第7話
白い天井が見えた。
水に浸かっているように体が重い。目だけを動かして辺りを見る。どこもかしこも白い。よく見慣れた色。ここは病室のベッドの上だ。
僕は自分が目を覚ましたのだということにようやく気づいた。同時に状況を理解する。僕は四分の一を引けなかった。手術は無事に成功し、僕は再び意識を取り戻したのだった。
僕はひどく落ち込んだ。なんの根拠もないのに、僕は四分の一の確率を引けると期待していた。こういう時にはよくない方向へ物事が進むと思い込んでいた。考えてみれば期待できる程のことじゃない。意識を取り戻す可能性の方が高いことはわかっていたのに。
頭はまだぼんやりしていた。間もなくお医者さんと看護師のお姉さんが入ってきて、僕に手術が成功したことを告げた。返事をするのがとても億劫だった。
何度か眠ったり覚醒したりを繰り返した。ふわふわした意識の中で、真耶はもう手術の結果を聞いただろうかと思う。それを聞かされた時、彼女はどんな顔をするのだろう。作り物のような少女の横顔を思い浮かべる。きっと、一言「そう」と呟いて窓の外を眺めるのだろう。なっちゃんに笑いかけられたら、一緒に喜んであげるのだろう。優しく髪を撫でながら。一人で僕のことを考える。僕が一緒に居ない間の真耶は、誰とどこにいても一人ぼっちだ。
真耶に会いたかったけど、顔を合わせるのが怖い気持ちもあった。僕は一度真耶にさよならしたつもりでいた。運悪く生き延びてしまった僕はとても惨めで恰好悪い。今さらどんな顔で話せばいいんだろう。
術後しばらくの間は容態が急変するといけないということで、設備の整った個室で生活した。僕は半分投げやりに容態の急変を願ったけれど、作り変えられた身体は気持ち悪い程落ち着いていて、お医者さんや母さんを安心させるばかりだった。僕は徐々に日常を取り戻していった。そして予定より一週間も早く元の病室に戻れることになった。
看護師のお姉さんに連れられて、見慣れた三〇七号室の扉を開ける。右奥のベッドの上。真耶は半身を起して窓の外を見ていた。なっちゃんはいない。院内学級に行っている時間だ。
「真耶」
名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと振り向いた。
「おかえりなさい」
とても単調な声で真耶は言った。口元には微かな笑みが浮かんでいるが、その瞳には喜び以外の感情が確かに混ざっていた。僕はその感情を読み取ってしまうのが怖くて、すぐに目を伏せた。
「ただいま」
僕は力なく答えた。看護師のお姉さんの明るい声が、その時ばかりは救いのように思えた。僕はベッドに入り、目を閉じて眠ったふりをした。
一時間程すると、なっちゃんが院内学級から戻ってきた。部屋の扉を開けたなっちゃんは、僕の姿を見るなり飛びつくように傍に寄って来た。静かだった病室がわっと賑やかになる。はしゃぐなっちゃんに影響されて、真耶もやっとまともに笑ってくれた。影響されたのは僕も同じで、ただ素直に手術の成功を喜んでくれるなっちゃんとは気楽に話せた。ちょっとぞんざいな言い方をすると、扱いが楽で助かった。
三人での生活が再開した。だけど、前と全く同じ生活に戻ったわけじゃない。目に見えないところで、状況は確かに変化していた。
以前の僕と真耶の関係は、一ミリの隙もなく完璧だった。僕は真耶と同じ空間にいるだけで満ち足りていた。どんな表情でも彼女は美しく、目をそらす理由なんて一つもなかった。僕たちは完全に同一な意識を共有していた。二人はこの世界に適応できずに排除される運命を背負っている。裏を返せばそれは、身体がこの世界を拒絶しているということ。僕と真耶が生きるべき世界はここじゃない。相応しい世界を探すために、早々に旅立つことを決められた。その日に備えて、僕たちはここに隔離され、出会うべくして出会ったのだ。そんな話を、二人で何度したかわからない。最初はただの空想ごっこだった。退屈しのぎに考えた遊びのひとつ。色んな本から面白そうなアイディアを少しずつ拝借して、理想の世界を思い描く。空想は際限なく広がった。単調な入院生活の中で印象に残る出来事なんてほとんどないけど、真耶と空想したことは細部まで覚えている。それこそ、当時の光景が目に浮かぶように。
