第6話

 再び桜の季節が訪れようとしていた。

 やまとは夜となく昼となく窓の外ばかり眺めている。あんまり窓ばかり見ているから、遊んでもらいたい奈月と真耶はシャッとカーテンを閉めてしまうことがあった。そうすると少年はようやく夢から醒めて、いたずらな笑顔を浮かべる二人の少女を見るのだった。

 奈月は院内学級に通い始めた。心配されていた人見知りもなく、他の病棟の子たちとも仲良くなった。院内学級に馴染まなかったのはむしろやまとの方だ。愛想よく面倒見がいいから、周りの子たちにはある程度慕われた。だが、やまとには院内学級の生徒も学習内容も退屈だった。せめて真耶も一緒なら。やまとは和やかな授業を聞き流しながらいつも思った。真耶は体調に波があり消耗も激しいから、めったに院内学級に参加しない。彼女もまた院内学級を楽しんではいないようだった。やまとは何かと理由をつけて、院内学級を頻繁に休んだ。

 少年は十四歳の誕生日を間近に控えていた。やまと本人よりも、奈月がそれを楽しみにしていた。ひと月も前から、何をプレゼントしようかと考えている。真耶は何か考えているのだろうか。奈月は何度も相談しようとして、やめた。真耶と一緒に何かあげるよりも、自分一人でやまとを喜ばせたいと思った。

 桜のつぼみが開き始めた日。午前十時頃、やまとの母親が病室を訪ねてきた。

「お医者さんからお話があるそうよ」

 そう言ってやまとを連れ出した。驚いたことに、病室の外には父親が立っていた。両親が揃ってやまとを見舞いに来たのは初めてだ。よほど大事な話なのだろうか。

 看護師に案内されて、親子三人で部屋に入った。部屋の中には見慣れた主治医と、看護師が一人。やまとは中央の椅子に腰かけるよう言われた。父と母がそれぞれ両脇に立つ。少年の周りを、ぐるりと大人たちが取り囲んでいる。とても居心地が悪かった。

「やまと君はもうすぐ十四歳になるね」

 医師がとりわけ意識して優しい声を出す。

「はい」

 今さら何を言われたってショックなんて受けないから、さっさと本題を言って欲しい。やまとはこの空間から早く解放されたかった。

「同室の子たちとも仲良くしているし、院内学級にもそれなりに通えているそうで、本当によかったと思う」

「はい」

「最近は体調も安定している」

「はい」

「ただ」

 言葉が途切れる。こんなあからさまに心苦しそうな雰囲気を作らなくてもいいのに。やまとは辛抱強く話の続きを待ってあげた。

「ただ、今のままの治療じゃこの先よくなるとは言い切れない」

「はい」

「でも、違う手段を試してみたら、よくなるかもしれない」

「は」

「君の年齢でも受けられる手術があるんだ。日本の他の病院じゃ無理だろうけど、この病院でならできる。リスクはあるけど、成功すれば今よりも状態はよくなる」

「じゃあ受けません」

「え?」

 淡々と頷いていたやまとが、医師の話をぶっつりと遮った。もともと静かだった病室が、呼吸もためらわれるほどの静寂に包まれる。大人たちの驚きと戸惑いと緊張が、ドッと溢れだしたことにやまとは気づいた。我に返って、困ったように笑って見せる。

「だって、リ、リスクがあるんでしょ?」

 咄嗟に手術を受けないと言った理由は、本当はそこにはなかった。だが、この場にはこの言葉がふさわしい。やまとは気味の悪い波を打ち消そうとした。

「そうだね。やまと君の命に関わることだから、ちゃんと説明するよ」

 医師の説明は次のようなものだった。

 今のままの治療を続けても、やまとの体力は徐々に落ちていくばかりで、長くはもたない。この病院でなら、難しい手術が受けられる。ただし、リスクは高い。術後、病状が反って悪くなる可能性が三十五%。術後に意識が回復しない可能性が二十五%。すなわち、まともに成功する確率は五十%を切る。成功したところで、予後も良いとは言えないらしく、通院や服薬はずっと続けなければならないし、再発する可能性も高い。ただ、成功すれば今より長く生きられることは確かだと言う。

