第4話

 それから二人は急速に仲良くなった。まだ子どもとはいえ思春期の男女が同室ということで、大人たちは色々と気を揉んだらしいが、彼らが危惧しているようなことは何一つ起こらなかった。少年と少女は誰が見ても仲のいい理想的な関係だった。子犬が戯れるように笑いあう二人はとても清潔で、周りの大人が想像している俗な気配は微塵もない。完璧にきれいな関係だった。完璧すぎて、清潔すぎて、理想的すぎて、どことなく作り物じみていた。

 実際、二人の関係は一般的に友達と呼べるようなものではなかった。一緒に生きて一緒に死ぬ。ただその合意だけで結びついた関係。いわば運命共同体だ。やまとは真耶がいればそれでよかったし、真耶もやまとがいればそれでよかった。外の世界にはもはやなんの興味もない。大切なものはもう目の前にある。これ以上何も必要ない。二人だけの満ち足りた生活は、しばらくの間続いた。

 季節は巡り、やまとと真耶は十三歳になった。梅雨明けも近い七月の朝。看護師は相変わらずにこにこしながら病室に入ってきた。

「おはよう! 今日はいいニュースがあるの」

「お姉さん、おはよう。いいニュースって何?」

 やまとが看護師から体温計を受け取って、脇に挟みながら聞く。

「また新しい患者さんが入るのよ。ここもやっと三人になって、賑やかになるわねぇ」

「ふうん。どんな子?」

 真耶は血圧を測ってもらいながら聞いた。

「七歳の女の子。今年八歳になるそうだから、真耶ちゃんとやまと君の五つ下ね」

「ふうん」

「きっと妹ができたみたいで楽しいわ」

 看護師は血圧の数値を記録している。顔をふせているから、真耶の表情を見ていない。真耶は無表情だった。とてもどうでもよさそうに、伸びた爪の先を見ている。

「いつ来るの?」

 体温を測り終えたやまとが言う。天性の人懐っこさのおかげで、何を言っても楽しげに聞こえる。

「来週の月曜日よ。一緒に折り紙でも作ってプレゼントしようか」

「うん!」

 看護師の提案に、やまとは大きく頷いた。それはつまりとても面倒くさくてやりたくないという仕草だった。その気持ちを隠すために、行動が大げさになる。真耶にはそれがわかる。だから少しおかしくて笑った。

 看護師が出ていった後、やまとと真耶は新しく入る患者について特に何も話さなかった。二人きりの時間が害されるんじゃないかとか、その患者と仲良くできるかとか、そんな当たり前のことさえ考えない。二人はお互いのこと以外どうでもよかった。何もかもが、あってもなくても同じことで、だから新しく入る患者について歓迎もしなければ邪魔だとも思わない。やまとは自分で聞いたにも関わらず、患者がいつ病室に来るのかを忘れた。

 予定どおり、翌週の月曜日に患者は訪れた。雨が降りそうで降らない、もやもやした空の蒸し暑い日だった。

 小柄な少女は快活な母親に連れられて、静かに病室に入った。恥ずかしげに、母親の体の影からやまとと真耶をちらちら見る。臆病なうさぎみたいな仕草だ。

 少女は名を『渡田奈月』といった。

「なつき、ちゃん?」

 やまとが聞き返す。

「な、づ、き、ちゃん! お月様の『月』の字を書くの」

 看護師は速やかに訂正した。前に真耶の誕生日を訂正した時と同じだ。やまとはそれを思い出して笑った。

「なっちゃん」

 ずっと黙っていた真耶が、澄んだ声で言った。うつむいていた少女がパッと顔を上げる。

「なっちゃんって呼んでもいい?」

 真耶は少女に笑いかけた。

「うん、いいよ」

 奈月は小さく返した。緊張した様子の中に、少しだけ嬉しそうな表情が浮かぶ。

「じゃあ、僕もなっちゃんて呼ぼう」

 やまとが言うと、ようやく奈月はにこやかに笑った。

 奈月ははじめこそおとなしかったが、やまとや真耶と打ち解けるにつれてよく笑うようになった。毎日欠かさず見舞いに来る彼女の母親に似て、奈月も生来明るく素直な性格だった。少女はやまとと真耶によく懐いた。下に幼い弟が一人いるだけの彼女は、年上の兄姉に憧れていた。

 意外なことに、やまとと真耶にとって奈月は大切な存在になりつつあった。当初〝居ても居なくてもどっちでもいい〟程度の存在だった奈月を、今は〝居なくてもいいけど居てくれた方が嬉しい〟と思うようになっていた。これは二人が予想していなかったことだった。奈月がいることで、やまとと真耶はさらに強く結び付けられるような気がした。

 奈月は、やまとと真耶が仲良くしている様子を見ているだけでも楽しかった。やまとと真耶は二人で一組のセットという感じがした。二人が一緒にいるとその周りが別の世界になるようだ。静脈が透ける程に白い肌や、色の薄い虹彩。未だ声変わりの気配すらない少年の声色は、真耶の玲瓏な声と調和して美しく響く。二人の唇が奏でる聞きなれない言葉の数々は、奈月にとって知らない国の言葉のようにも思えた。そういう時の二人は少し近寄りがたく、それでも強く心を惹きつける魅力を持っていた。

