死が二人を別つとも

加登 伶

第1話

 僕の初めての思い出は、十歳の夏休みにサッカーをしたこと。それより前に思い出はない。思い出がないだけで、記憶はちゃんとある。両親と一緒に私立の幼稚舎を受験しにいったことも、僕が風邪をひくたびに母さんの機嫌が悪くなったことも、覚えている。ただそれは、そんなことがあったというだけのことで、その時僕がどう思ったか、何を感じたかは全くわからない。僕の現実には現実感がなかった。

 十歳の夏休み。体が溶けるんじゃないかと思うほど暑い日。僕はその日、生まれてはじめてサッカーをした。フェンスで囲われた狭い運動場の中、ぎこちなくボールを蹴る。当然、恰好よくシュートを決めるなんてできなかったけど、それなりに面白かった。

 本来ならその日は、一日ずっと勉強する予定だった。予定どおりに勉強が進んでいないと父さんが怖い。父さんは怒鳴ったり殴ったりはしないから、あれを怒っていると言うのかどうかよくわからない。僕の成績が下がると、父さんは静かに僕を睨む。そういう時の父さんの目が、僕はとにかく怖かった。

 だから遊んでいる間も、ずっと胸のあたりにいやな感じがあった。僕はそれを後ろめたさからくるものだと思った。不真面目で明るい友達に唆されてつい外に出てしまったけど、やっぱりこういうのはよくない。友達はまだまだはしゃぎたりない様子だったけど、僕はもう充分だった。

 先に帰ると告げると、友達は「そっか、暑いもんなぁ」と大きな声で言った。

 僕は小さい頃から、運動をするとすぐに熱が出たり、ちょっとしたことで風邪をひいたりする。友達はみんなそのことを知っているから、こういう時は気を利かせてくれる。サッカーに誘う時も「やってみる?」という感じで、無理強いはされなかった。

 それでも僕がサッカーしてみることにしたのは、ちょっとした好奇心と願望のためだった。僕が体調を崩すとその度に母さんの機嫌が悪くなるから、僕はもっと元気な子になりたかった。サッカーをしてみたら、少しは元気な子に近づけるかと思った。最近は体育の授業もふつうに受けられるようになっていたし、正直僕は油断していた。

 またねと手を振って、僕は友達に背を向けた。帰ってから集中して勉強すれば、なんとか今日の予定分をこなせるかもしれない。そんなことを考えながら歩き出した時、胸のあたりがつっかえた。体の中の時間が一瞬止まったような、奇妙な感覚。そんな短い空白の後に、左胸がドクンと跳ねた。冗談でもなんでもなく、本当に口から心臓が飛び出すかと思うような衝撃で、僕は前のめりに倒れてしまった。僕が転んだと思ったのか、友人が駆けてくる。

 左胸がドクドクと別の生き物みたいに動く。胸に激痛が走って、言葉にならない声が口からこぼれた。少し遅れて、誰かが「救急車!」と叫ぶ声が聞こえた。

 激烈な痛みで、僕は初めて自分が本当に生きているのだと実感した。目を開けられない程太陽は眩しく、肌が燃えそうなくらい地面が熱い。現実感がなかった僕の世界は、急に鮮やかになった。

 友人は何度も僕の名前を呼んだ。ほどなく救急車のサイレンが聞こえて、今度は救急隊員の人たちが僕の名前を呼ぶ。このあたりで僕の記憶は途切れる。かろうじて受け答えできていたらしいけど、僕はそれを覚えていない。

 次に意識がはっきりしたのは病院のベッドの上。首を動かして横を見ると、看護師さんとお医者さんが立っていた。お医者さんは僕に名前と年齢と、倒れた時のことをいくつか聞いた。お医者さんが出ていくと、母さんが病室に入ってきた。

「なんでサッカーなんてしたの」

 母さんは僕を見るなりそう言った。

 僕は素直に謝った。意外なことに母さんはすぐに許してくれた。いつもならしばらくの間むっすりしているのに珍しい。夜になると父さんが来た。勉強をサボって遊びに出かけたことについて、父さんは何も言わなかった。いつもみたいに怖い感じもしない。それどころか僕を心配してくれた。

