聖幼馴染

他律神経

本編

 職員室への足取りは重く、実際ぼくはその重さに従って廊下に倒れてしまおうかと思ったぐらいだ。しかし今、長い義務教育機期間にしっかり規律訓練を受けたぼくは兵士的従順さで職員室の扉の前に立っている。後はこの扉を開けるだけだ。そう思って扉に手を伸ばしたぼくだったが、しかしその手は扉に届かない。中から先に開けた者があったからだ。スライド式のそれがすっかりその横の空間に収納されてしまうと、果たして、そこには彼女――幼馴染のあの子が立っていたのだった。

 ある種の人形を想起させる、真っ直ぐにカットされた前髪の下の、大きな瞳が僅かに見開かれるのを、ぼくは認めた。加えて、それがぼくを捉えたのを、ぼくは認めた。その瞳の中にぼくが囚われていたからだ。実際、ぼくは囚われていた。ぼくは彼女の前では、自分の一切を意識的に為すことにしていた。それは看守に怯える囚人に、まずは同盟者を求めることになる。

 昔はこんなではなかった。彼女とは、幼い頃には一緒に入浴したこともあるし、互いの性器の形状の、同じ人間という生物とは思えぬほどの差異の起源について考えたこともあった。小学校も、中学校も、そしてこのように職員室で出会ってしまうことからも明らかだが、高校までもが、同じだったのだ。だが高校に進学してからというもの、ぼく達は殆ど、別の生活圏を構築し、そのそれぞれの島宇宙の中で、橋さえ掛け合わぬ何処までも断絶したそれぞれの島宇宙の中で暮らしていた。会話だって、その文字数をカウントできるほどにしかなかった。

 ぼく達はいつからこうなってしまったのだろうか?

「きききききき奇遇だね」

 それは恐らく、あの子のせいではないはずだった。彼女は本当に大人だった。思い返せば、彼女は、喧嘩した時にあってさえ、ぼくの吃音をターゲットとする罵倒は吐いたことがなかった。それに彼女は、母と妹に匹敵するほど、ぼくの吃音で歪み、遅延した話をよく聴いてくれた。本当に彼女は訓練された少女であり、つまり大人だった。やがて彼女は遠くを視るようになった。彼女は大人の、その先の領域に行ってしまったのだ。それは、ちょうど、ぼくが彼女と別の生活圏を構築し始めた時期と重なっていた。その事実はますます、ぼくに別の生活圏の完成を急がせた。

「全ては必然よ」

 あの聞き慣れた、全身の筋肉の乳酸をさえ取り去ってしまうような、涼やかな声が返ってきた。ぼくは安堵し、同時に、あの子と普通に会話できたということによって歓喜ゆえの興奮を覚える自己に出会い、その立つところを謎に思い、さらにまたその興奮がぼくの吃音を悪化させるであろうということを予測した。

「だだだだだだだが、じじじじじ自由意志というものがあるだろう?」

「投げられた石も自分の落下しようという意志を信じてるわ」

「いいいいいいい石を投げたのはだだだだだだだ誰だ?」

 あの子の両頬の薄い肉が釣り上がって、下がった。

「呼び出されたんでしょう? どうして?」

「ししししししし進路についてのあああああアンケートがあっただろう? あれのぼぼぼぼぼぼぼくの回答に問題があるらしいんだ」

 質問に質問で返され、答えに窮したが、どうにか答えることができた。あの子が一息ついているぼくの手をとった。そのまま廊下へと連れ戻される。ああ、このまま帰宅してしまおうか。

「わたしもそれで呼び出されたのよ。もう終わったけれど。何て書いたの?」

「ら、ら、ライ麦畑の捕まえ手」

 あの子が目を瞬かせる。

「ぼぼぼぼぼぼく『は、広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気付かずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間になりたい 』って書いた……」

 あの子の哄笑が廊下に響いた。それは見事に反響し、複数の彼女の存在を錯覚した。

「どどどどうぼくのアイロニーというか、ゆゆゆユーモアは?」

「三流ね」

 ぼくの眼前に哄笑していたあの子とは別の人間が舞い降りていた。彼女の顔からあらゆる表情という表情が廃絶されていた。彼女は真顔だった。

「アイロニーにもユーモアにもなってないわ。だって、あなた、ライ麦畑の捕まえ手っていうのぴったりじゃない。教師もきっと斡旋するつもりで呼び出したのよ。何処かの崖の上のライ麦畑を。でも――」

 あの子はもうぼくを視ていなかった。遠くを視ていた。ぼくの肩越しに窓の外を視ているのだろう。その空には何が描かれているのだろう? いずれにせよ、それはぼくが振り返れば消えてしまう性質のものであるはずだ。

「嫌いじゃないわ、私は。むしろ好き」

「そそそそういうきききききき君は何を書いたんだ?」

「後で教える。教えたいの。私の実存に関わる重大な話よ。配属されるライ麦畑が決まったらコペルニクスにこれる?」

 コペルニクスというのは、ぼくの家の近所の喫茶店だ。つまりそれはあの子の家の近所ということでもある。ぼくの家と彼女の家はちょうど相対する形で大地に設置されていた。

「こここれるこれる。いいい行く行く」

「それじゃ、またあとでね、ホールデン」

 遠ざかるあの子の後頭部に狙いを定めて、ぼくは「ああ、あとでね、フィービー」と言ったが、有り難いことに、それは彼女には聴こえていなかったようだ。



 教師の話は退屈だった。何故って、教師の話が完全に正論だったからだ。

 ぼくの貧弱な知的誠実さから言っても、反論などとても構想する気にもなれなかった。ぼくは教師の話をひたすら頷きながら聴いていた。教師はぼくのアイロニーとユーモアを、その進路希望を詳細に書き込む時間がなかったがゆえの、苦し紛れの悪戯であると解釈したようだ。もう一度、まだ何も書かれていないアンケート用紙を渡されて、話は終わった。終わるはずだった。退室しようとするぼくの背に言葉が当たったのだ。

「君の幼馴染のことだけどな」

 それはあの子の所属するクラスの担任の教師が放った言葉だった。

「なななななんでしょう?」

「最近、彼女が変わったなぁ、とかそういう印象、ない?」

「しかししかしかし、ばばばばば万物というのは絶えず流転してるわけでありますから……」

「人格が連続しているという有用なフィクションを採用した上で、ね」

 ぼくは何を答えるべきなのか。どう答えるべきなのか。あの子がたびたび遠くを視るようになった、ということを報告するべきなのだろうか。しかしそんなことに何の意味がある? きっとこれは、彼女の進路アンケートに対する回答のために現れた問いなのだ。だがぼくはそれを知らない。これから聞きに行くのだ。

「ごめんね、変な質問して。彼女には内緒ね」



 ぼくの家は共働き家庭だ。今の時間は父も母もいない。鍵を取り出して、玄関扉を開ける。ぼくは帰ってきた。自宅に帰ってきた。しかし今や自宅はあまりリラックスできる場所ではなかった。どうしてこんなことになったのか。

「ただいま」

 やはり自宅は自宅なのだ。それは間違いない。ぼくの吃音も自宅ではかなり緩和される。父の前では、そうはいかないのだが。ただ言っておかなければならないのは、ぼくに帰宅のたびごと独り言を放つような習慣はないということだ。今の時間は父も母もいない。それは間違いない。しかし家族は父と母だけではない。階段を上がると、三つの扉が待っている。左が父と母の寝室、右がぼくの部屋。そして、残る一つ、真ん中の扉こそ、父と母を除いた家族の、ぼくの妹の部屋だ。その扉の前は、ぼくが自分の部屋に行くためには必ず通らなければならない場所だ。それは建築上の必然でもあったが、同時に、そうでないとも言えた。ただ建築上の必然だとしたら、どうしてぼくはこれほどまでの緊張感を持って彼女の部屋の扉の前に立っているのか説明できない。扉を叩く。二回。彼女は寝ているかも知れない。起こしてはいけない。起きているかも知れない。驚かしてはいけない。

「帰ったよ」

 やはりぼくには自宅で独り言を放つ習慣があるのだった。この、帰宅直後のぼくの呼びかけに妹が応えたことはなかった。父と母のいなくなった家の廊下で彼女を視ることはあった。しかしその彼女の様はどうだろう? 夢遊病者のような……幽鬼のような……現実感のない足取り。ぼくはそういう時の彼女に声をかけることができない。その像と僅かに乖離した空間に、過去の妹の像を視るからだ。自分から話し始めておきながら、自分の吃音に段々と苛立つぼくに、「兄さん、わたし、ちゃんと聞いています」なんて、不安気に、自分の聴き手としての態度を反省してみせる彼女の像が。

「ききき今日はね、ほほ放課後に職員室に呼び出されたよ。ぼぼぼくのししし進路希望票の内容が気に食わないらしくてね」

 待て。『進路』の話などしてよかったのだろうか。高校一年生になってからというもの、突然に学校へ行かなくなった妹に。彼女は成績優秀な生徒だった。それでいながら、青白い子どもでもなかった。ピアノだってできたし、スポーツも得意だった。そして何より社交的だった。ぼくとはまるで正反対の子どもだった。両親も親戚も、ぼくにはただ生暖かい、諦め――明らかに認める――の視線を送るだけだったが、彼女に対してはそうではなかった。いや、ぼくがこうだったから、妹に対する視線が強まったのかも知れない。あの熱烈な、媚びるような、自分の敗れた夢の一切を他人に叶えさせようという視線が。子どもという人造人間への視線が。

「ぼぼぼくはね、希望の大学やら何やらを書くところに『ライ麦畑の捕まえ手になりたい』ってね、かか書いたんだ。自分では非常におおお面白いと思ったのだけどね」

 その妹が高校一年生になってからというもの、正確には高校一年生になってから二月後に、突然に、登校を拒否したのだ。朝食の時、階段から降りてくる、ぼくと同じ高校の制服を着た彼女の姿を視ることは、まさに最高の調味料であったわけだが、その日、彼女は寝間着のままだった。そうして彼女は「学校をお休みします」と、父と母とぼくに告げると、トーストの置かれた皿を手にまた自分の部屋に戻ってしまったのだった。「風邪?」という母の大きな声による問いも、彼女にはまさに馬耳東風という感じだった。何もかもが静止したリビングダイニングに妹の扉を閉める音が届くと、父は「風邪かな? 案外サボりかも知れない。そうだとしたら明日は豪雨だな」と呑気に言っていた。父の態度を責めることはできない。母もぼくも父と同様に彼女の未来はほとんど矢のように栄光へ突き進むものであろうと信じていたからだ。

