第3話
風が騒がしい午後。朝に満開だった桜がもう散り始めていた。真耶は窓越しにぼうっとそれを見ていた。例年のように徐々に葉桜に変わっていくより、こっちの方が綺麗だ。緑の葉に桃色の花がじわじわと浸食されていく光景は美しくない。そんなことを考えていた。
ガラリと病室の扉が開く音が聞こえて、真耶は振り向いた。見慣れた看護師の隣に、小柄な少年が立っている。
「真耶ちゃん。ほら、今日から同じ部屋になる子。種坂やまと君」
看護師が少年を紹介する。
少年はぽかんと真耶を見ていた。
あどけない丸い瞳。隙だらけの無防備な表情。そこには何の陰りも不安もない。言葉を交わす前から、何も知らない子どもだというのがわかる。病を憂えて塞ぎ込む材料さえまだ手に入れていない。
「誕生日は、いつ?」
真耶は少年に聞いた。
同じ歳にしては子どもっぽいと思ったからだ。誕生日によっては一歳近く差があることもある。
「四月十二日」
少年はふにゃりと甘えるように笑った。
「まあ! もうすぐじゃない。おめでとう」
少年の使うベッドを整えながら看護師が華やいだ声を出す。
「君は?」
少年は首を傾げて聞いた。子犬みたいな仕草だ。
「六月の……二十日ごろ。二十五か二十六」
真耶は少し考えて答えた。
「二十八日よ! 真耶ちゃんは、六月二十八日生まれ」
看護師が肩をすくめて答えを訂正する。少年はそれを不思議そうに聞いていた。
「そうだったっけ。自分の誕生日なんてすぐ忘れちゃうよ」
真耶はカラリと笑った。ともかく種坂やまとが真耶よりも二か月程年上だという事実に、彼女は納得がいかなかった。たった二か月でも、少女にとっては大きな差だ。こんな幼稚な子がほんの少しでも年上だなんて、なんだか悔しい。
しばらくするとやまとの母親が部屋に来て、真耶に挨拶をした。
「やまとをよろしくね」
母親は穏やかに微笑んでいたが、どことなく不安そうだった。息子の病状か、あるいは子どもとはいえ同年齢の男女が同室であることが気にかかるのか。
よろしくお願いされたものの、真耶はなかなかやまととの距離を縮められずにいた。いつもなら同室になった子に対して積極的に話しかけるが、今回は受け身にならざるを得なかった。黙っていてもやまとが真耶に話しかけてくる。話題は主に本のこと。どんな話が好きかとか、最近読んだ本が面白かったとか、他愛のないことばかり。やまとはいつも無邪気で、その声は初夏の風のように軽かった。
真耶と同じ病棟に入院している以上、少年の病もまた重いはずだ。それなのに、やまとの表情は少しも陰らなかった。今まで同室だった子たちは、だいたい三日くらいでおうちに帰りたいとか外で遊びたいとか呟くようになったのに、やまとはそんなこと一言も零さない。いちいち励ましたり慰めたりしなくていい点については楽だが、反面つかみどころがなくて困る。真耶は少年のことをもっと知りたいと思った。
一週間が経ち、やまとは十二歳になった。窓から見える桜は完全に花を落し、若葉を茂らせている。まどろむように暖かい春の日。昼食を済ませると、いつものようにやまとが真耶のベッドサイドに寄って来た。二人のベッドは向かい合っているし、カーテンも開いているから、わざわざ近づいてこなくても会話はできる。それでもやまとは真耶と話すとき、なるべく彼女に近づいた。ベッドサイドに置かれた座り心地の悪い椅子に腰かける。
「誕生日プレゼントに父さんが新しい絵本をくれたんだ。一緒に読もうよ」
やまとは声を弾ませて言った。真耶は昨夜少年がその絵本を受け取るところを見ていた。読もうと思えばすぐに読めただろうに、真耶と一緒に読むために一晩我慢したようだ。期待を隠しきれないといった感じで、顔を輝かせている。雲一つない今日の空と似た、晴れやかな笑顔。
なんでこんなに幸せそうなんだろう。
真耶は少年の横顔を見ながら思った。
新しい絵本をもらったことがそんなに嬉しいのかな。それともそれを私と一緒に読めることが?