「受けません」

 ひととおり話を聞いた後、改めてやまとは言った。

「手術を受ける意味がないです」

 極めて成功率の低い手術を勧めることが、やまとには不可解だった。こんな説明を聞かされて「それなら手術を受けます」と、僕が言うとでも思っているのか。

 成功するかどうかは、あまり問題じゃない。多大なリスクを背負うことが、やまとにはただ面倒だった。今までと違うことに挑戦する気力がもうない。

「すぐに結論を出すものじゃない」

 やまとの左に立っていた父親が言った。静かだが力強く重さのある声が響く。やまとの背中にじわりと汗がにじんだ。

「もう少し時間をかけて、よく考えてから決めなさい」

 やまとは恐る恐る父の顔を見上げた。病室の照明で逆光になって、表情はよくわからない。

「そうよ、やまと。父さんと母さんはね、前々から手術の話を先生から伺っていたの。リスクが大きいからやめた方がいいんじゃないかって、何度も考えたけど、それでも希望があるならそれに賭けたいって、母さん思ったの」

 母親はしゃがんで、やまとと目線を合わせた。うっすらと涙が浮かんだ瞳でじっと息子を見つめる。

「父さんも同じ意見だ。お前には元気になって、家に帰ってきてほしい」

 父親もやまとの顔を覗き込んだ。ようやく表情が見えるようになる。とても真剣な顔だった。

 やまとは混乱し始めていた。父が母の意見に同意するところを、息子は初めて見た。こんなに母が母らしく、父が父らしくしていることは今までになかった。絵に描いたような家族の形がそこにはあった。母がぎゅっとやまとの手を握る。父がやまとの肩に手を乗せる。医師や看護師はそれをとても温かなまなざしで見守っている。

 目眩がした。それでもやまとは笑顔を浮かべてしまう。絶対的な優しさの圧力に抗えない。いや、抗おうと思えば抗うこともできる。だけど、そのために使う体力と時間を思うと、それだけでうんざりだった。もうどうだっていい。

「一度、考えてみてくれる?」

 母親が懇願するように尋ねる。

「ううん。僕、手術を受けるよ。希望があるならそれに賭けたいし、また元気になって家に帰りたいから」

 やまとはよく考えて決心したように、一言一言をゆっくりと口にした。こんなことについて考える時間なんて一秒も欲しくなかった。結論を出してしまえばとりあえず解放される。

 やまとが突然意見を反転させたことに、両親も医師も驚いていた。しかしこういう時は概して、相手が説得に応じたことへの喜びや安心感がそれを上回る。だからやまとの態度の不自然さを、誰もがあえて見過ごした。

 やまとは病室に戻る途中、手洗いに行くと言って両親と早々に別れた。洗面台の鏡に映る顔には、まだ少し笑顔が張り付いていた。気持ち悪くなって、むやみに顔を洗う。当然タオルなんて持ってきていなかったから、服の袖で雫を拭う。

 前髪と服を濡らして部屋に戻ったやまとを見て、真耶と奈月は目を丸くした。奈月は慌ててタオルを渡し、真耶は風邪をひくから着替えたらと言った。やまとはそんな二人の姿を見てようやく落ち着き、同時にドッと疲れを感じた。

 何があって服の袖を濡らすはめになったのか、やまとは聞かれる前に話し始めた。どのみち二人には話さなければならないことだ。

「手術を受けることになった。成功率は低いらしいけど」

 真耶と奈月は揃って動きを止め、やまとを見た。

「低いって、どのくらい?」

 奈月はすぐに不安そうな表情を浮かべた。

「四十%くらい」

 答えながら、やまとは服を着替えはじめた。どうしてか真耶の表情を見ることができない。奈月はハラハラした様子でやまとを見上げていた。

「もし、もしも失敗したら? やまと君は」

「死んじゃうかもね」

 他人事のようにやまとが言う。

「そんなのいや!」

 奈月の声が大きく揺らいだ。

 やまとが着替えをすませて見てみれば、奈月はぐっと唇を噛んでうつむいていた。このままじゃ泣いてしまう。それはまずい。どうしよう。

「大丈夫だよ」

 言葉を選びかねている間に、真耶が言った。ゆっくりとベッドから降りて、奈月に近づく。

「なっちゃんが今悲しむことないよ。そんなにたいした話じゃない。ほら、深呼吸しよう」

 うつむく少女の前にしゃがんで、小さな手をそれぞれ握る。促すように、すぅ、ふぅ、と深く呼吸をした。奈月もそれに合わせてゆっくりと息をする。震える吐息の音が少しずつ落ち着いていく。

