第6話 指輪と契

 寄せては返す大海原はその度に銀色の潮騒を振り撒き、辺りは潮と海藻のすえた匂いと、じっとり湿り気を孕んだ空気が重く垂れ込めていた。嗅覚に優れたノノラは鼻のひん曲がるようなきつい臭気に顔をしかめ、黒絹の髪を纏わりつくような海風にさらしながら、暗澹たる気分で日差し照り返す海を臨んでいるのだった。

「いやあ、聞きしに勝る迫力だねえ!」

 そんなノノラとは対照的に、縁なし帽から降る声は陽気そのもので、混じり気のない歓喜がありありとしていた。ノノラはさらに険しい顔になって、視線を上向ける。

「デク、もういいでしょう?」

 うんざりした様子でノノラが言う。

「ええっ? たった今来たばかりじゃないか」

「そうだけど……こんなにひどい匂いがするなんて知らなかった」

「君は海を見たことがあったんだろう?」

「どうも、砂浜まで来たことはなかったみたいね」

 鋲付きブーツでは足を取られて歩きにくいが、素足では足の裏が削れてしまいそうなので仕方なく履いたままにしている。割れた貝殻やぬめぬめした海藻がそこかしこに打ち上げられていて、ノノラはそれが無性に気味悪く感じてたまらないのだった。

「君に船旅は無理そうだねえ」

 あんまりノノラの機嫌が悪いので、デクはこれ以上海を見るのを諦めてくれたようだった。とはいえ、デクのすることは考えることと会話することくらいのものだから、ノノラが嫌と言ってどうこうできるわけもないのだが。

「遠目に眺める分には綺麗だし好きだったんだけど、これじゃねえ……」

「ひょっとして塩が苦手なのかな? 振りかけたら縮むとか」

「何の話かわからないけど、まあ、そうなのかもね」

 適当に相槌を打って、ノノラは海岸を後にする。

 潮風に抱かれた港町は南国かぶれの派手な色彩をしていた。木造の家屋は色とりどりに塗られ、まるで市場に並ぶ果実のようだ。気候はとりわけ暖かいわけでもないのだが、海向こうの異国から運ばれてくる物産、文化の影響か、辺りに満ちる色といい香りといい、今にも人々が踊り出しそうな活気にあふれていた。そのせいか、赤土を押し固めた通りに入れば生々しい海の臭気はあまり気にならない。ノノラが立ち去った砂浜に隣接してよく整備された港があり、牛馬が何頭も乗るような大きな船から手漕ぎのボートまで、様々な船が停泊していた。よくよく日に焼けた人夫たちがもろ肌脱ぎになって荷物の上げ下ろしをしているのが見える。

「で、どうするつもりだい? この街でしばらく過ごすんだろう?」

 アクアマリンの瞳を悪戯っぽくきらめかせながら、デクが言う。

「そうね、先立つものは必要だから、とりあえず換金に行こうかな」

 喧騒に紛れるくらいの小さな声でノノラが答えた。いい加減デクと街を歩くのにも慣れてきたので、《物聞き》と悟られないような振る舞いを心がけるようになっていた。

「こないだ盗んできたサファイアかい? そこそこ値が張りそうだったけど」

「拾ってきた、ね。小さいけど熱処理しないであの蒼さだし、六条の光も見える。当分の路銀にはなるでしょう」

 通りで宝石を取り出すような真似はせずに、じっくり鑑定したときのことを思い出しながら答える。むき出しのサファイアはわずかに紫がかった蒼色で、少し色むらがあるものの天然物にしてはかなり良質といえた。親指の爪くらいの大きさのそれは楕円形をしていて、六条の光、つまり六方向に伸びる光の筋を宿している。

「でも、換金だなんて今までもさんざんやってたことなんじゃないかい? 人と関わろうって覚悟したなら、ちょっとくらい変わったことにも挑戦してみないと」

「だから、先立つものが必要だって言ってるじゃない。そのあと何するかはまた考えるってば」

「それもそうか」

 ノノラの語調が荒くなってきて、デクも切り上げ時だと察したらしい。人も多くなって独り言を聞かれるやもしれないので、しばらく静かになった。

 港湾都市という流通の拠点なだけあって、市場の彩りには並々ならぬものがあった。馬が入れないくらいの細い通りがいくつもあって、両脇に露店がぎゅうぎゅう詰めになっている。その数は百や二百どころではなかろうし、人通りはといえばさらに多くて、どこへ行っても肩を縮めなければすれ違えないほどだった。

 とはいえ、宝飾店がそんな粗野な場所にあるはずもない。ノノラは人の流れに逆らって、馬が行き交う通りを探してさまよっていた。

 薄着の人が多い街中で、黒革のぼろコートを翻しているノノラはなかなかに異質な出で立ちをしていた。熱さも寒さもないノノラには武器を隠せる装束以外に着るものなどない。しかし気配の薄さは人形ならではで、さほど悪目立ちはしないでいた。軽やかな身のこなしで、人だかりを縫うように進んでいく。

 と、しばらくそうしているうちに、自分と同じように気配を殺し、混雑をものともせずに行き交う人がちらほらいることに気がついた。

「……スリが多いみたいね」

 縁なし帽を取って、デクにそっと耳打ちする。

 鋭敏な五感を持つノノラは同業者の姿をたちまち見あらわしたのだった。しかし、そのノノラの目にも彼らの腕は確かなものとして映った。彼らの動きはまるで影法師が人波の間を滑っているようで、気に留める人はいなかった。決定的な瞬間でも盗られる側はそよ風ほどにも感じないらしく、きっと次に買い物をする時まで気がつかないのだろう。いや、ひょっとして永遠に気がつかないのかもしれなかった。というのは、どうもスリたちは財布の中身だけ抜き取っているようなのだ。

 足は止めなかったものの、ノノラは気になってしばらく観察していた。驚くべきはその練度だ。スリといえば困窮して食いぶちを稼ぐために行われることが多いが、この場の盗人たちはそうではなかろうと思わせる鮮やかな手口だった。気配の消し方といいとても一朝一夕、付け焼刃でできるような所業ではなく、特別な鍛錬を積んでいると感じさせた。ただ、あまりに足音や気配の殺し方が見事なので、ノノラにしてみれば喧騒の中に気配の薄らいだ穴がうごめいているように見えて、かえって目立ってしまっているのだった。

 よくよく見ると、スリたちが狙っているのは外からやってきた人間らしい。言葉尻がなまっている者、装いの異国風な者、赤ら顔の者、といった具合だ。集団で行う風なのもあって、何か目的あってのことかとノノラは考えていた。

「気になるの?」

 デクが聞く。少なくとも、デクは気になるようだった。

「うん。普通のスリにしては技術が高すぎるし、そんな人が何人もいる。示し合わせてやっているとしか思えない」

「止めてみる? 今、スリをしたでしょって」

「そこまでする義理もないし、簡単に足がつくような盗み方してないと思う。盗っているのは現金だけのようだし、自分の持ち物だと言い張れば証拠はないもの」

「これだから、悪は世から尽きない」

 芝居がかった言葉に、ノノラは呆れる。

「……あなた、真面目に言ってるのかふざけてるのか、どっちなの」

「半々。別に、どっちでなけりゃいけないなんて言わないだろう?」

「……やっぱりふざけてるじゃない」

 冷笑してノノラが縁なし帽を被り直すと、デクも黙った。時折影の行き過ぎる人波をかいくぐり、馬が足運ぶ商店を探しながら、ノノラはスリたちについて調べてみるのもいいかもしれないと、こっそり考えていたのだった。



 首尾よく見つけた宝飾店は存外に広く、流石は貿易の要所だと思わせるものがあった。サファイアやルビーをふんだんにあしらった、よほどの金持ちでない限り手が出ないような代物が平然と並べられていて、格の違いを見せつけているようだった。逆に言えば、そういう金持ちがこの街には唸るほどいるということだ。

 素材ばかりでなく、いつぞやの竜鱗をはめ込んだアクセサリーと違って、意匠も洗練された上品なものばかりだった。砂状のエメラルドがびっしり敷き詰められた、木の葉を模すブローチ。表面に網目模様を施した豪奢な金の上で、おっとりと真珠が光る指輪。優美な曲線を描く銀線が、涙のようなサファイアを絡めとるイヤリング。中には安い宝石や地金の品もあるが同じく意匠が凝っていて、細工師の腕前と品定めの巧さが窺える。

 そういうわけで、薄汚い旅人などは疎んじられてしかるべき場所であったから、少し懸念はあったのだが。

「要するに、買い取れない、と?」

「……申し訳ありませんが、そういうことになります」

 持ち寄った品も見ずに、店員は丁寧に頭を下げた。ノノラは少々いたたまれない気分だったが、このまま引き下がるわけにもいかない。

「わけを聞いてもいいでしょうか」

「当店では、仕入れは信用筋からのみとさせていただいております」

 にべもない。当然のように鑑定士は詰めているのだろうが、なにせ偽物をつかまされては損が大きい取引だろうし、商う品に相当なこだわりがあるようだから、お得意様からしか仕入れないと言うのも無理はない。ノノラは諦めて、別の切り口で尋ねた。

「事情はわかりました。では、この街で他に宝石類を扱う店を教えていただいても? できれば、旅人の品も扱ってくれるような店だといいのですが」

「ございません」

 店員はきっぱりと言い切った。

「……え?」

 これにはノノラも耳を疑った。

「ですから、ございません。この街に、この店の他は、宝石を扱う店はございません」

「そんなわけないでしょう」

 ノノラはとっさに言い募る。

「寂れた村ならともかく、これほど大きい街で旅人の財を換金する場所がないはずはありません。確かにここは品位ある店のようですが、他にもっと気楽な店もあるはずです」

 店員は少し眉をひそめる。まあ、いかにもくたびれた風貌の子供に文句をつけられれば誰しもそんな顔をするだろう。しかし、この街での行動に支障をきたす以上ノノラにとっては死活問題だし、他の旅人にとってもそうであるはずだった。周りの客が何やらひそひそと囁いているが、人目を気にしている場合などではない。

「そうですね、そういうことでしたら、いくつかの宿屋では質屋まがいのことをしていると聞きます。ここから一番近いところは……」

 そう言って、店員は丁寧に道を教えてくれた。

「ありがとうございます」

 ノノラは帽子を取って礼を言うと、そのまま店を辞して教えてもらった宿屋へと向かう。

 その道すがら、デクが言った。

「店員さん、君のことにらんでたよ」

「他には?」

「ちょっと笑ってたかな。してやったりって感じ」

「……あなたの言った通りね」

 ノノラはデクの入れ知恵で、店で帽子を被り直す時、デクの視線を背中側に向けておいて店員を観察してもらったのだった。帽子の向きを直しながら、用心のためにお下げもしまい込む。

「でも、背中を見せただけで相好を崩すなんて、たかが知れてない?」

 ノノラの言に、デクは神妙そうな口ぶりだった。

「目的がわかっているならね。ただ体よく追い払えたって思っただけかもしれない。でも、やっぱりあそこしか宝石を扱ってないっていうのは気になる。原石とかむき出しの宝石を扱ってないようだから、細工師や職人の類は別にいると思うし、そういう職種の人こそ宝飾店の仕入れ先だろう? 第一、仮に宿屋が質をやっていたとして、買い取った宝石はどこに売りに行くんだい? 知ってて言わなかったに決まってる」

「宿屋は罠ってことね」

「あるいは何の関係もなくて、宿屋の主人に怪訝な顔をされるだけかもしれない。ただ、それではあんまり浅はかだね。宝飾店からしたら君を追っ払いたいはずだけど、騙されたとわかったら誰だって文句を言いに戻る。面倒が増えるだけさ」

