第11話
午後、くらくらする頭で帰宅した僕は、ベッドの上に携帯電話を忘れて出かけていたことに気づいた。誰かと連絡を取り合うことなんてないし、電車での移動中は本を読んでいるから、全く気づかなかった。念のため確認するが、当然誰からも連絡は入っていない。
僕は今朝の一件を思った。今まで一度も真耶の墓参りに行こうなんて思わなかった。僕にとって墓石はあくまでただの石であり、そこに真耶の意識は見いだせない。そんなことをしても真耶には近づけない。そう思っていた。今もその考えは変わらない。だけど、今朝僕はなんでもいいから真耶の存在を感じられるものに触れたいと思った。きっとこれは僕の弱さだ。本当は、真耶を想うだけで満ち足りているべきだ。それだけじゃ不安なのは、想いを伝えたいから。死んだ人間に想いは伝わらないのに、それでも伝わって欲しいと願う。だから墓に花を添えるとか、そういう行動を起こして伝えた気にならなくちゃ満足できない。僕も結局そういう弱さに負けた。
すぐそばに置いておいたなっちゃんの手紙を取る。現在時刻は午後五時。今なら電話をかけても非常識とは思われないだろうか。今度はゆっくり確認しながら、番号を入力した。
数回目のコールで、女性の声が聞こえた。
「もしもし、ウラワです」
今朝聞いたのと同じ女性の声だ。
「え、あれ? すみません。間違えました」
おかしい。今回はちゃんと確認したのに。なっちゃんの手紙の番号がそもそも間違っているのか。
困惑しながら通話を切ろうとした僕を、女性の声が引きとめた。
「あの、もしかして、陣内ミカにお掛けですか?」
陣内ミカ。
真耶の母親の名前がミカというのかどうか僕は知らなかった。だが、陣内という名字は当てはまる。
「たぶん、そうです。陣内真耶ちゃんの、お母さんに電話したかったんですけど」
「ああ」
納得がいったという風な声が聞こえた。
「真耶の母は私です」
女性は声を落ち着かせて言った。僕の記憶の端にかろうじて引っかかっている、地味でつらそうな女性の声に似ていると思えないこともない。
「そうでしたか。えっと、お久しぶりです。あの、種坂やまとです。しばらくの間、真耶ちゃんと同じ病室だった」
「やまと君?」
通話口の向こうの声が大きくなる。
「久しぶりね。いくつになったのかしら」
「先月、二十歳になりました」
「まあ、二十歳。そうなのね」
そうなのね、という言葉には悲しげな色合いが含まれていた。真耶も生きていたら今年で二十歳だったのね、という色合い。
「ご無沙汰していたのに、突然連絡してすみません。真耶ちゃんのお墓に一度お参りしたいと思って」
「ええ、ぜひ。案内します。あの子もきっと喜ぶわ」
それはどうだろうかと思いながら、僕は都合のいい日時を聞いた。結果、今週の土曜日に会うことになった。駅で待ち合わせて、歩いて霊園に向かうという話だ。
「今朝かけてきたのもやまと君だったのね」
予定が決まったところで、真耶の母親が言った。
「はい。忙しい時間帯にすみませんでした」
「いえいえ。間違えたと思って、驚いたでしょう。再婚して名字が変わったの。今の名前は浦和美加よ」
どこか悲痛だった声が急に明るくなる。
そうですかおめでとうございます、と僕は言った。その後二、三適当な言葉をかわして、電話を切った。
うちの母親もなかなかアレだが、この人も大概だなと僕は思った。
約束の土曜日。僕は花屋で墓前用の小さな花束を買って、待ち合わせの駅に向かった。今回は場所を教えてもらうことが第一の目的だ。線香やロウソクを添えたお参りは後日にしよう。
僕は時間より十分早く駅に着いた。真耶の母親は約束の時間ちょうどに現れた。五月の風に白いワンピースが揺れている。白い服を着ている彼女は、遠目には真耶に似ているようにも見えた。
