トーキョー・ダークツーリズム

他律神経

本編

 闇が消える。反転するように光の登場。遅れて幾何学模様も。それは天井だ。

 一切が撓んでいる。歪んでいる。

 やがて天井から蛍光灯が分離する頃には、彼女は仰向けに寝ている自分を発見する。

 それからベッド。それから糊の効いたシーツ。それから柔らかい掛布団。

 それから。それから?

 喉の乾き。尿意。皮膚表面の呼吸が困難なまでに貼られた汗の膜……。

 彼女は立ち上がって様々な欠如を回復しようと企図する。

 だが上半身を上げることさえできない。

 恐慌。回復しかけた事物の境界が今一度消失し始める。

 彼女は声というものを思い出す。声をあげる。否。掠れた何かが漏れただけだ。

 彼女は部屋を統一する白色によって、自分が病室にいるのではないかと推理。目的物を探す。

 ナースコールが枕の向こうに待っている。手を伸ばす。

 無限あるいは刹那の後、手が届く。スイッチを押す。

 スピーカーから看護師の声。しばらくして病室の扉が開かれる。

 白装束の一団の到来を確認。全能感を覚えながら、彼女は瞼を下ろす。ああ、酷く眠い……。



 病院の中庭。彼女は車椅子に座って、宇宙を視ていた。

 何処にでも宇宙はある。芝生の中には跳躍する虫。木の上には休息中の鳥。空には雲の船団。

 彼女は将来の病院の外という大文字の他者との遭遇に備えて中庭の観察に取り組んでいた。

 病院の外! 考えるだけでも恐ろしいことだ。

 意識を回復した彼女を感嘆すべき簡単な健康診断が待っていた。

 直後、情報の洪水。恐怖にはある程度の根拠があった。

 回復というのは、彼女は四年間も意識を喪失していたらしいからだ。驚くべきこと。

 さらに驚くべきは、いかなる努力をしても過去のことを思い出せないということだった。

 彼女の起源も今日までの過程も何もかも忘却の彼方へ。

 脳の検査の結果――心因性のものでしょう。

 リハビリはもう何日も続いていた。身体的な。心理的な。

 回復する手足の機能に対して、忘却の海にモーゼは現れず、閉ざされたまま。

 今やそれ自体がストレスの原因だ。

 彼女は自己の起源のわからぬことについて、何度泣いただろう? 何度歯軋りしただろう?

 慟哭することはなかった。彼女はまだ言葉を回復できずにいた。

「もう戻りましょう? 昼食の時間ですよ」

 彼女が小さく頷くと、看護師は車椅子を押し始める。

「午後からリハビリだけど、大丈夫かな?」

 宇宙があの中庭だけであるとすれば、どれほど現世は楽園に近づいたことか。



 一つの謎があった。

 医師達が彼女の起源や過程に纏わる、どんな些細な事も教えてくれないということだ。

 それは医学的判断によるものなのだろうか?

 脚力は回復し、車椅子が用済みとなった。

 いよいよ記憶の回復しないことが心理的重荷となった。声も取り戻せずにいた。

 ある日、彼女は自分の起源や過程について教えてくれないか、という医師に要求した。

 紅潮する頬とそれを冷やす涙のコントラストに困惑しながら。

 医師は彼女の切迫した様子にも特に感じるところはないらしい。

 カルテをつくりながら、彼女に関する情報が全くないということを告げた。

 彼女にはそれがどういう事態なのかわからない。

「ただね、貴女に関する情報が全くないのは何故かということについては情報があります。東京という地域については知っていますか?」

 日本の首都だ。

「日本の首都という認識ですか? 四年間眠っておられたのだから無理もないが。しかしね、東京はもう日本の首都じゃないのですよ」

 遷都した? しかし何故?

「沈んだのですよ。東京はね、地震があって、海水が流れこんでね、沈みました。もの凄い数の人間が死にましたが、勿論、生き残った人間もいるわけでね。その一人が貴女なんですよ」

 それにしても何故この人はこんなにも饒舌なのか? この今となって。

「震災被害者としてね、貴女はここにヘリで運ばれてきた。池袋だったかな。ほら、豊島区の。東池袋とか何とかから、ヘリで運ばれてきた。稀有な体験ですね。いや、その時はもう意識はないわけか。ともかく貴女についての情報は全て東京とともに失われてしまったわけですね」

 医者は一枚の紙を彼女の眼前に突き出す。

 紙は医療費の明細。ゼロとはこれほどまでに横隊を愛する兵士であったのか。

「貴女は名前を呼ばれたことがありますか? 貴女は貴女の両親を知っていますか? 貴女の医療費を支払うのは誰ですか?」

 涙は乾いた。顔面から血液が撤退した。息を吐くということができない。

「今日の診察は終わりです。お疲れ様でした」

 終わったのは診察だけではない。病院との蜜月もまた。夢が終わった。現実が始まる。

 医者が再び業務に戻り、書類に何事か書き始めれば、彼女も軋む椅子から立ち上がる他なく。

 可及的速やかに視界から医者の姿を消さなくては。診察室の扉を開け、廊下へ。

 廊下は大理石のように青ざめた人々で一杯だった。彼女もまたその内の一人だ。

 エレベーターの前に立つ。

 見覚えのある手が、彼女が押すより前にエレベーターのボタンを押した。

「服貸してあげようか? 娘のがあるから」

 いつも中庭に出る時、車椅子を押してくれる、あの看護師だ。

「もっと色々な『中庭』を視に行ったほうが良いと思うんだ」

 携帯用ホワイトボードに急いでメッセージを書いた――お願いします。

 看護師が口の片端を釣り上げる。演技的な笑み。彼女も演技的な表情で返そうと思いつく。

 顔面の動かし方がわからない。ホワイトボードに星形のマークを書き込んでお茶を濁した。



 あの看護師から貸してもらった衣服を着て、靴を履き、病室から出る。

 夜中の病院を歩くのは初めてだ。覚えている限りでは。

 そこは冥府の入り口。人々の吐息と機械の駆動音だけが彼女の退院を祝う僅かばかりの音楽。

 音楽は彼女に亡霊を幻視させた。その表情を読み取ろうとするが暗くてそれも叶わない。

 努力の実らぬまま、辿り着いたナースステーションの灯りが亡霊を吹き消した。

 そこにはあの看護師がチェシャ猫の笑みで立っている。彼女の案内で職員用入り口へ。

 彼女の足音がないのはやはり訓練の賜物なのだろうか? あるいは?

 病院の外にはあらゆるものがあった。

 風。星空。そして喧騒。街の喧騒。情報量の多さよ……。

 人間の胃が解剖学的には人間の外側であるように、中庭もまた病院の外であるはずだ。

 だがこの情報量の多さは……。圧倒的ではないか。中庭などより。圧倒的ではないか。

 風に嬲られるまま立ち尽くす彼女の頭に看護師が何かを載せた。ベレー帽だ。

 そのまま小さな革鞄まで背負わされる。

「うーん、似合ってる、似合ってる。どう見ても小学校高学年か何かにしか視えない。病院を脱走してきたって感じはない」

 小学校……。高学年……。自己の二次性徴の有無について彼女は一瞬悩んだ。

 看護師の熱烈な視線の中、彼女は服装を再点検していた。

 この服装は群集の中に紛れ込むことを可能にするだろうか?