 足を止めて、ノノラは唸る。店からはだいぶ離れたから、見張りをよこされていない限りは見咎められないはずだ。

「他の店を探すかい?」

「まさか」

 そう即答したノノラに、デクは少し驚いたようだった。

「馬鹿にされて黙っていられるもんですか。その宿屋とやらを外から探ってみる。商いに携わる者として、新しい客を無下にしたらどうなるか思い知らせてやるんだから」

「盗人の君ほど、招かれざる客もないだろうけどね」

 なかなか突飛な選択肢だが、デクは気に入ったようだった。

「僕がじっくり観察するから、君は通り過ぎるだけでいいよ。あんまりじろじろ見てても不審がられるだろう」

「何言ってるの。初めて来る街なんだし、旅装をしているんだから、きょろきょろしてたって不思議でもなんでもないじゃない。自分の目で確かめるから」

「やれやれ、信用ないねえ、僕は」

「体を動かすのはあたしの役回りだもの。それだけよ」

 そう言って、ノノラは再び宿屋への道を急いだのだった。



 宿屋と言われた建物は、確かに宿屋の体をなしていた。木造だが造りはがっしりとしていて、海風など跳ね返してしまいそうな堅牢さを備えている。海沿いの建物と違って色は塗られておらず、堅実で、質素な印象を受ける。入口には《蛇の尻尾亭》なる看板がぶら下がっていて、酒の匂いが流れ出ているところをみると、一階で酒や食事を出して二階が宿泊する部屋らしい。二階の窓は全て閉ざされていたが、その数から部屋はそこそこ多いのだと知れた。

「観察するなんて言っていたけど、君は宿屋なんて立ち寄るのかい?」

 デクが問う。寝食の必要ないノノラは、前の街でも深夜まで通りをふらついていたのだった。

「中まで入ったことはほとんどないけど、通りがかったことくらいなら何度もある。……でも、地下がある宿屋なんて初めて見た」

「え、地下? 地下に部屋があるってことかい?」

「そう。あなたはそういう宿、他に知ってる?」

「……いや、知らないけど、どうしてわかったんだい?」

 不思議がるデクに、ノノラは何でもないことのように言った。

「目で見えるものだけが全てじゃないってこと。……匂いと、音ね。風のないよどんだ空気に特有のかび臭い湿った匂いがするし、物音が耳で聞くよりはっきりと足元を伝ってくる。地下があるのよ、間違いなく」

「へえ、流石だねえ」

「……何のためだと思う?」

 水を向けると、デクは黙りこんで考え始める。

「宿屋であることを疑っている以上、可能性が多過ぎてわからない。ただ、普通の宿屋に地下室があるなら、倉庫に使うのがせいぜいだろうね」

「まあ、そうよね」

 とっくに宿屋を行き過ぎてから、ノノラは適当なところで脇道に折れた。これ以上は中まで入らないとわからないだろうから、もう一度宿屋に向かうかどうしようか、考え始めた矢先のこと。

 殺気。

 首筋のひりつく感覚に、ノノラは思わず飛びのいた。

 気がつけば、辺りに人影はすっかりなくなっていた。ぼんやりしていたノノラは、知らず裏路地に踏み込んでいたのだった。人いきれと離れ、顧みる者のない、人ならざる身に心地よい居場所。しかし今この場所を縄張りにできる存在は、ノノラではなかった。

「名誉挽回、とはいかなかったようだな」

 その人は、まっさらな紙に薄墨を垂らしたように、影からにじみ出るようにして姿を現した。息遣いは淡く、足取りは浅く、見上げるような長身と筋肉質の体躯には似つかわしくないほどその輪郭はおぼろげで、ナイフの光る右手すら霞んで見えるようだった。しかし、一度目にすれば忍び寄る殺気はさながら蛇のごとく、ぎりぎりと手足を締め付けてくるように感ぜられる、確かなものだった。

「……グレム、だったかしら」

 ノノラがその名を呼ぶ。

 デクがあっと声を上げる。デクの眼を巡って攻防を交わした二人組の盗賊、その片割れが今目の前にいたのだった。

「覚えていてくれて光栄だ、ノノラよ」

 この前は盗賊よりは騎士の方が似合いそうな風貌だと思ったが、受け答えも騎士然としている。しかし、全く悟られないうちにノノラの首にまで迫る技量を見せつけられた後では、騎士の方が似合いだと言えるはずもなかった。

「何の用?」

 もちろん、ノノラは襲われた瞬間に短刀を抜いて臨戦態勢に入っている。グレムはそれには答えずに、腰を落としてナイフを構える。その姿すらまるで宙に浮いているかのようで、この空間に居ついていない、虚空に溶け込んでいる感じがした。

 再び首筋に感じた殺気に、ノノラはこれ以上ないくらい驚いた。グレムの姿を注視していたにも関わらず、その初動に全く気がつかなかったのだ。かろうじて身をひねってかわしたが、耳をかすめる切っ先に反撃はかなわなかった。

 とはいえ、二撃目にまで遅れをとるノノラではない。

 返す刀を見切ったノノラはその手首を捕えていなし、そのままひねり上げようとする。しかしすかさず飛んできた足払いにそれも敵わず、避けて距離を取るので精一杯だった。

「ここまでだ」

 十歩離れた場所で、グレムが両手を上げて首を振った。

「問答無用で襲ってきておいて、それ?」

 ノノラは警戒を解かない。互いに攻撃は通っていないし、余力もまだまだ残っているから、降参する理由はないはずだった。

「盗賊は引き際が大事だ。いつぞやの意趣返しがしたかったが、それも叶わぬとわかったのでな。騙し討ちは得意だが、トーリョと違って斬り合いは性分じゃない。初撃が通らなかった時点で俺の負けだ」

 これまた騎士然とした潔さだった。ノノラはいぶかしみながらも、この間は痺れ薬を塗った短刀で一撃のもとに戦闘不能に追い込んだのを思い出して、根に持っても仕方ないと思った。

「それなら、今度こそ何の用か聞かせてくれるんでしょうね」

 つっけんどんに言ってやると、グレムは怪訝そうな顔をした。

「む、君が何の用か話さずに済む、ということではないのか?」

 ノノラの方も眉をひそめる。何が言いたいのか見当がつかなかった。

「まさか、何も知らずに出向いたのか? ……待て、なるほど、『あどけない顔をした少年』か。君は『凛々しい少女』と形容すべきだろうが、間違えるのも無理はない」

 合点がいったらしく独りで何やら呟いているグレムを、ノノラは面白くなさそうに見ていた。

「どういうことなの?」

「わかった、全部説明してやる。俺と一緒に《蛇の尻尾亭》まで来い。そこにトーリョもいる」

 《蛇の尻尾亭》と聞いて、ノノラは一段と警戒を強めた。

「宿屋を騙る胡散臭い建物に招かれて、信じるとでも?」

「……そこまでは知っているとすると、ある程度はここで話さなければならぬ、か」

 グレムはあたりを素早く見回し、同時に耳をそばだてて、周りに誰の影もないことを確かめる。それでも用心に用心を重ねたいようで、衣擦れのような静かな声で言った。

「俺や君のような旅の盗賊に、何のしがらみもあるはずがない。しかし一つだけ、そんな者たちが与し、拠り所にできる場所がある」

 勿体ぶって口を閉ざしたグレムを前に、ノノラは首をひねる。デクも心当たりはないようだった。グレムは一段と低い声で言った。

「……盗賊ギルドだ。俺たちは君を貶めようとするのではない。歓迎すると言っているのだよ、ノノラ」



 ノノラが知るギルドと言えば、商人やら職人やらが同業者で集まって情報交換をしたり、商品の値段を統一したりと便宜を図るためのものだったが、盗賊ギルドも基本は変わらないらしかった。

「所属する最大の利点は情報にある。各地の盗賊、社会の裏側に住まう者たちからありとあらゆる情報が手に入る。ただし、金はかかるがな。逆に、情報を提供すれば金がもらえる仕組みだ」

「人語を解する人形が盗賊をやっているだなんて、さぞかしいい小遣いになったでしょうね」

「生憎と、ある程度は信憑性がないと買い叩かれるのでな。誰にも言っていない」

「あ、そう……」

 頭の上でデクが吹き出すも、《蛇の尻尾亭》の一階で卓を囲むトーリョとグレムはいたって真面目な顔をして、ぴくりとも笑わなかった。

 きまりが悪くなったノノラは、さっさと次の質問を振る。

「そんな破天荒な団体、一体どこの誰が運営しているわけ?」

 質問に答えるのは正面に座ったグレムで、トーリョは退屈そうにジョッキを傾けている。どうやら今はそういう役回りらしかった。

「それを聞くには膨大な金銭を吹っ掛けられるだろうな。ただ、構成員であればこの街の中枢が関わっているだろうことは察している。暗黙の了解と言うやつだ。この街は貿易港を擁する経済の中枢としての表の顔と、盗賊を養うゆりかごとしての裏の顔を持っている」

「……宝飾店にも繋がりがあるわけ?」

「そうだ。盗品には貴金属や宝石類が多い。それを一手にさばく店は一つだけで、盗賊ギルドと懇意にしている。他の客からの仕入れは請け負わないし、他に店ができようものならギルドが潰しにかかる。どちらも野良の盗賊、野良の宝飾屋を出さないための共生関係というわけだ。もちろん、盗賊からすれば足がつかず、高額な代物でも買ってくれる販路は貴重だし、店側からしたらいい品が安く手に入る」

「……真っ黒ね」

 ノノラは思わず苦笑する。しかし、店のノノラに取り合わなかった理由がこれでわかった。

「なら、旅人はどうするのよ。財産が換金できなかったら不自由するでしょう」

「お気の毒に、と言う他ないな。何らかの方法で現金に換えたとしても、心得のない者ならあっという間にスられる。そういうわけだから、この街の評判を聞き知っている旅人は絶対に来ない」

「あのスリたちもギルドに関わっているのね。よくわかった」

「そういうことだ。あれで得た金はギルドに上納しなければいけないが、その分ギルド側から技術の教授を受けられたり、ギルド内での地位向上に繋がる、いわば訓練の一環だな」

「狙いは外から来た人たち、『お金を落としていってもらう』というわけね」

「ひどい話だけど、それでも人が集まるだけの利益、商売の好機がこの街にあるってことだよね。いやしかし、盗賊を客として歓迎する店があるとはねえ」

 口を挟んだデクは、呆れるのを通り越して感心しきりのようだった。確かに、この街は表の顔があってこそ裏の顔も持ち得るのかもしれない。

「あたしはみすみすスらせたりしないけど、この街で現金を手にしたいなら入るしかないみたいね。何か制約はあるの?」

「勧誘以外を目的に盗賊ギルドの存在を明かさないこと、この街と周辺に限っては街の人間から盗んだり、内外の人間に関わらず殺しをしないこと。これだけだ。もちろんギルドの利益になることは奨励されるが、義務ではないし、功績者にはちゃんと褒賞金が出る。街を離れれば何をやっても構わないし、ここほど行き届いてはいないが各地の支部で情報交換や盗品の取引ができる。あと、依頼の受注もな」

「依頼?」

「ああ、やっとその話になったか」

 待ちくたびれたように肩を回してから、トーリョが言った。

「情報収集や工作のためにギルドから構成員に依頼を出すことがある。それで今……」

「強盗が出たんだ。この街に住む富豪夫妻が首を斬られて殺され、指輪が盗まれた。自分たちの縄張りで勝手な真似は許さないと、ギルドも犯人を捜している。下手人の、『あどけない顔をした少年』をな。俺とグレムが追っている最中だ」

 説明を続けようとしたグレムに、トーリョが割って入る。話しぶりから、トーリョ主導で調べている事件らしい。

「宝飾店で、ノノラは犯人と勘違いされたということかな」

 デクが言う。二人はデクの存在を知らないのでノノラが代わりに聞いてみると、トーリョがうなずいた。

「察しがよくて助かる。ここらで宝飾品を換金できるのはあれだけだから、金銭目的ならあの店に売りに来る可能性が高いと考え、指示を出していた次第だ。そこに君がやってきて、ここによこされたというわけだな」

「俺が《蛇の尻尾亭》を嗅ぎ回っている君を見つけてからは、知っての通りだ」

 グレムが補足する。つまりは、そういう顛末なのだった。

「要するにあなたたちは、あたしに盗賊ギルドに入って、事件解決のために協力しろと言いたいわけ?」

「いや、ここまで話したのは敗者なりの礼儀というやつだ。事件そのものは一般人にも知れているしな。もちろん協力してくれるならありがたいし、もう少し詳しく話すことになる」