「幼馴染のあの子に職員室の前で会ったよ。わかるだろう? よよよよよく三人で遊んだからね? 彼女も進路のことで呼びだされたらしいんだな。そそそそれで彼女に話したんだ。そしたらね、さささ三流のユーモア、さささ三流のアイロニーと言われてしししししまったよ」

 それから妹は学校に行かなくなった。一週間もすると父は怒鳴り、母は泣いた。二週間もすると教師が来た。二人もだ。やはり男性教諭は怒鳴り、女性教諭は泣いた。説教にも性別役割分業があるというのは面白いな、と思った。ぼくは黙って視ていた。ずっと、だ。ずっと黙って視ていた。ぼくには何もなかった。言いたいことが。お前からも何か言ってやってくれ、と父に強い口調で言われた時、ぼくは弱々しく「ななな何で行きたくないの?」と彼女の扉の前で言ったが、あれがあの扉を越えることができたかどうかは謎だ。謎でいい。

「そそそそれで、じゃじゃじゃあ君は何て書いたんだ? って彼女に聞いたんだがね?」

 そろそろ今日の学校についての報告は終わりだ。このあと妹の学年の授業で使ったプリントや妹の同級生のノートのコピーを扉と床の間に挟むということを、一ヶ月ぐらいはやっていたが、人からそれを集めるのも大変だし、さらには妹が触れたような痕跡さえないそのプリントを捨てる作業も大変だから、今はもうその儀式はない。あとは立ち去るだけ。そう思って彼女の部屋の扉から僅かに離れた時だ。ドアノブが動いた。いや、動き始めた。地獄の門の開く時に居合わせてしまった亡者を想いながら、ぼくはドアノブがその駆動の限界点に到達するのを待った。扉は開かれた。細い光の線がぼくの足に突き刺さった。そして切れ長の瞳の一つの網膜がぼくを映したのを認めた。

「あの人は何て書いたのですか?」

 妹の声は病人や衰弱した者のそれではなかった。極めてはっきりとしたものだった。ぼくは裁判に連れだされた。検察は超自我。弁護士は自我。裁判官は彼女。傍聴席を埋め尽くした、エスの群れ。

「こここここここコペルニクスで話すってさ。コペルニクスって、あの、コーヒーゼリーの美味い喫茶店。覚えてる? これから行ってくるよ」

「そうですか。帰ってきたら教えてくださいね。いつものように」

「いいいいいいつものように?」

 妹の口が横に広がって、開いたドアの隙間から視える顔の表面に大きく出た。

「兄さん、わたし、ちゃんと聞いてます」

 扉が穏やかに閉められた。金属の音の一つもしなかった。



 壊れた電化製品の山を右に視て、それを見送ってからなおもしばらく歩き続ける。その山の上ではかつての戦場を幻視する老人がかつての部下を督戦している。老人が指揮の言葉を中断し、何事かぼくに言いかける。ぼくはその喉の震えに脅えて、歩みを速くする。それは呼吸が荒くなるほどの速度だ。もしも因果関係がまだ通用しているなら、川に突き当たることになる。そして実際、川に突き当たる。フェンスの向こう、入水自殺もできそうにない、水位の低い、小川が現れる。でも川幅は人間の跳躍力の無さを思い出させるくらいには広い。流れは酷く緩慢で、風向きと風速によっては死んだカブトムシのような臭いというものを知ることができる。幾つもの蚊柱の中、汗と血に塗れた蟹工船が川を下っていく。ぼくはそれに並行して歩き続ける。川がコンクリートの構造物の中に消える。街の代謝の結末を巻き込んで、海へ合流するのだろう。川を隠蔽した構造物の本来の機能である橋としての機能のおかげで、ぼくは川を越える。商店街のアーケードが始まるのだ。崩れかけた「ようこそ」の四文字がぼくの頭の上を過ぎていった。その閉じられたシャッターによってすっかり境界線が不分明になった店舗と店舗と店舗と、さらに七の二倍ほどの店舗にそって歩き続けると、一体どんな経済学的奇跡によって成立しているかわからない骨董品店の看板を発見することができる。その左に建築物と建築物を隔てるためだけにあるような小さな道があり、そこを歩き続け、幾匹かの去勢を逃れた野良猫の目を掻い潜れば、「喫茶コペルニクス」という煤けた看板が対自存在めいて立っている。扉を開けると、鈴の地位を酸化によって追われた鈴が揺れ、コペルニクスの店長がぼくを視る。店長に会釈してから、何らの障害物もない店内の、その奥にあの子の姿を視ることができた。足を組んでいる。さらにまた、その白く細長い指は組まれて、下腹部のあたりに置かれている。太股の肉を、むしろそれを強調せんとするように、スカートという薄い被膜が覆っている。彼女はまだ学校指定制服を着ていた。彼女は顔に僅かな角度をつけて、天井の照明を視ている。照明? もしくは照明の先の何かを視ている。

「まままま待った?」

 あの子の指が解かれ、その右腕の肘が机に置かれ、その手の上にあの子の顎が置かれた。

「いいのよ。私が最も待ち望んだものが訪れたばかりだし。もう何を待たされても、何も感じないわ」

 先約があったのだろうか。ぼくはあの子の言うところの意味がよくわからなかったが、しかしあの子の感情がぼくの遅れた到着に乱されたわけではなかったようで、安堵した。椅子としての在り方に不安がある椅子に座ると、高校に入ってからというものありえなかったような、あの子との距離の近さ、その間にパーティクルと机しかないような隔たりのなさに、血流が激しく下半身への移動を開始した。それを止めたのは店長の接近だった。店長はまだ注文もしていないのにコーヒーカップを持っていた。それをどんな音も立てずにぼくの前に置くと、店長はカウンターの中に戻った。ぼくは店長を視るふりをしながら、横目で彼女を視ていた。彼女は微笑しつつ、店長を視ていた。

「そそそそそれで君は何て書いたんだ?」

 あの子がぼくを視た。ぼくは猛禽類に睨まれた鼠のように身構えた。

「預言を全世界に示す、って書いたの」

 無音が我々を襲った。いや、このぼくを襲った。何もかもが遠ざかり始めた。ぼくは急いで机の両端を掴んだ。あの子は微笑んでいた。しかしその微笑みこそ、ぼくの恐慌の根源だった。

「よよよよよ預言というのは? ききき君は何かの宗教にでも入ったのか?」

 あの子は何かの新興宗教にでも入ったのだろうか。そうして、彼女の好で、このぼくを新興宗教にでも勧誘したというのだろうか。彼女が微笑を消して、僅かに目を細めた。それは彼女の顰め面だった。ぼくが十代の前半まで怯え続けた表情だった。

「『宗教に入る』というのは、よくわからない表現ね。そこであなたの言う『宗教』というのは、何がしかの個別具体的な宗教的団体を指示しているわけでしょう?」

「そそそそうだよ」

「信仰が人造の何かに認証されることだとしたら、そんなものは偶像崇拝よ」

「ででででも、きききき君はぼくを新興宗教か何かに誘う気なんだろう?」

「新興宗教の何が嫌なの?」

 あの子はまだ微笑していた。我儘な弟を諭す姉のような、そういう微笑だった。ぼくはそれに苛立っていた。さらにまた、苛立っていたのだが、それを彼女に悟られたくないとまだ思っている自分、彼女に遠慮している自分にも苛立っていた。苛立ちの二重帝国……。

「しししし新興宗教なんてみんな怪しいものじゃないか?」

「でもあらゆる宗教はかつての新興宗教だったわけでしょう? そして宇宙の歴史からすれば、あらゆる宗教は結局のところ新興宗教なのじゃなくて?」

 ぼくはコーヒーカップを掴んだ。今やコーヒーカップはあまりにも遠く、二三度掴み損ねた。カップとソーサーを激しく打ち鳴らしながら、ぼくはそれを持ち上げ、口元に運んだ。しかしコーヒーはぼくの口の中でなく、シャツの胸元に飛び込んでいったのだった。あの子がハンカチをぼくに差し出す。ぼくはそれを取らなかった。ぼくと彼女はついに敵対したのだった。

「よよよよ預言ってのはだだ誰の預言なんだ? だだだだ誰が預かった言葉なんだ?」

「私よ」

 シャツの胸元が妙に冷たくなった。あの子がハンカチをポケットにしまった。彼女の態度は何か自然科学的な、あるいは日常的な、自明のことを述べる人間のような態度だった。

「な、な、なんて?」

「お前をして、あらゆる偶像を打ち倒し、世界人民を、世の始まりから終わりまでの一切を支配する我に帰依せしめよ、って」

 教師の言葉が今になって蘇ってきた。教師は認識論的実在として、ぼくの隣に立っていた。その口が開き、「最近、彼女が変わったなぁ、とかそういう印象、ない?」という声が聞こえてきた。ぼくは「すっかり変わりましたよ。啓示を受けたらしいんですよ」と答えた。

「ききききき君は疲れてるんだよ。少し休んだほうがいい。全部ののののの脳科学的に説明できることじゃないか?」

 あの子の白い顔面に咲いた一輪の花たる紅い唇をコーヒーカップが隠した。白い陶器と彼女の肌の境界線は曖昧だった。

「私はね、自然法則の法則性そのものを成立させている方について話しているの。あるいは、そうね、あなたは過去の偉大な文明、現代に続く偉大な文明の起源となった預言者たちにも、脳科学的説教を聞かせるつもり? あなたは彼らとも敵対関係に入るつもり?」

