢いで色んなことを考えているみたいだった。

「少しは私の話に興味持ってくれた?」

 そう言うと、やまと君は少しむっとした。図星だ。

「今度、またゆっくり話そうよ。真耶ちゃんのこととか」

「今でいいよ」

「もう夜になっちゃうから、帰らないと親が心配する。私、未成年だもん」

 嘘はついていない。やまと君は眉間にしわを寄せて黙っていた。何も言い返せなくて悔しそう。

 私は今日一番やまと君に言いたかったことを言った。

「連絡先、教えてくれる?」

 私たちは携帯の電話番号とアドレスを交換した。




 私は小さい頃から頻繁に入退院を繰り返していた。幼稚園にも小学校にも、たまにしか通えない。おかげでクラスに溶け込めなくて、かなり人見知りになってしまった。

 お父さんとお母さんのことは大好きだった。一つ下の弟とは喧嘩もいっぱいしたけど、なんだかんだ仲良しだったと思う。それ以外の人とは、どういう風に仲良くなったらいいのか全然わからなかった。知らない人の前ではいつも恥ずかしくて、うつむいてばっかりだった。おまけに怖がりで泣き虫。小さい頃の私は、心も体も貧弱な子だった。

 変わったのは、七歳の時。成長したら手術をするという予定で、大きな病院に移ることになった。そこで同じ病室になった子。種坂やまと君と、陣内真耶ちゃん。最初はいつもみたいに人見知りした。五歳年上の二人は私から見るとすごく大人に見えて、怖かった。だけど二人は優しくて、私のことをなっちゃんと呼んでくれた。そんな風にあだ名で呼ばれたのは初めてだったから、私はとても嬉しかった。

 新しい病室で初めて過ごす夜。慣れないベッドの柔らかさにむずむずして、私は眠れなかった。真っ暗な病室。とても静か。家にいる時はいつもお父さんとお母さんと一緒に寝るから安心だけど、今ベッドの上には私一人しかいない。とても不安で、心細くて、いつの間にか涙が出てきた。泣くのはよくない。泣いて息が苦しくなって過呼吸になると、発作が出てしまう。身体が動かなくなったり、痙攣したり、ひどい時は失神する。だから私はあんまり泣かないようにしていた。だけどその時は、いつもみたいに慰めてくれるお父さんとお母さんがいなくて、一人ぼっちだった。私はなるべく息が苦しくならないように、めそめそと静かに泣いた。そうやってしばらくすんすん泣いていると、パッと隣のベッドに明かりが灯った。スタンドライトの柔らかな光が、カーテン越しにぼんやり見える。次にすーっと静かにカーテンが開いて、ちらりと男の子が顔をのぞかせた。

「どうしたの?」

 種坂やまと君。

 私はびっくりして、でも同時にとても安心した。安心すると我慢していた気持ちが溢れて、ますます涙が零れた。やまと君は慌てた。小さな声で私に話しかける。

「苦しい? 看護師さん呼ぼうか?」

 私は首をぶんぶん横に振った。本当はちゃんと口で言いたいけど、涙で声がつまって言葉にならない。

「目、こすると痛くなっちゃうよ」

 私は泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、隠すように両手を目に当てていた。やまと君はそっと私の手を掴んで、顔から離した。

「ほら、赤くなってる。うさぎさんみたい」

 やまと君はにこりと笑った。その笑い方はとても柔らかくふわふわしていて、私の心も静かになった。

 その時、やまと君が開いた方と反対側のカーテンがめくられた。

「なっちゃん。どうしたの?」

 薄明りの中、真耶ちゃんが顔を出した。やまと君が尋ねる。

「起こしちゃった?」

「ううん。目は瞑ってたけど、眠れなくて」

「そっか。僕も同じ」

 真耶ちゃんとやまと君は笑いあった。私はお父さんとお母さんと一緒にいる時みたいな気持ちになった。すごくあったかくて、落ち着く感じ。いつの間にか涙は止まっていた。

「ちょっと待っててね」

 真耶ちゃんが静かに自分のベッドに戻った。引き出しを開けるようなカタカタという音が聞こえる。次に、スリッパでペタペタ歩く音。それから、入口近くにある小さな洗面台で、水を流す音。真耶ちゃんが戻ってきた。

