第2話
陣内真耶は病院の外の世界について、ほとんど何もわからなかった。
生まれた時既に体は病に侵されていて、ふつうに日常生活を送ることは困難だった。体調が安定している時、ごくたまに自宅に外泊できるくらいで、あとはずっと病院の中。生死の境を幾度か彷徨い、その度に医師や母親はもう駄目だろうと思ったが、少女は生きながらえてゆっくり成長した。
病院の外には、とても広い世界があるらしい。今まで数えるほどしか訪れたことのない生家も、窓から見下ろす街並みも、世界のごく一部にすぎないらしい。
緩やかな成長の中で、真耶はそのことを知った。
知らないことを知りたいと思う当然の好奇心で、真耶は外の世界に興味をもった。だが、彼女の母親は娘にそういう話をしたがらなかった。たった一人の愛娘がその一生を病院の中で終えることがほぼ確定していたからだ。叶わない夢なら見せない方がいい。知らない方が幸せなこともある。母親は娘の口から「外に出たい」という言葉が出ることをおそれていた。実現できないことをお願いされてもどうしようもない。
母親だけでなく、真耶の病状を知る医師や看護師も同様の感情を持った。世界を知ることが、果たして彼女にとって幸せなことなのか。
無邪気な少女は、母親や医師に何度も問いかけた。
あの街には何があるの。街の外には何があるの。学校って何。それは何をするところ。
母親はいつも悲しい表情で答えをはぐらかした。医師や看護師はどんな質問にもなるべく真摯に答えようとした。共通の感情を抱きつつも、彼らの対応は血を分けた肉親か他人かという区別で正反対のものになった。少女が悲しむ未来を憂えるか、今ある好奇心を尊重するか。そこで判断がわかれた。
真耶は大人たちの動揺を敏感に察知した。幼い頃は母親が質問に答えてくれないことがただ不満で謎だった。その理由を探る内に、外の世界について質問すると母親がとても悲しそうな顔をすることに気づいた。よくよく見れば母親だけじゃない。医師も看護師も、上手く隠そうとしているけれど似た表情を浮かべる。
真耶はそれが不可解でならなかった。
きっと私は病院の中でしか生きられない。
周りの大人は誰もそんなことを明言しなかったが、彼女はそれを当然のこととして受け入れていた。
天気のいい日、看護師に連れられて中庭に出ることがある。そういう時、真耶はいつも居心地の悪さを感じた。馴染みのない自宅に外泊する時だってそうだ。慣れない場所では色んなものが目に入る。色んな音が聞こえる。色んな匂いが、温度が、肌触りがある。たくさんのものが身体の中に入ろうとしてくる。そういうものを全部、いやだと拒絶する感覚があった。この身体は外の世界を受けつけない。物心つくより先に、肉体がそれを理解していた。それはとても当たり前のことだから、どうしてとかいやだとか、そんなことは考えもしない。
だから、外に出たいなんて思うわけないのに。
戸惑って悲しげに目をそらす母親を見る度に、真耶はそう思った。外の世界について知りたいという興味が、外に出たいという気持ちに直結するわけじゃない。海がどんなところか教えてもらっても、実際にそれを見てみたいとは思わない。野球のルールを教えてもらっても、実際にやってみたいとは思わない。そんなこと思うだけ無駄なのだから。ただ母親を含む多くの人たちが、普段どんな世界で暮らしているのか興味があるだけ。真耶はそれを知るだけで満足していた。
それなのに、どうしてみんな悲しそうな顔をするんだろう。
世界にはそんなに楽しいことがあるんだろうか。外に出られない私をかわいそうだと思うくらいに、素晴らしい何かが。
真耶はその素晴らしい何かについて知りたくなった。
しかし、むやみに人を悲しませるものではない。そこで彼女は本を積極的に読むようになった。これなら周りの人間を困らせずにすむ。人に尋ねるより時間がかかるし体力も消耗したが、本から学べることは多かった。
少女は様々なことを知った。外の世界には楽しいことばかりじゃなく、苦しいこともたくさんあるということ。健康な体に生まれても、人の行動にはあらゆる制約がかかるということ。外の世界の人たちは、病気にならないために食事制限をしたり生活リズムを管理したりするようだ。栄養バランスのとれた食事と適度な運動、充分な睡眠と休養。規則正しい生活。だけどそれは真耶が病院の中でしていることと大差ない。外にいる人たちの方が少し自由というだけ。自分の裁量で健康管理の度合いを決められる。だがその裁量も他のあらゆる物事に影響される。仕事の都合でどうしても寝不足になるとか、スタイルを維持するために偏った食事になるとか。色んな義務や、義務のような意識がついてまわる。
なんだか大変そう。
そんな義務と意識に囲まれていたら、きっと苦しい。病院の中にいる真耶にはそんなこと無縁なのに。
おかしいな、と真耶は思った。
外の世界の人たちよりも、外に出られない私の方が、自由に生きているみたい。そんなはずない。だって、外に出られない私をみんな悲しそうな目で見るもの。そのくらい、外の世界には価値があるはずだもの。私がまだ知らないだけで、もっと素晴らしいことがきっと、たぶん、何か、ある、かも。