「これは何なんだ、何なんだ? ここここれは冗談なのか? だだだだとしたら悪質だぞ?」

「本当にあなたが冗談だと思っているなら、わたしはもう帰るわ」

 あの子が目を細めた。ソリッドな悪寒がぼくの肩にのしかかった。ぼくは猫背になった。

「まままま待てよ。ぼぼぼくは本当に混乱してるんだぜ? 何でぼくにそれをこここ告白するんだ? ぼぼぼくに何を求めているんだ?」

 あの子の半眼がぼくを検分する。ぼくは解剖台の上にいた。蝙蝠傘とミシンだけが友達だ。

「あなたがライ麦畑を探していたから。私も好きよ、サリンジャー」

「ききき君はほとんどテディに近いな」

「でもあなたがホールデンになるためにはフィービーを包む迷妄の霧を晴らさないと」

「なななな何の話だよ」

「あなたの妹の話、そしてあなたの話」

 膨大な量の呪いの言葉が肺と胃から口内へとせり上がってきた。それはただ吃音であるという条件によってのみ、口内から飛び出ずにすんでいた。あの子の視線を追うと、あの子はカウンターの中の店長を視ているようだった。ぼくはそれを確認すると、コーヒーカップの中のぼくの顔の輪郭を明確化するための作業にとりかかり始めた。それだけがぼくの憤怒由来の身体の震えを抑える方法だったのだ。

「いいいいいい妹が何だって?」

 あの子はぼくの問いには答えなかった。熱心に店長を視ている。

「マスターって、何か固有の哲学を持っている風があるわね」

「おおおおおよそ人間というものは固有のてててて哲学を持っているだろう?」

「あら、ちゃんとわかってるじゃない。あなたの妹もそうよ」

 あの子が財布からお金を取り出し、机に置いた。それはあの子のコーヒー代の二倍はあった。およそ一切の物理的抵抗というものを感じさせない、滑らかな動作で立ち上がると、彼女は長い手足を動かして、気づいた時にはもう店の外に出ていた。ぼくはカウンターにお金をめり込ませるように強く置くと、急いで外に出た。彼女の姿はまだ視える。

「なんなんだ一体! ぼぼぼ! ぼくはどうすりゃいいんだ!」

 あの子が振り返った。右足を軸にした見事なターン。ぼくは彼女の革靴の幸福を想った。

「帰依するに値するものは神のみであると、私は今、君に言おう! 啓示が下されたのだと、私は今、君に言おう! さぁ、君はどうする!」

 あの子が声を張り上げたという異例の事態に、彼女を追いかけるぼくの足は止まった。彼女はまた見事なターンから歩みを再開した。ぼくは遠ざかる彼女をただ目でのみ追い続けた……。



 それからどうやって帰ったのか、よく覚えていない。誰かに、川の中を歩いてきたのだよ、と強く言われたら、それを信じてしまうくらいに、どうやって帰ったのか覚えていない。ぼくの少ないワーキングメモリは全てあの子の言葉を処理するのに使われていた。深刻な消化不良を起こしかねない巨大な問いがぼくの胃の中に座り込んでいた。ともかくぼくはどうやってあの子からの問いを有耶無耶にし、無反応という荒野に置き去りにすることで、ぼくがそれに向き合わないようにするかという、前結論的な結論を出す頃には、玄関扉の前にいたのだった。靴を整頓するのも億劫だった。後ろに振り上げた足に与えられたエネルギーのままの放物線を描く靴にいかなる同情も覚えず、そのまま階段を上がる。ぼくは妹からのお願いを思い出していた。ぼくには妹にあの子の言葉を教える義務というものがある。義務が……。ぼくはその義務を忘却したかのように振る舞うことにしたのだ。阿片とは知的怠惰のことである……。

「兄さん」

 その二人称にぼくが脅えるという事態などありえるはずもないと、夢想していた日々もあったはずだ。むしろぼくはその二人称にだけ往生の可能性を視たのではなかったか。けれどもただいまのぼくはそれに脅え、よっぽど聞こえないふりでもしたかった。だが階段の終わりに妹が立っていたなら、どんな演技によってそこから逃れることができるというのか。

「なななななななんだい?」

「おかえりなさい」

「たたたたただいま」

 脇を通り抜けようとしたぼくのコートの裾に妹の手が添えられた。添えられたのだ。それが強く握るような暴力的なものであれ、とぼくは願った。そうであればこそ、振り払うこともできようというもの。だが「嵐をもたらすものは、最も静寂なことば」なのだ。いつだってそうだったではないか……。彼女はぼくのコートを脱がし始める。こんな光景も少し前には日常そのものだったが、今となってはその背後にあるメッセージを読みとらないわけにはいかない。彼女がぼくのコートを抱きしめている。それは楔だ。かくしてぼくは彼女の前から去り、自室に逃げることができなくなる。

「あの人は何て書いたのですか?」

「あああああ、あ、そう、大学には行きたくないって、インチキばかりだから。でもほら、かかかか彼女、優秀だから、教師はなんとか実績のためにだだ大学に行って欲しいわけなんだな」

 この、眼前に立つ妹の顔面に貼り付いているものときたら、一体どういうことだろう? 憤怒……? 諦観……? もしくは一切の攻撃的表情が一度に表出し、互いに打ち消し合い、そうして成立した無表情……?

「三流ですね」

 コートをぼくの胸に押し付け、妹はすぐに手を放した。ぼくはそれが床に落ちないように、子どもを抱く者にも似た切迫感で抱きしめた。このコートの温度は彼女と混交できなかった、ぼくの温度の名残なのか、それとも彼女から移動してきた温度なのか。後者であれ、後者であれ、と唱えるぼくの視界の中で、彼女が自分の部屋の中に消えていく。最後に入ったのは腰まである長い髪だ。ぼくはそこに手を添えるような気持ちにはなれなかった。できたとしても、強く握るような暴力的なものであっただろう。ぼくはコートを抱きしめたまま部屋に戻った。ベッドに飛び込む。ぼくはまだコートを抱きしめていた。その中へと顔を沈める。

「我が妹……ああ……我が妹よ……」

 ぼくは妹の体温と自分の体温、妹の残り香と自分の残り香を分別する事業のために、階下から夕食ができたことを告げる母の声にさえ気づかずにいた。そのことを把握できたのは、母がぼくの部屋の扉をノックしたからだ。扉を開けると果たしてそこに母が立っていた。その手にはお盆。お盆の上には一人分の夕食。妹のためのそれだ。母は無言でぼくにそれを渡すと、逃げるように階段を降りていった。ぼくは開け放たれたままの扉から部屋を出て、妹の部屋の前に立った。お盆の先で扉を突く。

「夕食、おおお置いておくから」

 だが天岩戸は既に開かれていたのだ。そうでなければ妹が日に三度もぼくの言葉に応答するという事態を説明することはできない。この眼前に立って、ぼくからお盆を取る彼女の存在を説明することはできない。

「ありがとうございます。でも今日は私も下で食べます」

 妹をぼくの脇を通り抜けて、危うい足取りで、しかし確かにお盆を水平に保ちつつ階段を降りていく。ぼくは妹が階段を降りきりリビングダイニングへ入るまでを凝視した。「冷めるわよ」という、ぼくの登場を予想して張り上げられたはずの母の声のあと、「おお!」という演劇的な父の声まで階下から聞こえてきたならば、ぼくはぼくの混乱が大袈裟でなかったことを知り、むしろ安心してリビングダイニングへ向かうことになる。リビングダイニングでは黙々と食事する妹を父と母が見つめていた。その目には再び、あの人造人間への欲望の炎が光りだしていた。ぼくは心底からうんざりしたが、胃は食事を要求している。席につき、自分の分を消化器官へと流しこみ始める。父は箸で食べ物を口に運びながら、しかしその目には妹を映していた。母も台所から手を休めて妹を視ている。

「兄さん」

 すかさず母が水道の蛇口を締め、父が口の中の物を急いで飲み下す。ぼくはあえて箸を止めない。ぼくにしてみれば、妹を視ることの方が困難だったのだから。

「明日は何時に出ますか?」

 味噌汁が肺に入りかけた。気管の暴れるにまかせ、ご飯茶碗に向かって咳き込む。

「ああああ明日は、いやいいいいつも通りだよ。八時ぐらいにはででで出るかな」

 父の咳払い。ぼくはといえば、歯軋りを始め、やがて来る父の言葉に備えるしかない。

「お前のそれは家族の前でも出るのか」

 名状しがたき感情の波がぼくを自室へ運び去ろうとした。しかし父の表情がその波を元の場所へと押し戻した。心の奥底へと押し戻した。父は顔を蒼くし、顔面の肉という肉を下方に向かって下げていたのだ。妹が、あのあらゆる感情のベクトルが互いにその力を相殺したかのような無表情で父を見つめていたからだ。それは睨んでいるようにさえ視えた。リビングダイニングに沈黙が舞い降り、席についた母も含めて、自分の目の前の食物の処理に専心せざるをえなくなる。妹が同じハビトゥスを受け継いでいるとは信じ難いほど丁寧に「ごちそうさま」と手まで合わせて言った。そうだ、妹はそういう女の子だった……。それから自分の食器を台所まで持っていくと、そのまま食器を洗い始めた。食器の洗われる音がリビングダイニングに響いた。それしか音というものがなかったのだから、当然のことだ。水道の蛇口の締まる金属音を号砲に、また妹は歩き出し、父と母とぼくが食事を摂る手をとめたリビングダイニングに階段を上がる音を届ける。やがて扉の閉まる音が聞こえると、ついに我々も、一種の解放感をもって食事を再開することになった。最初に口を開いたのは全てを食べ終えた父だった。

「あの子はどうしたんだ」

「変わりましたね。あるいは元に戻ったのかしら」

 変わりました? 元に戻る? 否……否だ。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。認識論的断絶など、厳密に人間を観察すれば存在しないものだ……。そうぼくは思って黙りこんでいたのだったが、つまるところ、この時のぼくはゲシュタルト崩壊というものを意識していなかったのだ。