「どうする?」

 縁なし帽から降る声。それに答えられないノノラは、せめてデクとだけでも声を出さずに会話ができたらいいのにと思った。

 ゆっくりと息を吐いて、ノノラは言う。

「わかった。どうせこの街でゆっくりするつもりだったし、協力する。ただし……」

 ノノラは肩をすくめて付け足した。

「説明は手短にね。さっきから肩が凝ってしょうがないの」

「感謝する」

 グレムが言って、二人は手を差し出してくる。ノノラはためらいなく握手を交わし、勢い込んで立ち上がったのだった。



「一週間は街に留まろう、人の営みと関わってみよう、って決意が、まさかこんなことになるなんてね」

 トーリョからしばらく話を聞いた後、二人になった途端にデクが言った。

「どういう意味? ちゃんと人と関われることを見つけたじゃない」

 ノノラが問いただすと、デクはため息をつく。

「そりゃあ君のことだから、宿に泊まってみるとか、街の人と話し込んでみるとか、あるいは人助けをするだとか、そういうことは期待してなかったけどさ、こんなきな臭い話に首を突っ込まなくたっていいじゃないか」

「……この流れだと、盗賊ギルドの宿に泊まって、街の人に聞き込みをして、強盗を捕まえるって人助けをすることになりそうなんだけど」

「いや、だからそういうんじゃなくて、なんかこう、もっとほのぼのとした出来事というか……まあ、君らしくていいと思うよ、うん」

 デクの言葉は非難めいていたが、口ぶりからするとこの状況を楽しんでいるようだったので、からかい半分に言ってやる。

「文句がないなら黙っていればいいのに」

「ふうん、文句ならいくらでも言っていいと?」

 デクはそうやって切り返してくる。やはり口八丁で後れを取るのはノノラの方なのだった。

「で、今日はどうしようかしらね」

 見上げれば空には茜と黒紫とがせめぎ合い、夜の帳が下ろされようとしていた。思いの外話し込んでいたらしい。極彩色の街並みも日が傾けば落ち着いた風合いに変わり、陸風にさらわれて潮の香も遠ざかっていくようだった。往来は帰路につく人でにぎわっていたが、ノノラたち盗賊の時間はむしろこれから訪れる。

「……見回りくらいしかすることないんじゃないのかな。現場も遺体も見られるのは明日だし、聞き込みをしようにも、じき人はいなくなるだろう」

「そうね、どうせ街の地理にも疎いんだし、あたりをつけてもしょうがないか。適当にうろついてみることにする」

「……なんか、いつもと変わんないね」

「うるさいったら」

 そうして、ノノラは夜の港町に繰り出したのだった。

 トーリョによれば事件が起こったのは昨晩、篠突く雨の騒々しい夜半のことだった。被害者は子を持たない富豪夫妻で、目撃者の使用人らによれば、叫び声とそれに続く物音に目を覚まして駆けつけた時には、既に変わり果てた姿であったらしい。『あどけない顔の少年』を目撃したのもその時だ。見覚えのない少年が返り血を浴び、短刀を片手に、静かに笑って立ち尽くしていたそうだ。無論屋敷を閉鎖して追いかけたが、見失った瞬間に煙のように行方をくらましてしまって、以来見つかっていない。張っていた門番もそんな子供は見なかったそうだ。そして、夫婦の寝室に置いてあった家宝の指輪もまた、忽然と消え失せていたという。

「でも、人相特徴がわかっているのに見つけられないなんて、間の抜けた話もあるものね」

「おっと、強気だね。これで君も見つけられなかったら、どう申し開きをするんだい?」

「……訂正。あたしが言いたいのは、盗賊ギルドの追跡から丸一日行方をくらましたままでいられるのは、何かあるのかしらって」

 事件を追っているのはトーリョやグレムだけではない。盗賊ギルドが提示した懸賞金はけっこうな額になるので、手すきの盗賊たちはみな情報収集に余念がなかった。その情報も軒並み買い取ってもらえるので、各自が自分の得た情報を秘匿して足を引っ張り合うこともない。情報は常に更新され、依頼を受けた者なら《蛇の尻尾亭》をはじめとした盗賊ギルドの拠点で確認することができた。普通、盗賊ギルドから情報を得るのは有料なのだが、ギルドそのものが解決を依頼しているこの事件に限っては無料だった。つまりギルド側からすれば金は出ていく一方のはずで、その額もかなりのものだ。盗賊ギルドの事情はよく知らないから何とも言えないが、そこまでして解決したい事件なのかと、そこも少し引っ掛かっている。

「君の目から見て、トーリョやグレムは追跡者として優秀だと思うかい?」

「戦闘と隠密の練度しか目の当たりにしていないから本当のところはわからないけど、かなり優秀だと思う。彼らは謙遜しているけれど、身を守る術であたしと互角以上に渡り合えるんだもの。曖昧な記憶だけど、あたしは盗人としてのべ数十年の蓄積があるはずで、対して彼らはまだ二十かそこら、もしかしたら十代かもしれない。ぬくぬくとした生活を送ってきたとは思えないかな」

 ノノラの評に、デクはひゅうっと口笛みたいな音を立てた。

「へえ、意外だね。君が彼らをそんなに買っていたなんて。僕の眼を巡って対峙した時なんて、すごく鬱陶しそうにしてたのに」

「え、そうだった? うーん、自分の存在を脅かしかねない人に遭遇したら、ある程度警戒すると思うけど……」

「まあ、そうか。しかしそうすると、まだ見つからない少年っていうのは、確かに何か裏がありそうだね」

「うん、油断しちゃいけない」

 ノノラは自分に言い聞かせるようにそう言った。

 世に街は多々あり、ノノラが巡ってきた中にも個性あふれる街はたくさんあったが、人々の寝静まる深夜、闇にとらわれた夜の表情はどの街も不思議なほど似通っていた。暗がりはただ黒々としているわけではなく、わずかに紫がかった蒼、サファイアの色を帯び、月と星とに見守られながらしずしずと日の出ずる朝を待っている。その様はどこか鋼に似ているとノノラは思っていた。磨けば輝くがその光沢を主張しようとはせず、強靭さというその本分を粛々と果たす。夜は眠る街をそっと抱きかかえ、揺り起こすことのないよう頑固に静謐さを守っているのだった。

 ノノラの踏み込んだ道もそんな様子だった。日がとっぷり暮れると日中の喧騒は幻と消え、わずかに残る香辛料の匂いだけがそこに市のあったことを示している。通りにもよるのかもしれないが、露店が一つ残らず除かれていてノノラは感心した。朝早くにやってくれば皆一斉に露店をしつらえる光景が見られるのかと思うと、少し見てみたい気もするが、そうすると店の場所は毎日変わってしまうのではないかと思い当たって、ひどく不便そうだと考えたりもする。ともかく通りはがらんどうで、店や人のない分、かなり広々して見えた。

 その真ん中に、ぽつねんと立ち尽くす影。

 一日のうちにこれほど何度も肝を冷やした日はなかった。またしてもノノラは眼前にその人影、小柄な少年の姿を認めるまで、まるでその存在に気がついていなかった。しかし少年は初めからそこにいたかのようにたたずみ、宵闇よりさらに暗い漆黒の髪を月光に濡らしているのだった。

「……見つけた、のかな?」

 デクが呟くと、やにわに少年は振り返った。火炎のように鮮やかな緋色の目。少女と見紛うような白い肌が闇夜に冴え、体をすっぽり覆うローブの裾は地面をのたくっている。

 容貌から身なりまで情報の通り、間違えようもない。

 盗賊ギルドが血眼になって探している人物が、今まさに目の前にいるのだった。

「ねーちゃん、だあれ?」

 澄んだ声音はどこか纏わりつくような妖しさを備えている。静かな笑みの不気味さも、いっそ荒らかな憤怒の形相より恐ろしいかもしれなかった。

 黙ったままのノノラが探るような視線を向けると、少年は首だけをこちらに向けた姿勢のままで、もう一度笑った。

「ねーちゃんも、そいつの声が聞こえるの?」

「……え?」

「やっぱり、そうなんだ」

 少年は満足した様子で顔を背けると、そのまますたすたと歩き始めた。ノノラはしばし呆然として動けなかったが、少年が立ち去ろうとしているのだとわかると、慌てて追いかけた。

 少年はゆっくり歩くだけ、ノノラが走れば逃がすはずもない。鋲付きブーツがくぐもった足音を鳴らす。近づくにつれ、髪から衣まで真っ黒な後ろ姿が月光のもとに露わになる……。

 追いついて、ローブをつかもうとした瞬間、ノノラの手は空を切った。

「なっ……」

 戦慄が走る。素早く辺りを見回す。ノノラの他に誰の姿もない。

 少年は、消えていた。

 走り去ったとか、ノノラの手をよけたとか、そういう現象ではなかった。蝋燭の火が吹き消され、後に煙も残らない、そんな消え方だった。

「デク……幻覚じゃ、ないのよね?」

 ほとんど泣きそうな、か細い声でノノラが言った。デクにもそれを茶化すだけの余裕はないようだった。

「……僕も見ていた。まばたきできない体なんだ、間違いない。一瞬のうちに、消えた」

「どういうことなの? この距離で、あたしが見逃すんだもの。普通じゃありえない」

「呪術の類だろうけど、はっきりとはわからない。あまりにも……一瞬だった」

 沈黙が下りる。心なしか、月光がさっきより明るくなっていた。

 絶句していた時間は一瞬だった気もするし、途方もなく長い時間だったようにも感じる。ともかく、静寂を破ったのはノノラの方だった。

「……あの子、デクの声が聞こえているみたいだった」

 意思ある物の声を解する存在、《物聞き》。

「……髪も、肌も、瞳の輝きも、あたしにそっくりだった」

 黒絹、白磁、宝石の光。

 ノノラは大きく息を吸って、吐く。深夜の冷気にも、その呼気は白むことはない。

「……何より、汗の匂いがしなかった」

「まさか!」

 ノノラの考えを察して、デクは息を飲みこんだ。

「あたしと同じ、人形、なの……?」

 呟いた言葉を、聞き咎めるものはない。

 がらんどうの通りは、サファイア色に沈んでいる。



 朝一番に、ノノラは早速情報を売りに行くことにした。教わった符丁を使って《蛇の尻尾亭》の地下へ案内してもらうと、通りで感じたかび臭い地下の匂いが満ちていて、少しむせそうになった。

 建物は木造だったが、地下は石造りになっていた。大部屋と小部屋に二分されていて、隠し梯を下りた手前側の大部屋には壁一面に小さな木の板がかけてあり、ギルドに所属する盗賊なのだろう、何人かがそれを眺めている。一つ一つに依頼の内容や、その依頼に関する情報が書いてあるらしい。ノノラは昨日のうちにここに来ておけばよかったと、少し後悔する。

 どうやら、指輪を巡る強盗事件についての情報がかなりの分量を占めているようだった。ざっと見て、グレムとトーリョの二人から聞いた以上にめぼしい情報がないことを確認すると、ノノラは胸をなで下ろす。

 しかし、今朝の本来の目的は奥の小部屋にあった。ノノラは薄い唇を引き締める。

 大部屋と小部屋を仕切る壁には、情報の書かれた木の板はかかっていない。むき出しの石壁はしっかりと漆喰で固められていて、針を通す穴さえないように見えた。ぽつんと一つだけついている扉は開け放たれていて、先客の居ないことを示している。その扉はものものしい、重厚な鉄扉だった。

 盗賊ギルドとその構成員が情報のやり取りを行う部屋、耳聡い同業者にも聞かれないように防音を施した場所。ノノラは少し緊張しながら、その扉をくぐった。

 鉄扉を閉めると、背を向けて書き物をしていた男性がこちらを振り返った。四十くらいだろうか。無精ひげを生やしている以外にこれといった特徴もない中肉中背の男だった。これほど印象に残りづらい人物もそうそういないかもしれないと、ノノラは思った。