「やまとが最後の鍵だったの」
出会って間もない頃、真耶は僕によくそう言った。僕が訪れたことで真耶はやっと〝完成した〟らしい。だから、僕がいてこそ完全なんだと、僕はもう真耶の一部なのだと、繰り返し話していた。
僕にとって真耶は、最後というよりは最初の鍵だった。幕開けの合図。スタートボタン。彼女によって僕の世界は完全に覚醒した。その点で言うなら、僕もまた真耶がいなくては不完全な存在だったということだ。
つまり僕たちにとってお互いの存在は不可欠だった。僕たちは一緒にいるべきで、当然一緒にいるものだ。ずっと、何があっても一緒。どちらかが死ぬまで。いや、きっと死んだ後も一緒だ。僕と真耶の絆が死んだくらいで切れるとは思えない。天国か地獄か、あるいはただふわふわと漂う存在になるのか。そんなことわからないし、もうなんだっていいけれど、僕たちはずっと一緒にいることにしよう。そう決めた。
しかし、僕と真耶の関係は変化してしまった。僕は真耶をじっと見ることができなくなった。特に、目はほとんど合わせられない。目を合わせれば感情は伝わってしまう。僕の感情が真耶に伝わることも、真耶の感情を読み取ってしまうことも、僕には怖かった。会話も以前のように弾まなくなった。僕の手術が成功したことについて、二人とも意図的に触れないようにしていた。
僕の中にはいつも後ろめたい気持ちがあった。できることなら真耶に「ごめん」と言ってしまいたかった。だけど、その言葉を口にしたら決定的に何かが崩れてしまいそうだった。僕が謝れば、真耶はそれを許すか許さないかを選ばなければならなくなる。その選択はきっと真耶を傷つける。そんなことをさせたくない。
僕と真耶が以前のように笑顔で話せるのは、なっちゃんが一緒にいる間だけになった。なっちゃんだけが、手術の前後で全く変わらない存在だった。退屈で仕方がない院内学級にも、最近は真面目に通うようになった。真耶と二人で部屋に残されるのが不安だったからだ。必然的になっちゃんと一緒にいる時間が増える。僕たちはよく話すようになった。
その年の夏は暴力的なまでに暑かった。僕たちは病室の窓からぎらつく太陽を見ているだけだったけど、それでも暑さにあてられたのか、真耶が体調を崩した。連日熱が下がらず、床に臥せっている。真耶の発熱は夏の間中続いた。当然真耶の身体は衰弱した。頬がこけて、目は落ち窪み、唇は色を失くした。
よくないのはこの先だ。真耶が衰弱していくのに反比例して、僕の身体はあろうことか成長し始めた。緩やかではあるが身長は伸び、声が低くかすれ出した。僕は鏡を見ることさえ恐ろしくなった。十歳の夏の日に止まったはずの時間が、動きだしてしまった。
僕は成長していく自分を真耶に見せるのがいやで、ますます彼女との関わりを避けるようになった。低くなる声や伸びていく手足は真耶を悲しませる。僕と真耶は一緒にいてもつらいだけになった。どうしてこんなことになってしまったんだろう。これからどうなってしまうんだろう。僕はいつも考えていた。とてもいやな予感がした。
ひとつ学んだことがある。現実の世界では、変化は徐々に起こるのだということ。次のページを開けばいきなり悪い魔女が現れるとか、そんなことはない。最初は目に見えない違和感からはじまって、少しずつ少しずつ、いやな感じが日常に浸透していく。たとえば真耶の調子が悪くなったこととか、僕の身体が成長を始めたこと。毎日少しずつ変化が積み重なっていく。
僕たちはそれに抵抗することができないまま、気づけば一年半の時が過ぎてしまった。僕と真耶は十五歳に、なっちゃんは十歳になった。僕の身長は十センチ近く伸びた。真耶の体調は相変わらず不安定だった。僕たちは息がつまるような不安に怯えながら、それでも懸命に日常を維持しようとしてきた。努めて明るく、努めて和やかに。僕たちの日常はもうガタガタだった。風が吹けば崩れるような足場の上に、かろうじて平穏が保たれている状態。