 やまとと真耶、それぞれ別に話すのも楽しかったが、奈月は二人と一緒にいるのが好きだった。そんな少女の気持ちが伝播するように、今まで閉塞感と排他性の強かったやまとと真耶も、積極的に奈月と関わるようになった。

 三人はとても上手くやっていけた。それはまるで本当の兄妹のようだった。むしろ、本当の兄妹よりも本物らしかった。些細な口論一つせず、ただ穏やかな時間を紡ぎ続ける三人は、現実に即さない理想的な形で兄妹のように仲がよかった。

 奈月が入院してひと月が経った。日が落ちるのが少しずつ早くなり、蝉の声も静かになり始めた八月の下旬。

 その日、奈月は八歳の誕生日を迎えた。両親と弟が揃って見舞いに訪れた。看護師や真耶も一緒に少女を祝う。奈月は母親から髪を留める飾りゴムを、父親から二十四色の色鉛筆セットをもらった。真耶は折り紙で作った花束をプレゼントした。

「やまとと一緒に作ったの」

 真耶はそう言って隣のベッドを見た。いつもなら少年がいるその場所が、今日は空っぽだった。まばゆい程に白い布団がたたまれている。

 今日はやまとが外泊していた。最近は体調も比較的安定していたし、お盆の時期ということもあって、家に帰ることを許可されたらしい。奈月もたまに外泊するが、病院に残される側になるのは初めてだった。いつも一緒にいるだけに、一日いないと思うだけで寂しくなる。よりにもよってそれが誕生日だから、なおさらだった。できるならみんなと一緒に祝って欲しかった。かわいらしい折り紙の花束を受け取りながら、奈月は少し残念に思った。

 夕方、両親と弟が帰っていくのを少女は名残惜しげに見送った。賑やかだった病室が一気に静かになって、急に心細くなる。

 気を紛らわせようと、プレゼントされた飾りゴムを着けてみることにした。長く伸ばしている髪をぎゅっと手でつかんで、ゴムに通す。飾りがついている分、扱いが難しく、髪が絡んだりゴムが緩んだりして上手くいかない。

 奈月は斜め前のベッドに居る真耶を見た。真耶は静かに本を読んでいる。少し眠いのか、目がとろんとしている。

「真耶ちゃん、髪の毛結んで」

 真耶が顔を上げた。

「いいよ。貸して」

 奈月はベッドから降りた。ゴムと櫛を持って真耶のベッドに座る。

 真耶は受け取った櫛で奈月の髪をすいた。するすると引っかからずに櫛が通る。手ごたえがほとんどない。艶やかな長い髪。真耶はそれを愛でるように、優しく何度も櫛を通した。

「ねぇ、真耶ちゃんの誕生日っていつ?」

 髪を預けながら、奈月が聞いた。

「六月の、二十六日、かな」

 真耶に髪を触られるのが心地よくて、奈月は返答の曖昧さを気に留めない。

「お父さんとお母さんに、プレゼント何もらった?」

「親には何ももらわなかったけど、やまとがね、くれた」

 真耶は一旦手を止めた。テーブルに櫛を置いて、ベッドサイドの引き出しを開ける。一番上にふわりと置かれた画用紙を丁寧に取り出す。絵具で少し反り返った紙に描かれていたのは、やまとと真耶が初めて会った日の光景だった。温かな光に溢れた病室。大きな窓。窓の外に広がる濃い青と、淡い桃色の桜。ただ事実と異なるのは、そこに真耶がいないということだった。その絵には人が描かれていなかった。

「わぁ。すごくきれい! やまと君って絵が上手なんだね」

 奈月はそれを単に春の風景を切り取った絵として見た。目に入った瞬間、素直にきれいだと思う。細かく見ると雑なところもあるが、とにかく絵具の色合いがよく美しい。

 真耶ちゃんにぴったりな絵だ。何もない部屋も、真っ青な空も、桜の花も、全部真耶ちゃんに似合う。誰もいない絵なのに、不思議。ああ、そっか。真耶ちゃんのために描いた絵だから。ぴったり似合うのは当たり前なんだ。誰も描かれていないけど、真耶ちゃんを描いた絵。

「はい、できた」

 絵を眺めている内に髪が出来あがっていた。

「ありがとう!」

 真耶が手鏡を見せてくれる。髪は耳の後ろの位置で二つに結わえられていた。後れ毛もないし、房の高さもきちんと揃っている。ゴムの飾りは星の形だった。見慣れない自分の姿が少し恥ずかしい。

「二つ結び、似合うかなぁ」

 奈月は鏡から目をそらした。

「似合うよ。とってもかわいい。やまともきっとそう言ってくれる」

 真耶は鏡をしまいながら笑った。優しい言葉に奈月は安心した。ついさっきまで自信なさげに毛先を弄んでいたのに、崩れるように顔がほころぶ。

「えへへ。そうかなぁ。そうだといいなぁ」

 翌日、奈月はもう一度真耶に髪を結んでもらった。午後になって病院に戻ってきたやまとにそれを見せると、奈月の期待どおり褒めてくれた。

「似合うよ。とってもかわいい」

 それは真耶が発したものと一字一句違わない言葉だった。

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