 僕は自分の身体に何が起こったのかわからないまま、あれこれと検査を受けた。お医者さんと母さんは色々話をしていたけど、僕が教えられたのはごく単純なことだけ。

 心臓に病気があるからしばらく入院しなくちゃいけない。

 どのくらいの期間入院するのかは聞かされなかったし、僕もあえて聞こうとはしなかった。母さんやお医者さんが困るだろうと思ったからだ。

 それに僕にはわかっていた。きっとこれは簡単に治る病気じゃない。というか、正直治らないと思う。それは、父さんと母さんが今までより少し優しくなったこととか、お医者さんや看護師さんの表情だとか、そんな些細な積み重ねによるもの。何より、僕の身体がそれを訴えていた。もう二度と前のような生活に戻れないとでも言うように、身体はみるみる衰弱していく。

 つまり僕は、近い将来自分が死ぬんだと確信していた。

 近い将来というのが明日なのか一年後なのかはわからない。ただ、長くとも二十歳までには必ず死ぬはずだと思えた。

 その頃の僕はまだ死ぬというのがどんなことかよくわからなくて、怖いともいやだとも思わなかった。母さんやお見舞いに来てくれる友達の表情はいつも少し悲しそうだったけど、何が悲しいのかはよくわからなかった。

 入院生活は僕にとって苦ではなかった。むしろ以前の生活より楽になった。学校と塾に通って家に帰る。以前の生活はだいたいその繰り返しだった。どの場所でもすることは大差ない。時間割に従って勉強するだけだ。その合間に、食事をしたりお風呂に入ったり遊んだりする。この暮らしがいやだったわけじゃない。あまり思い出せないけど、それなりに楽しいこともあったと思う。

 僕は入院してから勉強しなくてよくなった。今まで当たり前にこなしてきたけれど、勉強するというのは結構面倒なことだと気づいた。勉強しなくてよくなると、他のことを考える余裕ができた。

 そして僕は生まれて初めて退屈だと思った。暇を持て余す僕に、看護師さんが絵本を何冊か持ってきてくれた。絵本なんて十歳になった僕が読んでもつまらないだろうと思っていたのに、退屈だったせいでとても面白く感じた。僕は日が暮れるまで何度も同じ絵本を読み返した。鮮やかな色彩は、白くぼやけた病室の中で輝いているようだった。

 翌日、お見舞いに来た母さんにこのことを話すと、その日のうちに絵本や児童書をたくさん買ってきてくれた。僕は喜んでそれらを読んだ。嬉しくて一気に読んだら疲れてしまって、熱を出すこともあった。母さんは毎日色んな本を買ってきた。偉人の伝記マンガや、ちょっと難しい文学作品もあったけど、僕はファンタジックな話が好きだった。魔法使いや喋る動物が出てくるお伽噺や冒険譚。

 不思議なことに、それらは僕にとって現実よりも現実らしく感じられた。そこに描かれていることは鮮烈なイメージになって僕の中に入ってくる。ストーリーを読み進める中で感情は波打ち、見たことのない景色さえはっきりと目に浮かんだ。ふわふわとつかみどころのない本当の現実よりも、よっぽどリアリティがあった。裏を返せば、そのくらい僕の現実には何もなかった。涙があふれるような喜びも、叫びだしたくなるような悲しみも、物語の中にしかない。僕が実際に体験した喜びや悲しみは、それらを何十倍にも薄めたようなものだった。

 僕はずっと考えていた。物語の中には必ずそういう喜びや悲しみがあるのに、僕の世界はなぜこんなにも平たんなのか。僕は気づいた。答えはとても単純だ。

 そもそも僕には物語がない。

 ないというか、始まっていない。左胸に激痛が走ったあの時まで、僕には思い出に残るようなことが何もなかった。その後だって相変わらずだ。生活のリズムはとても規則正しくて、予想外のことなんか起こらない。お医者さんや看護師さん、同室のおじいちゃんと毎日いろいろ話すけど、会話の内容は印象に残らない。記憶には残るけど、本当にただそれだけ。