そして運命の吐息はとうとう僕たちの平穏を吹き飛ばしてしまう。
十月の初旬。肌寒い朝だった。僕は定期検診のため処置室に呼ばれていた。お医者さんは僕のカルテをペラペラとまくって、満足そうにうなずいた。
「いいね、やまと君。順調に回復してるよ」
「はい」
「この調子で上手くいけば、今年中に元の病院に戻れるかもね」
僕は絶句した。全身の体温が急激に下がったような気がした。息が止まる。
「元の病院ならお母さんもお見舞いに来やすいし、家にもちょくちょく帰れるようになるよ。そこでも順調にいって、やまと君に体力がついたら、今度はとうとう退院だ」
お医者さんが何を言っているのか全くわからない。これは本当に、間違いなく僕の話なんだろうか。
「また前みたいに元気に暮らせるようになるんだよ」
信じられない。信じたくなかった。
「僕の状態はそんなにいいんですか?」
冗談みたいに軽い声を意識して言った。あくまでも嬉しそうな表情を浮かべて、僕はお医者さんを困らせないようにする。
「うん。術後の不調もなかったし、びっくりするくらい早く回復してる。ここまで順調なのは奇跡的だね」
奇跡的。
こんな最悪のタイミングで、最悪な場面で、どうして奇跡なんか起こるんだ。
「次はお母さんも一緒にいる時に話そう」
僕はふらふらと処置室を出た。悪い夢を見ているみたいだった。音も声も、ぼんやりと遠くから聞こえる。
何か方法はないのか。僕と真耶がこのまま一緒にいられる方法。せめて真耶が死んでしまうまで僕がこの病院にいられたら。いや、駄目だ。僕はもう真耶に「すぐに追いつく」と約束できない。僕は真耶を見送って、その後平凡に外の世界で生きることになる。それを隠すなんて無理だ。彼女は絶対に嘘に気づく。僕は真耶を裏切ることになる。僕が目いっぱいわがままを言って、なんとかこの病院にいられることになっても、根本的なことは何一つ解決しない。僕の身体はどうしようもなく着々と回復していってしまう。健康になった僕が病院にいる意味も理由もない。追い出されるように退院の日取りが決まるだろう。その時こそ僕は真耶をズタズタに傷つけることになる。
そもそも僕が元の病院に移るのがいやだと言って、その意見が通るはずがない。みんなが「どうして」と聞く。その理由を一から丁寧に時間をかけて一所懸命話したとして、理解してもらえるとは思えない。「だけど」という言葉が必ず返ってくる。
僕は近い内に死ぬ運命だったんじゃないのか。実際にそうだった。手術さえしなければ僕は必ず死ぬはずだった。手術なんかしてしまったから。あの時の選択が全てを狂わせた。僕は僕の運命に手を加えてしまったんだ。どれだけ疲れたって父さんと母さんを説得しなければならなかった。僕はただ面倒だという理由だけで彼らに抵抗しなかった。僕は心の底から後悔した。あの時の自分が憎くてたまらない。都合のいい時だけ家族になろうとする父と母にも嫌気がさした。
僕は真耶に転院のことを話せなかった。全てぶちまけて懺悔して、ボロボロになるまで責められたいと思った。そのまま真耶に殺されてしまいたかった。だけど、それで僕だけ楽になって、残された真耶はどうなる。真耶はどうしようもなく傷ついて、死ぬより苦しい思いをして、こんな世界にたった一人取り残されてしまう。彼女を絶望の底に突き落とすのは、他でもない僕だ。そう思うと、どうしても真耶には話せなかった。
僕はまともに眠れなくなった。食欲もない。最近の状態が良かっただけに、医師は僕の不調を心配した。僕は半ばわざと不健康な生活を続けた。病状が悪くなれば、転院の話もなしになるかと思った。しかし、もう僕の身体はその程度のことじゃ動じなかった。僕は自分の身体が生きる力で満たされていることに気づいていた。いやな予感は予感ではなくなった。僕はもうこの世界で生きていくしかない。