 彼女にはそれさえ判断できない。

 そして、この鞄の中身は。その大きさも旅の相棒にしては余りに頼りない。

 彼女の小さく細い体躯に相応しいものではあったが。いや、そうであればこそ、頼りない。

「自由を持つためには色々な物を捨てなければならないからね」

 それはこれまで見せなかった秘められた冷酷さ。もしくは病質的な楽観主義。

「正面入口前の大きな道路をずっと歩いていきなさい。右でも左でも、駅には着く」

 看護師は顔の横にまであげた手を左右に振りながら職員用入り口へ戻っていく。

 衣服や鞄をどのように返却するかといったことについて一切何も言わずに。

 彼女はその背中に礼の一言を叫ぼうとした。だが奥歯をすり合わせることしかできない。

 そして扉が彼女を拒絶するかのように勢い良く閉ざされる。



 さて彼女は駅に向かうことにする。

 そもそも選択の余地などないのだ。

 太陽は地球からあまりにも遠く、故に大気はあまりにも冷たく。

 さらには吹きすさぶ風が彼女の小さな身体の無けなしの体温さえ奪いとる。

 ほとんど駆け足で駅に。明け方の街。人の姿は疎ら。

 昨夜の夢だけが最も忌避すべき形態で残っている。

 交差する視線も開かれる口もない。彼女は安堵する。

 やはり日の出より早く病院を脱出したことは正解だったようだ。

 病院から駅への道には自然を統御しようという意志が貫徹されている。

 彼女のリノリウムの床ばかり歩いてきた脚にも、あまり負担を与えなかった。

 視界の隅に駅を示す高い時計塔を発見したなら、その負担も何処かへと消える。

 駅は逃げずに彼女を待っていた。

 ロータリーには車の一台だってない。勿論、人もいない。

 刻まれる時刻の下をそのまま歩き続けると、階段の先、自動改札が現れた。

 改札より先すなわちホームへと至るまでの通路にはまだシャッターが降ろされている。

 彼女は人間の通常の生活時間帯よりも早くに行動を始め過ぎたのだ。

 階段を降りる。駅の外へ戻る。ベンチがあった。色はオレンジ。原色。腰掛ける。

 ベンチは彼女の全身の温度を求めた。彼女はそれに応じた。

 この寒さの中、職務に忠実なベンチの態度に心服していた。体温ぐらい何ということもない。

 ベンチから禅僧的生真面目さで大通りを見つめ続ける。

 行き交う車の数が増えてきた。遠くから人の声も聞こえてきた。まもなく街が目覚める。

 その時こそ、彼女の旅の始まりだ。意気込んだ彼女の隣に誰かが座った。

 隣人が振り向く。だがその顔面はアルミホイルを巻きつけているため確認できない。

「何処かでお会いしたことがありますか?」

 彼女は大きく首を横に振る。隣人の顔に彼女の顔が乱反射した。

「そうですか。それは失礼致しました。始発電車で何処かにいかれる予定なんですか?」

 彼女が頷くより早く隣人は言う。

「我々の起源さえ暴露されるほどに遠くの、さらに遠くまで行かれるおつもりなんでしょう?」

 隣人は立ち上がり、前方に腕を伸ばす。その末端で人差し指が太陽を指していた。

「きっと太陽を目指して旅を続けた者もあったんでしょうね」

 隣人は立ち上がって会釈し、足早に去っていく。大通りに出て、ビルの角を曲がり、消えた。

 冷たい空気も、強風も、太陽の光は全てを切り裂き、彼女の元へ到達し、彼女の全身を抱く。

 シャッターの上がる音。振り返ると、駅は既に多くの人間をその懐に招いていた。



 目的の駅までの切符を買うと、財布の中身は残り少なくなった。

 ちょっとした奇跡に依らないと帰りの切符が買えない。

 いや……これでいい。これがいい。帰る場所などないのだから。

 ホームは全くの殺風景。機能主義が徹底されている。

 屋根。ベンチ。駅名を記した看板。そして境界を示すための白線。人の姿はほとんどない。

 放送――まもなく電車が到着します。白線の内側でお待ちください。

 近づいてくる二つの目。電車の先頭車両だ。手でも振ろうかと考える。

 ホームに立ち並ぶ人々の顔面に貼り付く無表情がそれを断念させた。

 電車は太陽の運動にも似た正確さで、予定されていた時刻通りホームに到着した。

 小動物の威嚇を想起させる音とともに扉が開く。人々が乗り込む。彼女も乗り込む。

 扉が閉まる。電車が動き出す。景色がゆっくりと流れ出す。

 駅の消失を見届けるより前に彼女は座席につく。この車両はほとんど彼女の貸し切りだ。

 旅の始まりは昼の病院よりも静かだ。彼女は瞼を閉じるなり眠りについた。



 幾つかの夢と夢の狭間に白光が紛れ込んだ。

 その強度は彼女を現実へと復帰させるに十分なもの。目をこする。口元を拭う。

 薄い闇の方方に虹の断片を視た。

 やがて闇が完全に晴れたなら、光源が明らかになる。窓の外の海に咲いた光の花、花、花。

 それは瞬く間に生きては逝き、生きては逝く。その連続が一つの光源。

 興奮が彼女を座席から立ち上がらせる。膝から帽子が落ちる。拾う間さえ惜しい。

 向かいの座席の上に膝で立ち、海を視る。

 花に囲まれてコンクリートの構造体が聳えているのを、見出した。数は無数。姿は死骸。

「海に沈んだ街を視るのは初めてか?」

 彼女のすぐ後ろに男が立っていた。

 軍服めいた黒のロングコート。顔には巨大な瞳の絵が書かれた仮面。

 手袋までしているからには、彼の露出している皮膚は口元のそれだけということになる。

 彼女が意志を表明するより早く、男の手によって帽子が彼女の頭に載せられた。

 光源が消え、窓の外が暗くなる。

「揺れるぞ」

 予告の通りの大きな揺れ。金属と金属の口論。まさに金切り声そのもの。

 ようやく彼女は自分が電車に乗っているということを思い出す。

――御乗車ありがとうございました。終点、新東京駅です。どなた様もお忘れものございませんよう、お気をつけてお降りください。終点、新東京駅。終点、新東京駅です。

 窓の外から海はすっかり退場し、その余地を人工物が埋め尽くしていた。

 揺れのために掴んだ窓枠から手を離し、帽子を定位置に戻す頃には、すでに男の姿はなく。

 今や車内には彼女と、まるで初めから誰もいなかったとでも言いたげな静寂だけ。

 電車を降りる。ホームの床を踏むたびに微粒子が舞い上がった。

 それはかつて誰かのために生きた人々の名残。あるいは彼らの可能性の亡霊。

 ホームには人影の一つもない。立っているのは駅名を描いた看板だけ。表示――新東京駅。

 どこか誇らしげな、その表示。没落貴族の陽気さ。

 ホームの中頃の階段を降る。何処かで会った覚えのある風が背中を押す。

 割れたタイルに気をつけながら階段を降りきれば、「手動」改札が視えてくる。

 一つしかない改札に二人の駅員。二人で一組になって切符を処理しているのだ。

 一人が切符を切る姿は穏やかだ。

 だがもう一人は猛禽類的鋭さの瞳の中に切符を出す者を捉えようとしている。

 彼らの隙のない制服の腰には黒光りするベルト。黒光りするベルトにはホルスター。

 空気が冷たくなる。足取りが重くなる。財布から切符を取り出す。

 購入額を確認しようとするが、それよりも自分の指の白さが気になってならない。

 駅員に切符を出す。大きな手がそれを掴む。一瞬の抵抗。虚しい抵抗。

 切符は駅員の手に。駅員の動きがとまる。彼女は自分の血の気の引く音を聞いた。

「君は未成年だよね? 保護者はいないの?」

 二度、頷く。

「この改札は通れるけど、駅からは出られないよ。学校はどうしたの? 冬休みなの? 早い冬休みだね。小学生? 小学生だよね? ご両親は上京についてご存知なのかな? 話せないの? 話したくないの? ちょっと事務室に行こうか」

 改札の向こう、巨大な階段が水の中にその半身を浸している。

 水面には三艘のボート。旧東京を周る、無二の手段。

 彼女は駅員の静止を振り切り、その内の一つに乗り込む自分を幻視する。

 ボートの手前、自動小銃を肩から下げた憲兵の視線から逃れて?

 言葉を放ち続ける駅員の隣、彼のホルスターに手を置いた相方の視線から逃れて?

 可能世界の彼女が現実世界のそれへと溶融する。駅員と対峙する自己へと帰ってきた。

「俺の助手だ。何も問題はない」

 肩に手が置かれていた。振り向く。そこにいたのはあの仮面の男。

「あんたのとこの人か」

 駅員が穴の開けられた切符を彼女の手の中へ押し込んだ。

「ようこそ、東京へ」

 改札を出る。

「助手にしては若すぎないか?」

「若い感性が要求される仕事なんだ」

「初めて聞いたよ」

 背中の会話は無視。腰を折って、上半身と床を水平に。男に向かって礼。

 男の反応はなし。煙草に火を点けている。

「何処に行きたいんだ?」

 鞄を漁る。ホワイトボードがない。焦る彼女の目が地図を見つけた。目的地を指す。

「旧東池袋か。今からだと着くのは夜になるな。今日はやめろ。泊まる場所はあるか?」

 目を見開いてみせる。無計画。無謀。まさに愚の骨頂。顔が熱い。

「一緒に来い。俺が信用できるなら」

 信用とは何だ。信用とは……。

 煙の短い一生を見届けてから、男が歩き出す。彼女はその背中を追う。信用とは何だ?

 階段の手前、二人の憲兵が向い合って立っている。直立不動の二人。

 その有り様は大理石の彫像にも似ていた。二人の間を通って階段を降りる。男の横に並んだ。

「憲兵がいただろう? 普通はネチネチと上京の目的なんかを聞かれる。俺は顔パスなんだ」

 この男にも感情はあるらしい。男を抜いて、階段を駆け下りる。あと四段も降りれば水面だ。

 そこから一段ごとに一人ずつ、青年、中年、初老の男性が腰掛けている。

 一番手前の段に青年。青年が彼女を認識したらしく、立ち上がり、近づいてくる。

「東京へようこそ。東京の面白いとこ案内してあげようか? 安くしとくよ」

「必要ない」

「この人は旦那の何なわけ? 娼婦にしちゃ若いし」

「助手だ」

「助手? 葬式帰りの小学生の方がまだ理解できるがね」

 ネクタイが黒いせいだろうか。しかし小学生とは。

「お前の理解など期待していない」

「ありがたいねぇ。煙草ある? くれない?」

 男が煙草を一本渡す。青年は微笑しつつ元の場所へ。前に座る老人の肩を叩く。

「じいさん、仕事だよ。いつもの旦那と葬式帰りの小学生」

 老人が立ち上がり、こちらを視る。男が片手をあげる。老人はボートへ。男が続く。

 錆の目立つエンジンが唸り始める。彼女も続いて乗り込む。

 三人も乗ってよいのか不安になるような、小さなボートだ。

 それでも確実にボートは階段から離れていく。酷く揺れる。男に思わずしがみつく。

 その身体は実によく鍛えられ、何もかもが揺れる中では、絶大な安心感の源泉だ。

 駅を出る。駅舎の屋根と壁が消える。海だ。そして再びの、光の花。喧しいまでの光の花。

 目を細める。思わず立ち上がりかける。だがその手はしっかりと男に握られていた。

 我に返る。男を視る。男は遠くの空を視ている。その表情は? その表情は仮面の下。

 もう一度海を視る。今度は冷静に。冷徹に。

 海の下に横たわる巨大な躯は堪え切れず海の上に一部分を飛び出させている。

 あの花々はそれを養分に咲き誇っているのだ。彼女は男の手を強く握り返していた。



 平坦な光景は駅の近くだけだ。

 少し進めば、海の底に横たわる巨大な躯はさらに姿を現す。

 いつの間にかボートの両脇にはコンクリートの構造体の葬列が続き始める。

 それは高層ビル。それは高層マンション。それは電波塔。

 いずれの窓もひび割れている。いずれの壁面も朽ちている。いずれの金属も錆びている。

 ここが死んだ街だ。ここが。時折響く甲高い音は嬌声か、悲鳴か、もっと無機的な何かか。

 水を押しのけて、押しのけて、ボートは進む。

 老人は前方を監視し、男は相変わらず遠くの空を視ている。虚無の街では新参者だけが詩人。

「揺れるぞ」

 既視感。そして大きな揺れ。既視感。

 ボートは恐らくはその半分も水没したビルの前で停止した。

 目の前にはガラスの綺麗に取り外された窓。これが入り口。そして出口。

 エンジンを止める作業を終えた老人に、男が小さな銀のインゴットを渡した。

 老人の会釈。無言。男の会釈。無言。

 まるで猫のコミュニケーション。嫌いではない。むしろ好ましいとさえ想った。

 男が器用にもボートをほとんど揺らさずに窓の中へと跳んだ。

 手が伸ばされる。次は彼女の番だ。ボートの縁に立つ。

 近くで視た水面には光の花の一輪もなく。

 そこにあるのは、毒々しい七色の膜、穴だらけの木片、肉が溶け落ち外骨格だけとなった虫。

 そして少女の水死体。水の中からこちらを視ている。

 異様に白い肌と波打つ髪には見覚えがあった。そうだ。それは水面に反射する彼女だ……。

「お嬢さん」

 老人の声を初めて聞いた。

「観光かな?」

 首を横にふる。強く、ふる。

「しかし貴女が視たいものしか視ないなら、それは観光とどういう違いがあるかね?」

 老人が彼女を凝視している。彼女もまた老人を凝視した。

「太陽の真の姿を視るためにその身を焼かれた者もあっただろうね」

 彼女は跳躍した。窓に飛び移る。男の手はとらなかった。

 彼女の跳躍で大きく揺れるボートの上、老人はなお彼女をしっかりと見据えている。

 その顔には満面の笑みが蔓延っていた。嘲笑または弔鐘。――弔鐘? 何の?