「何にせよ、良い徴候じゃないか」

 満足気な父がリビングダイニングから出ていくのを確認すると、母が独り言のように言った。

「何かあったのかしらねぇ?」

 それがぼくに対する問いであるということに気づけたのは、母がもう一度同じことを言ったからだ。

「何かあったのかしらねぇ?」

「いいいいいや、どうだろうね」

「あの子、急に変わったわよね。元に戻ったというか」

「しししししかし、万物は流転しているわけだから……」

「衒学はやめてちょうだい。何があったのか知ってる?」

「いいいいいや、しししし知らない」

「兄なんだからしっかりしてよ」

 兄に人造人間を管理する責任はないはずだった。妹に対しては何がしかの責任を有しているであろうと漠然と信じてはいたのであるが。母の一言にすっかり話す気をなくしたぼくは、急いで食事を片付け、リビングダイニングを出た。廊下の空気はリビングダイニングよりも遥かに低い温度であり、ぼくに顔の火照っていることを理解させた。ぼくは頬に冷たい手をあてながら、階段をあがった。自室に戻り、ベッドに寝転がって、天井を視る。天井こそ過去視のためのスクリーンだ。天井の幾何学模様がやがてあの子と妹の姿に変化し始める。それは重力に従って、ぼくのベッドに落ちてくる。ぼくは巨大な花に両脇を固められる。花の一つが……あの子がぼくの耳に息をかけながら囁く。「三流ね」花の一つが……妹がぼくの耳に息をかけながら囁く。「三流ですね」ぼくは顔が痛くなるほど強く目を閉じる。腋の下から背中へと冷たいものが流れた。それがこの両脇の花を焼く。灰が天井へ還っていく。息を整えていると、ノックの音が聴こえた。ぼくの部屋の扉へのノックだ。母だろうか。今日の妹の行動の原因を探るためにぼくを聴取したい母だろうか。だが歴史が一回性のものだとすれば、人間のあらゆる行動もまた一回性のものであり、再現性はありえず、そうしてそうであるからには因果関係もまた厳密には云々できるはずがない。少なくとも人の身には。しかし「人造人間」妹の創造者であると信じこみたい母にしてみれば、因果関係という有用なフィクションに縋りたくもなるだろう。それはぼくもわからなくはない。ぼくは急いで「ままま待って待って」と言いながら、扉を開けた。だが、そこにいたのは母ではなかった。妹だった。妹が眼前に立っている。こんなことは今日までなかった。そして今日になって三度もあった。この世界には過剰と欠乏しかない……。彼女は寝間着姿だった。その僅かばかりの力こめれば、このぼくにも引き裂くことができそうな布の中に彼女の全裸体が包まれているという事態はぼくの血流にある志向性を与えた。

「どどどどうしたの」

「明日、一緒に登校しませんか」

 妹は平生通りの表情だった。しかしぼくの顔面には何が貼り付いていただろうか。ぼくは自分では日常的事柄に対する反応のための精巧な仮面を貼り付けていたつもりだったが、痙攣する瞼は、ぼくの仮面の不全を教えていた。

「ああああああああ、そそそそそうしよう。それがいい。朝、おおお起こしてくれるかな」

 妹は返事をしなかった。ただ微笑していた。彼女の微笑を視たのはいつ以来のことだろう。微笑によって応答する彼女を視たのはいつ以来のことだろう。ぼくは記憶を探り続けたが、過去のあらゆる彼女の顔をモザイクが覆っていたために、ついに回想を断念した。その時にはもう、彼女は自分の要塞に戻っていた。だがそれはもう陥落した要塞だ。その鉄壁の防御は脱構築され、その司令官が出てきたのだ。ただ時系列を無視して、予告めいた告白をすれば、その司令官は要塞の外の情勢を読み切り――読み切り――全くの武装をしていたわけであったのだが。そんなことは彼女の顔を覆うモザイクが表現するところの抑圧の根源を考え、部屋の扉を閉めることもできずに、立ち尽くしたままのこの現在のぼくには考えることができるはずもなかった。



 誰の上にも朝は来る。夜が誰の上にも来るように……。このぼくにも来るように……。時刻は午前七時。悪くない起床時間だ。天井を視る。ぼくの横に寝ていた妹を天井の国へと還すために。ぼくのベッドから離れるごとに、妹の衣服は変転していく。寝間着から、高校の制服へ、そして生まれた時の姿へ。天井の白と妹の境界線が消滅し、ついに二つは弁証法的に止揚された。ぼくがそれを見送ってすぐ、ノックの音が響いた。

「兄さん、朝食を摂るなら、もう起きないと」

 これだ。これを待ち望んでいた。これが日常というものだ。我が人生に定常性が回復したのだ。ぼくは返事をしながら、制服に着替える。部屋を出る。妹の姿はない。階段を降りる。洗面所に入る。妹の姿はない。顔を洗う。出る。妹の姿はない。リビングダイニングに入る。彼女が台所から食べ物と飲み物とを運んでいる。妹がぼくの姿を認める。

「おはようございます」

「おおおおはよう」

 席に着く。トーストとスープとコーヒー。この何処の世界の何とも交換可能な朝! これだ。これを待ち望んでいた。トーストを食べる。口の端で削られたトーストが口の周りに残る。それを拭う作業に没頭しているふりをしながら妹を視る。彼女は神経質そうに、細かく千切ながらトーストを食べていく。音をたてずにスープを飲んでいく。ぼくは彼女の手が胃の中へ何ものかを落としていく、その様を本当に久しぶりに視た。彼女は生きている! 生きて、代謝している。彼女を視るぼくを彼女が視た。ぼくの視界が液体によって歪められる。

「兄さん?」

「ねねねね眠いねぇ」

 欠伸をする。演技的な欠伸。しないほうがよほどましだったかもわからない。やがて妹はリビングダイニングを出ていく。ぼくも食べ終わった。使った食器を台所に運ぶ。母が近寄ってくる。

「何があったのかしらね、あの子」

「何であれけけけけ結構なことじゃないか?」

「それはそうだけど。でも普通、リハビリ期間みたいなものがあるじゃない」

「すすすす全てのものはとと突然にぼくらを訪れるものだろう?」

「それは全てのものが突然に訪れるものではないということと同義じゃない」

 母の懸念がわからない。ぼくはリビングダイニングを出る。玄関には屈んで革靴を履こうとしている妹の背中があった。ぼくには母の懸念がわからない。全てよし……全てよし……。



 玄関を開けると、妹が待っている……待っている? まず視えたのは彼女の背中だ。彼女は何処かを見ている。何処か一点を視ている。それは、ぼくが彼女の顔を覗きこんでも彼女が反応しなかったことからも明らかだ。彼女の視線を追っていく。そこにあったのはあの子の家だ。それはそうだ。あの子の家はぼくの家と相対するように立っているのだから。その極普通の、一般的な、今は亡き中流階級の一軒家を、彼女はまるで聖所を視るように視ている。ああ、実際に妹は聖所を視ていたのだ。ぼくは彼女の態度に対する挑戦として、あえて彼女の態度を無視して、歩みを始めた。しかし彼女は「聖所」を見つめたままだ。

「あの方を待たないのですか?」

「いいいいいいや、最近はいいい一緒に行ってないんだ」

 最近は一人で登校していたのだ。一人で下校するように。そうなったのは何故だったか……。だがそもそも何故そんなことを考える必要があるというのか。あの子を待つ必要などない。妹の突然の精神的変容によって忘却することができていたが、そういえばぼくはあの子から謎めいた告白を受けていたのだった。

「あの方を待ちましょう」

「なななななんで?」

「必要なことだからです」

 もうあの子は家を出ているかも知れないぜ、となるべく吃りなく言うために脳内で練習をしている内に、あの子の家の玄関が開き、人間を吐き出した。それはまさしくあの子だった。ぼくはそれこそ学校へ走り出したいと思ったくらいだったが、それより先に妹があの子に駆け寄ったのだった。あの駆け寄る姿。久方ぶりに走ったはずの妹はほとんど倒れこむようにしながらあの子に向かって走り、実際あの子に抱きついて、どうにか地に膝をつかずに立ち止まったのだった。ぼくは再び、世界の事物の一切が遠ざかっていく予感に襲われ、抱き合う二人が、一つの肉の塊となるほどに抱き合った二人が、遠ざかっていくことを阻止すべく手をのばしたのだった。だが星を掴むには人間の手は短すぎる。あの子の髪に顔を埋める妹の後頭部を視ていた。その時だ。その時のあの子の顔! あの子はぼくを視て微笑んでいた。宗教画の展覧会入場者と宗教画のように、ぼくとその肉の塊は隔てられていた。

「おはよう」

 あの子はぼくに言った。だがよく聴き取ることができなかった。というのは何故かといえば、妹の嗚咽がぼくら三人の上に降り積もっていたからだ。ぼくは呆然としており、挨拶を返すこともできなかった。妹があの子を一つのポールのようにして、それに抱きついたまま、ゆっくりと地に膝をつき、それからついにあの子を放すと、地に額をつけた。

「預言者である貴女を信じます。貴女に言葉を預けた神を信じます」

「わたしに土下座する必要はないわ。わたしもまた単なる被造物だもの」

 およそ世界の事物の一切が遠ざかった。ぼくは凍結した時空に取り残され、歴史という巨大な奔流によって岸に打ち上げられた者として、二人から無限に離れた場所に立っていた。誰の上にも夜は来る……。誰の上にも朝が来るように……。



 あたかも遠くの景色を視るようにして、風景の一部として、腕を絡めて歩く妹とあの子のブレザーの背中の皺の陰影を視る内に、ぼくは学校に着いていた。妹とぼくは学年が違う。下駄箱も違う。正面玄関で、ぼくらは別れた。あの子もクラスが違うために、ちょうどぼくの使用している下駄箱の反対側へ消えた。ぼくは一人になった。靴を下駄箱に入れ。上履きを出す。その呼吸にも似た無意識的動作の最中であったために、気づくのが遅れたが、既に上履きを履いた妹がぼくの側に立っていた……。声をかけずに、ぼくが気づくまで待っていたのだ……。ぼくはあの子の文字通り「信者」となったこの少女になんと言葉をかければよいのかわからなかった。それは彼女の方でも同じことなのだろう。彼女もまた、電撃的に信仰に目覚めた妹を持つ兄にかける言葉を持たないのだろう。ぼくらは見つめ合ったまま黙りこんだ。それは人形のコミュニケーションだ。チャイムが鳴った。ホームルームの始まりを告げるチャイムだ。それが合図だった。ぼくの口がようやく開いた。

「自由だ、君は自由なんだよ」

 妹は小さく、しかし溜息とわかるような息を吐いた。安堵、したのだろう。チャイムの音の下を走って、自分のクラスへと向かっていった。ぼくは自分の口元の緩むのがわかった。いや、口元だけではない。「理解のある兄」を演じることができた喜びが、ぼくの全身を弛緩させた。



 昼休みに入って、すぐのことだったはずだ。もう、時間の感覚が曖昧だった。いや、時間の概念そのものが怪しくなっていた。教室のドアを勢い良く開けてクラス中の人間の声という声を鏖殺した教師がぼくのところまでやってきたのだから。そして、また、その顔の青白さときたら。ほとんど死人のそれだ。まだ机の上に食物の何も出していないぼくには、その教師を座ったまま見上げて、彼の言葉を待つよりなかった。

