幻雨の扉

八枝ひいろ

第1話

 一号館の扉を開けると、きまってよどんだ水の匂いがした。誰かが雨のしずくを置き忘れてきたかのように、ふと思い出したように香り、たちまち消える。その匂いに足を止めたことがあったか知れないが、昼夜も天候もかまわず確かにそこにあって、その理由はついぞわからなかった。

 何度、雨の残り香を嗅いだことだろう。

 その数は扉をくぐった回数であって、大なり小なりの用事を抱えて一号館に向かった足跡であって、二年をかけて足しげく通い、生活した日々の証であるはずだった。そして私は、授業が終わろうと変わらず、今日も幻の雨に降られて家路につく。

 休みが来ようと勉強はするのだし、別段何かが変わるわけでもなかった。自転車で坂を登るのはしんどいし、五階に行くならいいだろうとエレベーターを使うし、オートロックの戸が閉まっているのを見て、しぶしぶ学生証を取り出すことになる。時の流れに区切りはなく、万物はおおよそ連続的に変化する。でなければ、近似計算をするのに困ってしまうことだろう。

 しかし、あと何度あの匂いを嗅ぐのだろうと考えたとき、ようやく私の胸にも、卒業という二文字がせまってきた。

 わずかに意識にのぼって消える幻雨の匂い。残りの日々もそうやってはかなく過ぎ忘れ去るのだろうと思うと、二年という歳月さえ夢のように不確かなものに感じられる。自分はいったい何を為しただろう、何を磨いただろうという自問は、風だけを捕まえて、果ててしまう。

 ただ、水の匂いは紛れもなく雨のものだ。ひとところに留まり、よどんだ腐臭を漂わせるそれが、霧や清流であるはずがない。なれば、たとえ日に照らされ、風にさらわれて乾こうとも、知れず地中深くまで染み、たゆたっているに違いない。

 今まで嗅いできた雨の香、染みてきたしずくは華々しくも煌びやかでもなく、きっと墨を流したような夜の色をしていて、澱となって心にこびりついている。筆舌に尽くしがたい、色々なことがあった。思い出と呼ぶほど小綺麗でなく、むしろ汚れと言う方が似つかわしいとさえ思う。けれど、ふと思い出した拍子に面映ゆい気持ちになるのかもしれない。

 幻雨の匂いも、今では芳しいのだから。

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幻雨の扉 八枝ひいろ @yae_hiiro

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