 それよりは、ノノラが気を引かれたのは部屋の内壁だった。外から見れば石造りだが、内側は板張りになっている。扉を閉めるときにその断面が覗き見えたが、板と石壁との間にはびっしりと綿が詰めてあった。音を遮断する工夫だろうかと、ノノラは考える。

「いらっしゃい。ここは初めてかね?」

 盗賊にそぐわない、少女の姿のノノラを見ても、男はさほど関心を持たないようだった。

「はい、そうです」

「売りか、買いか、どちらだね?」

「売りです。お金になるほどの情報かはわかりませんが、一応報告に」

「値はこちらで判断する。どんな些細なことでもいいから遠慮なく話してくれ。ただし一つ忠告しておくが、値段交渉には応じられない。いいか?」

「わかりました。お話します」

 と言って、ノノラは少年との遭遇について話した。深夜の通りを歩いていたら、突如として姿を現したこと、その容姿と服装、服をつかもうとしたら一瞬のうちに消えたこと、そして《物聞き》である可能性が高いこと……何度か質問を挟まれ、その度に詳細な説明を加える。ときどき言葉に困った時はデクが助け舟を出してくれた。

 ただ、少年が人形であるかもしれないというのは憶測でしかないし、自分のことがばれるかもしれないので、黙っておいた。

「なるほど、確かに聞かせてもらった」

 男は聞いている間、書き取ったりせずに全てを頭に刻み付けている様子だった。しばらく思案気に目を閉じてから、男は言った。

「さて、報奨金を払おう。現金か現物かどちらがいい?」

「……値段を見て決めることはできますか」

「構わない。額はこれだ」

 そう言って、男は数字を書いた紙をノノラに見せる。緊張の一瞬。

 それを見て、ノノラは声を上げそうになるのをなんとか堪えた。ただ、表情の変化は見られたに違いない。

 昨日換金したサファイアと同程度の金額が、そこに記されていた。

「……現物で」

「わかった。ならこれを一階の店主に渡してくれ」

 あくまで事務的に、無感動に、男は走り書きした紙を手渡してきた。ノノラはそれを握りしめて、一階へ上がっていったのだった。

「なんだか随分とあっさりしてたね」

 頭の上でデクが言う。昨日売ったサファイアを取り戻したノノラも、やや拍子抜けしているのは確かだった。

「そんなに大した情報じゃなかった気がするんだけど、こんなに貰ってよかったのかしら」

「あるいは、向こうにとっては大事な情報だったのかも」

 デクの言に、ノノラは首をかしげる。

「そうかな……容姿や服装の情報は既出だし、結局行方知れずなんだから見かけた場所も当てにならないし、呪術めいた力や《物聞き》の話なんて眉唾にもほどがあるじゃない」

「何かその裏付けになる情報を持っているのかもしれないよ」

「なら、もう公開されているはずでしょう?」

「あ、そうだった」

 事件についての情報は全て地下に張り出されている。そこに書かれていないということは、ギルドが知らない情報だということだ。

「もしかして、初回だからおまけしてくれたのかもね。なんにせよ、トーリョやグレムに聞けばいいんじゃないかな」

「そうだ、現場と遺体を確認するために待ち合わせをしてるんだった」

 ノノラはやっと用向きを思い出して店内を見回すと、ちょうど二人が下りてくるところだった。

「早いな」

 トーリョが言う。確かに、盗賊ギルドの窓口が開くなり来たので、まだ日が昇って間もないはずだった。《蛇の尻尾亭》の一階も、木卓が一つ埋まっているだけだ。夜を居場所とする盗賊たちにはむしろこれから寝るものだっているかもしれない。

「どうも不眠症みたいなの」

 ただでさえ目立つなりをしているし、むやみに自身の正体に関わることを言い触らすのは控えたが、二人はノノラが睡眠を必要としないことを察してくれたようだった。

 昨日と同じように三人で卓を囲んで座り、ノノラ以外が朝食を頼む。宿屋というのはあながち嘘でもないらしかった。

「食べないのか?」

 今度はグレムが尋ねた。ノノラは片目をつぶって答える。

「お腹減らなくて」

「……つくづく一人旅に向いているというわけか」

 二人とも感心している。敵の時は神経を遣うが、味方に回れば一言で勘付いてくれる相手は気安くて楽だった

「本当にね。人と同じように旅をしろって言われたらできる気がしないもの」

 しみじみ言うと、唐突にトーリョが改まった風になる。

「君は変わったな」

「え?」

 あっけにとられて、ノノラはどんな顔をすればいいのかわからなかった。

「以前会った時は、自分のことを知られるのは気に食わなかっただろう。あの時君は、人の営みとは関わらない主義だと言ったはずだ。疑るわけじゃなく純粋に好奇心から聞くんだが、一体どういう心境の変化があったんだ?」

 ノノラは言葉を詰まらせる。トーリョと斬り合った時、水の匂いする砦の地下での攻防に思いを馳せた。

「……思い返してみれば、こうやって話をしているのもあたしの身にはあるまじきことなのよね。でも、なんというか、あたしも人として生きていいんだ、そういう生き方を探さなきゃいけないんだって思えるようになったの。……だからかな」

 組んだ指先を見つめながら答える。何となく気恥ずかしくて、二人の顔は見られなかった。頭上でデクがにやにや笑っている。

「なるほど、俺もあの時は君を物扱いしていたかもしれない。それが癇に障ったのかもしれないな、すまなかった」

「……あなたたちも大概盗賊らしくないよね」

「そうだな、どちらかと言えば職人気質だ。俺は自分より技術に秀でた者はそれだけで尊ぶ。自分の技術に誇りを持っているのでな」

 トーリョが言うと、ちょうど料理が運ばれてきたところだった。

 ノノラは話題を変える。

「実は昨日、例の少年を見つけたの」

 自分の体験は詳細を省き、盗賊ギルドの情報屋に話したと言って、詳細は地下で確認してほしいと告げた。そうすれば情報が整理されていてわかりやすいだろうと思ったのだ。

「それで、結構な金額を貰ってしまって……相場ってどれくらいなの?」

「いくら貰ったんだ」

「昨日換金したサファイアを取り戻した」

 二人は目を丸くする。

「一体何を話したんだ……?」

 ノノラはため息をついて、首をひねる。

「やっぱり、普通じゃない金額なのね。何がそんなに重要だったんだろう……」

 匙を置いて少し考えてから、グレムが言う。

「最初だから仕方ないとはいえ、少し失敗したな、ノノラ。君の思っている通り、どの情報にどれくらいの金額を払うか、つまりギルドがどの情報を重く見ているかという情報もまた、俺たちの判断材料となる。一度にたくさんの情報を得た時は、一度に話すのではなく小出しにして、どの話にどれくらいの値がついたか確認するのが定石だ。あんまり露骨にすると疎まれるが、それは向こうもわかってるから、ある程度は応じてくれる」

「なるほど、考えもしなかったな」

 デクが感心する。

「次から気を付けることにする。ありがとう。で、お願いなんだけど、下で情報を確認したら何が重要そうか思うところを教えてくれない?」

「いいだろう。……そうすると、もう別行動にした方が時間の節約になりそうだな。あまり遅くなると通りが混む。街の地理は大丈夫か?」

 たぶん、と言いながらうなずくと、グレムが事件現場となった屋敷と遺体が保管されている教会の場所を教えてくれた。

「番兵が立っているが、符丁を伝えれば通してくれる。見張りがつくが、間違っても巻いたりするなよ。余計な疑いをかけられることになる」

「わかった。じゃあもう出るから」

「ああ、達者でな。終わるころを見計らって俺たちもここに戻る」

 匙を片手に手を振る二人に手を振り返すと、ノノラは朝日に影伸びる通りへ歩き出していった。



 事件現場となった富豪夫妻の屋敷はその財力がありありとした豪華絢爛な造りをしていて、昇る日を背にしてさえ白銀に輝くようだった。矢を束ねたような形をした柵が連なり、広大な庭をぐるりと取り囲んでいる。外周はいつかの砦と同じくらいで、短い通りなら端から端まですっぽりと入ってしまいそうだ。植え込みや芝生は青々としながらも、綺麗に切りそろえられている。奇抜な色彩の街の中にあって、限られた自然の色は目の安らぐ上品なものに映った。

 しかし、漂う不穏さがそういう気分にさせなかった。仰々しい門には番兵が五人も立っていて、みな短槍を携えて行き交う人々に目を光らせている。

「仕事熱心だねえ」

 市壁を守る衛兵よりも多く、警戒を怠らない様子の彼らにデクは辟易しているらしかった。ノノラの方も盗人としての性分から、半ば反射的に近づきたくないと思ってしまう。

 しかし、裏を返せばそれほどの重大事だということだ。ノノラは気を引き締めて、堂々と番兵の一人に詰め寄った。

 けんもほろろに追い返されたらどうしようかと心配したが、教わった符丁を伝えるとすんなり通してくれた。その代わり、どこからともなく男が一人現れて、案内役兼見張り役として同行することになった。立ち居振る舞いからして盗賊ギルドの構成員だろうとノノラはあたりをつけたが、詮索しても仕方ないことだった。

 芝生を分かつ砂利道は貝殻のように白く、ゆるやかに蛇行しながらノノラを玄関へと連れて行った。番兵はここにも立っていて、案内人の姿を認めると扉を開けて入れてくれる。

 入ってまずノノラを出迎えたのは豪奢なシャンデリアだった。しかし人のない広間で灯は点いておらず、いっそ何もないより物寂しい感じがした。床は一面絨毯張り、見上げれば二階は吹き抜けになって、左右対称に作られた階段が続いていた。どこに視線を向けても贅を尽くした仕上がりで、その財力の計り知れぬということだけがわかった。

 案内人はそんな内装には目もくれず、足早にノノラを先導していく。きっと見飽きているのだろうし、一つ一つ観察していては日が暮れてしまうということだろう。それくらいに屋敷は広かった。

 階段を上り、右に折れ、左に折れ、また上り、しばらくしたら下る。かなり複雑な作りをしているらしい。最初は遠回りしているのではと勘繰ったが、どうやら最短経路を取っているようだ。現場は寝室とのことだったから、襲撃に備えて道筋をわかりにくく作ってあるのかもしれない。ここの主人は財だけでなく社会的な権力も持っているのだろうし、そのあたり用心するものなのかもしれないが、普段の利便を捨ててまで凶事に備えるものだろうかとノノラは疑問だった。まあ結果的に殺されてしまうことになったのだから、その備えが有用だったのか、無用だったのか、どちらとも言い難い。

「ここだ」

 案内人が初めて発した言葉がそれだった。ここにも番兵が立っていて、ノノラはいい加減うんざりだった。促されてスリッパに履き替え、事件現場の検分を始める。

 血の匂いはまだ残っていた。果たして、羽毛のような白い絨毯はあちこちに赤褐色の斑点を浮かべていた。絨毯は廊下のものと比べて毛足が長く、足に絡みついてくる。もし戦闘になったとして、これでは俊敏な動きはかなわないだろう。

 遺体は運び出された後だが、血の染みの具合から大体の成り行きは見て取れた。枕元の血だまりは文字通り寝首をかかれた痕だろう。もう一つ、寝台の奥側に血だまりがあって、こちらからは血が飛び散った痕跡があり、シーツも乱れている。一人殺された直後、もう一人が起き上がって悲鳴を上げたものの、たちまち凶刃の餌食となったのだろう。

 また、部屋の中はかなり荒らされていた。さほど家具は多くなかったが、高価そうな戸棚は引き出しを全て引き抜かれた後に叩き壊され、木片が散らばっていた。他にも収納を備えた家具は軒並み同じような末路を辿っている。

 その木片を見ていて、ノノラは気がついた。

「これ、もしかして二重底になっていたんじゃない?」

 デクが同じことを言った。ノノラは小さくうなずく。

 盗み出されたのは家宝の指輪だという。手の込んだ隠し方をしていたのかもしれないが、こうして家具そのものを叩き壊されてしまえばそれも無意味というものだった。下手人は難なく指輪を持ち帰ったことだろう。