真耶は手当たり次第に本を読みあさった。内容がつまらなくても難しくても、必ず最後まで読んだ。ジャンルも選り好みしなかった。純文学もファンタジーもノンフィクションも、真耶にとっては未知という点で同じだ。ただ、それゆえに空想と現実の区別はとても曖昧になった。彼女は経験によってそれを確かめることができない。全てが本当のことのようにも思えたし、全てが作り物のようにも思えた。
そしてとうとう、真耶は素晴らしい何かを見つけた。数えきれない不幸や不運、悲痛と苦労を全て払拭し得る世界の要。
それは奇跡だ。
奇跡が起こるなら、この世界には素晴らしい価値がある。奇跡はあらゆるものを肯定させる鍵だからだ。長年にわたり報われなかった努力も能力的なハンデも、奇跡さえ起これば幸せにつながる。つらい思い出さえこの日のための試練だったと、そんなことも言えてしまう。
そんな世界なら、外に出てみたいかもしれない。一生を小さな部屋の中で終えることを、少し残念に思うかもしれない。
だが、ひとつ問題がある。
現実に奇跡は起こるのかということだ。
本の中の記述は、現実の世界を映しとったものなのか、あるいは単なる空想にすぎないのか。
確かめなくちゃ。
真耶は病棟のラウンジや中庭に行って、他の患者に話しかけた。老若男女問わず、誰にでも声をかけた。幼い真耶が声をかけると、多くの患者は自分から色んなことを話し出した。過去にこんなことがあったとか、将来はこうするといいとか、説教めいた話を真耶は適当に聞き流した。
「今までに奇跡が起きたことはある?」
患者と仲良くなると、真耶は必ずそう質問した。相手は大概複雑な表情を浮かべた。息苦しいような後ろめたいような、困った顔。
結果として、真耶は満足のいく答えを何一つ得られなかった。彼らが答えたのは、例えばこんな奇跡。
雑誌の懸賞で海外旅行が当たったこと。
今までに三回も九死に一生を得たこと。
ちょっとした行動のズレで大きな災害を回避できたこと。
あとは生まれてきたことそれ自体が奇跡だとか、今の夫と出会えたことが奇跡だとか、そんなような話。
真耶はごく単純に、つまらないと思った。
彼らが話したことは、真耶の思い描く奇跡とは違っていた。それは、ただ確率の低いことが起こったというだけの話。偶然と必然の結果。懸賞に当たるのは珍しいことだし、誕生や出会いが尊いことだというのも知っている。でもそれは奇跡じゃない。世界は広いらしいから、まあ、そんなこともあるだろうね。そんな感想で終わる話。
奇跡が起これば、もっと日常が大きく変わるはず。何もかもが幸せに色づくはず。それなのに彼らは、奇跡と呼ぶ出来事が起きた後もぬるりと日常の中にいた。価値観や常識が一から覆されるわけでもなく、悲しいことがなくなるわけでもない。そんな程度のことを奇跡と呼んでしまうなんて、外の世界はどれだけ退屈なのだろう。
真耶はとてもがっかりした。結局外の世界は、真耶にとってあまり魅力的ではなかった。だが、彼女は同時に奇妙な満足感を覚えていた。外の世界があんまり楽しくなさそうでよかった。そう思う自分が確かにいた。きっとそれは負け惜しみと言われても仕方ないような感情。手に入らないものを無価値とみなすことで効率よく諦めるような。だけどその手に入らないものが、本当に無価値だとしたら。
外の世界で、自由と引換えに背負わなければならない義務と責任。真耶はそれらから解放されている。確かに自由は少ないけどそんなこと今さらなんとも思わないし、将来の不安なんてものもない。心配なことが少なくて、とても気楽に過ごせている。
ほら、やっぱり。外に出られなくたって、何も悲しくない。
いや、だけど。入院している人たちはみんな「外に出たい」と言った。やらなきゃいけないことがたくさんあるのに、そんなことみんなわかっているはずなのに、それでも外に出たいと言う。
真耶はゆらゆらと不安定になった。安堵と違和感。疑問は解消されることなく徐々にこじれていく。いつも胸のあたりがもやもやする。正しい答えが欲しい。何もかもがすっきりする答えが。きっと解答はすぐ近くにあって、自分でもなんとなくわかっている。でもそれは身体の中のあちこちに散らばっていて、上手くつかまえられない。小さな欠片を繋ぎ合わせる、何かが足りなかった。
そして少女は病室で十二年目の春を迎える。
今度、病室に新しい患者が入ってくる。同じ歳の男の子らしい。一週間前、真耶は看護師から聞いた。二年間ずっと同室だった女の子が先月退院して以来、真耶は四人部屋を一人で使っていた。今まで年下の男の子と同室になったことはあるけど、同じ歳の子は初めてだ。どんな子だろう。徐々に膨らんでいく桜のつぼみを眺めながら、真耶は想像した。期待というより、不安に近い気持ちがあった。
真耶と同じ歳だから、今年十二歳になる子だ。外で遊べないことを退屈に思っているだろう。友達と会えないことを寂しく思っているだろう。なんでよりにもよって自分がこんな病気に、とか、そんなことも考えているかもしれない。そういう子だったら、あんまり仲良くなれそうにないな。春の風に馴染まない、物憂げなため息が漏れた。
だが、少女の予想は全て外れる。
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