転院の日は年内に決まった。その日医師と一緒に話し合った母は、晴れやかな表情で処置室を出た。安心しているというよりは、達成感や充実感に酔いしれているような顔だった。
「これからは一日おきにお見舞いに行けるよ。今まで寂しい思いさせてごめんね」
寂しい思いをしたことなんて一度もないな、と思い返す。病気になる前から僕は一人でいることが多かったし、今さら親に執着する気持ちはない。
「僕、中庭に出てくる。少し外の空気を吸いたいんだ」
「あら、そうなの。寒いから風邪ひかないようにね」
母親をエレベーターのところまで送って、僕は一人で歩き出した。階段で下に降りて中庭に出る。かなり寒いが頭の中が冷えるようで心地よかった。
もう逃げられない。真耶に僕の口から伝えなければ。看護師には僕から話すからと言ってずっと黙っていてもらったが、具体的な日が決まった以上、いずれどこかから話が伝わるだろう。どのみち真耶が傷つくなら、その罪は僕が全て背負うべきだ。
冷たい空気を深く吸い込む。覚悟なんて全く決まらない。今この瞬間に、もう一度僕の心臓が止まればいいのにと本気で思う。だけどそんな夢みたいなことはありえない。この世界では、少なくとも僕と真耶の望むような奇跡は起こらない。
暗い気持ちで屋内に戻る。病室へ向かう廊下を歩いていると、母の姿を見つけた。
「母さん」
呼びかけると、母は僕に気づいた。
「おかえり。寒くなかった?」
大丈夫、と答える。
「帰ったんじゃなかったの?」
あのままエレベーターに乗っていたなら、今頃母は車を走らせているはずだ。
「洗濯物を持ってきたのを思い出してね、病室に届けておいたわ」
そう、とうなずきかけてハッとする。ぞわりと背筋が寒くなった。
「病室に、入ったの?」
「そうよ。真耶ちゃんがいたから、今までありがとうって挨拶してきた」
爽やかに言ってのける母親の顔が悪魔のように見えた。
僕は母に適当に別れを告げて歩き出した。もどかしくて、しだいに駆け足になる。すぐに息が苦しくなった。僕の身体はまだこんなに脆弱なのに、どうして真耶と一緒に死んでしまえないんだろう。
勢いよく病室の扉を開ける。
僕は驚いて声をあげそうになった。
真耶がいつものようにベッドの上に居なかったからだ。彼女は病室の真ん中に立っていた。今日の空は曇っていて、部屋の中は薄暗い。白というよりは灰色に統一された室内に、真耶も同化しているようだった。真耶は力なく腕を垂らしてうつむいている。顔を伏せたまま、目線だけが僕をとらえた。
「聞いたよ。前の病院に移るんでしょう?」
少女の声は窓の外から忍び込む風のように冷たい。
「真耶」
僕は今どんな顔をしているのだろう。真耶からどんな風に見えるのだろう。名前を呼んでみたけど、何から話せばいいのかわからない。何を言ったって言い訳にしかならない気がした。
「やまと」
呼びかけに答えるように、真耶が言った。表情はない。人形のようにきちんと静止した顔。体が震えそうだった。真耶は怒っている。これ以上ないくらいに。
「あなたのあの母親は何?」
真耶は口元をくっと引きつらせた。表情がようやく人間らしいものになる。それは明らかに嘲笑を意味する顔だった。
「あの人は、今までやまとと仲良くしてくれてありがとうって言った。それからすごく言い辛そうで、申し訳なさそうな、気持ちの悪い顔をして、真耶ちゃんも元気でねって言ったの」
その場面がありありと目に浮かんだ。気持ちの悪い、と真耶が表現した母親の顔も、容易に想像できる。最悪なシーンだった。
「わかる? 元気でねって、私に言ったの。私がその内死ぬことを知っているくせに、元気でねって。あなたの母親は私を憐れんだの。とてもとてもかわいそうって、そういう目で私を見たの。だけど、自分の息子がこうじゃなくてよかったって、そう思ってた。そういう顔をしていた」
わかる。僕の母親はそういう人間だ。そして真耶はそういう人間が拙い演技で隠しているつもりの部分を、いとも容易く見抜いてしまう。僕は頭に浮かぶ母親の顔をめちゃくちゃに塗りつぶした。あの女、よくも真耶にそんなことを。