 もしも僕が病気にならなくて、ふつうに学校に通っていたなら、ふとしたきっかけで何かが変わったのかもしれない。思い出が少しずつ増えて、世界が少しずつ賑やかになって。

 だけど僕はもうすぐ死んでしまう。僕の物語は始まる前に終わる。ちょっと残念な気もするけど、そんなに悪いことでもない。僕は大きな喜びも知らない代わりに、大きな悲しみも知らないままでいられる。僕の友達はこれから何年も何年も勉強して、大人になって何年も何年も働いて、結婚して子どもを作って、それからもまだまだ働いて生きていく。その中でとても幸せだと思ったり、反対に不幸になったり、道を間違えたりするだろう。僕にはどの可能性もない。とても平たんな道を、まっすぐ穏やかに進む。その道のりには何もないけど、僕は物語を眺めることができる。それで充分だ。僕はもういつ死んだってよかった。

 そんなことを思っている内に月日は流れた。僕は病室で二度目の春を迎えようとしていた。春になると僕は十二歳になる。学校に通っていたら六年生だ。でも僕にはなんの実感もない。二年前と比べて、身長も体重も性格もたいして変わっていなかった。

 二月の終わりか、三月の初旬だったと思う。時間の感覚がなくなりかけていたから、暦ははっきり覚えていないけど、寒い日だった。

「四月から、違う病院に移ることになったの」

 母さんが言った。まるで自分のことみたいに言うから、一瞬なんのことかわからない。

「家から少し遠くなるけど、大きくて設備のいい病院でね、ここじゃできない最先端の治療をしてもらえるらしいの。先生がそこに移るといいって、紹介状を書いてくださって」

 要するに、この病院じゃもう手に負えないってことかな。

「これできっとよくなると思う。来年、院内学級もできるそうだし、勉強も心配ないわ」

 母さんの「きっとよくなる」は、僕を励ますというより、自分に言い聞かせているような言葉だった。その後、お医者さんも部屋に来て、いろいろ話をされた。母さんよりも注意深く、僕に変な期待をさせないように言葉を選んでいるのがわかった。大きな病院に移ることで、僕は少しばかり延命できるらしい。

 僕はとりあえず、院内学級に通うのは少し面倒だなあと思った。もうすぐ死んでしまう僕が将来のために勉強するというのはなんだかおかしな話だ。どのみち死ぬのにそれまでの期間を延ばすことにどんな意味があるのかもよくわからない。だけど、母さんは少しでも僕に長く生きて欲しいらしい。僕にとっては明日死ぬのも、一年後、五年後に死ぬのも同じことだった。だからこそ、母さんやお医者さんの望むようにしようと思った。

 転院の日、お医者さんと看護師さんに見送られて、僕は外へ出た。四月の爽やかな風が髪を揺らす。満開の桜が青空によく映えていた。ごうと強い風が吹いて、押されるように車に乗り込んだ。母さんが運転席について、車は走り出す。新しい病院につくまでの間、僕はずっと窓の外を見ていた。どの景色も見覚えがあるようでないような、変な感じがした。建物の形も色もそれぞれ違うはずなのに、遠くから見ると全部同じように見えてしまう。

 一時間程すると、新しい病院が見えた。母さんが指差して教えてくれる。小高い山の上に、白い建物の群れがあった。周りは山の木々に囲まれていて、そこだけが切り裂かれた傷のように浮いている。見えるようになっても、病院にはなかなか着かなかった。

 僕は少し気持ち悪くなって目を閉じた。あらかじめ酔い止めを飲まされたけど、久しぶりに乗る自動車は思ったより速くて揺れた。うとうとと眠たくなってきた頃に、車は緩やかに止まった。