 落ちるようにして降りた先は薄暗い廊下だ。

 着地のための所作を想像できなかった彼女は冷たい床に倒れこんだ。

 両膝を着いたまま視た廊下は闇の効果もあって、何処までも続いて視える。

 男が彼女の手をとって起き上がらせる。

「脚は大丈夫か?」

 二度三度飛び跳ねてみせる。男が歩き出す。離れた温度が若干のノスタルジアを喚起。

 廊下は余りにも静か。男の足音と彼女の足音が木霊するほどに静か。

 薄汚れた窓から差し込んだ光が高い湿度由来の瘴気と臭気を切り裂く。ここにも光はある。

 光の中を通り過ぎる瞬間にだけ、彼女の足取りは軽くなった。

 やはり男に手の一つ、腕の一つでも要求すべきだったのだろうか。

 これほどまでに次の薄汚れた窓越しの衰弱した光線が恋しいのならば。

 何かが男と彼女の間を横切る。鼠だ。猫のように肥えた鼠だ。

 皮膚の毛穴という毛穴が瞬く間に閉じた。

「ここは元々、鼠とゴキブリと蜘蛛のシェアハウスだったんだ。そこに俺が割り込ませてもらった。失礼な態度をとらないほうがいい」

 男は笑っていただろうか。鼠が何処に消えたかよりも、それが気になった。

 廊下が終わる。そこにあったのは腐食して赤くなった扉。

 扉の上に表示がある――非常口。

 緑から解放されたピクトが小さな入り口の中に入ろうとしている。

 男が全身を使って扉を開ける。扉は我儘な子どものように絶叫した。

 風が廊下を吹き抜ける。非常用階段が待っている。空。風。遠ざかる、汚れた水面。

 男の体重と彼女の体重に階段が泣く。再び赤の扉を押し開ければ、あの廊下の双子が現れる。

 そこからは他の住人に会う暇もなく、衰弱した光線を浴びるまでもなく。

「婦女子を連れ込む部屋ではないのは確かだ」

 腐食の穏やかな扉の向こう、果たして、男の生活空間が広がっていた。



 拾い集めた物なのだろう。

 どのソファやチェアにも微細な埃、剥がれた皮、朽ちた木がその全体に寄り添っている。

 彼らがソファやチェア足るためには使用者の思いなしが必要だった。

 例えば――

「好きなのにかけてくれ」

 こんな風に。

 照明は小さな電球が二つ。男の側のスタンドライト。彼女の側のスタンドライト。

 いずれも、今まさに消耗されていることを訴えるべく、小さいが耳障りな音を立てている。

「コーヒーを飲むか?」

 手渡されたカップの表面ではデフォルメされた猫が雲の上で寛いでいた。

 これもやはり拾ってきたものなのだろうか。コーヒーは冷めていて、泥水と区別がつかない。

「ここはある意味で安全な街だ。そもそも人がほとんどいないからな。ただここで会う人間の半分は壊れている。夜は最悪だ。夜に出会う人間の全ては壊れている」

 男は泥水を吸い込むように飲み干した。彼女のカップの泥水はまだ全く減っていない。

「砂糖もあるぞ。これも本当に貴重だが、客人は歓待しなくてはいけない」

 気配もなく彼女とカップの間にスプーンが割り込んだ。白い何かが泥水に投入される。

 仕方なく、泥水コーヒーを胃へと流しこむ。流し……こむ。

「そんなに美味いか」

 男が煙草に火を点けた。部屋の中空、煙が所在なげに停滞している。

 彼女は泥水コーヒーの表面の物語を読み、男は煙の拡散の物語を読む。

 部屋に響く、控えめな遠い潮騒、遠慮のない鼠の足音。そして息も絶え絶えな時計の針の音。

 時計はまさしく光学と工学の婚姻の産物だ。小人たちが緩慢に踊る。光線が小人たちを彩る。

 全ては時計台の下の小さな世界の出来事。長針と短針が出逢えばオルゴールさえ流れ始める。

 曲は――

 電源は電池だろうか――

 このカップやこの時計に相応しい誰かがいたのだろうか――

「観光じゃないなら何を為しにきたんだ?」

 泥水コーヒーを口に含む。せめて純粋な泥水であれ、と彼女は思った。

「東京で逞しく生きる人間達の感動ドキュメントでも視に来たか? 移動による世界観の変化でも期待したのか?」

 自分の顔の歪むのがわかった。

 それはこの液体の味が導いたものか、突然の詰問が導いたものか。

 それだけはわからなかった。わかりたくもなかった。

 彼女は何も答えることができず、男の問いは煙とともに漂う。

 仮面越しだが、男の視線の物理的な威力を彼女は確かに感じた。

 彼女の視線は定まらず、泥水コーヒーの表面と男の仮面を行き交うまま。

 男がソファから立ち上がる。彼女は驚き、男の次の行動を視ないために目を強く閉じる。

 同時に出て行け、と言われることを願った。強く、願った。

「明日は助手として少し働いてもらいたい」

 目を開けると男はソファで横になっていた。一宿の恩がある。断る理由はない。

「寝ろ。明日は早く出る。奥の部屋を使ってくれ。身体は、今日は拭くだけで我慢してくれ」

 男の後ろに扉があった。扉は彼女の予想に反して滑らかに動いた。

 倉庫ぐらいのものを想像していた。

 けれどもそこには大きなベッドがあった。大きな本棚と、それに反比例して小さな机も、

 あらゆる努力で作り上げた最低限度の文化的な空間という趣。

 自分はソファか床で眠るべきだと主張すべく男に振り返る。けれども男は既に毛布の中で。

 さらにテーブルに濡れたタオルと並んであの仮面までもが置かれていたならば。

 彼女は思いがけず姉妹の華美な下着を視てしまった思春期の少年よろしく不条理な恥を抱く。

 速やかに扉を閉める。シャツ以外の全てを脱ぎ落とす。ベッドに飛び込む。

 抱きしめた枕には男の匂い。彼女は男の腕の低反発の肉を思い出した。



 肉体と精神の疲労の均衡は彼女を熟睡させた。目覚めも爽やか。視界の霞もすぐに消えた。

 ただ気になるのはこの枕の冷たさだ。起き上がり、枕を見下ろす。呻き声を漏らす。

「どうした?」

 扉の隙間から男の顔だけが出てきていた。その顔には既に仮面が張り付いている。

 シャツだけの姿で枕を抱きしめる彼女の目が男の仮面の裏にあるはずのそれと出会う。

 時の矢が彼女と男の狭間を過ぎ去っていった。

「すまなかった。簡単な朝食を用意したから、服を着たら来てくれ」

 彼女こそ謝りたかった。枕は彼女の唾液で濡れた犬のようになっている。

 衣服を探す。昨日脱ぎ捨てた位置から全く変わっていない。

 爽やかな目覚め。乱れぬベッド。不動の衣服。彼女の垂れ流す唾液に耐え続けた枕。

 部屋の隅に大きな鏡が置かれている。その前に立ち、二次性徴の証を探す、探す、探す。

 やはり小学生にしか視えないのだろうか。

 溜息。ベッドに戻る。枕が視える。溜息。どう説明すればいいのか……。

 必要とも思われぬブラジャーを着けても思いつかない。

 下着に足を通しても同じこと。

 スカートのチャックを上げてもダメだ。

 温度に飢えた靴下を履いても寒いだけ。

 セーターの静電気もインスピレーションには貢献せず。

 部屋を出る。テーブルに食事が並べられている。

 男はテーブルから離れたソファに座って紙面に波の立つこと著しい雑誌を読んでいる。

 読んでいる? 仮面越しに? そんなことは可能なのだろうか?