「真耶! ごめん。ごめんなさい。僕の母親は最低だ。同じ血が流れてると思うと吐き気がする。今すぐ体中の血を入れ替えてしまいたい。僕はあの人を一生許さない」
「うるさい! お前だって私を裏切ったくせに!」
真耶が大きな声を出した。今までに聞いたことのない鋭い声。目と顔が赤らんでいる。真耶はまくしたてるように言った。
「もうすぐ死んじゃうって言ったのは嘘? 私と一緒に死ぬんじゃなかったの? 嘘つき。絶対に許さない」
普段の穏やかで優しい彼女は見る影もなかった。だけど僕は知っている。真耶は本来こういう女の子だ。ただ優しいだけじゃない。燃えさかる青い炎を心に宿して、冷たい横顔にそれを押し込めている。閉じ込めた熱を爆発させた少女はとても美しかった。
真耶は呼吸を乱しながら続ける。
「こんな世界でのうのうと生きていくつもり? 私と過ごした日々も大切な思い出だとか言って、私の全然知らない場所で、知らない人たちと笑いあって、慰め合って、ぬるま湯に浸かるみたいに生きていくんでしょう。私はやまとの一部になれて嬉しかったけど、やまとの人生の一部なんかにはなりたくない!」
言葉を区切る度に、真耶ははぁはぁと苦しげに息を吐いた。その状態がとてもよくないということを知りながら、僕は真耶の言葉を遮らなかった。
「手術の成功率は低いって言った。成功したとしても近い内に死ぬのは変わらないって言った。嘘。嘘。嘘つき。なんで死なないの? なんで生きてるの? なんであの時死んでくれなかったの?」
そこまで言って、真耶は大きく咳き込んだ。崩れるように床にしゃがみこむ。口元を押さえて、鈍い咳を繰り返す。その度に真耶の細い身体が大きく揺れる。一際重たい咳とともに、真耶の白いパジャマに赤い飛沫が散った。
僕はナースコールを押した。
真耶は虚ろな目で僕を見上げた。口を押えている手から、ぽたぽたと血液が落ちる。
「やまとも結局、私を一人で死なせるんだね」
かすれた声で真耶が言った。
直後、看護師がばたばたと駆け込んでくる。朦朧としている真耶を担ぐように車いすに乗せ、看護師は慌ただしく出ていった。
入れ替わるようにして病室に飛び込んできたのは、なっちゃんだった。
「やまと君!」
なっちゃんはうろたえていた。ぎゅっと握った両手が微かに震えている。その様子から、真耶との会話をいくらか聞いていたんだとわかる。
「やまと君、違う病院に行っちゃうの?」
なっちゃんの目は既に潤んでいた。
「うん。ごめん」
僕は呆然としながら、無意識に彼女の頭を撫でていた。
「いや」
くしゃっと、なっちゃんの表情が歪む。ああ、泣いちゃうな。でも、今の僕には涙を止める術がない。
「やだよ、絶対いや! ずっと三人一緒がいい」
なっちゃんは泣きだした。両手で目をこすりながら、わぁんと声をあげる。嗚咽で呼吸が乱れ始めると、彼女もまた床に崩れた。
僕は再度ナースコールを押した。
今度はさっきよりも早く、すぐに看護師が飛んできた。看護師の額には汗が浮かんでいた。ナースセンターはてんやわんやだろう。なっちゃんは抱えられるようにして、処置室に連れて行かれた。
残された僕はぺたんと床に座り込んだ。真耶が落とした血の雫が鮮やかに残っている。真耶のように激昂することも、なっちゃんみたいに泣くこともなく、僕の心は空虚だった。
間もなく、看護師の一人が病室に入ってきた。座り込んだ僕を見て驚いたが、体調に異変がないことを察して安心したらしい。看護師は僕を立たせて、床を拭いた。結んだ髪が少し乱れている。僕はベッドに戻るでもなく、真耶の血が拭き取られていくさまをじっと見ていた。
「二人とも、やまと君と仲良しだったもんね」
看護師が言った。
「でも、やまと君が悪いわけじゃないよ」
慰めの言葉。僕の心まで癒そうとするのか。
「いや、全部僕のせいだ。ごめんなさい」
僕はうなだれた。
何もかもが崩れてしまったという事実だけがそこにあった。
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