「なっちゃん、こっち向いて」

 真耶ちゃんは手にハンカチを持っていた。薄桃色の布が少し水で濡れている。

「これ、きれいなやつだからね。大丈夫だよ」

 真耶ちゃんは私のベッドに上って、濡らしたハンカチで目元を優しく拭いてくれた。腫れたまぶたが冷えて気持ちよかった。

「ありがとう」

 ようやく落ち着いた声で私は言った。やまと君と真耶ちゃんがほっとしたのがわかる。

「なっちゃんも眠れなかったの?」

 やまと君が聞く。

「うん。一人ぼっちで、暗くて、怖かった」

「今日来たばっかりだもんね」

 真耶ちゃんが頭を撫でてくれた。お母さんとは違う細いきれいな手。でもいやじゃない。お姉ちゃんがいたらこんな感じだったのかな。

「じゃあ眠たくなるまで、一緒に絵本読もうよ」

 少しいたずらっぽい顔でやまと君が言った。

「見つかったらまた怒られちゃうよ」

 真耶ちゃんは年下の子を叱るみたいだったけど、顔は笑っていた。

「大丈夫だって。この前は夢中になってて気づかなかったけど、見回りに来た時すぐ電気消せばバレないよ」

 やまと君は自分のベッドに戻って、一冊の絵本を持ってきた。真耶ちゃんは仕方ないなと言うように肩をすくめた。

 ひとつのベッドに私と真耶ちゃんが並んで座って、やまと君は椅子から乗り出すようにして絵本を開いてくれた。私が真ん中で、左に真耶ちゃん、右にやまと君がいる。

 それはすごく楽しくて幸せな夜だった。やまと君と真耶ちゃんが、一ページずつ交代で絵本を読み聞かせてくれる。吐息でかすれた小さな声が心地よくて、私はすぐに眠たくなった。結局、物語がどうなったのかわからないまま寝てしまって、気づいたら朝だった。

 私はすっかりやまと君と真耶ちゃんに懐いていた。不思議なもので、二人と打ち解けると看護師さんやお医者さんとも話せるようになった。人見知りだったのが嘘みたいだと、お母さんも言っていた。

 毎日退屈な時間なんて少しもなかった。季節はあっという間に過ぎて、私は八歳になった。お母さんがくれた星の飾りがついたゴムで髪を二つに結ぶようになった。

 ある時、私は看護師のお姉さんに聞いてみた。

「真耶ちゃんとやまと君って、付き合ってるの?」

 おねえさんはカラカラと笑った。

「奈月ちゃん、大人っぽいこと言うのねぇ」

 大人っぽい。そうかなぁ。付き合うとか恋人とかいう言葉の意味くらい、ちょっと漫画や本を読めばわかったけど。

「どうなのかなぁ。とっても仲がいいのは間違いないけど」

 なんだかはぐらかされたような気がした。腑に落ちなくて、その後こっそりナースセンターを覗いてみたら、みんなでその話をしていた。看護師のお姉さんたちが顔を輝かせてやまと君と真耶ちゃんのことを話している。

 あれは明らかに付き合ってるでしょ。

 いや、兄妹みたいな感じだって。

 えー、純粋に友達だと思う。

 みんなよくわからないみたいだった。

 うーん。私は考え込んだ。確かによくわからない。真耶ちゃんとやまと君はとても仲がいい。友達より特別な感じがする。でも、恋人と言うのもなんとなく違うような。悩んだあげく、私は直接二人に聞いてみることにした。