「冷めないうちに食べたほうがいい」

 男は雑誌から目を離さない。それが自分への言葉と理解できるまで少し時間がかかった。

 テーブルの上に、パンに似た何か、スクランブルエッグの縁戚、具なしスープ。

 そしてあの猫の描かれたカップの中にはコーヒーを目指すことを諦めた泥水。

「腹でも痛くなったか?」

 否定すべく彼女は男の料理を食べる。さり気なく泥水を残す。

「砂糖を忘れていた」

 視たことのない熱心さで泥水に砂糖を投入。彼女の方にカップを寄せる。受け取る。

 この時だけは雑誌から目を離す。仮面の巨大な瞳が彼女を見つめている。

 コーヒーと泥水の境界線上にあるものを胃に流し込む。

「そんなに美味そうに飲まれると、なんかこそばゆいな」

 枕についての謝罪はやめることに決めた。

「そのまま少し休んでいろ」

 男が立ち上がる。彼女の横を通り抜けて、奥の部屋へ入っていく。

 取り残された、その機能を持て余した食器類とその時間を持て余した彼女。

 皿を積み上げ、机の上を片付けようと思いつく。台所というのは存在するのだろうか。

 酸化してすっかり物質的安定を確保した場所に蛇口が視える。だが台所と認めたくない。

 男がトランクを一つ持って部屋から出てくる。

 彼女ぐらいの大きさの人間なら、解体すれば入れられそうな、大きなトランク。

「台所はそこだ。水は出ないぞ。貴重だからな」

 積み上げた皿を抱えたまま呆然とする彼女から、男が皿の山を奪い、「台所」にそれを置く。

「出るぞ。仕事だ」

 吐き捨てられた言葉。それはまるで「一緒に来るな」と言っているかのようでさえあった。

 自分の鞄をとって、抱きしめる。絶対もぎ取れない把手が欲しいと彼女は思った。

 そうでなくとも、もっと温度のある……。例えば? 例えば、あの腕のような……。

 男が出口の扉に手をついて、こちらを振り向く。それだけで震えが立ち去った。

「肩の力を抜け。お前は視るだけでいい。よく視るんだ。それだけいい。よく視る者、それが俺の欲しかった助手だ」

 玄関の扉が摩擦係数の高さを表明すべく絶叫。衰弱した陽の光が部屋に流れ込む。

 鞄を背負い、男に続くべく、足を踏み出す。

 見送りの無機物のパレードが彼女の背筋を伸ばし、顎を引かせる。

 その時、彼女は想像の彼方に出征する兵隊の表情にこそ友情を感じていた。



 登ったからには降りねばならない。男の背を追い、彼女は降りていく。

 透明な空と混濁した海の狭間の階段を二階分降りた。

 日々の使用によってか、その扉はさしたる悲鳴をあげることもなかった。

 廊下の床は水の被膜に覆われている。

 その何がしかの物質で輝く水は解剖生理学的機能を持っているようにも視える。

 あの看護師から貰った革靴を汚すことに躊躇いを覚える。

 しかし男が非常階段から一番近い扉を開け、その中に消えようとしているからには。

 しかし既に革靴の表面に、無数の粒子がこびりついているからには。

 彼女もかの被膜を踏みつけることになる。彼女は生物を踏みつけるような感覚を得た。

 さきほどいた廊下と同じく、衰弱した幾本もの光線が這々の体で廊下に辿り着いている。

 男が扉に手を添え、彼女の入るのを待っている。

 けれども。けれども、彼女は廊下の光景から目を離すことができない。

 光線の中、柱をつくりだす小虫の群れを視た。その群体は光線ごとに確認することができる。

 そうして、その光線の奥の、光線の奥の、光線の奥の、光線の奥……。

 彼女は彼女を視つめる、骨と皮で動く犬を視た。犬もまた彼女を視た。

 彼女はただその視線から逃れるべく、扉の中に入った。



 扉の向こうに広大な暗黒を予期した彼女は裏切られる。そこでは、健康な光が待っていた。

 壁という壁が壊され、部屋というものが消失しており、この階は最早一つの広大な部屋だ。

 水浸しという表現は不適切。適切なのは、もう、そこにも海があるという表現だけだ。

 あの駅のように、ここもまた、陸と海の境界なのだ。

 花の咲く海。その海から突き出した構造物。空はその二つを抱えながら、なお余裕があった。

「案外深いから気をつけろ」

 男は既に自分の船に乗り込んでいた。

 彼女が立っている場所から男の船までの間に飛び石に似た何かが置かれている。

 それはただ水嵩を低くするだけのものだ。

 波打ち泡立つ水はまさに生物の被膜として飛び石をさえ覆っている。

 水を跳ね飛ばしながら飛び石を踏んでいく。明瞭な色をも獲得した水がソックスに飛びつく。

 目標たる船は絶えず揺れており、視ているだけで酔いそうだ。男の手を借りて、乗り込む。

 船といっても、単なるボートだ。彼女は巡洋艦さえ願ったのだが。

 エンジンを始動させる男に視線を合わせることだけできない。彼女にはあまりに大きな揺れ。

 揺れるごとに、十代に至らぬ日の視界と将来獲得できるか怪しい視界が彼女を訪れる。

「目を閉じろ。眠れ。それが難しいなら遠くを視ろ」

 遠くを視る。遠くを視るのは得意だ。臀部への振動が船の動きだしたことを教える。

 それでも遠くの景色に変化はない。遠くを視る、とはかくも安心できるものであったのか。

 だが人間が時間的存在であるからには、変化もまた必然的なものだ。

 揺れに慣れる間さえなく、いつか通った,コンクリートの構造物の林の中に入っていく。

 そびえ立つ構造物がボートを挟撃すべく、立っている。

 遠くの空までの空間は奪われ、彼女は構造物の表面を視ざるをえなくなる。

 割れていない窓を探す。動いている室外機を探す。それは人の影を求める者の束の間の遊び。

 だが動く存在は何処にも発見できない。この舞台はボートの作る小さな波だけが役者なのだ。

 男がエンジンの側に座っている。男は職務に没頭しており、彼女の視線に全く反応しない。

 まるで船の一つの装置であるかのようだ。いや、今、男は実際に一つの装置になのだ。

 船の一切を統御し、船の外に広がる統御できない一切を警戒する装置……。

「着いた」

 エンジンの駆動音の中、どうにか男の声を聴き取ることができた。

 船の減速が始まる。あの出発した場所のように、腹部に穴をあけたビルが眼前にあった。

 その闇の中に船は入っていく。エンジンの駆動音が反響し、彼女は思わず耳を塞いだ。

 エンジンが止まる。船が停まる。灯りが点される。光源は男の手の中。

 プロメテウスを待つ人々の一人のように彼女は光源の近づいてくるのを待った。

 男は彼女の脇を通り抜けた。船を降りるのだ。

 一声欲しいと思うのは、この男に対しては過大な希望だろうか。

 男が船をかつて壁の一部であったはずの山から飛び出た鉄の棒に結びつけている。

 その間に、男が光線をこちらに向けるより早くに、彼女は降りた。飛び降りた。

 水が跳ねる。彼女の頬にさえ、届いた。ネクタイを締め直す彼女の顔が光線の中へ。

「なに考えてるんだ。危ないだろ」

 これこそ待っていたもの。顔を隠す。上気しているかも知れない。

 男はそれを光線の眩しさゆえの行動と思ったようだ。光線が彼女の足元に移動する。

「ついてこい。俺が歩いたあとを正確に辿れ」

 水の被膜を踏む音が遠ざからないように彼女は歩き出した。



 この構造物は集合住宅だったようだ。廊下は狭い。廊下の側面に並んだ扉は多かった。

 非常階段は非常が常となった世界でやっていけなかったようだ。

 ピクトの下の扉は空へ通じていた。男の踏み出された右足は空気しか踏めなかった。

 思わず彼女は男のコートを引っ張る。

「前来た時はあったんだがな……」

 男はドア枠に手を着いて、虚空へとその上半身を乗り出し、外を視ている。

 男がもうしっかりと廊下に立ってなお、彼女はコートから手を離さずにいた。

 男があのドアから空へと墜ちていくイメージが押し寄せていたのだから。

「こういうことがあるから東京ではドアを開ける時は気をつけろ。ゲームと同じだな」

 頷く彼女の手はまだコートを掴んでいる。男の手が彼女の手に重なる。ほぐされ、解かれる。

 その丁寧さは、ほとんど愛撫に似ていた。

 構造物の中の階段を登っていく。塵芥が酷い。その塵芥を掘り返すものたちさえいた。

 踊り場の割れた窓から入る光の柱の中で小さな虫達がその場所を争い激しく飛び交っている。

 そこを通る気になれない彼女の前に何かが落ちた。足元を視る。巨大なムカデ。王者の風格。

 階段を登る。登らざるをえない。ムカデを飛び越えて登り始める。

 男は彼女の視界から消えることこそ無かったが、その一歩は彼女より遥かに大きい。

 最初の踊り場では遠い潮騒に耳を澄ます余裕もあった。

 だが今では、彼女は自分の心臓と肺とを宥めるに必死だった。

 汗が流れ、彼女の顎に収束し、やがて落ちる。

 繰り返すその流体の力学に、最初は真面目に対応していたが限界というものがある。

 ハンカチの吸水性も無限ではない。

 こうなっては小さな鞄も何処かに捨てたいほどの負担だ。

 階段から廊下へ出た。壁に寄りかかる。膝に手を置く。肩を大きく上下させて、息を整える。

 視界の端に男のつま先が視えた。

「大丈夫か。いや、大丈夫そうじゃないな」

 男は仮面をつけてなお、余裕の息。煙草に火を点ける。

「少し休もう。シートを広げてランチというわけにはいかないが」

 諸手をあげて賛成だった。

「病み上がりにはきつかったな。悪かった。だがエレベーターなんてものは使えないから」

 病み上がりでなくても、この過程はその終わりに心臓と肺の抗議を聴くことになるはずだ。

「何故ここまでついてきた?」

 男は割れた窓から外を視ていた。そこにはあの透明な空と混濁した海が広がっているはずだ。

「俺がここでお前を襲っても、誰も駆けつける者はいない。お前から何を奪っても、誰も俺を咎める者はいない」

 言っている意味がわからなかった。

「何故ここまでついてきた?」

 息が整っていたら答えられただろうか。声が出せたら答えられただろうか。

 仮面は外を向いていなかった。巨大な瞳は彼女を見つめている。彼女もそれを見つめ返す。

 男が吸い殻を窓の外に投げ捨てる。その運命を見果てず、男は歩みを再開した。

「『ついて来るんだ! ついて来るんだ! ついて来るんだ! さあ、歩こうじゃないか! その時になった! 夜のなかへ歩いていこう! 』」



 そこはこの集合住宅の一室であり、かつて誰かが住んでいた場所だった。

 表札もある。ただ、酷く劣化していて表札として機能していない。

 鍵はかかっていなかった。そこが自宅でもあるように、自然な態度で男が中に入っていく。

 彼女は靴を脱ぎかける。だが眼前の床は土埃の下だ。男に倣って土足のまま上がる。

 舞い上がる土埃が死に体の者の最後の足掻きのように彼女の足を撫でた。

 短い廊下を抜けてリビングに出る。リビングと思しき空間に出る。男がトランクを下ろす。

 そこからマスクを取り出し、彼女に渡す。彼女はその目的が理解できない。機能はわかる。

 マスクをつけた彼女を確認すると、男がリビングを出る。彼女も続く。

 廊下に戻る。廊下の途中には扉があった。扉には釘が一つ打たれ、主の名が吊るされている。

 彼女がそれを読むより、男の扉を開けるのが早かった。

 マスク越しにもわかった、腐臭。酸味を惹起するほどの、腐臭。

 かつて嗅いだことがないが、死の臭いだとわかった。人間の現世への最後の置き土産だ。

 マスクの上から口を抑える。意味のないこと。まだ扉は半分も開けられていない。

 扉が全開になり、腐臭が男の背に隠れた彼女にも牙を剥く。

 ベッド。戸棚。サイドテーブル。チェア。衣服。

 そこにはあるのは、どの世界のどの部屋とも交換可能なものばかり。

 その全ての物がそこに意志の介在を確認できぬほどに散乱していた。

 どんな法則性も、そこには見出すことができない。

 男が火かき棒のようなものでベッドの下を掻き出す。幾つもの何かが転がり出てくる。

 その一つはその形状ゆえによく転がり、ついに彼女の足で止まる。彼女はそれを知っている。

 頭蓋骨だ。人間の、頭蓋骨だ。声は……声は出ない。

 予想できたことだ。予想できたこと。多くの人間が死んだのだ。一瞬で。

 だがその一瞬は体感者にとっては永遠だったのではないか?