「お待たせ。さ、行きましょうか」
近くで見ると、やはり少しも似ていない。僕の記憶の中よりも、彼女はいくらか明るくなっていた。顔立ちが地味なのは変わらないが、化粧をしているのか目元の印象が違う。
駅から十分程、ゆるやかな坂を上ったところに霊園はあった。見晴らしのいい、小高い丘の上。ここに真耶が眠っているなんて少しも思わないけれど、真耶が好きそうな眺めだと感じた。
僕は真耶の母親に案内される道をしっかり覚えようとした。しかし、彼女自身が道を曖昧にしか覚えておらず、何度も同じ場所を行ったり来たりした。
「来る度に迷うの。お墓ってどれも同じ形で、目印になるものが何もないでしょう?」
真耶の母親は困ったように笑った。その言葉はきっと嘘ではない。実際にこの人は来る度に迷うのだ。だが少なくともしょっちゅう来ているわけではないのは確かだ。
「ああ、ここよ」
彼女はひとつの墓石の前で立ち止まった。真新しい墓石はあまり大きくなく、僕の身長と同じ程度の高さだった。つるりと光沢のある石に、不似合いな枯れた花が添えられている。真耶の母親は手早くそれを抜き取って、裏手の茂みに捨てた。僕はそれを見ていないふりを装った。
「真耶が生まれて病気だってわかった時、あの子の父がこのお墓を建てたの。生まれてすぐにお墓なんて縁起でもないって私は反対したんだけど、陣内の家ではそういうきまりだって言って。昔から短命の家系で、生きている内にお墓を早めに買うのが習わしだったそうよ」
「真耶ちゃんのお父さんたちのお墓は、こことは別の場所にあるですか?」
僕は花の包みを開きながら聞いた。
「ええ、実家の方に。真耶はこっちで生まれたからこっちで建てた方がいいだろうって話して決めたわ。その方がお参りもしやすいし」
「そうですか」
花の茎を折って長さを調節する。花立を除くと、案の定中の水が腐っていた。これを今僕の手で変えてしまうとなんとなく気まずくなりそうで、仕方なくそこに花を挿した。
僕と真耶の母親はそろって手を合わせた。
目を閉じて、真耶はお墓まで一人ぼっちなんだなと思う。幼い頃に死んだ父親と、会ったこともない祖父母と同じお墓に入るよりはマシだと真耶本人は言うのだろうか。
「ありがとうね、やまと君」
その声で僕は目を開き、合掌をやめた。真耶の母親が微笑みながら墓石を見ていた。
「私は忙しくてあまり真耶に会いに行けなかったから、あなたのような子が一緒にいてくれて助かったわ。あの子も寂しい思いをせずにすんだはずよ」
寂しい思い、という言葉に違和感を覚える。僕も母親に同じ言葉を言われた気がする。
母親から見た真耶の姿と僕の中の真耶の姿がかなり異なっていることに気づく。どちらが真耶の本質に近いかは言うまでもない。僕はそのことについてはある程度自信があった。
「真耶が死んだ時、とてもつらかったわ」
彼女はいつもの悲痛そうな顔をした。
「夫も先に亡くなっていたから、家族がみんないなくなっちゃった気がして。実際のところ私には両親も姉もいるから、そんなことはないんだけど、その時はそう思った」
聞いたわけでもないのに、浦和美加は話し始めた。きっと話したかったんだろうなぁと思う。僕は真耶だったらどんな気持ちで聞くだろうと想像しながら、耳を傾けた。
「だからしばらくの間はすごく落ち込んでね。姉にも随分心配をかけたわ。それでも周りの人が支えてくれて、少しずつ前向きになって、真耶が生きられなかった分も生きようと思うようになった」
「そうですか」
「やまと君もせっかく元気になったんだから、大切に生きるのよ。真耶もきっとそれを望んでくれるわ」
「はぁ」