「ねぇ、真耶ちゃんとやまと君は付き合ってるの?」

 いつものように三人で絵本を読んでいた時に、いきなり私がそんなことを言ったから、二人はぽかんと口を開けた。次の瞬間、おかしくてならないというように笑い出す。

「違うよ。付き合ってない」

 やまと君が笑いをかみ殺しながら言った。

「じゃあ、お友達?」

 私が首を傾げると、二人は顔を見合わせた。

「それも違うかな」

 今度は真耶ちゃんが言った。

「じゃあ、兄妹みたいな感じ?」

 私は看護師のお姉さんが言っていたことを思い出して聞いた。やまと君の方が少し年上だから、真耶ちゃんがやまと君をお兄ちゃんみたいに思ってるってことになるのかな。でも、どっちかっていうと真耶ちゃんの方がお姉ちゃんっぽい。

「兄妹? それだったら僕、なっちゃんのことは妹みたいだなって思うよ」

「私も」

「本当? えへへ、やったぁ」

 私は二人の言葉に舞い上がって、それ以上問いつめることをやめてしまった。二人の関係は結局よくわからないままになった。

 春、やまと君の手術が決まった時はすごく心配だった。

 手術の前に、やまと君の誕生日があって、私はプレゼントを考えていた。私は結局、絵を描くことにした。やまと君が真耶ちゃんの誕生日にあげた絵がとても素敵だったから、私もそんな絵が描けたらいいなと思った。やまと君がいない院内学級の時間にコツコツ描いた。あんまり上手じゃないけど、とにかく思いをこめて。手術が上手くいきますように。

 四月十二日、私はやまと君にその絵をプレゼントした。やまと君は少し照れくさそうに笑って、ありがとうと言った。

 やまと君の手術が行われている間、私はずっとそわそわしていた。真耶ちゃんのそばにぴったりくっついて、頭を撫でてもらう。

「大丈夫かなぁ」

 頑張って我慢していたけど、弱々しい言葉が出てしまう。

「大丈夫だよ」

 真耶ちゃんはいつもと同じように落ち着いていた。私はそれが不思議だった。もしかしたらやまと君が死んじゃうかもしれないのに、不安じゃないのかな。

「真耶ちゃんは、心配じゃないの?」

「心配? 心配することなんてなんにもないよ」

 真耶ちゃんは優しく笑っていた。手術が絶対成功するって信じてるのかな。そういうことだよね。私はそう思うことにした。

 やまと君の手術は無事成功した。看護師のお姉さんからそれを聞いた時、本当によかったと思った。よかったね、と真耶ちゃんに言おうとして、私はあれっと思った。真耶ちゃんがあまり嬉しそうじゃなかったからだ。でも、真耶ちゃんはすぐ私の視線に気づいて微笑んだ。よかったね、と私に言ってくれる。それでもやっぱり、真耶ちゃんはあまり嬉しそうじゃなかった。

 手術の後、やまと君と真耶ちゃんはちょっと変わった。二人とも元気がなくなった。やまと君の体調はいいみたいだったけど、前みたいに笑うことが少なくなった。真耶ちゃんと二人でいる時間も減った。その代わり、院内学級によく出てくるようになって、私と一緒にいることが増えた。体調が悪くて真耶ちゃんが別室にいる時、後ろめたい気持ちと同時に、やまと君と二人でいられて嬉しいと感じてしまった。私は、やまと君が自分にとって特別な存在になっていることに気づいた。

 だけど、真耶ちゃんのことも変わらず大好きだった。だから、やまと君を独占したいとか真耶ちゃんにやきもちを焼くとか、いうことはなかった。今のままの関係が続けばいいと、そう思っていた。