 そして人間が主観的には永遠に死なないとすれば?

 もう一つ、頭蓋骨が転がり出てくる。

 その表情を読み取ろうとする。しかし頭蓋骨は頑なで何も語ることはない。

 さらに男が火かき棒を回せば、そのまま全身を再現できるほどの、白骨が出てくる。

 それから虫の群れ。一つの巨大な虫にも視えるそれは壁のクラックへと逃げこんだ。

 続いて男がビニールの大きな袋と箒をトランクから取り出す。

 袋へ骨を詰めていく。ゴミでも集めるように。その手際の良さときたら。

「俺の仕事がどういうものか、わかったか?」

 男は彼女を視ることもなく、話し続ける。手を休めることなく、話し続ける。

「多くの人間が死んだ。だが首都を喪った国には、その弔いはそもそもあまりにも困難だった」

 袋の中の骨が二人の人間を構成するのに十分な量になると、男は箪笥をあさり始める。

「そして阿片としての祭典。知ってるだろう? 騒音が死者の声を殺すってことは?」

 箪笥の中に求めたものはあったようだ。それらを封筒に詰めていく。

「かくして忘れられた街ができあがった。だがそれゆえ俺の仕事がある」

 ベッドの上にビニール袋と封筒を投げる。捨てるように投げる。ベッドの埃が舞い上がる。

「視よ。視よ。視よ。よく視るんだ。これで終わりだ。人間二人が、これで終わりだ」

 埃の反乱は重力に平定される。ビニール袋と封筒が静かに座っている。彼女は目を背ける。

「死体を探して、その身元が確認できるものと一緒に憲兵に渡す。そうすると金が貰える」

 男がこちらに向き直った。煙草に火を点ける。煙幕が男と彼女を隔てる。

 その壁は、彼女には乗り越えがたいものに思われた。

「金、金、金だ。それから俺は部屋を漁る。運が良ければ、指輪や宝石なんてものもある」

 男が彼女の方に一歩踏み出す。その一歩は大きく、彼女は男に見下ろされることになる。

 男が煙草の煙を彼女の顔に吹きかける。彼女は咳き込む。その視界は曖昧になる。

「それでお前は何をしにきた。この忘れられた街に」

 彼女は答えようとする。けれども、掠れた音が漏れるだけ。歯軋りの音が響くだけ。

 頬の上の流体の運動を彼女は完全に把握した。

「『おお、兄弟よ、俺は残酷なんだろうか? だが、俺は言うぞ。倒れるものがあれば、さらにそれを突き飛ばしてやるべきだ! 』」

 彼女は――彼女は逃げ出した。


 扉をこじ開ける。体当たりするように。

 共用廊下を駆け抜ける。幾つかの何かを踏みつぶす。

 階段を降りる。転がるように。何匹かの何かを吸い込んだかも知れない。

 あの腹に空いた穴に辿り着く。船がある。しかし盗むという発想はなかった。

 泳いで何処かへ行ってしまおうか。海に沈むのだって悪くない。

 穴の外には海が広がっている。そこに一つの点が接近してくるのを視た。

「おーい!」

 駅で船を出していた、あの青年だった。



「旧東池袋に行きたかったのかぁ。俺に言ってくれてればね。旦那は回りくどいから」

 地図を見せるなり、青年は水先案内人となることを快諾してくれた。

「善人ではあるんだがね。それは間違いないんだがね」

 始めから、この青年に頼んでいれば良かったのかも知れない。

 それでも彼女は男が自分の仕事を見せた意味について考え続けていた。

 それに、あの場に至るまでの時間のことも。

 まるであの人は父のようではなかったか? 兄のようではなかったか?

 逃げ出した、という事実が彼女の胃の中で暴れている。

 青年のこれまで乗せた客についての話も、耳から耳へと通り過ぎるだけだ。

「あそこに横たわっているのが池袋駅だよ。大きな駅だったけどね、自然の運動には勝てなかったね」

 語り口からすると青年は興味がなさそうだ。青年はそこを指し示すことさえしなかった。

 青年の視線を辿ると水平線を押し倒すように巨大な何かが横たわっている。

 それはコンクリートの構造物の集合体だ。言われなければ注視することもなかっただろう。

 老朽と腐敗の鎖に縛られてなお空を目指す構造物が周囲に立つからには。

 船がその横を通り過ぎていく。届くはずもない、遠ざかるそれに向かって手をのばす。

 ほとんど身を乗り出すようにして。手をのばす。

 その手を降ろさせたのは頭痛だ。頭を押しつぶすような、全体的で、総合的な。

 だが、しかし、非常に緩慢で鈍重な。

 頭を抱える。視線が落ちる。揺れる船底と、その上の革靴。

 革靴の表面を視る。その上の微粒子を視る。微粒子の先を視る。

 そこには薄っすらと自分の顔が映っている。肩から上が……。肩から?

 その彼女は葬式帰りの少女ではなかった。セーラー服を着ている。その両隣にもセーラー服が立っている。顔は視えない。二人が黒い布を被っていたからだ。彼女の唇が震えると、二人は笑う。一人が彼女の肩を笑いながら叩くと、彼女もつられて笑ってしまう。三人はそのまま、駅の中へ入っていく。駅の中には誰もいないが、三人は談笑しつつ、必要があるとも思われぬ改札を定期券で通り、ホームへ入る。もちろん、ホームにも人は立っていない。そうなると彼女たちは何を待っているのか。その疑問がホームに並び立つ二人に続くことを躊躇わせる。乗客三人のために動く、全自動の電車などというものは存在するのだろうか。当然の疑問だ。必然の疑問だ。口を開く。彼女が、彼女が口を開く。これが声を出すということ。懐かしい。

「何を待っているの? わたしたちは何を待っているの?」二人が振り返る。黒い布はその裏の顔を想像できないほどに平坦だった。存在の耐え難き平坦さだ。彼女は一歩後退する。それに合わせて、二人もこちらに踏み出す。二人がこれ以上に近づくことを阻止すべく、もう一度、問う。「いつまで待てばいいの?」それは応答か。それは電車の代替物か。硬質の光が線路からホームへと滑りこんでくる。光の霧の中に彼女は革靴の表面を視た。