 しゃがんだまま、真耶がやまとを見た。

「手術なんて、まだ先の話でしょ?」

「うん。一か月以上先だってさ」

 再び奈月に顔を向けて、真耶はにこりと微笑む。

「それよりも、もうすぐやまとの誕生日じゃない。今はそのことを考えよう。先のことは、それから」

 やまとの誕生日という言葉に、奈月の表情はようやく明るさを取り戻した。こくりと小さく頷く。真耶はよくできましたと褒めるように、奈月の頭を撫でた。

 昼食の後、院内学級の始業時間になった。看護師が病室に迎えに来る。奈月はすぐに準備をしたが、やまとは全く行く気がなかった。

「僕、今日休む。考え事して疲れちゃった」

 先ほど同じ場にいた看護師は、今日は仕方ないかと思ったらしく、それ以上何も聞かなかった。

「そう。じゃあ今日はゆっくり休んで、明日行けるようにしようね」

 看護士は奈月を連れて出ていった。

「いってきます」

 奈月がやまとと真耶に手を振る。二人も同じように手を振って、少女を見送った。

 病室の扉が閉まる。やまとと真耶は顔を見合わせた。向かい合うベッドを遮るカーテンは、眠る時以外いつも開けっ放しだ。やまとの顔をじっと見つめたまま、真耶は微笑んだ。

「本当は、いやだったんでしょう」

 手術を受けること。

 真耶は当然わかっていた。

「うん」

 見抜かれたやまとは目をそらし、小さな声で返事をした。静かに自分のベッドから降りる。そしていつもそうするように、真耶のベッドの横にある椅子に座った。

「手術が成功したら、治っちゃうの?」

 今度は真耶が目をそらした。声は穏やかだが、不安に瞳が揺れている。髪で少し隠れた横顔からも、その陰りは見てとれた。やまとは少しでも真耶を安心させようと、椅子から乗り出すように顔を近づけて話した。

「成功しても、ほとんど良くならないんだって。手術後に急に悪くなったり、再発したりするらしい」

「そう」

「ちょっとした延命措置にしかならないよ。僕の運命は変わらない。奇跡でも起こらない限り」

「奇跡」

 その言葉に、真耶は反応した。顔を上げて、やまとを見る。いつもよりも少し近い位置に、少年の甘い笑顔があった。釣られて真耶の表情も和らぐ。ふっと肩の力が抜けて、安心できた。

「だったら、大丈夫ね」

「うん」

 不安が解消され、心地よい沈黙が訪れた。真耶は少しうつむくようにして、自分の指先を見ている。やまとも真耶の手を見ている。二人の視線はその一点で垂直に交わった。

「二十五%だって」

 穏やかな沈黙の後、ぽつりとやまとが言った。

「手術の後、意識を取り戻さない確率」

 真耶は少年の言葉を心地よく聴いていた。眠たくなるくらい優しい声。

「四分の一だね」

 二十五%。四分の一。実体を持たないただの数値。その確率が高いのか低いのか、真耶にはよくわからなかった。

「四分の一を当てたら、僕は真耶より先に死んじゃうよ」

 やまとはどこか悲しげだった。

「いいよ。許してあげる」

 真耶の声は眠たさのせいでとても小さい。

「しばらく一人にするけど」

 少年は夢の中にいるような心地でその声を聴く。

「いいよ。私もすぐに追いつくから、待ってて」

 魔法のように美しい言葉。

「うん。待ってる」

 二人は密やかに笑いあった。

「当たるといいね、四分の一」

 眠りに落ちる寸前、聞き取れない程の声で真耶が言った。

 そうだねと、やまとは小さく答えた。

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