 十一月の寒い日、院内学級から戻って病室に入ろうとしたら、中から真耶ちゃんの怒鳴り声が聞こえた。真耶ちゃんのそんな声は聞いたことがなかった。誰か知らない女の人かと思ったけど、でもそれは間違いなく真耶ちゃんの声だった。少しだけ扉を開けて中を覗いてみる。やまと君と真耶ちゃんが病室の真ん中に立っていた。真耶ちゃんはとても怖い顔をして、次々に色んなことを言った。話はよくわからないことばかりだったけど、ひとつ、やまと君が別の病院に行ってしまうということだけはわかった。私が驚いている間に、真耶ちゃんは床に座り込んで大きく咳き込み始めた。ナースコールが響いて、すぐに看護師のお姉さんがやって来る。私は慌てて扉の前からどいた。苦しそうに咳き込む真耶ちゃんが連れて行かれる。真耶ちゃんが私に気づいていたかどうかはわからない。細い指が血で真っ赤になっていたのが少し見えた。すごく不安になった。色んなことが怖かった。泣きそうになる。私は病室に飛び込んだ。

 私が泣くのを、やまと君は止めなかった。いつもなら泣かないように落ち着かせてくれるのに。私は久しぶりに泣いて、発作を起こした。幸い発作は軽くすんで、その日のうちに病室に戻れたけど、気持ちは沈んだままだった。

 翌日、院内学級の先生にこのことを相談した。やまと君が別の病院に行くのは病気がよくなったから。それを喜んであげられないのは、病気がよくなることを喜んであげられないということ。そう言われて、私はもうわがままは言わないと決めた。やまと君の転院を祝ってあげよう。お別れする日、笑って元気でねって言えるようにしよう。何より、残された時間で思い出をたくさん作ろう。

 もう一つ、真耶ちゃんのことが気になった。体調も心配だし、やまと君と喧嘩したみたいだったし。でもその日、院内学級から戻ると病室に真耶ちゃんがいて、やまと君と仲良く話をしていた。いつの間にか仲直りしたみたいで、私は安心した。

 それから一か月、私たちはずっと一緒に過ごした。私がはじめて病院に来た日の夜みたいに、温かくて幸せな時間だった。

 お別れの日、私はやまと君に手紙を書くねと言った。

「もらっても、僕からは返せないよ」

「どうして?」

「もう決めたんだ。ごめんね」

 何を決めたんだろう。私は突き放されたような気がして、思わず泣きそうになった。だけど、ぐっとこらえる。なんとか笑顔のまま、やまと君を見送った。

 病室からやまと君がいなくなった。真耶ちゃんは変わらず私に優しくしてくれたけど、やっぱりどこか寂しそうだった。もちろん、私もすごく寂しかった。やまと君は手紙を書いても返事はできないと言っていた。じゃあ、もう二度と連絡することも会うこともできないのかな。そんなのいやだ。どうしても。私はいてもたってもいられなくて、手紙を書くことにした。

 私は真耶ちゃんに何か伝えたいことがあったら書くよと言った。真耶ちゃんは微笑みながら、首を横に振った。

「伝えたいことはもう全部伝えたし、話したいことは今度会った時に話すから」

 今度会った時?

 真耶ちゃんはやまと君ともう一度会う約束をしたんだろうか。それとも、やまと君が元気になったらお見舞いに来てくれるとか。どっちにしても、真耶ちゃんに今度があるなら私にもあるかもしれない。少しだけ希望が見えた。

 私は手紙に最近あったことと真耶ちゃんの様子を書いて送った。言っていたとおり、返事はこない。それでも頑張って、一週間に一回くらい手紙を書いては送った。やまと君は返事をしないと言ったけど、読まないとは言わなかった。ちゃんと届いていれば、読んでくれているはず。そう思って書き続けた。

 真耶ちゃんの状態はだんだん悪くなっていった。別室で処置を受ける日が増えて、病室に戻ってきても眠っていることが多い。それでも調子のいい時、真耶ちゃんは必ず私にかまってくれた。絵本を読み聞かせてくれたり、髪を色んな形に結ってくれたり。一人でいる時寂しくないかと心配もしてくれる。やまと君がいなくなってから、真耶ちゃんは本当のお姉ちゃんみたいに優しかった。だけどなんとなく、もうずっと一緒にはいられないのがわかった。いつかいなくなってしまう。そしてその日は、そんなに遠くない。