「いわゆる東池袋というのは、もう、このあたりだけど」

 エンジンが止まる。船がゆっくりと減速していく。

「顔が真っ青だ。酔いやすい感じ? 少し休もう」

 もう音というのは青年と自分の呼吸音、それから鼓動音ぐらいものだ。

 あたりにあるのは、水面から何とか頭だけ出すことができた構造物ばかり。

 生命の彩りなど何処にもない。そうであればこそ彼女には何も思い出せそうにない。

 今一度、革靴の表面を視る。しかしそこにあるのは微粒子だけだ。

 青年が煙草に火を点けた。まるで久しぶりの酸素でもあるように、満足気に、丁寧に吸う。

 彼女の瞳に映る自分に気付いたのか、青年がもう一本、煙草を取り出し、差し出してきた。

 内なる男の仮面の表面の目を感じ、彼女は一瞬それを拒否しようとした。

 したのだが。

「火あるの? ないよね?」

 今やライターまで受け取って、喫煙の準備は万端だ。

 彼女は眼前の青年でなくて、内なる男の仮面から飛び出す煙草を参照しつつ喫煙を試みる。

 咥えて、息を吸いつつ、火を点ける。煙が彼女の肺に流れこむ。咳き込む。激しく。

 咳の止まらない彼女の手からライターが抜き取られる。青年は声をあげて笑っている。

 咳の音は構造物のあのどうにか水面から出すことのできた頭に反響した。

「家がどのへんにあるかわからない? 覚えてないの?」

 思い出せない。何一つとして。住所もわからない。全ては混乱の中で失われたのだ。

「でも、まぁ、住所がわかっても、このあたりはほとんど沈んでるからねぇ。わかったところでねぇ」

 もう何度煙を吸い込んだかもわからなくなれば、眩暈だって訪れる。そして浮遊感。

「どうやって救助されたわけ?」

 彼女は空を視る。青年もつられて空を視る。雲の姿はかけらほどもない。

「ああ、空からねぇ……。ヘリコプターみたいな? そうなると、候補を絞れるかもね。水が一番深い時にも頭を出せていたビルは、ここらではそんなに多くないから」

 青年が吸い殻を海へ投げ捨てる。その軌道を追うと、水面にあの仮面の影が視えた。

 彼女はそれに吸い殻を投げつけた。力の限り……。



 動き出して幾許も経たないうちに、船はまた停まった。そこは高層マンションの前だ。

 彼女は狭い船の中、ほとんど後ろに倒れながら、その最上階までを視た。

 マンションはその中腹近くまで、海に飲まれている。

 だがやはり、周りの構造物よりも頭ひとつ分、空に近い。

「何か思い出した?」

 期待の微塵も感じられない問い方だった。だが正しい。何も思い出せない。

 彼女の沈黙を確認し、船はベランダの並んだ側面に近づく。船頭が壁にぶつかる。停まる。

 彼女は何をしてよいのかわからない。

 それでも青年が煙草に火を付けて、全身を弛緩させれば、これが一つの提案だとわかった。

 船が上下に揺れ、かくして彼女は左右に揺れる。ベランダの欄干にしがみつく。よじ登る。

 彼女は割れた窓から手をいれて、その鍵を開ける。

 フローリングの床。乱れたベッド。逃げ出した何かが視界の端を通った。

 異臭はない。あの、異臭は。そのまま部屋から出る。リビングダイニングが待っている。

 ソファ、食卓、由来のわからぬほど細かな破片の向こうにキッチン。

 もとから物が少なかったのか、誰かが運び去ったのか。部屋は意外にも綺麗だ。

 食卓には椅子だってある。彼は主人を静かに待ち続けていたのだ。埃を払い、腰掛ける。

 灯りがついた。灯り? しかし電灯は割れていたはずだ。見上げる、電灯がある。

 視線を下ろすと、食卓には料理が並べられている。その境界が認知できないほど大量の料理だ。さらにその料理はその料理を作った者の料理を完全に統御しようという強い意志がはっきりとわかるほどに多様な色彩で構成され、存在しない色を挙げることが難しいくらいであるからには、自然と彼女の頬の貧しい肉も重力に逆らうことになる。詳述すべきはその配置で、中心に巨大な空間が用意され、そこが埋められる祝祭の近いことを黙示している。しかも置かれた料理がその最適な瞬間の中にあって、あるものは湯気を立ち上らせ、あるものは瑞々しく輝いていたとするならば、彼女は感嘆の声を漏らさないわけにはいかなくなる。料理の向こうにはテーブルとセットで購入された、これもまた樫の木の椅子が二つあって、そこに腰掛ける二人の登場をも待っている。そして彼女の右方の扉が開かれ、その二人がやってくる。それは中年女性と中年男性で、中年男性は巨大なケーキを胸の前に掲げており、女性の穏やかで自然な微笑に対して、誇らしげな、強い笑みを浮かべている。女性が腰掛けて「ケーキヨケーキ」と言えば、男性は「ジャジャーン」などと自らの口で効果音を作り出しつつ、あの黙示的空間に巨大なケーキを置く。男性が彼女を見てくるが、彼女はあえて喜びの声を出すのを我慢し、男性を焦らしてみせる。男性もそれを理解しているらしく、顔を弛緩させたままだ。巨大なケーキの上では予め十二本のロウソクの円陣を成している。男性がロウソクに自己の職務を思い出させるべく点火していく。十二の火が灯ると、男性が天井から伸びた紐を二度と引いて、光源をロウソクの光だけにする。三人は沈黙し、部屋を賑やかすのは壁に踊る彼らの影だけとなる。影の踊りが単調なものとなり、その法則性が暴かれると、三人は顔を見合わせ、声をあげて笑い、ついに女性が「ナンカヘンナフンイキネ」と言い出したならば、男性が「カアサンカアサン」と言い、二人の仲を象徴するように同じタイミングで息を吸い、同じタイミングで「タンジョウビオメデトウ」と叫ぶ。そこから何をすればよいのかはもうわかりきったことで、小さな肺に息を可能な限り溜め込み、それを小さな口から可能な限り吹き出して、ロウソクの火を吹き消すのだ。灯りがなくなり、部屋に闇が降りるが、恐怖などありえるはずはない。その闇こそ次のカタルシスのための一里塚なのだ。闇に破裂音が響き渡り、続いてあの火薬の独特の臭いも漂えば、「オメデトウオメデトウ!」と二人が言う。彼女が少ない語彙から感謝の言葉を並び立てている間にも電灯のスイッチが引かれ、光が蘇り、もうどんな余地もないテーブルが再び彼女の眼前に現れる。「トウサンガケーキヲキリワケヨウ。カアサンコザラカナニカアル?」「アルケドモウツクエニオクバショガナイワネ」彼女がケーキの雪原に咲いた紅い花たるイチゴをつまみ食いしようと手を伸ばした、まさにその時に、天から地への鉄槌を思わせる大きな揺れ。机の上の一切が床に投棄され、床一面があらゆる色に塗りつぶされる。男性が立ち上がり、何事か叫べば、女性が素早い動きで玄関の扉を開けに行く。行かないで、の声が出るより先に彼女は男性に痛みを伴う強さで腕を引っ張られ、机の下に押し込まれる。揺れは続いている。電灯が机の上に落ちる。割れたガラスが雨のように机の縁から流れ墜ちていく。雨の向こうでは本棚の中身が弾丸のように飛び出し、テレビがまるで意志を持つように鮮やかな跳躍によって投身自殺した。雨が止み、舞い降りた闇に意識が向かうようになると、恐怖が胃液のような熱を伴いながら腹の奥底からこみ上げて、ついに男性と女性を呼ぶ声として口から飛び出す。「パパ! ママ!」ああ、そうだ、あの二人こそ彼女の父と母だ。「パパ! ママ!」腕が伸びてきて、彼女を机の下から引き釣りだす。父だ。父はそのまま彼女を抱きしめる。「ダイジョウブ、パパモママモソバニイルヨ。ケガハナイカイ?」父の問いに何度も頷いて応えていると青白い顔の母が父の肩越しに視える。青白いはずだ。その顔は大理石でできているのだ。母が口を開く毎に、その大理石は割れていく。裂け目から光が漏れている。そのことを父に伝えようとするが、今や父の顔さえも大理石で構成されているからには、もうできることはない。「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と父は唱え続けるが、まさにそのことによって大理石の顔は崩落していく。そして彼女が「……嘘つき」と流れる涙に抗いつつ言えば、両親の顔は爆発し、その破片を彼女の頬に撃つ。その破片は大理石由来であるはずなのに痛くない。ただ、熱い。ただただ、熱い。手にとる。ああ……。それは肉の欠片だ。絶叫するために大きく息を吸い込む。

 声が出ない。彼女は廃墟の一室に帰ってきた。記憶を喪い、声を喪った自分に帰ってきた。

 粘性の汗がシャツのダムを越えてセーターにまで到達している。寒気を感じる。

 立ち上がろうとするが、足の震えが止まらない。縋るように見上げた先には割れた蛍光灯。

 あれは夢だろうか? それとも過去だろうか? 二つは区別できるものなのだろうか?

 壁に手をつき、よろめく身体を支えて、彼女は部屋を出る。廊下から玄関へ。

 このマンションであることは間違いない。「過去」の部屋とあの部屋は間取りが同じだ。

 玄関の扉を開けると共用の廊下が広がっている。階段が遥か遠くに視える。

 旅の終わりが近い。そんな不確かな予感だけを相棒にして、彼女は歩き始めた。



 荒れた息を整えることも忘れて、最上階共用廊下の窓の、その先に広がる海を視た。

 荒れた息で上下する視界に海を捉え続ける。

 一体、何人があの海のために根を持つことを断念させられたか。

 猫を噛まんとする窮鼠のように、全身で呼吸しながら、彼女は海を視る。

 海は彼女のどんな解釈にも抗って、ひたすら自己の運動に邁進していた。

 呼吸が整い、流れる汗が涼しさでなく寒気をつれてくると、彼女はまた歩き出す。

 共用廊下を歩いて行く。左手には幾つもの扉。その劣化した表面を確認していく。

 幾つ目からの扉。デフォルメされた猫と犬が看板を持っているというデザインの表札。

 それが風もなく揺れた。扉が開かれるのだ。僅かに視える闇の奥から女性が出てくる。

 それはお隣さんであって、何ら警戒すべき存在ではない。むしろ軽快に挨拶。女性がその悩みの種であるところの皺を際立たせながら微笑んだ。「アラ、グウゼンネ。イマカエッテキタノ? ワタシコレカラカイモノ二イコウトオモッテ。ウチノコハイッショジャナイノ?」彼女は無論「ウチノコ」の指示するところを完全に理解しているから、彼女の友達である「ウチノコ」がクラブ活動に忙しく、まだ学校にいることを教えることにする。しかし女性の顔面には目に見えて皺が増え始め、その眼球は肉の中に沈み、唇は紫に変色する。その唇を過剰に震わせた。「ウチノコハイッショジャナイノ? ウチノコハイッショジャナイノ? ウチノコハイッショジャナイノ? ウチノコハイッショジャナイノ?」彼女は後ずさり、後ろの壁に背中をつけた。女性はまるでその闇と下半身が一体となっているかのように、ただ半開きの扉の影から彼女を見つめるだけだ。もうどんな言葉も吐かない。表情も変わらない。じっと、彼女を視ている。彼女はそれに答えることができない。だからセーターの背中を壁で摩り下ろしながら、廊下に尻をついたのだ。見上げる彼女を、病質的な熱心さで女性が見下ろしていた。その肉の中の眼球は瞳孔の支配下に入った。黒に塗りつぶされた瞳。彼女があげられるはずもない叫び声をあげた時、その黒は、あのデフォルメされた猫と犬の表札を浮かび上がらせた。