浦和美加はどこまでも憶測で真耶の気持ちを判断した。きっと生前一緒に過ごした時間が少なすぎて、本当はどう思っているかが全然わからないのだろう。だから都合のいいように解釈するしかない。
「今の夫も、つらい時に支えてくれた人なの。再婚しないかって言われて、すごく迷った。名字も変わるし、もう真耶と同じお墓には入れなくなるから。だけど、私が真耶の母親なのはこれから先も変わらないって気づいて、だったら新しい家族を作ることも悪いことじゃないと思って、再婚を決めたわ」
「真耶ちゃんも祝ってくれてると思いますよ」
僕は思ったままのことを言った。
「ええ、きっとそうよね」
浦和美加は幸せそうに笑った。彼女は娘が死ぬことでようやく娘の死と向き合い、それを受け入れることができたのだろう。僕から見るとそれは自己愛と思い込みに基づく気味の悪いポジティブでしかなかったが、彼女自身が幸せそうだから社会的には健全だと言える。
「僕、もう少し一人でお参りしていきます」
そう言うことで、僕は浦和美加と別れようとした。彼女と一緒に帰りの坂道を歩くことが億劫だった。悲しい境遇から立ち直った身の上話はもうお腹いっぱいだ。
「あら、そう。 よかったらこれからもたまに来てあげてね」
「はい。ありがとうございました」
浦和美加は軽やかな足取りで去っていった。
一人になった僕は、真っ先に花立の花を抜いた。温く腐敗した水を捨て、水道施設まで歩いていって新しい水を汲んだ。
改めて丁寧に花を挿し直す。花の量はちょうどよかった。色合いも悪くない。花を挿していると、墓石が薄汚れているのに気づいた。目立たない程度だが、埃や雨の痕がある。墓所内も、あちこちに雑草が茂っている。僕はこれらを綺麗にしたいと思った。
わかっている。この場所がどれだけ汚れ、寂れて朽ちても、真耶の本質とはなんの関係もない。彼女はこの場所の存在すら知らないで死んだんだ。それでも僕はこの場所を美しく保つべきだと思った。真耶自身がそうであったように、彼女の墓石もまた美しくなければならない。これは僕の中の真耶の形を守るための行為だ。僕は近い内に真耶の墓石を掃除しに来ようと決めた。今日は道具もないし、浦和美加の話を聞いて疲れたからひとまず帰ろう。
僕は真耶の墓石に向き直った。さっきまでここにいた浦和美加の姿を思い出す。名字が変わった。もう同じ墓に入ることもできない。それでも母親であることは変わらない?
そんなことはない。知らず知らずのうちに、口元がくっと引きつる。あれはもう真耶の母親じゃない。そもそも本当に母親だったかどうか怪しい。あれと真耶が母娘だなんて、僕には到底信じられない。
「やっぱり君は人間じゃなかったのかもなぁ」
僕は呟いた。それは目の前の墓石にではなく、ここではないどこか遠い世界で僕を待っている真耶に向けて投げかけた言葉だった。
一週間後、僕は準備を整えて真耶の墓参りに行った。工具店でバケツと軍手、掃除用のふきんを三枚買った。もちろんお参り用の線香やロウソク、花も別の店で揃える。その日、一時間程かけて僕は真耶の墓石をぴかぴかにした。周りの雑草も丁寧に処理した。花を添え、ロウソクと線香に火をつけて離れて見ると、それはとてもきれいだった。僕は満足して、その場所をとても居心地良く感じた。
以来、僕は毎週土曜日になると真耶の墓参りに行くようになった。掃除用具を持っていくのは月に一度くらいで、基本的にはライターと線香だけを持参した。本当は花も毎週添えたかったけど、価格的に厳しいものがあり断念した。
僕は真耶の墓前に立って一週間を振り返った。今週もちゃんと無価値な日々を過ごせたか。人に心を開かなかったか。楽しいと思うことはなかったか。一日ずつ、線香が短くなるのを眺めながら思い出して確認する。一週間分の反省が終わると帰る。それを毎週土曜日に行う。生活上のいいペースメーカーになった。