 三月。陽射しが暖かい午後だった。その日は院内学級がお休みで、私と真耶ちゃんは二人でぽつぽつとお喋りしていた。

「ねぇ、なっちゃん」

 ベッドに横になったまま、真耶ちゃんが私を呼ぶ。

「お願いがあるの」

「お願い?」

 私は椅子から乗り出して真耶ちゃんに顔を寄せた。

「なっちゃんが将来元気になったら、やまとに会いに行ってあげて」

 かすれた声でゆっくり真耶ちゃんは言った。これはとても大事なお願いなんだと思った。私はうなずく。

「うん。わかった」

 真耶ちゃんはにっこり笑った。

「それでね、やまとが幸せそうに生きてないか、確かめて欲しいの」

 お願いには続きがあった。

 幸せそうに生きてないか?

 幸せそうに生きているか、じゃなくて?

 混乱している間に、真耶ちゃんは続ける。

「きっと、やまとはとてもつらそうに生きてるの。でも、もし万が一、やまとが幸せそうにしてたら、その時はなっちゃんがその幸せをぶちこわして」

「ど、どうしてそんなことするの?」

 わけがわからなかった。真耶ちゃんがそんなことを言う理由も、私がそんなことをする意味も。真耶ちゃんはくすくすと笑った。

「大丈夫。こっちは万が一の話だから。一応、念のためだよ」

 とてもおかしなことのはずなのに、真耶ちゃんが笑って流してしまうから、すごく些細なことのように思える。

「大事なのは、幸せじゃなかった場合。なっちゃんが会いに行った時、やまとが本当につらそうに、死んじゃいそうな顔で生きてたら、その時はね」

 その時は。

 なっちゃんが。

 私は真耶ちゃんの言葉を最後まで聞いて、右手の小指を差し出した。

「わかった。約束する」

 真耶ちゃんも小指を差し出す。

「ありがとう」

 私たちは指切りした。

 この約束は必ず守ろう。そのためにはもっと強くならなくちゃ。もう真耶ちゃんにもやまと君にも甘えない。早く元気になれるように、頑張ろう。

 その一週間後、真耶ちゃんは亡くなった。とても悲しかったけど、私は泣かなかった。一人ぼっちの病室は広く静かになった。昼間は院内学級に行ったり、お母さんが来てくれたりするから平気だったけど、夜は不安になった。もうめそめそ泣いたりしなかったけど、代わりにとても怖い夢を見ることがあった。一か月後、別の病棟にいた女の子が移ってくるまで、そんな夜が続いた。

 十三歳の冬、私は手術を受けた。同じ歳の子と比べると身体はまだ小さかったけど、食事や運動で体力をつけていたから、お医者さんが大丈夫だと判断した。おかげで手術は成功した。それからは、身体のことももちろんだけど、学校に戻れるように勉強も頑張るようになった。院内学級の先生に教えてもらうだけじゃなくて、病室にいる時も教科書を読んだ。そういえばやまと君も時々勉強してたっけ。とても退屈そうに。そんなやまと君の横顔を私はよく見ていた。

 術後の経過も順調にいって、十五歳の誕生日を間近に控えた八月の日、私は退院した。自宅療養という形だったから、学校に通ったり自由に外に出かけたりはまだ出来なかったけど、家族と一緒に暮らせるのは嬉しかった。私は受験に向けて勉強しながら秋と冬を過ごし、公立高校に合格した。受験が終わると入学準備や制服の採寸で忙しかったけど、三月二十七日は予定がなかった。

 ずっと前から考えていた。元気になってからどうやってやまと君に会いに行こうか。住所も電話番号もどこの学校に行っているのかもわからない。私の手元にあるのは、やまと君が移った先の病院の住所と、真耶ちゃんのお母さんの電話番号だった。真耶ちゃんが亡くなった時、いつかお墓参りに来てねと教えてくれた番号。やまと君にも伝えた番号。