 扉は閉ざされたままだ。彼女は急いで立ち上がると、その隣の扉のノブを掴んだ。鍵は。

 鍵はかかっていない。抵抗なく、扉はその中を示した。



 最初に入った部屋と構造は同じだった。生活感のない、物の殆ど無い、平坦な空間。

 靴箱の上にも、開け放たれた扉から視える洗面所にも、彼女の記憶を呼び起こす物はない。

 右手に一つ部屋があったが、そこへの扉にも何ら装飾はなく。

 ここが自分の住んでいた場所であるということが信じられない。

 間違いではないか。そんなことさえ思った。リビングに至るための扉のノブを掴むまでは。

 ノブに触れる指の皮膚を透過して、恐怖が、恐怖そのものが彼女の全身を灼いた。

 彼女の全身が震えだす。心臓の鼓動が早くなり、唇が震えだす。手足が冷たくなる。

 口の中が乾く。喉の乾きはない。口の中だけが乾くのだ。視界が、意識が回転を始める。

 彼女は痛みが伴うほど強く歯を食いしばり、ノブを握りしめる。

 そうしなければ、永劫回帰の本流の中に囚われそうだったからだ。

 この視界の回転よ! 意識の回転よ! それは彼女を連れ去ろうとする。世界の彼方へ。

 ノブを握っている。この、ノブを、これがノブで、これを現に今、掴んでいる。

 今や彼女は意識することを意識の対象としていた。

 彼女はまさにこここそ自分の住んでいた場所だと確信した。

 扉は目の前にある。早く開けなければ。開けなければ、このまま――

 彼女は現在の恐怖から逃れるために未来の恐怖を選んだ。



「テレビハ……モウダメカ。ラジオハアッタカナカアサン」「アルハズヨ」母がまた部屋から出て行く。ラジオを取りにいったのだ。父が彼女を抱きしめる力をゆるめ、ついには彼女を解放してしまう。離れていく温度が再び彼女を闇と直接に相対させる。父はベランダに出たようだ。追いたいが立つことができない。母がラジオを持って戻ってきた。ラジオからは地震についての情報が絶え間なく漏れている。津波に警戒してください。高台に避難してください。震源地は……。ラジオを彼女のそばに置いて、母もまたベランダに出ていく。父と母が並んでベランダから地上を見下ろしている。彼女は自分の住居が高層マンションの最上階の一室であることを思い出す。不意に父と母がベランダからテレビのように投身自殺する様を想像してしまった彼女は立ち上がって自分もまたベランダに出ようとする。しかしやはり立ち上がることができない。床と腰が恐怖に直面して同盟を結んだようだ。母が崩れ落ち、膝をつく。泣いて、喚いている。父が跪いて母を抱く。父と母が互いを支えながら部屋に戻って来る。二人が彼女を抱きしめる。三人の合成された温度によって同盟は敗れ去る。「イキテイキマショウ。ナニガアッテモイキテイキマショウ。サンニンナラダイジョウブ、サンニンナラダイジョウブヨ」しかしその連呼は彼女の不安を強めるばかりだ。それほどまでに顕示されねばならない大丈夫さとは一体なんであるのか。何が起きたの? 何が起きてるの? その一言がどうしても出てこない。父と母の大理石のように青ざめた顔を前にしては。母に抱かれたまま、あるいは彼女が母を抱いたまま、一つの粉の山となったテレビの前のソファに座る。父が部屋から出ていく。彼女もベランダに出て外の様子を視たいと願うが、彼女の細い腕を握るようにしたまま動かない母のために、その願いも叶わない。父が戻ってくる。床を踏みしめる強い音を響かせて。その足は靴に守られている。外と内を隔てる聖なる壁が破られて、何もかもが一つの混沌となったのだ。父の両手は母の靴と彼女の靴を持っている。父が微笑することもなく、彼女に靴を突き出す。何か冗談の一つでもその口から出てこないかと彼女は期待するが、父の口は真一文字に結ばれたままだ。それに父の手は微動していて、彼女にはそれが震えであることがわかった。ただそれが武者震いなのか、恐怖に由来するものなのかは、彼女にはわからなかった。わかる必要もなければ、わかる意味もなかった。自分もまた手の震えが止まらず、靴紐を結ぶことができない。母が手をとって握りしめる。固く握りしめられた手の温度と痛みが彼女の震えを滅ぼし、靴紐をむすぶ作業に戻ることを可能とした。「ニモツヲマトメテオコウ」怒りさえ感じられる表情で父が部屋から出ていこうとすると母も立ち上がり、その後を追い、今一度一人になる自分の未来を視た彼女は今度こそ立ち上がりかけるが、母の「ソコニイナサイ」の一言に結局冷たい床に温度を分け与える作業に戻ることになる。しかしソファと彼女の臀部の温度の移動が停止すれば、彼女の聴覚は研ぎすまされ、父と母の靴が土足厳禁であるはずの床を踏みしめる音の、その向こうに、巨大な動物の群れが移動するような、本来あるべきでないはずの音を聞くことになり、その音源が彼女の恐怖心に火をつける。飛んで火に入る夏の虫、の文字列が脳裏に点滅したが、音源を確認しない限りはこの打ち鳴らされる歯も止まることがないはずだ。彼女は立ち上がって、ベランダに出て行く。ケーキの残骸が演出する儚い雪原を、自己の勇猛さを証明するべくあえて踏みつけながら彼女はベランダへ向かう。投身自殺したテレビを振り切る。音源は確実に近くなっている。背の低い彼女にはまだいつもと変わらぬ空しか見えない。ベランダの手すりに手をかけて、爪先立ちする。音源がそのあってはならぬ姿をあからさまにする。マンションの下に広がった街の光はそのまま命の光だ。それこそ、そこに人のあることを証明する照明だ。それが今や緩慢な、しかし確実にして確固とした、不定形の、全てを飲み込むために設計されたかのような形状の闇に飲まれつつあった。街の光が消えていく。命の光が消えていく。そしてその闇こそ音源であり、闇は千匹の轟音を率いていた。彼女はそれを見つめたままベランダから屋内に戻ることができなくなった。それは恐怖のためではなかった。恐怖のためではないはずだった。彼女は一つの猛烈な、拡大する闇の勢いの反動とも思しき、猛烈な使命感に駆動させられていたのだ。視よ、視よ、視よ、という声が響き渡るもはずもないベランダに響き渡り、かくして彼女は闇を視た。闇を視た。闇を視た。刻み付けよ、その心臓に……。ここから屋内に戻ることは一つの敗北であるようにさえ思われた。恐怖心は去り、使命感が彼女の体表面を覆い尽くしていた。その上に手が触れた。父の手だ。「モドロウ」勝手にベランダへ出たことについて、怒声の一つでも飛ぶだろうかと「期待」もしたのだったが、死に絶えつつある街をその限界ある視界に可能な限り納めようという娘の努力に父も言葉を無くしたようだ。闇に背を向け、室内に戻る、その彼女と父の背中に公営放送の官僚的冷静さを喪失した声が叩き付けられると、彼女もついに闇の物理的根拠を把握し、逆に父の顔を視る冷静さを取り戻すことになったが、見上げた父の顔は青ざめていて、「ココハダイジョウブ。コウソウマンションダカラ」と彼が口を開いてみせるまで、立ったまま死に至ったのではないかと思われるほどだった。机はその上の全ての積載物を放り出し、床と同様に、死への欲望を表明していて、即自存在としての自己から逃げようとしていたが、椅子はまだ自己の任務に忠実であって、混沌の中のオアシスとなっていた。誕生日会を再開でもするのかと錯覚しかねないほど静かに、父も母もさきほど座っていた椅子に着いたからには、彼女もまた自分がさきほど座っていた椅子に着くことになる。その手を止めたら死ぬとでも思っているかのような熱心さで母は手を擦り合わせ続けていたが、父がその手をとって「ココハダイジョウブ。コウソウマンションダカラ」とあの呪文を繰り返せば、「ソウヨネ、ソウヨネ」と母という役の演技に復帰する。「ウワギヲキテオキマショウ。イツデモデラレルヨウニ」母が立ち上がって部屋から出て行くと、父も立ち上がり、大きな鞄を持って台所へ行った。彼女は手持ち無沙汰となり、机の上の片付けを始める。片付けといっても、唐揚げの並べられていたはずの大きな白い皿に散乱した物をまとめるだけのことであったが、しかしその単純作業は彼女の思索を彼女が把握できないほどに肥大させ、彼女を眼前の集合論的にはまだ食べられる物であるはずの食べられない物の山から形而上学の彼岸へと飛行させていたのだった。日常は続く。日常は続き続ける。テレビが投身自殺し、机が対自存在となり、誕生日会が床一面に投擲され液状化して拡散してしまっても、日常は続く。生きているからには、日常は続く。もしも終末が瞬間的なものであって、意識の対象とすることも不可能な、巨大で高速のものであれば、どれほど救われたことだろう? 机の上を片づけることさえもがこれほど困難であるとすれば? ロングコートを着込み、マフラーを首に巻いた母が部屋に戻ってきた。その手には父と彼女の、マフラーとコート。台所の父にそれらを渡した後、母が彼女の前でコートを広げた。彼女の愛した赤のダッフルコート。そのボタンをかける彼女の首に母の手がその同じ手が編んだマフラーを巻いた。「カタヅケテクレタノネ。アリガトウ。イイワヨ、アトハママガヤッテオクカラ」母がその料理の残骸に手を伸ばす。父が台所から顔を出す。その時だった。悲鳴を聞いたのは。それから乾燥した、鋭い音の連続。悲鳴とその音の輪舞曲は複数回続き、さらには、それは時間の経過に比例して大きくなりつつあった。つまりその演奏者が近づきつつあったわけであり、父は表情を硬くして「ゲンカンヲミテクル」と言って部屋から出ていき、母は彼女を抱き寄せることになる。そうしてついに父の悲鳴と怒声の境界線上にあるような「ナンダアンタハ」という声が響いたなら……響いたなら? この……この記憶……この記憶? 「終わりが近づいたのだよ」と誰かが言った。誰かが。父が後退りしながら部屋に戻ってくる。母が立ち上がる。見知らぬ男が入ってくる。その手には拳銃。拳銃? 恐らく。彼女はそれを液晶画面の向こう側でしか視たことがなかった。それは液晶画面の向こう側でのみ現実的なものであって、液晶画面の此方にある彼女がいかに安全な場にあるかを証明するための小道具でしかなかった。でしかなかったはずであった。しかしそれは彼女の眼前にあって、彼女の父に向けられていた。男の指は引き金に添えられおり、その僅かな力の行使がどのような工学的結論的を導くか、彼女は知っていた。「ナニガホシインダ? ナニガ?」見知らぬ男が口角をあげて、囁くように言った。実際、それは囁かれたのではないか? けれども彼女には確かに聴き取ることができた。「何もかも」さて……この記憶……この記憶は?「まだだ。まだまだ続く」見知らぬ男の指が移動し、その微細な移動が拳銃への命令となり、拳銃はそれに従って火を噴く。父が倒れる。血の河が母の靴に到達し、母は大きく息をして、何事か叫ぼうとするが、再び拳銃が火を噴き上げれば、母のどんな意志も挫折させられ、倒れ伏すことになり、血の河の流速を上昇させるための道具と化す。彼女は冥界の入口にある父と母を現世へと復帰させるべく、彼らの名を呼ぼうとするが、眼前に銃口のあることを理解したため、口を開けたまま、喉を震わせることができなくなる。硝煙の臭いの向こう、その見知らぬ男は言った。「静かにしていろ。静かに」はい。静かにしています。口を閉ざします。