 部屋の状況はこんなところだった。トーリョから聞いた話、叫び声と物音を聞いて駆け付けたという使用人の証言とも符合する。ノノラは部屋を出て、案内人に申し出る。

「そこの廊下を見てもいいですか。血痕が残っているかどうか確かめたいんです」

 案内人は了承し、ノノラは廊下を調べ始めた。自分たちがやってきた方向と逆側に血痕が続いていた。あれだけ派手に殺したのだ。返り血を浴びていないはずがないし、実際、使用人の証言にも出ていた。

 血痕は次第に小さくなっていくが、不意に途切れている場所があった。姿をくらませたというのはここだろう。壁や天井、床などに何か隠し扉などがないかと調べてみたが、わからなかった。血痕が途切れているのも壁から離れた廊下の真ん中で、それ以上の情報はない。昨日ノノラが経験したのと同じように突如としてかき消えたのだろうと想像がつく。

 案内人は少々怪訝な様子でついてきていた。これ以上深入りするのはよした方がよさそうだ。ノノラは調査協力に対して礼を言って、門の外まで案内してもらい、引き上げることにした。

 ただ、帰り際に一つだけ質問をした。

「すみません、ここの警備についてなのですが、事件の起こる前はどれくらい厳重だったのでしょうか」

 番兵は渋い顔をしたが、答えてくれた。

「さすがに寝室の前に人は立たんが、配置は今日と変わらん。あんなことがあってから、人数は少し増やしているがな」

 ということは、少なくとも門と玄関には見張りが立っていたということだ。柵に手がかりはなく先端が尖っているため、乗り越えるのは骨だろう。

「ありがとうございます」

 言って、ノノラは屋敷を後にした。

「次は遺体の確認だったけど……さっきの事件現場、どう思った?」

 屋敷を離れて移動するさなか、ノノラが声をかける。聞かれるのを待っていたらしく、デクはすぐに答えた。

「屋敷の作りがやけに用心深いことの他は、気になるところはなかったかなあ。トーリョから聞いたこと以上の情報はなかったと思う」

「そうよね。ただ、あたしは一つ思いついたことがあるんだけど……」

「なんだい?」

 デクが先を促す。少し言葉を詰めてから、ノノラは考えを語った。

「警戒厳重な屋敷に侵入して、発見されながらも逃げおおせたってところだけ聞けば熟練した盗賊に思えるけど、何か瞬間的に移動するすべを持っていたとしたなら、犯人はすごく迂闊なんじゃないかって思うの。一人殺してから気づかれているし、被害者が叫ぶのを阻止できなかった。その後に派手に家具を壊して指輪を探していたせいで使用人に姿を見られ、逃げ出したのも入口と反対方向。慌てていたか、よほど計画性がない人じゃなきゃ、そんな失敗はしない」

「……確かにその通りだね。不気味な奴だと思ったけど、そのあたりは年相応なのかもしれない」

「不気味なのに変わりはないし、あたしと同じように見た目と中身が釣り合っていないかもしれないけどね。超人的な力を持っているけど、無鉄砲なんでしょう。昨日姿を消したあの技が、手品か何かでなければの話だけど……」

「いや、辻褄は合うと思う。それにしても、よく気がついたね」

 いつものような皮肉ではなく、デクは素直に感心しているようだった。

「……自分ならどうするか考えたらね。逆に言えば、盗賊ギルドとか、そうね、グレムやトーリョも気がついているかも。また後で聞いてみましょう」

「ちなみに、君ならどうするの?」

 今日の夕飯でも聞くような口調でデクは聞く。もちろん、夕飯など食べないのだが。

「うーん、人殺しをいとわないなら夫婦を殺して物色だけど、得物は毒針にする。血潮を浴びなくて済むし、呼吸ができなくなって死ぬから騒がれる心配もないもの」

「……盗人らしくないなんて言って、悪かったよ」

「まあ、誰も手にかけず、かつ誰にも気が付かれず、盗んだことすら悟られないくらいやってのけてこそ、一流の盗人だと思うけどね」

 ノノラはそう付け足すと、遺体が安置されているという教会へ急いだのだった。



 大豪邸を見た後だからかもしれないが、教会は意外にこぢんまりとしていた。外装も内装も落ち着いた造りをしていたが、透明な硝子がふんだんに使われた窓から上品に陽光が差し込んでいるところを見ると、結構うまくやっているようだ。屋敷からさほど遠くなく、周りにも高級そうな建物が多かった。デクが言うには、清貧や施しを押し付けず、むしろ立身出世して他者を正しく導くことを奨励する神様を祀っているのだそうで、貴族や商人に信者が多いというから、立地もそんな身分の人が集まりやすいようにということなのだろう。

「王子様だとか言うあなたも、ここの神様を信仰しているわけ?」

 説明を終えたデクにそう尋ねると、デクはふふん、と鼻を鳴らすような音を立てた。

「他の何者かが決めたルールに指図されるのは嫌いでね、生憎と無宗教さ。強いて言うなら、信仰しているのは自分自身ってわけ」

 そんな風に大それた冗談を言ってのけるので、ノノラは人前で吹き出さないようにするのが大変だった。

 しかしノノラにしてみれば、信じる神様が人それぞれ違うというのは新たな発見なのだった。てっきり神様というのは一人だけで、人はみな同じように崇めているものだとばかり思っていた。デクによると、他の神様に寛容な宗教もあれば、自分たちの信じる神様以外は認めないような宗教もあるのだという。また暇なときにどんな神様がいるのか聞いてみるのも楽しいかもしれないが、差し当たっては本来の用事を優先させるべきだった。

 真っ白な長衣を纏う神官におそるおそる声をかけて符丁を伝えると、奥の部屋に案内してくれた。こんなところにまで盗賊ギルドの息がかかっているのはどうなのだろうと思いつつ、きっと教会の人たちは盗賊が関わっているとまでは知らないのだろうと信じることにして、ノノラは遺体との対面に臨んだ。

 台の上、ノノラの胸くらいの高さに白布を被った遺体が横たえられていた。傍らにはやはり盗賊ギルドの誰かなのだろう、立会人が見張りとして控えていた。神官が出ていった後ノノラは見張りに目配せをして、そっと布をめくった。

 仄白い死に装束に着がえさせられた遺体が二つ。年の頃は三十くらいで、想像していたよりだいぶ若かった。手前側の妻はすっと通った鼻筋が印象的で、意志の強さを感じさせる整った美貌を備えていた。夫の方は引き締まりながらも丸みを残した中性的な顔立ちで、伸ばした黒髪は優雅に波立っている。夫はどこかで見たような顔かと思ったが、目にする機会があったはずもないので、気のせいだろう。二人は死してなお安らかな表情で寄り添い、その睦まじさがひしひしと伝わってくるようだった。

 まあ亡くなり方に事件性があったとはいえ、教会という場で遺体を死亡当時のまま保管せよというのも無理な話だったのだろう。少なくとも悲鳴を上げて死んだ方は恐怖を顔に浮かべて亡くなったはずだが、今は心からの穏やかな表情をしていた。仕方なく、ノノラは傷口の方を確認する。

 と、うめき声が聞こえてきたのはその時だった。

 驚いたが、ノノラは極力反応しないように努めた。微かな声は物言わぬはずの遺体から聞こえてきて、人ならざるものの声とわかったからだった。見張りがいる以上、自分が《物聞き》だと悟られていいことはない。代わりに、ノノラが何も言わなくとも、デクが機転を利かせて会話を試みてくれた。デクの声ならば普通の人間には聞こえない。

「もしもし、どうしたんだい? 君は誰?」

「う……あ……」

 傷を確認する振りをしながら、ノノラも耳をそばだてる。声はかなり小さく、まともに喋れない様子だった。言葉を操る物にも程度はあって、ほとんど鳴き声のような言葉しか発さない物もあるが、それにしたって声はかすれてたどたどしかった。

 ただ、自分の言葉を聞き入れる存在が近くにいるということを理解するだけの知性は宿しているようだった。謎の声は震える声でまくし立てる。

「指輪が……指輪、行って、駄目……行ってしまう……」

 指輪というのは盗み出された物のことだろうか。そうだとすると、それを憂うのは今目の前にいる夫妻のどちらかかと、ノノラは考える。どちらかと言えば男の声に聞こえた。

「……指輪を取り戻して欲しいのかい?」

「野放しは駄目……災厄……二つで、離しては……片割れを、かたわれ……」

 全く会話が成り立っていなかった。デクも対話は諦め、一言も聞き漏らすまいと耳を傾ける。

「魂を、喰らう……もう一つ、対……封印……壊され、指輪……」

 『魂を喰らう』という言葉に、デクがはっと息を飲み込んだ。聞けないノノラはもどかしさに耐えながら、もう一人の遺体に視線を映し、検分する振りを続ける。

「君は、喰われた魂の残滓かい?」

 切迫した声でデクが尋ねるも、返ってくるのは言葉にすらならない、苦しげな息遣いばかり。

「指輪……逃がすな……!」

 最後の言葉だけは、ややはっきりとして聞こえた。それきりうめき声も荒い息遣いも聞こえなくなって、死を悼むしじまが穏やかに眠る二人を包むばかりだった。

 教会を出るなり、デクは今までにないくらい真剣な声音で聞いてきた。

「ノノラ、盗み出された指輪についての情報は、何かあったっけ?」

 ノノラは視線を宙にさまよわせる。

「……言われてみれば、ほとんどない気がする。確か、被害者の家に代々伝わる家宝だとか言ってたけど、それ以上の情報は張り出されていなかった。心当たりがあるの?」

「確証はないんだ。憶測に過ぎない。でも、もっと詳しく知りたい」

「でも、事件についての情報は全部開示されているのでしょう? 犯人から取り返さない限り、わからないと思うけど……」

 ノノラがそう言うとデクは黙ったが、かなりじれったく思っている様子だった。

「ともかく、一旦トーリョやグレムと合流しましょう。得られる情報は出そろったのだし、どうしても引っ掛かるなら彼らにも相談できる」

「……ああ、そうだね。行こう」

 デクは力なげに言う。《蛇の尻尾亭》に戻るまでの間、初めて見る憔悴したデクの様子がノノラは心配でならなかったのだった。



 トーリョとグレムの二人は、朝と同じ円卓に座ってノノラの帰りを待っていた。時間は昼過ぎごろ、ちょうど昼食を食べ終えたところにノノラがやってきたらしい。他の客も徐々に席を立ち、人影はまばらになり始めていた。

「お疲れ、まずは情報共有といこう。君が朝売った情報、どれにどれくらいの値がついたかという話なんだが……」

 グレムの言葉をトーリョが引き継ぐ。

「俺たちもうっかりしていた。情報提供者の名前は明かされないからな。更新された情報のどれが君の証言によるものかわからなかった。というわけで、何を話したのか今一度教えてくれないか」

「確かにそうね。えっと……」

「待て、一応部屋に移ろう」

 そうしてトーリョとグレムが取っている部屋に引っこみ、戸も窓もしっかり閉まっていることを確認してから、ノノラは情報屋に喋った内容を繰り返す。

 途中までは適度に相槌を打ちながら聞いている二人だったが、少年が目の前で消えた話をすると表情を一変させた。

「待て、確かにその通り話したのか? ……おそらくは人間離れした技で、一瞬のうちにかき消えた、と」

「下でもそう言ったけれど……」

 ノノラは当惑するが、二人の動揺はそれを上回っていた。

「どういうことだ……そんな情報は掲示されていなかったぞ」

「え、でも、確証がなかったから書かなかっただけなんじゃ……」

「いや、調査中の事件に関しては、確証のない情報こそ重要だ。不確定情報につき検証求む、と但し書きがついて、目立つ場所に掲示がなされる。それをしなかったということは……」