 お墓。真耶ちゃんのお墓。

 これだ、と思った。命日に真耶ちゃんのお墓にいれば、きっとやまと君に会える。私はすぐに真耶ちゃんのお母さんに電話した。ちょうど真耶ちゃんのお母さんも命日にお墓参りに行くつもりだったらしく、私も一緒に案内してもらうことにした。制服姿で待ち合わせ場所に現れた私を見て、真耶ちゃんのお母さんはとても驚いていた。

「大きくなったのねぇ」

 お盆に親戚の人が言うみたいだった。

 真耶ちゃんのお墓はとてもきれいだった。建てたばっかりみたいに石がつやつやしている。

 よく手入れされてるんですねと言うと、真耶ちゃんのお母さんはきまり悪そうに、私じゃないのと答えた。

「たぶんだけど、やまと君がしてくれてるの。あの子、真耶とすごく仲がよかったでしょ?」

 やまと君がお墓の手入れを。

 そっか。今でもそんなに大切に思ってるんだ。真耶ちゃんのこと。

 なぜだろう。相手がもうこの世にいないと思うと、それがとても息苦しいことのような気がした。

 ひと通りお参りを済ませてから、真耶ちゃんのお母さんと色んなことを話した。めったに真耶ちゃんのお見舞いに来なかったから少し薄情な人かもしれないと思っていたけど、そんなことはないと思い直した。

 話に区切りがついて、真耶ちゃんのお母さんが帰る素振りを見せた。私は腕時計を見る。ちょうど正午を過ぎたところだ。

「あの、私もうしばらくここにいます。やまと君に会えるかもしれないから」

 真耶ちゃんのお母さんは首を傾げた。

「あれから、やまと君と連絡とってないの?」

「はい。電話番号もアドレスも知らなくて」

「番号、教えましょうか? 奈月ちゃんならやまと君も問題ないと思うけど」

「いいえ、大丈夫です。登録してない番号からかかってきても、出ないかもしれないし」

 そう、その可能性は充分にあった。私が真耶ちゃんのお母さんにやまと君の連絡先を聞かなかったのは、このためだった。私が送った手紙に、やまと君は一度も返事をくれなかった。だからメールを送っても帰ってこない。電話をかけたって、拒否されるかもしれない。そんな予感があった。やまと君に直接会うしかない。そして、これからも連絡していいと思ってもらわなくちゃ。真耶ちゃんとの約束を守るためにも。

 真耶ちゃんのお母さんは、やまと君によろしくねと言って帰っていった。

 待つと言っても、いつ頃やまと君が来るのか予想もつかなかった。新しい花がなかったから、たぶん今日はまだ来ていないと思う。私は待った。真耶ちゃんのお墓の前で、立ったりしゃがんだりしながら、落ち着きなく時間を過ごした。二時間。三時間。ふつうなら音をあげてしまいそうなところだけど、やまと君に会えるかもしれないと思うと我慢できた。五年間、ずっと会いたかったんだもん。私は相変わらずやまと君のことが好きだった。むしろ、時間が経つほど気持ちは大きくなっていた。昔はなんとなく特別というだけの好意が、今じゃはっきり恋と呼べるくらいになっている。

「真耶ちゃんはきっと、知ってたんだよね」

 私は墓石に向かって呟いた。

 真耶ちゃんは、私がやまと君を好きなことに気づいていた。だからこそお願いしたんだ。私なら必ずやまと君に会いに行くと信じて。

 午後四時半。私は時間を確認して、がっくりと肩を落とした。もうすぐ霊園が閉まってしまう。半ば諦めかけていた。もう、早く五時になっちゃえばいい。そしてすっぱり諦めて帰ろう。とても疲れた。お腹もすいた。

 今日駄目だったら、いつ出直せばいいかなぁ。

 そんなことを考え始めた時。ふと視線を感じた。振り向くと、少し離れたところに痩せた男の人が立っていた。きれいな花束をかかえている。

 昔の印象とかなり違う。面影はほとんどなかった。暗い、病んだ気配。それでもわかる。ずっと想っていたから。

 やっと会えた。

「待ってたよ、やまと君」

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