退屈で無価値な日常を過ごすことは本当に苦痛でしかなかった。一週間の間に何度も自殺しようかと思う。だけどそれじゃ真耶との誓いを果たせない。頭がおかしくなりそうだった。いや、おかしいという点で言えばもう既に充分おかしいのだろうが、そういうことじゃなく、心が折れそうになった。それでもなんとか土曜日まで辿り着いて、僕は真耶の墓参りに行く。そこで一週間を振り返った時、日々に苦痛が多ければ多いほど僕は満足できた。誓いを果たすための努力を怠っていないと確認できる。少しずつだけど、真耶の世界に近づけている気がした。
雨の日も風の日も、石が焼けるように暑い日も、秋になり冬になり雪が降っても、僕はその習慣を続けた。時間はだいたい午後二時前後だったが、お盆の時はさすがに浦和美加が来るかと思って、ほとんど日が落ちかけた頃に行った。僕の予想どおり、お盆の日は別の花が添えられていた。手入れをしていないのに墓がきれいであることから、僕が定期的に通っていることはすぐに推測されただろう。勝手なことをするなと苦情が入ればやめるつもりだったが、浦和美加から連絡が来ることはなかった。
冬は終わり、季節は春に入れ替わった。
真耶の命日が近づいていた。三月二十七日。その日は平日だったが、僕は例外的にお参りに行くことに決めた。どうせ春休みだし、時間の融通は聞く。
しかし、命日にも浦和美加が来るかもしれない。彼女の人間性から判断すると、命日は仏前に手を合わせるだけで済ませそうだが、可能性は捨てきれない。僕はなるべく閉園に近い時間に行くことにした。
いつも行く花屋で、念入りに花を選んだ。白を基調として、優しい色の花を合わせてもらう。墓前に馴染んで、なおかつ少しかわいらしさのある感じにしたかった。
午後四時半。僕は緩やかな坂を上り始めた。今日は天気がいい。夕日が鮮やかだった。
五年前もこんな日だっただろうか。真耶が死んだのは早朝のことだから、今とは気温も陽の色も違う。僕は想像した。真耶が最期に見たのはどんな景色だったんだろう。その景色は美しかったのか、それとも退屈なものだったのか。
坂を上りきった。霊園の入口には桜の木が植えられている。ようやくつぼみが膨らみ始めたのが目に留まった。もうじき薄紅色の花でいっぱいになるだろう。そんな些細な期待を、窓の外の桜を見ながら、真耶も抱いていたかもしれない。僕もこんな日に死ねたらいい。むしろ今日がいい。今日死ねたら、僕は真耶と同じ命日になる。この世界でよく起きる、奇跡みたいな偶然だ。たいしたことじゃないけど、少し面白い。
そんなことを考えている間に、墓所が見えた。思いを巡らせていた僕は、ようやくそこに人影があることに気づいた。一瞬、浦和美加かと思って身構えたが、違う。彼女にしてはその人影は小柄すぎた。
歩調を緩めて、少しずつ近づく。小柄な人影は制服を着ていた。紺色のブレザーにチェックのスカート。女子高生。長い髪が風に揺れている。あの子は。
女子高生がこちらに気づいた。バチリと目が合う。
僕は思わず足を止めた。
彼女はすぅと大きく息を吸い込んだ。
「待ってたよ、やまと君!」
凛とした声が人気のない霊園に響く。
女子高生は腕をあげて、僕に手を振った。墓所を飛び出して、こちらに駆け寄ってくる。
その子どもっぽいしぐさ。小柄な身体。うさぎみたいな丸い瞳。
面影は充分すぎるくらいあった。
「よかった、ちゃんと生きてて」
僕の前で、女子高生はにこりと笑った。
それはまぎれもなく、渡田奈月が成長した姿だった。
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