「ギルドが敢えて隠している、ということになるな」

 グレムが締めくくった。しばしの沈黙。

「ひとまず、君の証言を全て聞かせてくれ。まだ開示されていない情報があるかもしれない」

 そう言われて、ノノラは話を続けた。少年が《物聞き》であるという疑惑も、二人は初耳らしかった。

「そうか、君は物の言葉がわかるのか。しかし、ギルドはなんだってその情報を伏せておくんだ……?」

 ノノラにも心当たりはない。デクも口を挟むことなく、じっくり考え事をしている様子だった。

「……その情報を、買うか?」

 グレムの提案に、トーリョは顔をしかめる。

「わざわざギルドのお偉い方が秘密にしている、その目的を聞き出そうっていうのか? とても俺たちに払える金額とは思えないが」

「値段を聞いてみるだけならタダだ。もちろん、ギルドに警戒される危険性はあるが……」

「もし聞くとするなら、あたしが適任みたいね。自分の話した情報が開示されなかったら、気になるのが道理だもの」

 その点について二人は異論ないようだった。とりあえずこの件は一旦保留にしておいて、各人の意見交換を済ませることにした。

 主に話したのは、犯人像についてだった。

「あまり信じたくはないが、ノノラの報告がある以上、何か特別な能力によって瞬間的に姿を消すことができるのは間違いない。それでいて迂闊で詰めが甘いというのも賛成だ。一連の事件、あまりに行き当たりばったりな印象を受ける。君の言った強盗の顛末もそうだが、俺は傷口が気になった」

 トーリョが言う。ノノラはといえば、傷口を調べた時は謎の声に耳を澄ましていたので、しっかり見ていなかったのだった。

「かなりいびつに、力任せに斬られていた。血が飛び散っていたことや、気が付かれたのもうなずけるが……おそらく、凶器は食事用のナイフか何か、斬れ味の悪い刃物だろう。およそ正気の沙汰とは思えない。あとは、わかりにくかったが体にいくつかあざがあった。子供がやったとは思えない、すさまじい力で締め付けたような痕だ。……想像をたくましくしても仕方ないが、人外の仕業と聞いても俺は疑わないな」

「なるほど、考えれば考えるほど不気味ね」

 ノノラの所感に、二人ともうなずいた。盗賊をして得体が知れないと言わしめるのは、それだけでまれな存在であるはずだった。

「昨晩、ノノラの前に現れたことだが……なぜだと思う? あるいは、同じように夜道に現れることがあるだろうか」

 そうグレムが問うと、ノノラが口を開いた。

「正直、考えあってのことじゃないと思う。現れるなりすぐに消えてしまったし……ただの気まぐれなんじゃないかしら。今日や明日も同じように行動する線は薄い」

「同感だ。何を考えているのかわからんのは厄介だな。そもそも、この街に留まっているのも釈然としない。指輪を売る気もないようだし、さっさと出立して行方をくらませばいいものを」

「長くこの街で暮らせば、外に出ていくことなど思いもよらないのかもしれないがな」

 トーリョの言葉に、グレムが補足を入れる。けれども、犯人の行動が読めないというところについては一致していた。

「運よく遭遇できたとして、捕まえるのも至難の技よね……確認だけど、ギルドの依頼は犯人の引き渡しと指輪の回収よね?」

「ああ。犯人については生死を問わないとも通達されている」

 地下に張り出されていたのをノノラも見た覚えがあった。

「そうだ、盗まれた指輪のこと何か知らない? 確か家宝だったと言っていたけれど、それ以外に情報がない気がして、引っ掛かるの」

 デクが気にしていたのを思い出して、ノノラは尋ねる。

「そういえば、確かにあまり触れられていないな。すまない、俺はよく知らない」

「妙だな。犯人の目的にも繋がり得る重要な情報のはずだ。むしろ強調されてしかるべきだろう。何も知らないのだとしても、それはそれでここまで精力的に解決を望むものだろうか……」

 二人とも知らなかったようだが、きな臭いことは確かだった。縁なし帽にくっついて聞いていたデクも、少しずつ疑念を深めている様子だった。

 相談する内容はおおよそ出尽くしたようだった。最後に、開示されなかった情報と指輪のことについて、今からノノラが情報屋に聞きに行くことで話がまとまった。

「しかし、無理はするなよ。今日ので察しがついたかもしれないが、盗賊ギルドというのは社会に広く深く根を張る組織だ。どこにでもいるが、どこにも見つからない。決して敵に回していい相手ではないぞ」

 グレムが念押しする。ノノラはわかってるとだけ言い置いて部屋を出ると、階段を降り、隠し梯子を伝って地下へと向かう。

 朝早くに比べれば人は増えていたが、それでもごった返すほどではなかった。《蛇の尻尾亭》以外にも盗賊ギルドの拠点はあるようだし、何より情報があまり更新されていないらしかった。多くの構成員が件の少年を追い、他のことが手薄になっているのかもしれない。

 しかし、今のノノラには関係のないことだった。奥の鉄扉が開いていることを確かめ、中に入る。

「売りかね、買いかね?」

 前に来た時と同じ、何の変哲もない男がそう言った。

「買いです」

 しっかり扉が閉まっていることを確認してから、ノノラは答える。

「富豪夫妻の屋敷に強盗が入った事件、盗み出された指輪について外見的な特徴が知りたいのですが」

 初めに聞いたのはこちらだった。デクが言うには、より核心に近く警戒されるであろう質問だから、先に聞きたいとのことだった。

 男は値段を答える。ということは知らないわけではない。しかしその値は懐のサファイア一つ分。払えなくはない額だが、躊躇する値段だ。

「では、聞き方を変えます」

 少し悩んだが、ノノラは強気に攻めることに決めた。

「その指輪は、ツタを模した金のリングに回転する台座がしつらえられていて、台座の裏側には目の模様が彫り込まれ、日光の下では青紫、灯火の下では紅に色を変える、特別なサファイアがはめ込まれている。間違いありませんか?」

 男は眉一つ動かさなかったが、しばし黙考している様子だった。じきに値段を答えたが、さっきの額よりかなり減っている。ノノラはその場で払って、返答を待った。

「その通りだ」

 男はそれだけ答えた。頭の上で、デクは喜ぶでもなく、むしろ余計に緊張している様子だった。

 これが、トーリョとグレムに教わった駆け引きの一つなのだった。つまり、聞き出す情報そのものは同じでも、聞き方によってその値段は変わる。具体的で、答え方がはっきりしているような質問、極端な話、今のように是か否かでしか答えられないような質問ほど、安く教えてもらうことができるのだ。考えてみれば当たり前のことで、勝手わからぬ旅人が井戸の場所を教わるのと、近所に住む人が井戸の水が枯れていないことを確認するのでは、水のありかという与えられる情報そのものは同じでも、その情報の価値は異なる。このような、質問者に対する情報の価値というものが値段の指標になっているのだ。

 しかし今のノノラの聞き方はいいことばかりではなく、『ノノラが指輪の外見を知っている』という情報を自ずから盗賊ギルドに伝えてしまうという危険を孕んでいた。

「一つ確認してもいいか」

 男が言った。

「今回の強盗殺人事件、指輪の回収と犯人の確保が依頼内容だが、指輪と犯人のいずれか片方だけでも達成すれば、その都度報奨金が支払われることは知っているか」

 そうやって探りを入れてくる。ノノラが実物を手に入れたのか否か、気にしているのだ。

「はい、知っています」

 依頼内容にも記載されていることだし、嘘を言っても仕方ない。ノノラは正直に答えた。

「君がその指輪を持っているのかどうか、その情報を買うことはできるか?」

「生憎と、お金にさほど不自由していないので」

 そう言って断る。持っていると知れば強引に奪おうとするかもしれないし、持っていないと知ればノノラは核心に触れているのかと疑うだろう。もちろん、金を貰っておきながら嘘を言えば断罪は免れない。この時点でとっくに警戒されているだろうが、情報を与えないに越したことはなかった。

「もう一つ、買いたい情報があるのですが」

 話が一段落したとみて、ノノラは切り出す。

「今朝あたしがお話しした少年の情報について、消え方が普通でなかったことと、《物聞き》の可能性があることは公開されていませんが、その理由を教えて欲しいです」

 男は即座に値段を告げる。その金額は、話せないと言っているのと変わらなかった。

「では、この買い物は諦めます。ありがとうございました」

 あっさり言うと、ノノラは部屋を去った。

 そのまま何かに追われるようにして梯子を上り、店を出て大きく深呼吸すると、どっと疲れが湧いてくるのを感じた。自分がひどく緊張していたことに、今更気が付いたノノラだった。

「どうやら、あなたの思っていた通りだったみたいだけど」

 人気のない裏路地を見つけて滑り込み、デクに耳打ちをする。

「うん、おかげで確信が持てたよ」

「詳しく話してくれるのよね」

「ちょっと長くなるけどね」

 デクも疲れた様子だった。身体の疲れはあり得ないから、それだけ気が重かったということなのだろう。

「この事件、少年が指輪を盗み出したわけじゃない」

 デクの声は聞かれるはずもないが、ノノラは思わずあたりを見回して、人影のないことを確かめた。気が立っているのはノノラも同じなのだ。幸い、移動する必要はなさそうだった。

 一呼吸おいて、デクは言う。

「指輪に足が生えて、逃げ出した。それが真相さ」



 その指輪は、《魂喰らいの指輪》と呼ばれていた。

 卵を横に潰して薄くした形の台座には長径の方向に細い穴があけられていて、そこに黄金のリングが通され、台座がくるくる回るようになっている。この意匠は古きに存在した文明の王族に関わる品に特徴的なもので、その時代から存在したのだと言われているが、定かではない。

 目の紋章が刻まれた台座にはめ込まれているのは、色変わりする特殊なサファイア。日の光の下では深海のごとき青紫をたたえているが、人の手によって生まれた光、灯火の下では燃えるような妖しい紅を帯びる。この希少な石こそ、その呪術的な禍々しい力の源なのだろうと言われている。

 その名の通り、この指輪は生きとし生けるものの魂を喰らうのだという。

「僕らが見たあの少年は、喰った魂が具現化した仮の姿に過ぎない。本体は指輪だ。一瞬のうちに姿を消すことができたのも、本来の姿に戻って逃げ出したからさ。指輪一つ、しかも目くらましの呪術が使えるなら、見つけることはできっこない」

 デクが説明する。要するに少年の正体が意思を持った指輪だったということで、デクの声が聞こえていたのもそれが理由だったようだが、ノノラはもう一つ気が付いたことがあった。

「そういえば、教会で旦那さんの遺体を見た時、既視感があったの。今にして思えば、黒髪や中性的な顔立ちはあの少年とそっくりだった」

「そうだね、きっと喰らった魂が不完全で子供の姿になってしまったんだろう。教会で聞いた声の主は、いわば食べ残し、ばらばらになった魂の断片ってことなんだろうね。おかげで正体を知ることができたけど……安らかに眠ることはできそうにないかな」

 デクは沈痛な声でそう言った。あの声は正常な思考を失っている様子だったから、そのまま眠るのでは安寧は得られないだろうと、ノノラも思う。

「ねえ、魂を喰らうって、具体的にどういうこと? 魂を喰われた人、喰われた魂はどうなるの?」

「魂を喰われれば、残るのは死体だけだ。喰われた魂は指輪本体の養分になり、その呪力の源へと変わる。たぶんだけど、初めに殺して魂を食べたのが奥さんの方で、それを養分にして活動しているんだと思う。旦那さんの方の魂を喰い切るのに失敗したのは、気が付かれて抵抗されたからじゃないかな」

 デクは推測を語る。暴れた痕跡があって、寝台の奥に倒れていたのが夫の方だったと先刻トーリョが言っていたから、それとも整合していた。

「その、呪力とか、呪術って言っているのはどういうもの? 指輪が持っている特別な能力、って理解でいいのかしら」

 ノノラが尋ねる。少なくともノノラには初めて聞く言葉だった。

「大体合ってる。指輪だけが使える力じゃないけどね。生き物の魂を消費することによって、常軌を逸した現象を引き起こす術のことを呪術、その力を呪力、その媒体となるものを呪物と呼ぶ。あの指輪は独立した意思を持つ呪物なんだ。そういう意味では、君と似たような存在ともいえる」