 膝から頭頂まで痛みが走り抜けた。

 崩れるようにして、床に膝をついたのだ。

 だがそのことを理解できたのは、頭が床に叩きつけられる直前だった。

 宙をもがく彼女の手を何かが掴んだ。誰かが掴んだ。

 革手袋越しにもわかる無骨な手。その先に腕が続き、その腕こそ、あの低反発の腕だ。

 腕の先には肩。肩の上には頭。その表情はどんなものか。

 彼女は涙で一切が境界を喪失した視野の中で、その顔を懸命に見極めんとした。

 それでも、やはりそこには、仮面があるのだった。

 引っ張りあげられる。そのまま男の側に引き寄せられる。二人の距離が縮減される。

 もうどんな足の動きも必要とせず、抱きしめあうことができる。そんな距離だ。

 彼女は血の河の痕に立っていた。その床は彼女の心的現象のままに歪んでいる。

 彼女はゆっくりと視線を、その痕の濃度が高いほうへと移動させていく。

 もう一度、強い、あの永劫回帰の本流が彼女を彼岸へと連れ去ろうとする。

 それに彼女は身を任せた。男の体温を現世への楔として。

 やがて彼女は一つの事物を認めることになる。

 人間の骨の集合……。

 黒と赤がつくる絨毯の上に拡散した、人間の骨の集合……。

 それはしかし頭蓋骨によって、二人の人間の代わりに冥府から送られたものだとわかる。

 彼女はそれを視た。

 視界の中でついにその全体性が喪われる時まで、視た。

 視よ、視よ、視よ。

 ああ、彼女は視る。最早何事も語らない者達が語る瞬間を視るために。

 ああ、彼女は視る。最早何事も語らない者達が立てた問いを視るために。

 ああ、彼女は視る。最早何事も語らない者達との越えられない深淵を視るために。

 沈鬱な沈黙が重力場を乱し、彼女は赤い河の底に膝をつく。

 瞼を閉じる。穏やかな闇が彼女の視界を守る。そうだ。今や一切の景色が喧しい。

 死者の声を聞くためには、透き通った静寂が必要なのだ。

 彼女は両親の最後の姿を再構成することができた。

 それでもその意味するところはわからなかった。

 二人が闇の中へと帰って、還って、孵っていく。

 その闇の中で彼女は誓った。

 何時でも何度でも血の河の底に膝をつき、死者を視ることを誓った。



 立ち上がって、すぐベランダに出た。男が急いで付いてくる。

 彼女の飛び降り自殺でも幻視したのだろうか。そんなことはありえないことだ。

 そんなことは……。視ることが彼女の責務なのだから。

 突風で彼女の髪が宙に舞う。帽子も。気づいた時には遅すぎる。

 彼女の手は自分の髪を押さえただけ。彼女の手を逃れた帽子は遠くの空へ飛んだ。

 手すりに手を置いて身を乗り出し、帽子の行方を追う。

 その手の汚れることも、服の胸の汚れることも、どうでもいい。どうでもいい。

 何を勘違いしたのか、男が彼女を抱きしめる。どうでもいい。……どうでもいい。

 帽子は墜ちていく。無欠の秩序に従って。

 腕を伸ばし、指す。帽子を指さす。

「あれが何処へ行くか……わかりますか……?」

 声が、出た。その小さな声は風に掻き消されたのかも知れない。男の返事がない。

 男の腕の力が弱まる。彼女は腕の中でもがき、仮面に息をかけることを意識しつつ、叫んだ。

「あれが何処へ行くか……! わかりますか……!?」

 息継ぎが難しい。言葉を放つとは、こんなにも意識的な行為だっただろうか?

「海だ! 海しかないだろう! ここには!」

 男の不意をついて、再び、ベランダから身を乗り出す。

「何かもありました! 何もかもあります! わたしはそれを視ます! 視続けます!」

 海に咲いた光の花、花、花。

 彼女はそれを視た。その花々に隠された、全ての過去が解き明かされる時間を待ち望んで。



 海が終わり、階段が始まる。その巨大な階段は新東京駅の改札に続いている。

 老人は煙草を咥えて、海を視ている。

 中年男性は崩れかけた本をその指で支えつつ、熱心に読んでいる。

 青年は彼女を視て笑う。

「トーキョー・ダークツーリズムはどうだった?」

 答えられない彼女に代わって男が青年に煙草の吸い殻を投げつけた。

 階段を登っていく。軽い足取りで、登る。

 門柱の代替物たる憲兵の間を通り抜ける。

 改札が現れる。二人の駅員が獲物の前の猛禽類的な瞳を輝かせる。

 彼女の側を離れていた男が近寄ってくる。その手には切符。渡される。

「ありがとうございます……ありがとうございました……本当に……その……」

 彼女が言葉を紡ぐのを待たずに男は改札へと向かっていく。彼女も仕方なくそれに続く。

 駅員の微笑。やはり馴れていない。それは彼女においても同じこと。

 微笑には微笑を、と思ったが、やはり頬を引き攣らせることしかできない。

 割れたタイルはもう気にならない。歩き方は覚えた。

 あの何処かで会った覚えのある風が彼女の背中を押す。

 ホームに出た。存在者はただの二人。男と、彼女と。

 電車はまだ来ていない。次の電車はいつ来るのか。尋ねるために男を向く。

 仮面が男の手の中にあった。

 このまま視線を這わせていけば、やがて素顔を視るだろう。

 彼女はどうしてよいのかわからなくなった。そのまま仮面に視線を固定する。

「視ろ。それがお前の仕事なのだから」

 男の左頬、肉の抉られた痕が生々しく残っている。皮膚が顔の内側へ入りこんでいる。

 それは細動し、今もまだ再生の途中であるようにも視えた。

「お前が記憶と言葉を喪った時、俺は両足の潰れた自分の娘の前に立っていた。何をしていいかわからなかった。とにかく、あの子と視線の高さを合わせて、その手を握ることぐらいしかできなかった。あの子が『逃げて』と叫んだ。あの子が絶望的だったのは間違いない。実際、お前ぐらいの年頃のガキは――」

 その時、男は彼女を睨んでいただろうか? それはただの抉られた痕ゆえの錯覚だろうか?

「お前ぐらいの年頃のガキはすぐに死ぬ。どんなに少しでも、大切なものを失えば、すぐに死ぬ。俺はまだ動くことができなかった。あの子の手が俺の顔に伸びてきて、俺の――」

 抉られた痕を撫でる。

「俺の頬を撫でた。その後すぐに、あの子は内蔵と見紛うぐらいの血の塊を吐いた。それからまた『逃げて』と掠れた声で言った。何度も、だ。火と水の迫る音が聴こえてくる。それでも俺はまだ彼女の側にいた。俺の頬を撫でる彼女の手を振り払うなど考えただけでも恐ろしいことだ。あの子の優しさを拒絶するなんてことは。それから彼女が絶叫した。何度も。『早く逃げて』と。だが面白いんだが――」

 男の顔が歪み、左の目が肉の下に隠れた。

「まったく人間こそ、一つの宇宙だ。あの子は『逃げてくれ』と絶叫しつつ、俺の頬の肉を抉り出し始めたわけだ。まるで逃げて欲しくないみたいに。その言葉と行動の矛盾は俺の判断力を粉砕したが、痛みは次の判断を導いた。俺はあの子が俺の頬を撫でているうちには全く離れたくないと思っていた、あの子の温度から離れることを望んだ。強く、望んだ。出血も酷いし、なにより痛くてたまらんのだから。早く離れろ、と俺の最も深いところからの命令が下され、俺は彼女の手から逃れた。彼女は笑っていた。火と水の濁流が彼女を押し潰していた建物を飲み始めるのを――俺は視たのだろうか? 俺は本当に視たのだろうか? ああ、お前ほどの強さがあれば……。ともかく、その時の俺はそれを視たと判断し、罪責感なく上手く彼女の手から離れ、その場から逃げることができたわけだ」

 男の顔が再び仮面の下に隠れた。隠したのは顔だけではなかったはずだ。

 だが彼女はそれを視ようとは思わなかった。視ないという敬意の払い方もある。

「あれは、そばにいろということだったのか。それとも俺が罪責感なく彼女の手を振り払うためにしたことだったのか。そして、あの顔……。本当に笑っていたのか? 謎だ。全て、謎だ」

 男が煙草に火を点ける。大きく吸って、吐く。

「その謎の前で……立ち尽くしましょう……」

「俺は『大きなあこがれ、大きな吐き気、大きなうんざりをもった人間 』なんだ」

 煙草を奪い取る。男は呆気にとられたか、指を閉じることもできない。

「一緒に……立ち尽くしましょう。それぞれの謎の前で……」

 彼女が煙草を咥える。大きく吸って、吐く。……猛烈に咳き込む。

 煙草が奪われ、床に捨てられる。男が煙草を踏みつける。

「こんなもの吸うな」

「でもわたし……初めてじゃないんですよ」

 登ってきた階段を指す。伝えるべきことが伝わった。男はもう一度、煙草を踏みつぶした。

 雄叫びをあげてホームに電車が入ってきた。正確な停車。まるで躾けられた獣。

 ホームと電車の隙間を飛び越えるようにして車内へ。

「こいつでお前の過去を明らかにし、未来を連れ戻せ」

 男の手に封筒。受け取る。躊躇いなど必要ない。彼女の仕事はまだ続くのだから。

「……ありがとうございました」

 電車の床を視ながら、彼女は言った。言わなければならないことを言った。

 扉が閉まると、金属の抵抗による音を契機に電車が動き出す。

 景色が彼方へと連れ去られていく。連れ去られていく? 否。彼女が動いているのだ。

 窓を開ける。まだ駅は駅としての輪郭を保っている。男の輪郭もまた。窓を開けて叫んだ。

「また来ます……! 必ず……! 必ずまた……!」

 冒険の地の全てが巨大な風景の一部と化し、それもまた別の風景に飲み込まれていく。

 惜しむ間もない。いや、惜しむ必要が何処にある。いったい何処に?

 もう――もう、次の冒険は始まっている。

 望むところだ。それこそが彼女の望むところだ。

 次の冒険に備えて、彼女は封筒を開け、その中身の検分を始める。

 封筒を濡らすものもあったが、彼女はその解釈を保留することにした。

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トーキョー・ダークツーリズム 他律神経 @taritsushinkei

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