「一緒にきてくれないか?」

 その声がぼくの記憶の荒野を耕した。ゆっくりと、姿を現したのは、妹の部屋の前で叫んでいた彼だった。彼は妹の担任の教師なのだ。行きたくない、と返すことはどうやら不可能であるらしい。ぼくの返事も待たず、彼は大股に教室を出ていったのだ。クラスメイトの視線がぼくの肉に刺さる前に、ぼくもまた教室を出ることにした。彼についていくと、ついに職員室へ辿り着いた。そこへ彼に続いてぼくが入ると、職員室中の人間という人間の視線がぼくの顔に集中し、ぼくの顔はその圧力で陥没しかねないほどだった。教師たちの垣根の向こうに泣いている二人の女の子がいた。その泣き方は尋常ではないもので、そのまま彼女たちを土に還しそうなぐらいの勢いがあった。しかし、妹の担任の教師が職員室に併設された「面談室」の扉を開けて、ぼくに入るよう促していたため、ぼくは人が自己の涙によって溶解する場面を視ることはできなかった。面談室には脚の短いテーブルを挟むように革張りのソファが置かれていて、テーブルの彼方のソファには我が妹とその両脇に我が両親が座っていた。此方のソファには女性の教師。すっかり柔らかくなった記憶の荒野から、ぼくは妹の部屋の前で泣いていた女性の教師を引っ張りだすことができた。女性の教師の横にぼくをここまで導いた教師が座った。ぼくもその横に座ることにする。もう既に酷く疲れている。

「兄さんを連れてきたよ。話してくれるかな?」

 事態が全く理解できない。父は苦い虫を生で食べたような顔をしているし、母は無言で涙を流し続けている。妹は……。妹はあたかも周囲の状況から完全に独立しているような、超然とした態度をとっていた。ぼくを一瞥したのだけが、妹が世界内存在である示す唯一の行為だ。

「わたしは応報刑を執行しただけです。交渉もしました」

 何の話だがさっぱりわからないが、何の話だかわかっているはずだという予感もあった。

「預言者様にそういうご助言をいただいたのです。わたしが恐れるのは神様だけ。こんな『面談』に意味などありません」

「また信仰の話か……。あの子達に謝る気があるのかないのか、そもそもどうしてああいう行為に及んだのか、それを説明して欲しいのだけれど? 兄さんも呼んできたんだよ?」

 父と母は妹の使用した宗教的テクニカルタームに面食らって口を開けたまま身動きできなかったが、やはりこの男性教師には教師足る何かがあるらしく、妹と会話を続けようとしていた。

「兄さんなら、わかりますよね?」

 面談室の中の全ての目がぼくに収束したが、ぼくの存在そのものはまさに拡散しようとしていた。妹の期待が全くわからなかったからだ。ぼくこそが状況という状況から追放されつつあった。母の嗚咽が大きくなり、父の怒声がぼくの「理解」を要求したが、ぼくにはどうすることもできず、「あ、あ、あ、あ……」と繰り返すしかできない。ついに父の怒声の矛先が妹に変更され、「預言者ってのは何の話なんだ! 父さんは宗教は大嫌いなんだ!」と叫びだすと、妹は半眼でぼくを視たのだった。

「無期停学で構いません。お疲れ様でした」

 髪を掴もうとした父の手と、抱きしめようとした母の手をすり抜けて、妹は面談室を出て行った。父と母も妹を追いかけて出て行く。女性の教師もまた男性の教師とアイコンタクトをとると、面談室を出て行った。かくして面談室にはぼくと男性の教師だけになる。

「悪かったね、突然、連れてきて」

「いいいいいえ……」

「君が来る前と同様、信仰の話しかしてくれなかったけど、何かわかった?」

「おおおよそ人間のはは話すことというのは、すすすすべからく『信仰の話』でしょう?」

 彼は微笑し、父に出したと思しき茶を啜った。

「職員室で大泣きしてる子たち視た? 君の妹がね、あの子達の、まずは一人に平手打ちくらわせて、頬をおさえてがら空きになったボディーに膝を打ち込んだのね。それから背中から近づいてきた子に肘ね。視ていた子によるとね。何処で習ったんだろうね?」

「しししししししししし」

「『知りません』?」

 汗が顔という顔に貼り付き、ゆっくりと顎に集結し始める。その動きは実に緩慢で、軌跡がはっきりと想起できるほどだった。

「すごい大人しいというか、良い子じゃない? なんであんなことしたのか。わからないね、全然わからない。お手上げだ。被害者の二人とその保護者の方たちの感情的ケアも必要だし、やはり無期停学になるだろうなぁ。悪かったね、長時間拘束して」

 ぼくは母に出されたはずの湯呑茶碗をとると、その中の液体を口の中に放り込んだ。飲んだのではなく、放り込んだ。その液体が食道を抜けて胃に落ちる感覚はぼくを落ち着かせた。面談室を出ようとするぼくは「『兄さん』、何かわかったことあったら教えて。本当に無期停学になるよ、あの子」という声を聞いたが、それがあの教師の声帯の振動に由来するのか、ぼくの自我に由来するのか判断できなかったから、返事をすることができなかった。



 文芸部室は部室棟の最上階、最奥にあり、日当たり良好な角部屋にあった。それがどういう歴史的経緯によって得られた位置であるのか、それはぼくの知り及ぶところではない。文芸部室の扉が視えた。文芸部は新入部員がなく廃部が決定していた部だった。その文芸部に大量の一年生が入った。文芸部は救われた。部長も一年生だ。その一年生というのは、あの子だ。それを聴いたぼくはある日、文芸部室に行った。放課後の文芸部室……。過去と現在の分別が喚起する記憶の明晰さによって壊され、二つが重なりあう。あの時も、このように、ほとんどあの子を視るためだけに扉を開けたのだった。そこに広がっていたのは。いたのは? 彼女は窓際に机と椅子を置いて、そこに着いていた。頬杖をついて、遠くの空を視ている。また、遠くの空を。あの子がぼくを視る。目を細めて。それは獲物を視る目だ。その周りには、そうだ、もう少しで二桁に到達しそうな数の男子高校生が床に座ったり、あるいは立ったりしながら、彼女を取り囲んでいる。それは一瞬、暴力の被害者となった全ての女性のビジョンを引き連れてくる。しかし、そこにある男子高校生の全ては彼女の衣服や身体の一部に触れたまま静止しているのだ。まるで次の瞬間には喪われる宝物の存在を確かめるように。これはあの日の光景か。それとも現在の光景か。「なんだよこれは……」ああ、そうだ。あの時は珍しく吃音が出なかったのだ。ぼくは憤怒がある閾値を超えると吃音が一時的に治ることを知った。「お友達」短く、実に短く、彼女は言った。ぼくの視界は真っ赤に染まり、部室を出て行く……。いや、ぼくは、この今、この今は彼女の前にまだ立っている。そしてこの今は、彼女の周りに誰もいなかった。彼女は単独者として部室にいた。扉など勢いよく閉めてみるも、こちらを視ることさえしない。ぼくはそのまま大股に彼女へと歩みより、その机の前に立った。影が顔にかかるにおよんで、ようやく彼女はぼくに気付いたようだった。

「そそそそそんなにおおお面白いものがみみ視えるのか?」

 あの子がまた遠くを視る。それが彼女の応答。ほとんどつられるようにして、ぼくも窓の外を視る。そこには見事なまでに「終わりなき日常」が広がっていた。

「いたるところに奇跡があるわ。いや……奇跡しかないのね」

「きききき奇跡しかないのならば、それは奇跡などそそ存在しないということだろう?」

 あの子は小首をかしげて、品定めするようにぼくを視る。

「ぼぼぼぼぼくが来た意味がわ、わ、わ、わかるか?」

「偶像に取り憑かれて這うように歩く者は必ずここに来る」

「ここ?」

「私の前に」

 あの子が立ち上がる。ぼくは身構える。ぼくの緊張など彼女の行為の障害になるはずもない。彼女はそのまま近くの椅子を自分の机の近くまで運び、手でそれに座るよう促した。ぼくはそれに従った。ぼくの素直さに彼女が僅かに目を細める。その顔は……。

「あなたと話すのは本当に楽しい」

 その顔の裏に隠されているもう一つの顔は鷲か……そうだ……蛇……?

「あなたは? わたしと話すのは楽しい?」

 ぼくは? ぼくは憤怒にその身を舐めまわされている。

「ひひひひ人の弱みに付け込むようなまままま真似をして。それは、ほほほほほとんどカルトのやり口じゃなななないか?」

 あの子が足を組んだ。そのつま先がぼくの足に当たった。それは恐らく意図的なものだった。というのは、そのままぼくにローファー、靴下、そして彼女の脚の皮膚の感触が流れこんできたからだ。

「『弱み』というのは?」

「我がいいいいい妹の不登校っていうげげげげ現状に付け込んでだな」

「付け込んで?」

「せせせせ洗脳したろう? それであんなじじじ事件まで……。彼女がむむむ無期停学処分になったのは知ってるんだろう? きょきょきょ教組さま?」

 あの子の顔から一切の感情を解釈させる要素が抜け落ちた。だがそれは一瞬。そこから勢いよく吹き出したのだ。そしてそれは間断なく哄笑へと移行した。笑いゆえの涙を手の甲で拭いながら、彼女は何度か口を開こうとした。だが呼吸を回復するための時間が必要なようだった。

「きききき昨日、突然に前のような妹にももも戻ったかと思ったらこここここれだ」

「昨夜、メールをね、交換したの。兄さんに何を話したのですかって聞いてきたのよ。だから答えてあげたわ。啓示があったって。それにしても洗脳だなんて……」

 一息。まだ呼吸を整える時間が必要らしい。

「わたしと話したら洗脳される。それこそ『カルト』的発想じゃない」

「きききき君が唆したんだろう?」

「何を?」

「あのぼぼぼぼぼ暴力沙汰を」

 あの子が窓の方を視た。また遠くを視ているのか。ぼくの視ることのできない世界を。

「ぼぼぼぼぼくを視ろよ! ききき君の宗教的妄言でひひひひ一人の女の子の人生がどうにかなっちまいそうなんだぞ?」

 大きな声をあげるのは本当に久しぶりだった。こんなことができるのはあの子に対してだけだ。ぼくの怒声ほどかっこうのつかないものはないのだから。彼女はしかし、ぼくの怒声に対してさえも、僅かに頭を動かし、それから瞳を大きく動かしてぼくを一瞥しただけだった。それは睨んでいるようにも視えた。