 目を開くと、窓の外には絶壁のように高い病棟があった。母さんに連れられて建物の中に入る。前の病院とちがって、すごく明るい。窓口で母さんが何か話している。まもなく看護師のお姉さんが車いすを押して出てきた。母さんは、荷物を運ばなくちゃいけないから僕だけ先に病室に行くようにと言った。母さんが出ていくと、お姉さんが僕に笑いかけた。車いすに乗るよう勧められたけど、歩けるからいいと断る。「あら、元気ね」とお姉さんは嬉しそうに言って歩き出した。広い病院の中、たくさんの人が行きかう。歩きながらお姉さんが話しかけてくるから、僕はすぐに道を覚えられなくなった。きっと、一人じゃもう入口まで戻れない。僕とお姉さんはエレベーターに乗って、三階で降りた。エレベーターを真ん中にして、左右に広がるように病室が並んでいる。お姉さんは右側の通路に進んだ。

「この病院は山の上にあるから、とっても見晴らしがいいの。窓から桜の木も見えるし、今日はちょうど満開だから、すごく綺麗よ」

 楽しそうに話すお姉さんの後ろをついていく。

「そうだ。一緒の病室になる子と、確か歳が同じなのよね。お母さんから聞いてるかしら」

 そういえばそんな話も聞いたような気がする。僕は病室の扉を見ながら返事をした。三〇一、三〇二……。扉に書かれた番号がひとつずつ増えていく。僕が入る部屋は何番だっけ。

「同じ歳の子なら話も合うだろうし、退屈しないね。あ、部屋はそこよ」

 お姉さんが少し先の扉を指した。奥から二番目の部屋だ。間違って他の部屋に入らないでね、と注意される。お姉さんは扉の前で立ち止った。番号は三〇七。扉の横に、一つだけ名札があった。

『陣内真耶』

 お姉さんがそれを読み上げる。

「そう、この子。ジンナイマヤちゃんっていうの」

 ガラリと扉が開いた。

 病室は光に溢れていた。まぶしくて一瞬目が眩む。部屋のカーテンが全て開いているから、遮られることなく陽光が届いている。光に慣れると、窓の外の景色が目に入った。お姉さんが言ったとおり、満開の桜の木が半分くらい見える。

 そして、風景を遮るひとつの影に気づいた。

 右奥のベッドの上に、半身を起した少女がいた。青ざめた肌と、痩せた首筋。静かに、表情さえ浮かべずに僕を見る。

 窓の外で、強い風が吹いたのがわかった。窓枠がカタカタと音をたて、こぼれそうに花をつけた桜の木が大きくしなる。風に押されて、ぶわりと花びらが散った。静止した少女の背景に、薄桃色の花吹雪が踊る。

 それはとても鮮やかな光景だった。

 白い部屋。白い少女。一瞬で消えてなくなりそうな空間。窓の外は澄み切った青い空。舞い踊る桜。ひらひらと揺れる花びらは少女の背から散る羽毛のようにも見えて、僕は思わず息を呑んだ。この空間はまるで現実的じゃない。だって、これじゃ彼女は。陣内真耶は、まるで。

 まるで人間じゃないような女の子だった。

 僕は二年前の夏の日を思い出していた。胸の痛みと一緒に手に入れた、鮮明な思い出。あの時の感覚が蘇った。世界の輪郭が急にはっきりして、現実が現実らしさを取り戻していく。目の前の光景は現実的じゃないのに、それを現実らしいと思うだなんて、変だけど。

 僕は今、確かにこの世界を生きているんだと感じた。

 そして僕の物語は幕を開ける。

 始まる前に終わるはずだった。それでいいと思っていた。もう後には戻れない。僕の意思とは無関係に、歯車が回り出す。まっすぐに続いていた道の先が突然見えなくなった。

 これから、あらゆる幸運と苦難が僕に訪れるだろう。僕はその度に喜びと悲しみを知る。息絶えるその瞬間まで、結末はわからないまま。

 僕は、ただそれを予感した。

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