「……どういうこと?」

「もし君の推測が正しくて、君に人の魂が宿っているとすると、君は自分の意思を持ちながらにして他者の魂をその身に抱えていることになる。指輪も状況としては同じさ。生者から強引に魂を奪い、積極的に消費していることを別にしてね。逆に言えば、僕も呪物だけど君や指輪とは別種の存在だ。この意思は僕という魂の意思であって、木人形そのものに独立した意思はないからね」

 その説明を聞いたノノラは大きな疑念に思い当たって、はっと息を飲み込んだ。

「……待って、あたしがその指輪と同じような存在だとするなら、あたしが活動することができるのは、手足を動かして、考えて、人と会話することのできる、その力の源は、まさか……」

 デクは慎重に、その言葉を遮った。

「人の魂でない、とは言い切れない。でも、君はあからさまに呪術を使っているわけではないし、魂は大きな力を宿している。君が飛んだり跳ねたりするのに魂を使ったって、そうそうすり減るものじゃないんだよ。亡者を愚弄するような消費の仕方はしていないはずさ」

「でも……」

 ノノラはかなり動揺していた。自分の中で人の魂が少しずつ消えゆくのだとしたら、いたたまれないことだった。

「それに、使っているのが他者の魂だとは限らない。普通の人間だって、魂をほんの少しずつすり減らしながら活動しているんだ。君は、昔のことを思い出せないんだろう? それが魂の消耗に関わっているとするならば、使っているのは君自身の魂じゃないかい?」

 ノノラは黙っている。自分の疑念もデクの言葉も憶測に過ぎないから、どれが正しいと断言することはできなかった。

 結局、自分が何を信じるかというところに尽きる。

「……今悩んでも仕方のないことね。自分はどうあれ、あの指輪が邪なる行いをしているのは変わらないんだもの。止めなきゃいけない」

 ノノラがそう決意すると、デクもほっとしたようだった。ノノラは質問に戻る。

「デク、指輪の呪術に対抗するにはどうすればいいの?」

「……それなんだよね」

 デクはほとほと困り果てたといった様子だった。

「……え、もしかして、できないの?」

「ふがいないことに、知らないんだ。《魂喰らいの指輪》の伝説はその筋では有名だけど、あくまで伝説であって、僕も実在するなんて思ってもみなかった。どんな呪術を使えるのかもわからないし、弱点だとか、対処法なんてさっぱりだ。復活してしばらくは軽はずみな行動をしていたようだけれど、呪力の強さを鑑みると相応の知性を備えているはずだ。じきに分別を取り戻して、迂闊なことはしなくなるだろう。そうなってしまうと本当に手が付けられない。力の源である人間もこの街にはいっぱいいるし、いずれこの街の暗部となるだろう。……決して野放しにしちゃいけない存在だったんだよ」

 デクは暗澹たる声で言う。真相を知りながら気落ちしている様子だったのは、このためだったのだ。

「そんな、嘘でしょう? あの指輪は代々受け継がれてきたものらしいじゃない。何か封じ込めておく方法があったはず……」

「それは僕も考えたけど、その方法を知っているであろう人物は殺されてしまった。……真相は闇の中さ」

 デクは嘆息する。確かに、状況は八方塞がりに見えた。しかし、本当に万策尽きてしまったのだろうか。ノノラは考える。

 と、一つ気になることを見つけた。

「……あのさ、もう一度確認するけど、指輪は盗み出されたんじゃなくて、自分から逃げ出したのよね」

「そうだと思う。あれが《魂喰らいの指輪》なのはほとんど間違いない。盗み出した者がいたとして、無策なら殺されているだろうし、指輪を封じる術を持っていたにしても野放しにする理由がない」

 デクはノノラの意図を測りかねたようで、怪訝そうに答える。

 ノノラは無意識に声を潜めて、尋ねた。

「……なら、どうして指輪は家具を壊したの?」

 デクは表情を変えないが、驚いている様子だった。

「あたしたちは、少年が屋敷に侵入し、夫婦を殺害して指輪を盗み出して去ったのだと思っていた。でも、真相は違う。指輪は盗まれたのではなくて、自分の意思で夫婦を殺し、逃げ出していた。なら、寝室の家具を壊して《魂喰らいの指輪》は何を手に入れたの? 自身の糧である魂を喰らってなお、指輪が求めた物は何?」

 デクは答えられずにいる。ノノラは続ける。

「少し、変だと思っていたの。寝室の配置にあれほど神経を遣う人物が、二重底とはいえ、簡単に壊されてしまうような家具に家宝をしまっておくだろうか、と。少し楽観的な見方かもしれないけれど、少年の姿をした指輪は見つけられなかったんじゃないかしら。……自分の利益、もしくは脅威になり得る、何かを」

「……封印に必要な物?」

「可能性として、それが一番妥当じゃない?」

 ノノラはそう言った。考え込むデクは少し元気を取り戻したようだった。

「……そういえば、教会で聞いた声……『二つ』とか、『片割れ』とか、『対』とか言っていたよね。……もしかしたら、指輪はもう一つあるんじゃないかな」

「……そしてそれには、《魂喰らいの指輪》を抑制する力がある?」

「出来過ぎた話だね」

 デクが言う。首が動かせたなら、横に振っていただろう。

「でも、懸けてみる価値はある」

「どうするつもりだい?」

 ノノラの言葉を否定せずに、デクはそう尋ねた。

「聞く必要があるの?」

 不敵な笑みを浮かべて、ノノラは問い返す。デクもにやりと笑ったに違いなかった。

『あたしは盗人なの。お宝奪取なら望むところよ』

 二人は口を揃えてそう言ったのだった。



 それからの準備にノノラたちは三日を要した。

 事は一刻を争う。《魂喰らいの指輪》が腹を空かすまでにどれくらいの時間があるかはわからないが、犠牲者は増える一方だろう。その上、何か新しい能力に開花するだとか、力を増すことも考えられる。何しろ、相手は伝説上の存在なのだ。あまり悠長に時間を与えてはならない。

 しかしそれ以上に、隠密と確実を取らなければいけなかった。盗賊ギルドの方も侮ってはならないからだ。屋敷は今ギルドの管轄下にある。下手を打ってノノラたちの侵入が露見すれば何かあると勘付くだろう。対となる指輪の存在、仮に《魂鎮めの指輪》と呼んでいるそれは可能性でしかないとはいえ、ギルドには知られていないはずの重要な情報だ。もし知られてしまうようなことがあれば何としても手に入れようとするだろうし、手に入れれば何をしでかすかわからない。毒は単独でも武器になり得るが、その解毒剤と両方が揃って初めて戦略的な道具となるのだ。

 つまり、盗んだことすら悟られないように盗み出さなければならない。機会は一度きり、失敗は許されなかった。

 考えた末、ノノラはトーリョとグレムにだけはこの情報を明かし、相応の報酬を約束した上で協力を願った。ギルドに通じていないとも限らなかったが、その時は諦めるとノノラは腹をくくったのだ。二人は快諾し、内々に三人で侵入の算段を立てた。

 目的の指輪は夫婦の寝室に隠してあるとにらんでいた。妙に入り組んだところにあるのが気になったのと、大事な物は目の届くところに置いておきたいのではないかと思ったからだ。他にも、《魂喰らいの指輪》が寝室を荒らしているという状況がある。対になる指輪であるという推測が正しいなら、デクに自身の眼の場所がわかったように、ある程度は場所がわかるかもしれない。つまり、彼が漁った寝室が怪しいということだ。

 もちろん、既に盗み出され、壊されている可能性はある。見つけても取り出せないかもしれないし、別の場所にあるかもしれないし、そもそも存在していないかもしれない。

 しかし、やってみなければわからないこともある。

 新月の夜、木立に囲まれてそびえ立つ漆喰造りの屋敷に、エメラルドの双眸を向ける人影があった。潮の香はとうに遠ざかり、澄んだ夜気は冷たい鋼の匂いを纏っている。星明りしかない下界に闇はいよいよ濃く、深海を思わせるサファイア色に沈んでいた。

 薄雲が行き過ぎて、その影が舐めるように赤土の地面を這っていく。

 最も闇が深くなったその瞬間に、人影は音もなく跳び上がった。

 矢を束ねたような形をした塀の先端、侵入者を拒む尖った凶器をあざ笑うかのように、遥か高みを越えていく。人間離れした跳躍力だ。芝生に飛び降りたときのくぐもった音も、その当人しか聞き遂げる者はなかった。

 聞き遂げた物は、一人ばかりいたのだが。

「お見事」

 ノノラの背中側を向いたデクが言った。ノノラは返事をせずに、素早く手近な木陰に身を潜める。

 ――まずは一つ。

 ノノラは心中で呟いた。辺りの様子を窺いつつ、じわじわと建物へにじり寄っていく。灯りを手にした見張りが玄関に一人、外周にもう一人。無力化するのは簡単だが、何の痕跡も残さないのが今回の目標だ。ここが二つ目の障害だった。

 灯火の届かぬ暗がりの中をノノラは滑るように移動していった。水が低き所に流れるように、煙が高き所に昇るように、その動きはあるべき物があるべき所に収まる時の自然なものだった。力むこともなく、かえって虚ろになりすぎることもない。忘れてしまうほど長い時間、体に刻み付けてきた、染み付いてきた動作だった。

 そんな姿が見あらわされるはずもなかった。ノノラは難なく窓に辿り着くと、錠前にピックとテンションを刺し込んで一瞬のうちに開錠する。華奢な体をするりと滑り込ませると、内側から鍵を閉め、頭に叩き込んだ見取り図を頼りに無人の廊下を進んでいく。見張りの数と場所、外から開錠できる窓の場所、屋敷の中の見取り図は、三日を使って調べたことの一部だった。

 ――二つ。

 ノノラは数える。その数字は自身を駆り立てるようでもあったし、緊張をほぐしていくようでもあった。ノノラは次第に歩調を速め、走り出す。

 一条の光もない廊下は灯火なくして見透かせるはずもなかったが、ノノラは一度も壁に手を触れることなく、正確に寝室を目指すことができた。目を閉じて走っても同じことだっただろう。わずかな空気の流れ、壁そのものの気配がノノラに囁きかけ、存在を知らしめてくれるのだった。

 右に折れて階段を上り、左に折れて階段を下る。寝室に至る曲がり角、微かに漏れ出てくる炎の揺らめきを察知して、ノノラは足を止めた。

 息を鎮めて待つ。

 ほどなくして足音が聞こえる。たつたつと自らの存在をことさらに主張する音は、薄氷のようにもろい静寂にひびを入れて少しずつ近づいてくる。そのうちに煙の匂いも増し、灯火が空っぽの廊下を朱に照らし出した。

 曲がり角から盗み見た突き当たり、朱を濃くしていく通路によぎった人影の右手を注視する。中指と人差し指をぴんと伸ばして親指をそれと垂直に立てていた。その合図を確認すると、ノノラはようやく笑う。

 寝室の前に立つ見張り番が交代し、役目を終えた番兵が去っていく。油断せず少し時間をおいてから、ノノラは寝室へ赴いた。

 ノノラは躊躇わずに灯火の下へ姿を現し、見張りの前に立つ。見張り、すなわち変装を解いてさらに別な変装を繕おうとしているグレムは、背後の扉をノノラに示す。鍵がかかっているようだがこれもすぐに開錠すると、ノノラは寝室に忍び込むことに成功した。

 ――三つ。

 この、寝室の前に立つ見張りが一番の懸念材料だった。横をすり抜けて寝室に入るのは無理が過ぎるし、仮にできたとしても探し物をすれば気が付かれるだろう。つまり、見張りとして味方を配置しておく必要があった。そこでグレムの出番となったのだ。グレムは変装に長け、すぐ近くを通り抜けても気づかせない目くらましの呪術を使うことができる。ノノラに肉薄できたのもそのためだったのだが、今回は正門や玄関を正面突破するのに使ってもらった。屋敷内の下調べに尽力したのもノノラとグレムだ。

