第8話

 発作が軽くすんだ奈月は、その日のうちに病室に戻ってきた。やまとはベッド周りのカーテンを全て閉じていて、話しかけられる空気ではなかった。奈月はすんすんと静かに泣いては泣き止むのを繰り返し、その内疲れて眠ってしまった。

 喀血した真耶は、その日処置室から戻らなかった。

 やまとは消灯時間を過ぎた後も横にならず、ベッドの上で膝を抱えていた。真っ暗な病室。隣のベッドからは奈月の穏やかな寝息が聞こえる。

 目を閉じても開いていても、浮かぶのは真耶の姿だけだった。雷鳴のように響いた声。非難の言葉。色のない世界に突然飛び散った鮮血。やまとの頭の中では、その時の映像が一秒も欠けることなく繰り返されていた。

 裏切った。嘘つき。許さない。

 そう。僕は真耶を裏切った。僕は嘘つきだ。僕は許されない罪を犯した。

 やまとの世界はこれまでにないくらい覚醒していた。いつだってどこか投げやりで散漫だった思考が研ぎ澄まされる。痩せた身体の中で処理しきれないほどの感情や意識が絶え間なく生まれては渦を巻いていた。

 罪悪感。少年の中心にある感情はそれだった。自分を正当化するような思考は一度も生まれない。どう考えても絶対に自分が悪い。真耶の言うことはひとつも間違っていない。

 問題はどうしたら罪を償えるか。いや、この罪は償えるものじゃない。贖罪によって楽になろうなんて自分本位なことを望む権利はもうない。問題は、どうしたら少女を救えるか。どうしたら真耶の傷を癒せるか。

『やまとも結局、私を一人で死なせるんだね』

 看護師が駆け込んでくる直前、真耶が零した言葉が響く。血にまみれて体を震わせながらやまとを見上げる少女は、その時間違いなく絶望の底にいた。

 そんな真耶の姿を思い返して、やまとはようやく気づいた。

 僕は真耶を愛している。この世界で唯一、真耶だけを。

 それはすなわち、真耶以外の全ての人間を愛していないということに気づいた瞬間でもあった。当然、その中にはやまと自身も含まれる。少年の世界は、たった一人の少女のための世界になった。

 真耶を一人で死なせるわけにはいかない。

 やまとの中に強い意志が芽生えた。

 どうしたらいい。

 午前零時。

 やまとはそろりと腕を伸ばして、窓辺のカーテンをめくった。雲の切れ間から、冴え冴えと光る三日月が見えた。絡まっていた思考がすっと動きを止める。きれいだ。ただその感情だけがやまとの中に満ちる。

 このまま、窓から飛び降りて死んでしまうのはどうだろう。

 やまとは目線を下に移した。覗き込むように、地上を見る。この病室は三階だが、病棟自体が勾配のある地面に建っているから、地上までの距離はそれなりにある。確実に死ねる高さだとは思えなかったが、美しい月を見ているとそのまま体が引き寄せられてしまいそうな気持ちになった。

 でも、駄目だ。

 やまとはふっと我に返って、カーテンを降ろした。

 自分の意志で死んでも、なんの意味もない。真耶は自分の意志で死ぬわけじゃないからだ。抗いようのない運命の意志で、真耶は死ぬ。やまとも同じ運命でなければ、世界を共有したことにならない。やまとが自殺すれば、真耶はそれを逃げ出したと受け取るだろう。真耶が一人で死ぬことは変わらない。楽になるのはやまとだけだ。

 つまり最悪の手段。却下だ。

 やまとは人差し指の付け根をぐっと噛んだ。赤く歯形が残る。それでも足りないと思って、がりがりと同じところを何度も噛む。

 何か方法はないか。本当に、どんな手段だっていい。真耶を絶望から救えるのなら、なんだってできる。

 真耶は言った。

『こんな世界でのうのうと生きていくつもり?』

 真耶が嫌悪し軽蔑したのは、やまとが健康で健全に、ふつうに生きていくことだ。魔法使いが現れるわけでもなく、背中に羽根が生えることもない退屈な世界。やまとと真耶はそんな世界に飽き飽きして、興味を失くしていた。だから二人で理想の世界を思い描いてきた。それなのに病気が治った途端、やまとが現実に適応してその中で楽しく暮らしていくなんて大いなる矛盾だ。そんな自分を想像して、やまとも気分が悪くなった。

『私はやまとの一部になれて嬉しかったけど、やまとの人生の一部なんかにはなりたくない』

 言葉の意味ははっきりわかる。真耶の存在が世界を構成する要素であるか、道の途中でただ通り過ぎる風景の一つであるかという違いだ。

 僕だっていやだ。真耶を人生の一部になんかしたくない。

 一際強い力を込めて、指の付け根を噛む。冷や汗が滲むほどの痛みが走った。

 ずっと真耶と同じ世界を生きていけたらいい。そうすれば彼女は一人にならない。一緒にいられる。だけどもうすぐ現実の世界に引っ張り出されてしまう僕に、そんなことできるのか。

 やまとは指を噛み続けた。継続的な痛みが余計な不安を削ぎ落としてくれる。噛み痕はしだいに鬱血して赤黒くなっていったが、血が滲むことはなかった。歯で皮膚を裂くのは思いのほか難しい。

 一時間。二時間。やまとは少しも眠くならなかった。途方もない考えを巡り、あらゆる手段を提案しては却下する。そんなことを繰り返して空が白み始めた頃、ようやく指から唇を離した。

「もうこれしかない」

 確実な方法はついぞ思い浮かばなかった。

 残された有効策はただひとつ。凍てついた真耶の心の奥に、やまとの言葉がまだ届くのかわからない。それでも手を伸ばさなければ、彼女は一人ぼっちのまま永久の眠りにつくのだ。やまとは祈り、全てを賭けた。

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