「そうよ。ある意味では。言ってあげたのよ」

「なんて?」

「目には目を、歯には歯を」

「ぜぜぜ絶対応報刑なんて時代遅れにもほほほほほほどってもんがあるぜ?」

「時代、クラスメイト、学校当局、そして……」

 あの子はもう遠くを視ていなかった。

「あなた。そういうものの反応を気にする必要はないと言ってあげたの。全てを正確に視て、全てを正確に裁く方のことだけ気にしなさいって。そしてそれが結果的にあなたの兄さんを救うことにもなるって」

「なななななななんだよ、そりゃあ? ななななななんでぼくが出てくる?」

「あなたの妹にとり憑いた偶像の中で最も強いのが『兄さん』だから」

 ぼくは思わず、この部屋に、他に誰もいないことを、この階に、他に誰もいない、いたとしても、この部屋で起きたどんな音も聴き取れる場所にはいないであろうということを確認した。ぼくは想像の彼岸のあの子を、そのネクタイをつかんで眼前に持ち上げた。彼女の顔は呼吸の困難さによって歪むだろう。やめて……なんてあの涼やかな声で言うかも知れない。それはしかし、ぼくの乳酸を取り除くようには機能しない。むしろぼくの筋肉にさらなる電気的刺戟を与え、行使できる暴力を増幅させる。そうしてぼくはその陶器にも似た頬を平手打ちし、彼女の顔面に消えない我が痕跡を刻むだろう……。

「すぐに空想へ逃げる。あなたの想像力は素晴らしいものだけど、でも、それが阿片と化している。他者へ向いていない。巨大な他者へ向いていない」

「きょきょきょきょ巨大な他者ぁ?」

 全く時間というものを経ずに、刹那の間に口の中が乾いた。

「神様」

 あの子が机に身を乗り出した。それからブレザーの下に隠れていたネクタイを出し、ぼくの固く握っていた拳に捩じ込んだのだった。彼女が上目遣いにぼくを視ていたこともあって、それは鎖のようであった。焦って握った拳の開き方を思い出せなかったぼくは、どうにか拳を解いた時にはネクタイを投げるようにして彼女の方へ戻していた。

「それにね、あなたは前提からして間違えているのよ」

「前提?」

「弱み、と言ったわね」

「うううううん」

「あの子が弱さゆえに昨日までのような状態にあったと思っているの?」

「だだだだダーウィン流の進化論的淘汰から言えば……」

 あの子がぼくのネクタイを掴んで、引っ張った。ぼくはその力に屈して、机に両手をつく。息のかかる距離に彼女の顔が現れる。

「あなたの悪い癖。そうやっていつも一般論と抽象論に逃げる。さらにそれが空想癖と同盟を結んでいる。だいたい、あなたはなんで彼女が不登校になったか理解しているの?」

「りりりり『理解なんてものは概ね願望に基づくもの 』だろう? それこそ、ただかかかか神においてのみ可能なことだろう? そしていいい因果関係については、我々はちちち沈黙するべきじゃないのか?」

 あの子がぼくのネクタイから手を離した。ぼくは思いがけず自由になったことで床に尻をついた。彼女がぼくを見下ろしている……。

「本気で言ってるの?」

「ききき君が『本当に冗談だと思っているなら、』ぼぼぼぼくは『もう帰る』ぜ?」

 あの子は大きな溜息をついた。

「ならこう言い換えましょう。彼女は何を信じて不登校になったのか」

『語りえぬことについては沈黙しなければならない』。ぼくは口を真一文字に結び、直立不動の姿勢であの子と対峙した。黙秘を貫徹するという意志を表明しなければならないからだ。しかし彼女はぼくの態度に興味がないらしく、また窓の外を視てしまう。彼女に対し何かをアッピールすることに疲れたぼくは溜息をついてから猫背に戻った。そしてぼくはもう、この後に、最後のチャイムが鳴り響き、全ての生徒に帰宅を促し始めるまで我が幼馴染とともに沈黙し続けていたのだということについては多くを語りたいとは思わない。



 妹は今一度、不登校になった。不登校? ある意味では。学校当局の指揮命令下にある不登校だ。ぼくはまた一人で登校することになるのだ。だが案外悪くないかも知れない。とにかくここ何日かのぼくには葛藤が多すぎる。葛藤が。どんな弁証法さえも平伏す葛藤が。

「おはよう」

 自宅を出てすぐ、あの子の姿があった。驚いた。本当に。朝食との再会の風景が脳裏に訪れたほどだ。彼女は我が家の二階の窓を見上げている。その窓を越えたなら、そこに妹の部屋がある。きっと彼女はそれをこそ視ているのだろう。

「おおおおい、ぼぼぼぼくんちの近くにこここ来ないほうがいいぜ」

「あら、どうして?」

「ぼぼぼくの母さんもとととと父さんも妹があんなことしたのはききき君のせいだって言ってるからなぁ」

「知ってる。うちに電話がきたもの」

「ででで電話ぁ?」

「お前が唆したんだろう? って。たぶんあれは、そう、怒っていたのね。怒っていたんでしょう?」

「おおお怒ってたんじゃないか? だだから、こんなとこにたたた立ってないほうがいいぜ?」

「恐れるに値するのは神様だけ。まだわからないの?」

 ぼくが絶句していると、あの子は手の平を口の両端において、言い換えれば、即席のメガホンを作り出すと、叫んだのだった。

「神様は全てを視ているわ! 恐れるに値するのはその視線だけ! そうすれば永遠の恩賞が貴女のものよ!」

「ままままままてまてまてまて」

「ご家族の皆さん! わたしが信じられないのはわかります! 『預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ 』もの! 神様が信じられないのもわかります! 『主はパロの心を頑なにされた 』! でもね! 娘のことは信じられるでしょう! それはむしろ市民道徳が推奨するところでしょう! だったらそこから全てを始めてください!」

 ぼくはついに徹夜の家族会議と人造人間育成の責任をどちらが引き受けるかという議論に端を発した喧嘩のために充血した目をした母と父が玄関から飛び出してくるビジョンの到来を確認したから、自分でも信じられないくらいの力であの子を引き摺って家を離れ始めた。少し離れてから、振り返って家を視ると、二階の窓から顔の出ているのがわかった。それは妹であったはずだ。ぼくはその表情を見極めようと目をこらしたが、酷い乱視のために、ただ妹の顔が二つに分裂しただけだった。いや、あるいはそれは本当に分裂していたのだろうか?

「していない。あの子は微笑んでいた」

 あの子がそう言うならばそうなのだろうと思ってしまった自分に腹が立ち、ただでさえ憂鬱な登校の道のりに新しい憂鬱が侵入した。



 ぼくのワーキングメモリは妹の起こした事件のために一杯で、流れていく景色に意識を向けることもできず、それどころか足元の水溜りにさえしっかりと踏みつけてしまうくらいのものだった。さらにまたあの子と久しぶりに二人きりで登校しているという事態が元々からして低いぼくの意識の運用能力を著しく下げていたのだった。ぼくは彼女の揺れる髪、手足の交差、それから香りに絡め取られていたのだ。

「昼休み、一年生のところに行きましょう」

 あの子は少しでも手を動かせば届くような距離にいる。その彼女の影にぼくは二人の子どもの姿を視た。小さな女の子と小さな男の子だ。二人は手を繋いでいる。それは恐らく二人にとって未知なるものに満ち満ちた世界という奔流の中で迷わないようにという健気な抵抗。または宣言。見せつけるようでさえある。特に男の子はそういう意識が強いのではないだろうか。女の子より半歩先を歩いて、未知なるものを既知なるものにしようと、風景の中の様々な事物と事象について解説している。しかしその解説はぼくにとっては聴くに耐えないものだ。何故って、その男の子は酷い吃音だったからだ。そうだ、彼は……。

「ちゃんと聞いてますか、兄さん?」

 あの子がぼくの前に出て、振り返った。影の中にはもう誰もいなかった。

「にににに兄さんて呼ぶな。ぼぼぼくはカルト宗教のきょきょ教組のああ兄になった覚えはないんだからな。ででででも、なんで?」

「妹が無期停学のままで良いの? あの子の名誉が汚されたままで良いの?」

「いいいいいいいわけないだろう。でもそんなものをどどどどどうして気にする?」

「現世は来世までの暇潰し。でも暇潰しにもクオリティというものがあるでしょう?」

 神の奴隷とはこんなにも自由なものであったのか。

「一年生のととところに行ってどどどどどうすんのさ」

「証言してくれる子を探しましょう」

「しょしょしょ証言? なな何を?」

「彼女が『目には目を、歯には歯を』という聖法に忠実であっただけということを」

 あの子はまた遠くを視ていた。自分を抱きしめながら……。それはいかにも宗教的恍惚の中にある人間の様であった。

「あああああああああてはあるわけ?」

「『求めよさらば与えられん、叩けよさらば開かれん 』」

 学校という知の城に入城する預言者……。



 朝のホームルームに、妹の名こそ挙げられなかったが、妹の起こした事件について教師が何事か言った。何事か言った、というのは、ぼくが意識的に、それを耳の穴から耳の穴へと通過するままにまかせていたからだ。ぼくはずっとあの子に「兄さん」という二人称を使わせる方法がないか考え、その時間をやり過ごした。昼休みまでの授業は存外に速く終わった。ぼくはそれが無限に延長され続けることを望んだのだったが。死刑囚もこのような意識の流れの中にいるのだろうか。昼休みが始まって五分も経たないうちに、教室の黒板に近い側の扉が開き、あの子の姿をそこに示した。歩き回っていた人間はその場に立ち止まり、会話していた人間はそれをやめ、食事を始めようとしていた者達は箸を宙に留めた。やがて彼女が入ってくると、磁力か何かの働きを感じるほどに人間たちは空間を譲り、彼女はどんな障害物もないまま、ぼくの机に到着した。