わからない。今まで出会ったどんな患者もそんな笑顔を見せなかった。病に蝕まれていく恐怖。閉ざされていく未来の可能性。制限された活動に反してありあまる退屈な時間。生まれた時からそれが当たり前だった私とちがって、外の世界で生きていたあなたたちはそれを苦痛だと思うのでしょう?
今までみんなそうだった。だからあなたもそうだと思っていた。種坂やまと。あなたは。
「やまと君は、外に出たいと思わないの?」
気づけば真耶はそう聞いていた。
絵本の表紙を一心に見つめていたやまとは、突然の問いに顔を上げた。
「思わないよ」
さも当然のように少年は答えた。いきなり何を聞くんだろうというように、丸い瞳で真耶を見ている。まっすぐな視線に真耶は戸惑った。
「どうして?」
騒ぐ心に声まで揺れてしまう。
「うーん。外に出たい理由がないもん。それに僕、たぶんもうすぐ死んじゃうし」
「へぇ、私と一緒だね」
真耶の返答はやまとを喜ばせた。微笑みが一層深く、とろけそうに甘くなる。
「真耶ちゃんは外に出たいと思ってるの?」
笑みを浮かべたまま、やまとは聞き返した。
「よくわからないけど、私もあんまり興味ないの。今まで同じ部屋にいた子たちが学校に行きたいとか、また友達と遊びたいとかよく話してたから、やまと君もそんな風に思ってるのかなって、気になっただけ」
「ふうん。僕、病気になるまで普通に学校に通ってたし、友達とサッカーとかもしたことあるよ。きっともう二度とそういうことはできないだろうけど、別にいやじゃないな」
やまとは絵本の表紙を指でなぞりながら話した。
「そうなの」
少年の細い指先を真耶は目で追った。光沢のある固い表紙には、濃紺の夜空が描かれている。無数の星が瞬く空に、銀色の竜が踊る。地上には密やかな森と、火のように赤い髪の少年が一人。
「だって、もし病気が治って退院して、また学校に通ったり友達と遊んだりできるようになっても、背中に羽根がはえるわけでもないし、魔法使いが現れるわけでもないでしょ?」
真耶は目を見開いた。
その言葉は歌のように美しい響きで少女の身体に入りこみ、心の一番奥にある扉を確かに叩いた。それは呪文のような言葉だった。一瞬、目が眩む。頭に鋭角な刃物を刺されたような気がした。
「うん」
自分に何が起こったのかわからないまま、真耶はかろうじて頷いた。鼓動が大きく、早くなる。
「結局、そんなことは物語の中にしかないんだ。だから、どこで生きても同じだよ。どっちかっていうと面倒なことをしなくていい分、僕は今の方が幸せだなぁ」
やまとの表情はいつもと同じように甘ったれていて、やっぱり子どもっぽいと真耶は思った。それなのに今の話には、真耶の知る子どもの言葉が一つもなかった。
この子は凄い。真耶は初めて心から他人を尊敬した。この子は私の知っていることをおそらくほとんど知らないのに、私の知らないことを知っている。
「そう、そっか……そうだね、そうだよね!」
真耶は一つ一つ何かを確かめるように呟いて、パッとやまとの手を握った。
「ありがとう。私、あなたに、やまとに、会えてよかった!」
湧き上がる感情はそんな言葉になって溢れた。
「本当? 僕もすごく嬉しいよ。真耶に、会えて」
やまとは照れくさそうに言って、少女の手を柔らかく握り返した。
真耶は無数の小さな穴が埋まっていくのを感じていた。つぎはぎだらけの地図がようやく世界の全様を映しだす。やっと答えを見つけた。これだ。この子だ。足りなかった最後の欠片。
外の世界でさえ奇跡は起きそうもないのに、こんな狭い病室の中でそれが起こるはずがない。それでも人との出会いを奇跡と呼んでしまいたくなる気持ちが、この時真耶にはわかった。少年の言葉によって真耶の心に変革が起き、世界が幸せに色づき始めたのは明白な事実だった。
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