「もう昼食はとったの?」

 あの子の手の先には弁当と思しきものを包んだ風呂敷があった。古風な趣味だ。まさか預言者の条件の一つであったりしないよな……。ぼくは机の中からパンを包装していたビニールを取り出して、机の上に置いた。

「早いのね。食べて、後はどうしてるの?」

「ねねねねね寝てるよ。ひひひ一人で食べて、ねねね寝る」

「どうして?」

「どどどどうしてって……こう口をあけて、パパパンをいれて、歯ですすす磨り潰して……」

「そうじゃなくて、どうしてわたしを呼ばないのかって聞いているの」

 どうして……。どうして? それはあの子の周りにいつも多くの人間がいたからではないか。それもぼくと同級の人間たち。滑らかに話す彼らの中心に彼女がいたからではないか! あれは一体何だったのか。思えば、あの頃からぼくらはお互いの島宇宙を作り出し始めたのではなかったか。そしてぼくは、それがまずはあの子の方から始めた事業であると信じていた。

「きききききき君こそ、あのいつも引き連れてるおおおおお男の子たちはどどどうしたのさ」

「みんないなくなったわ。わたしが啓示を受けたって言ったら」

 あの子が遠くを視た。ぼくは今こそ、何故あんな連中を集めたのか尋ねるべきだと判断した。

「『もっとも偉大な出来事ともっとも偉大な思想は――しかしもっとも偉大な思想とは、すなわちもっとも偉大な出来事である――、つねにもっとも遅く理解される 』」

 全く違う言葉が口を出た。ぼくはがあの子が遠くを視るのと反対に机を視ていたのだった。だから彼女の表情も視ていない。それでも彼女の――

「そうね。それは本当に正しいわ。わたし、戦闘的な無神論者って好きよ」

 声の調子は嬉しそうだった。ぼくには、ぼくたちの間にあった海とその平面上に流れた時間のことが嘘のようにも思われてきた。



 叩けよさらば開かれんとの言葉を信じるまでもなく、まるで自室でもあるように、あの子は一年生の教室の扉を開いた。響いた金属音がぼくらに視線を集め、それはぼくを萎縮させたが、彼女においてはそんな気配さえ微塵もなかった。教室には妹の暴れたどんな痕跡も確認できなかったが、一年生たちの瞳の中にはその痕跡があるように視えた。それはもしかしたら、ぼくが「加害者」の兄であったがゆえに視た幻影だったのかも知れない。彼女が鼠を狙う夜の梟の目で一年生の顔の集合を物色する横で、ぼくはもう十分に萎縮したはずの自己をさらに萎縮させたのだった。というのは、驚くべきことに、思い返すと、ぼくは妹の友達というのを一人も……一人も知らないのだった。それはぼくのなけなしの罪悪感を呼び起こし、より深く、一年生の顔の集合を観察させることにした。それでも、石を投じられた水面のように、段々と、しかし確実に、顔の群れは自己の志向していた方向へとそのベクトルを復帰しつつあった。ぼくはもう帰ろうとさえ思った。だが確かに「求めよさらば与えられん」という声を聴いたのだ。それが、彼女が物理的に生じさせたものであるかどうかはわからない。ともかくそれで脚をとめたぼくのところに、ぼくらのところに婦女子が一人駆け寄ってきたのだった。その婦女子は高校一年生とは思えない、未成熟な身体を有しており、二次性徴が開始されているかどうか怪しいぐらいのものだった。何かの偶然で紛れ込んだ小学生という可能性も排除しきれない。だが全ては必然だとすれば? そしてこの高校の制服を着ているとすれば?

「あの……」

 それは衰弱した小動物の鳴き声だった。

「その……この度は……」

 この衰弱した小動物の鳴き声を聴いていると、今があたかも妹の通夜であるようにさえ思えてくる。それにまた、このか細い声ときたら! あらゆる「死刑にしなくてはならないほど悪い音」に負けてしまうくらいのものだ。苛立ってくる。こいつは、ぼくが一番嫌いな奴に似ている。そう、このぼくに……。

「あなたの妹のお友達みたいね」

 伏し目の彼女の顔をあげさせたのはあの子の声だった。涼やかな、声。

「はい……昨日の『事件』の……」

「その『事件』について聴きたいのだけど」

 しかしまた彼女は床を視た。ぼくは酷い猫背だった、それでも彼女の頭頂あたりを視ることになる。ぼくに婦女子の頭頂を視る趣味はない。たぶん……。ぼくは彼女の背後を視る。彼女がここに至るまでの軌跡を追って、その起源を視る。そこに彼女の席がある。それは周りの島宇宙と隔絶されている。机の上には玩具じみた弁道箱が静物画になるのを待つように置かれている。その光景自体は興味深いものだったが、ついに彼女が震えだしたなら、ぼくも彼女の頭頂に視線を戻さざるをえない。やがて彼女の顔面から床へと墜ちていく液体をも観測したとすれば。そこからのあの子は実に俊敏で、それはぼくに人間が動物の延長にいることを思い出させた。浮遊でもするような歩みで、教室中の視線をかいくぐって彼女の席へと接近し、そこにある弁当箱を回収すると、そのまま彼女の手をとって――彼女をも回収して、廊下を歩き出したのだ。

「どどどどどこどこどこへ行くんだ」

「『知ってるでしょ、騒音が思想を殺すってこと 』」

 いっそ置いてかれることを願ったが、連れていかれる彼女が命乞いをするようにぼくを視たとなれば、およそ抵抗権などというものがぼくにあるはずもない。



 文芸部室に来たのはこれで三度目になる。この妹の友達は初めてかも知れない。初めてだろう。初体験がこんなではトラウマになるかもわからぬ。それでもあの子は鷹揚に、鼻歌交じりにお茶の用意などしていた。その鼻歌は恐らく「深き悩みの淵より、われ汝に呼ばわる」の再現だ。なんという選択をするのだろう、この預言者様は……。席は窓際に一つと、部屋の中央に三つ。窓際の席は頬杖をついて遠くを視る者のためにある。妹の友達は部屋の中央の席の一つについた。自然、ぼくは彼女の向かいの席につくことになる。彼女は俯いていて、その表情は確認できない。あの子が湯呑茶碗を運んできた。それが自分の前に置かれるに及んで、ようやく彼女は顔をあげた。それから掠れた声を出したが、それは恐らく「ありがとうございます……」という言葉であったはずだ。ぼくの前にも湯呑茶碗が置かれた。

「きききキリストのいいイニシエーションでも始める気か?」

「意識を酩酊させるものを摂ってはならないと神様はわたしに言いました」

 あの子がぼくの前に置かれた湯呑茶碗をとって、飲み、ぼくの前に戻した。それを受けてかわからないが、妹の友達も湯呑茶碗茶碗をとる。ぼくはあの子の唇が吸い込んだ液体がその生理学的必然に基づいて食道を流れて胃に至る映像を観想することで、どうにか外形的な平常さを守りぬき、彼女が使ったばかりの湯呑茶碗から茶を飲んだ。妹の友達は一気に、しかしまるで拷問でも受けているような表情で茶を飲み干した。その時視えた喉は……白かった。

「落ち着いた?」

「はい……あの昨日の『事件』についてですけど……」

 ぼくは息を呑んだ。唾液もまた。喉が鳴り、彼女がぼくを視た。ぼくの喉は白いだろうか。

「あの子は……私のために……戦ってくれたんです」

 全てのものは流体であると、誰かが言っていた。確か工学者の台詞だったかしら? 今、ぼくはそれを理解した。空気の粘性が、身動きが困難であるほどに強まり、ぼくが動かしえたのは、ただ自分の頭だけだった。そのままあの子を視る。あの子の口が三日月形になっている。勝利者の笑み。空気は相変わらず強い粘性を帯びていたが、ぼくはそこから視線を外すために、どうにか今一度頭を動かし、妹の友達を視た。彼女は……彼女は泣いていた。その静かな落涙はぼくの落涙すら導きそうなものであった。

「私……いじめられていて……それで不登校になっていて……」

 妹は、この彼女との連帯を示すために不登校になったのだった。そのことが電撃のように理解できた。成績優秀な妹が謎のサボタージュを開始すること以上に教師が恐怖することはなく、クラスメイトに衝撃を与えるものはないだろう。

「私がいじめられて……不登校になって……あの子も『行かない』って言い出して……でも一昨日、電話があって……『一緒にいこう』って……それであんなことになって……だから……無期停学なんておかしいんです……」

 彼女の嗚咽はいよいよ彼女の呼吸を妨げ始めた。ぼくはどうすればよいかわからず、「ありがとう。ありがとう。わかりました。わかりました」と、その音声自体が何か脳内物質に影響をもたらすものであると信じているかのように連呼していたのだが、やがて空気の粘性が弱まり、食物のにおいが漂い始めると、ぼくはその呪術を中断した。あの子が自分の弁当を広げていたのだった。妹の友達はまだ呼吸を平常運転とするのに成功していなかったが、目は意外な事態に瞬かれ、その表面は輝いていたが、もう落涙してはいなかった。それから彼女は説明を求めるようにぼくを一瞥したが、ぼくにもあの子の次の行動を待つことしかできない。

「全部わかりました。お話聞かせてくれてありがとう。貴女の勇気に神の祝福あれ。お昼休みがもうすぐ終わるわ。食事にしましょう」

 妹の友達も自分の弁当を広げ始めた。ぼくはもう食事は摂っている。ぼくは席を立った。彼女は縋るようにぼくを視たが、あの子はもう箸を動かしている。「全部わか」っているのだろう。そうだ、何も言うことはない。何も。今ぼくが考えているのは、部室棟の屋上には出られたかということだけだ。



 ぼくは妹のことを考えたことなどあったのだろうか? ぼくは案外、妹が不登校になった時、喜んでいたのではないか? その「弱さ」が明らかになったと? しかしそれもまた誤解に過ぎなかったとすれば? そして、ぼくは良き兄として奉仕することに酔っていたのではないか? それゆえぼくは、ただ妹の友達に聞いて回れば済むことを、ここまで延期したのではなかったか? あの子こそ、妹を、ひいてはこのぼくを最も「真面目に」「真剣に」考えていたのではなかったか? 現世は来世までの暇潰しだと言い切った彼女こそが? ぼくはどんな偶像に取り憑かれていたのだろうか? その偶像がまた、ぼくを、妹が事件を起こした後も妹から遠ざけたのか? だとすれば、ぼくは大きな罪を背負っているのではないか? ぼくは? ぼくは?



 午後の授業には一つとして出席せず、影がすっかり長くなるまで、ぼくは部室棟の屋上に立っていた。ぼくは帰る機会を失っていた。このままここで餓死するのも良いかも知れない。ここからは学校の中庭が視える。そこに二人の少女の立っているのが視える。あの子と、妹の友達だ。手なんか繋いでいて、視ようによっては姉妹と視えなくもない。その微笑ましい二つの人型の一つが手を振っているのがわかった。

「降り方がわからなくなった?」

 どうも最近、あの子が声を張り上げる場面によく出くわすような気がする。

「わわわわわかる! 降り方ぐらいわかる!」

 降り方ぐらい、わかっている。待っている人間がいるありがたさもわかっている。

「明日ね、先生に話してくれるって」

 中庭に出たぼくをまだ手を繋いでいるあの子と妹の友達が迎えた。

「預言者様……いっしょに来てくれますよね……?」

「教友を見捨てる預言者など過去にいたことはありません」

「教友だなんて畏れ多いです……私は単なる預言者様の奴隷です……」

「いいえ、私たちは皆、神様の奴隷です」

 預言者様……。教友……。この人垂らしめ! けれどもぼくは妹の友達があの子を信じているということについて、何も不思議とは思わなかった。あの子にはそういう力がある。ぼくはそれを認めつつあった。ぼくさえも信じつつあった。ぼくは二度と妹の信仰を否定しないと誓った。何に? 案外、それは神様かも知れなかった。



 どういう複雑な手続きがあったのか知らないが、妹は学校に行けることになった。その複雑さの中にあの子と妹の友達の格闘があったことは想像に難くない。格闘? しかしあの子は「格闘」もしないだろう。あの子にとっては全て暇潰し、現世の全ては暇潰しなのだから。それは単なるニヒリズムではないはずだ。こうして、再びぼくと妹が並んで登校することができるようになったのだから。それにしても二人きりであるというのは意外だった。あの子を待って、三人で登校するとばかり思っていた。

「よよよよ『預言者様』をままま待っていなくていいのかい?」

「はい。どうしても兄さんと二人で話したいことがあって」

「いいいいい家で話してくれればよよよよ良かったのに」

「いえ、話すのに思い切りが必要な話なんです」

 それはどうやら本当のことのようだった。ぼくが妹と登校できる喜びを噛み締めている横で、妹は沈黙していた。それは沈鬱な沈黙だった。ぼくが時折、妹の顔を視ると、妹と度々、目が合うのだ。それは例えば、ぼくの部屋に来た妹がぼくの本棚から本をとってそのままぼくの部屋で読み始め、その結果として共有するような沈黙とは全く違うものだったわけだ。ついに学校が視えた。いや、もう校門だって視えている。ぼくはもう門を移動させるためのレールだって跨いだ。

「兄さん」

 学校の敷地内に、先に入ったのは右脚だ。まだ左脚は前に出していない。そのぼくの袖を妹が引いたのだった。ぼくはそのまま止まった。それは外形的には実に喜劇的な光景であったが、ぼくはもうただ妹のどんな微細なメッセージにも反応すべく、感覚を研ぎ澄ませていた。

「どどどどどどどうしたの?」

「預言者様のこと、どう思っているんですか?」

「どどどどどどどどどど?」

「あの人のおかげで私は私の友達を救うことができました。あの人のおかげで私は、今日、こうして兄さんと登校できました。でも兄さんと預言者様はまだ……」

「まだ?」

「私はまた、『真剣に』『真面目に』遊びたいんです。兄さんと預言者様と私とで」

「どどどどどどどこで?」

「現世っていう遊び場で」

 ホームルームの開始まで後何分もない。門を越える生徒たちの数が増えてくる。立ち尽くしているぼくらは邪魔そのものだろう。申し訳ない。しかしぼくは妹に何を言っていいのかわからなくなっていたから、ただ立ち尽くしているより他にはないのだ。それでも人間の河は広く、深くなり、誰かがぼくの肩に当たった。その誰かの後頭部と背中に骨相学を適用できないかと思案しているうちに、ぼくの袖に止まっていたはずの白い蝶は消え、ぼくは一人になっていたのだった。



 昼休み、あの子は姿を見せなかった。見せなかったどころの話ではない。学校にいないようなのだ。何故そんなことがぼくに断言できるのかといえば、ぼくがあの子のクラスの教室にまで行ったからだ。ぼくは気がどうかしていたのだと思う。ぼくはあの子の名を叫んだ。人の群れの中にあの子を探すのが面倒だったし、何となく叫びたい気分だったからだ。いや、違う。ぼくは気がどうかしていたのだ。扉の近くにいた婦女子が「今日はお休みみたいだよ」と応えた。そうか、ありがとう、ぼくはさらに応えた。その時のぼくは吃っていただろうか。あるいは、吃っていなかったのではないか。いや、いや、違う。ぼくは気がどうかしていたのだ。もう、自分の言葉が「正しい」ものであるかどうかなど考えていやなかった。ぼくはあの子のことを考えていたのだから。



 妹を一人で帰らせると、ぼくは部室棟に向かった。一つの確信があった。それは部室棟の蔦に侵された、ポスト文明的様相を呈する外観を視ることでさらに強まった。校庭でのサッカー部、野球部の練習風景とは全く反対に、こちらでは話し声ぐらいしか音というものがない。ただ、それはあの子の呼吸音を聞き取ろうというぼくの努力を挫折させるくらいには大きい。その挫折はぼくの足を速め、ついに階段を駆け上がらせるが、心臓が爆発する直前にぼくは文芸部室の扉を開けることができた。そうすると窓越しの校庭と街とその先の空がぼくの視界を埋め尽くすはずであったが、しかしぼくの視界で意識の対象となったのは、あの子の、遠くを視る姿だった……。まずは呼吸を整えなくてはならない。あの子が肘をつく机の前、あの子と相対するように椅子を置き、座る。それは倒れることと区別がつかない座り方だ。あの子が遠くを視るのをやめて、ぼくを視ているのがわかる。それも熱烈に、だ! ぼくはもうそれだけでほとんど目的を達成したような気分になっている。

「きょきょきょ今日はいいいいい妹と一緒に学校にきき来たんだよ」

「そう」

 あの子の返事は素っ気無いものだったが、そこには何か秘められたものがあった。

「きききき君のおかげだ」

 呼吸が整った。

「ありがとう」

 部屋の隅に控えていた沈黙がやってきて、ぼくらを抱いたが、それは何処かで抱かれた覚えのある沈黙だった。きっと、いつかの公園で、いつかの帰り道で、いつかの教室で、ぼくらを抱いた沈黙だった。ぼくとあの子が別々の島宇宙に移住する、その前に共有した沈黙だった。あの子の表情はわからない。既にその顔は窓に向けられている。遠くを視ているのだろう。ぼくはもうすっかり自分の為すべきことを為したと思い、立ち上がりかけた。

「高校に入ってから――」

 そのぼくの尻と椅子をもう一度結んだのは、あの子が紡ぎ始めた言葉だった。それは独言と語言の境界線上にあった。

「高校に入ってから何もかも変わった。あなたは……あなたは学校でわたしと話してくれなくなった。でもきっと、わたしを想ってのことなんでしょうね。あなたは優しいから。優しいから、何もかもを恐れている。優しいから、世間なんて偶像に付け入る隙を与える。教室でも、あなたの声を聞けなくなった。わたしは、あなたが一つ一つ言葉を選んで必死に吐き出す姿が大好きだったのに……。わたしも間違えたけどね。あなたの代わりを探して、色んな男の子を集めたけど、誰も彼も『愛してる』なんて容易く言える子ばかりだった……。自分を愛してくれる人間しか愛したことがないくせに……。あなたの妹も高校に入ってすぐ不登校になってしまった。それでずっと考えていたのよ。頭が痛くなるくらい。比喩じゃなくて、本当に頭が痛くなったわ。なんで、あなたのように真剣に話す人間が辱められて赤面することになり、ついには自分の言葉を飲み事になるのか? なんであなたの妹みたいに高貴な人間が、あたかも隠れるように生きることになるのか? そして何故、わたしのメッセージは何一つ、あなたに届かなかったのか?」

「それで……そそそその煩悶の後にけけけけ啓示が来たのか?」

「そうよ」

 あの子の顔をぼくはついに正面から視た。それは実に特権的なことであるように思われた。

「わたしは、あなたという偶像を崇拝していた……。それによってわたしはあなたから疎外された。この地上に、崇拝に値するものなど何一つ存在しないというのに」

「ぼぼぼぼぼぼくは、もう他人なんて偽物の神様の目はおおおお恐れないよ……。たださ、やっぱりまだわわわわわからないよ。神様のことなんて。でででででも、ぼくは君のことを――」

 白く、細長い人差し指がぼくの唇の端に触れた。それはぼくの唇を撫でながら、もう一つの端へと至った。それから、温度と湿度がゆっくりと離れていく。ぼくは眩暈を覚える。

「言わないで、その先は。わたしは志向して預言者になったわけではないの。まだわたしの心の水面は波打ってる。わたしは……まだ揺れてる。だから――言わないで」

 あの子は微笑んでいただろうか? あの子は泣いていただろうか? あるいは、泣きながら微笑んでいただろうか? 遠くの空を視始めたあの子の表情はもう不可知論の領域にある。

「いいいいいいつになったら聞いてくれる? きききき君の啓示と教えを学校中に、日本中に、せせせ世界中に広めたら、聞いてくれる?」

「そうね、そこまであなたが従いてきてくれるなら」

 ぼくはそのまま問いを続けることにした。ぼくも半ば、この世界の外側からこの世界を視る方の視線以外に恐れるものはなくなりつつあった。

「ぼくもやがて信仰に至るだろうか? 君を信じたい、このぼくも?」

「神様が望むなら」

 窓の外を視る。校庭がある。街がある。空がある。その先に……。その先に、あの子は世界の外側までをも視ているのだろう。それはまだ、ぼくには酷く困難なことであるように思われた。だからぼくは窓に映るあの子の顔を視た。すると、どうだろう? そこには満面の笑みが貼り付いており、そしてその目は窓に映るこのぼくを視ていた。

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聖幼馴染 他律神経 @taritsushinkei

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