 交代の時間、その際の符丁、見張りの顔。ここまでお膳立てするのには知らなければいけないことが山ほどあった。とても一人では調べきれなかっただろう。苦労の末に捻出したとはいえ、与えられた時間は少ない。見張りの交代に際して、次の見張りに先んじてグレムが訪れることで前の見張りを帰し、ノノラのために時間を作るというのが策だったから、本物の見張りがやってきて前の見張りに扮したグレムと交代するまでに、ノノラは寝室を脱出していなければならない。

 寝室に窓はない。開け放した扉から差してくるグレムの灯火だけが頼りだった。血まみれの寝台、木っ端微塵になった家具、その合間にわだかまる闇の一つ一つをノノラは素早く見回していく。

 何の手がかりもなしに、短時間で指輪を見つけられるはずもない。ただ、ノノラは隠し場所に当たりをつけていた。用心深い家主のことだ。壊されて取り出されることのないような、建物に備え付けになった引き出しがあるに違いない。とすると、怪しいのは壁、床、天井のどこか、おそらくは部屋の奥側、視線の向きにくい場所……

「あった」

 ノノラが思わず声を上げた。寝台に被さる天蓋、その裏側に、葉をかたどった壁の模様が周りに比べて薄くなっている場所があった。目を凝らしてもわからないが、なぜてみるとほんのわずかに切れ目のあることがわかる。

 しかし、取っ手や錠の類は見当たらず、押しても、切れ目に針を刺し込み弄っても、ぴくりとも動かない。ノノラはいぶかしむ。

「……どうやら、物理的にではなくて何か特殊な力で封がしてあるみたいだね。こじ開けるのは難しそうだ」

 デクが言う。ノノラは臍を噛む思いだった。何か方法はないか、万事休すか、と考える。

 ベルトにぶら下げた道具入れへ針をしまった時、ノノラはそれに手を触れ、思いつく。

「……きっと、斬れない物はないのよね」

 闇の中でさえ光を集める、仄白い刃が抜き放たれた。自身の周りに何をも存在することを許さず、その刀身が纏っているのは闘気とも、殺気とも、あるいは無そのものともいえるかもしれなかった。熟練の刀匠が半生をかけて磨き上げた、竜鱗の輝き。

 目に見えぬ何かが迸る竜鱗のダガーを、壁にそっとあてがう。

 じゅうっ、と灯火を水に沈めた時の音がした。ノノラはダガーをしまい、今一度針でこじ開けようと試みる。溶接したようだったさっきの感触が嘘のよう、見た目は何ら変化なかったが、壁はあっさりと盛り上がり、その中身をノノラに差し出した。

「……本当にあったんだね」

 デクが言う。白金のリング、回転する台座、灯火に朽葉のような赤褐色を帯びる宝石。

 ノノラの手に収まったのは、《魂鎮めの指輪》に他ならないのだった。



 隠された引き出しを元に戻し、変装を終えたグレムの横で寝室の鍵をかけ直すと、ノノラは早急にその場を後にした。慎重を期しながらも疾風のように来た道を戻り、あっという間に屋敷を抜け出す。もちろん鍵は全てかけ直し、足跡も誤魔化し、一切が元通りだ。何事もなければ、盗みに入ったことすら気が付かれないはず。ノノラたちの勝利だった。

 ただ、本番はむしろこれからと言えた。

 入った時と同じように塀を飛び越えたノノラは、そのまま足を止めずに深夜の街を駆けていく。今となっては足音を気にする必要もない。疲れを知らない体が全速力で向かったのは、日中に市で賑わい、日暮れにはさっぱりがらんどうになる通り。

「首尾は?」

 打ち合わせた通り、そこにはトーリョが待っていた。

「上々よ」

 ノノラはそれだけ言う。トーリョはにやりとするも、すぐに表情を強張らせた。

「……お出ましのようだな」

 広々とした通りの真ん中に、ぽつねんと立ち尽くす影。

 前に会った時と全く同じように、少年の姿をした影が振り返った。それが舞い降りた瞬間、闇が一段と深くなるのがはっきりわかった。光を失って髪は黒々とし、毒々しい緋色の眼も太陽の下では蒼に染まるのだろう、指輪が抱くサファイアの色なのだと今はわかる。

 トーリョの持っていた灯火が突如としてかき消えた。

「まさか、本当に持ってきてくれるとは思わなかったよ」

 声は変わらず少年のものだが響きはざらついていて、おぞましさがありありとしていた。肌は生気を失って青白く、人ならざるものへと変じていることがはっきりわかった。前に相対した時よりも力を取り戻しているということなのだろう。

「正気を取り戻してからもう一度行ってみたけど、ボクには開けられないことがわかったからね。ほとほと困り果てていたんだ。……渡してもらうよ、その指輪」

 トーリョは無言で短刀を引き抜く。ノノラも竜鱗のダガーに手をかけて、言った。

「それはこちらの台詞よ。指輪を、あなたを、渡してもらう」

「……図に乗るなよ」

 あどけない少年の顔が、歪んだ。

 ノノラとトーリョが同時に駆けた。トーリョは右から、ノノラは左から、回り込むようにして挟撃を狙う。距離は一瞬にして詰まり、斬りかかるタイミングも測ったように同じだった。

「退けっ!」

 トーリョが叫ぶ。肌のひりつく感覚にいぶかる間もなく、ノノラは斬撃を中断して跳び退った。その鼻先を黒い塊が掠め、ざりざりと不可思議な音を立てて行き過ぎる。

 距離を取ると、その全容が見て取れた。

 ローブから伸びているそれは衣のようであって、衣と全く異なるものだった。黒雷と呼ぶのがふさわしいだろうか。絶えず空気を削るような音を立てて爆ぜ、鋭角に曲がりながら指輪の周りを縦横に巡っている。

 トーリョが舌打ちして短刀を捨てた。その刀身は半ばから融けていて、ノノラは黒雷の威力を思って身震いした。直撃すればどうなるか考えるのも恐ろしい。安易に近づくわけにはいかなかった。二人は後退る。

 爆ぜる音、この世のものと思えない生命のさざめきが一際大きくなった。黒雷がまさに電光の速さで二人に襲いかかる。

 斬り合いに長けた二人でも、避けるのは至難の技だった。見てからかわすのでは間に合わないから、少年の視線や今までの攻撃の様子から軌道を読み切るしかなかった。足さばきの音、空気を焦がす音、赤土の吹き飛ぶ音。幸い攻撃は単調で何とか避け続けることができたが、膠着状態が続く。

 防戦一方の中、隙をついてトーリョがナイフを投げつけた。黒雷の間を縫うようにして背を向ける少年の姿へと飛んでいったナイフに、ノノラを攻撃しようとしていた黒雷が鋭角に引き返し、あやまたず命中した。ナイフが一瞬のうちに赤熱し、煙を上げて融けていくのをノノラは見る。

 しかしノノラが感じたのは恐怖ではなく、むしろ状況を打開する希望なのだった。

 トーリョと目配せをする。どうやら、トーリョも気が付いたらしい。新しいナイフを構える。

 黒雷による攻撃はすさまじい速さとはいえ、二者を同時に攻撃することはできないようだった。そして、死角からのナイフを正確に叩き落としたということは、本体の意思と関係なく、近づくものへ襲い掛かる性質を持っているということだ。あるいは本物の雷と同じなら、金属に引き寄せられる性質を持っているのかもしれない。

 トーリョが立て続けにナイフを投げる。

 片手を振るうだけで一度に三本のナイフが少年の姿へと迫る。黒雷にあっけなく叩き落とされるが、その間に次のナイフが飛んでいる。黒雷がナイフを攻撃している間、トーリョ自身には攻撃が飛んでこないのだ。全力で投げ続けるナイフは波のように絶え間なく、黒雷が一つずつそれを鉄塊に変えていく。

 もちろん、その間ノノラには何の障害もない。

 白刃を携えて、一気に《魂喰らいの指輪》へと迫る。少年の顔に初めて焦りが浮かんだ。

「なめるなあ!」

 咆哮、掲げられた手。突如、ノノラの眼前に黒い点が生まれた。

 気が付いた時には遅かった。目の前に現れた黒雷を、突進しているノノラは避けようもない。刹那の内に、ノノラの全身をおどろおどろしい恐怖が駆け巡った。

 一閃。

 ほとんど反射的にノノラは竜鱗のダガーを振り抜いた。虚空を削る黒雷と闇夜に刻まれる白刃とが交わり、閃光が轟く。白光が辺り一面を照らし出し、少年の眼は青紫に、《魂鎮めの指輪》は深緑にまたたいて、にらみ合った。

 残光と残響とが遠ざかる。《魂喰らいの指輪》は緋色を取り戻し、《魂鎮めの指輪》は朽葉色を取り戻し、夜はサファイア色と静謐を取り戻す。

 ざりざりと空気を削る音は消えている。ノノラは無傷、竜鱗は黒雷に打ち勝ったのだった。

「何だ、その剣は……」

 そう言って怯んだのは一瞬だった。憤怒に少年の顔をますます歪めて、新たな黒雷を出して襲いかかる。

 しかし、もはや間合いはノノラのものだった。

 ほとんど手の届く距離、ノノラの攻撃も即座に届く以上、電光の速さを持つ黒雷が相手だろうと関係ない。純粋な反応速度の勝負だ。次々と繰り出される黒雷を現れるなり叩き落とし、ノノラは少年に肉薄する。剣戟の風切る音に覆い被さるようにして、稲妻のような閃きが次々と花開く。少年の足が、後退った。

 しかし《魂喰らいの指輪》も、そのままやられるほどやわではなかった。

 ノノラが鋭く突き込んだ瞬間、少年の輪郭が揺らいで刃がすり抜けた。同時に、ノノラの背後で空気の焦げる音がした。

 近づき過ぎたのだ。黒雷の出せる範囲の、内側まで。とはいえ振り返って迎撃すれば、指輪の姿に変じて逃げるのを見失ってしまう。それを悟った瞬間、デクが叫んだ。

「捕まえろ!」

 ノノラはデクの言葉を信じた。後ろを顧みず、《魂鎮めの指輪》をはめた左手をまっすぐ突き出す。

 少年の首をつかんだ確かな手応えを感じた瞬間、ノノラの背中で何かが爆ぜた。

 逃がさないように手に力を込めるとともに、振り返って迎撃する。白刃のもと、黒雷と一緒に融けたナイフが弾け飛んだ。トーリョが投げつけ、一瞬の隙を作ったのだ。背後を向いたデクはそれに気が付いていた。

 ノノラは《魂喰らいの指輪》に向き直る。

「鎮まれっ!」

 ノノラが叫ぶと、《魂鎮めの指輪》が輝く。かき消えようとしていた少年の姿が輪郭を取り戻した。

「くそう、放せ!」

 眼が緋色の輝きを増す。だがそれ以上に、《魂鎮めの指輪》の朽葉の色が強くなる。ノノラは左手で、少年の首をぎりぎりと締め上げる。

「どうしてボクを止める!」

 ざらついた少年の声が叫ぶ。

「お前だって物だろう! それも、人の魂を取り込んで我が物としている。ボクと同じだ! ボクを止める理由が、権利が、お前にあるのか!」

 ノノラはぐっと息を飲み込んだ。手に込める力が強くなる。しかし、咄嗟に答えることができなかった。

「人間はいつだってボクを虐げてきた! 片割れを作って封じ込め、都合のいい時だけ呼び起こして利用する。だからボクが同じようにする。復讐だ、自業自得だ! 思い上がった人間どもを虐げて、何が悪い!」

 虐げる。その言葉に、ノノラは目の覚める思いだった。今まで言葉にならなかった、もやもやとした決意が形を得るのを感じた。

「あたしはあなたと違う」

 詰めた息を吐き出して、ノノラが言った。

「あたしは、人とも物とも対等に在る。時に争い、時に助け合い、物としての本分を叶え、人としての意思に寄り添う。一方的に人間を貶め支配しようとするあなたを、あたしは許さない!」

「欺瞞だ! お前の魂、人の魂と癒合したそれが共存の証とでも言うのか! 物と人は違う。人間はボクたちを作った。利用するためだ! ボクたちを支配し、貶めようとする。必ずだ! 共存なんてあり得ない!」

 わめく声。決然と言い切ったノノラは、強い意志を宿した瞳を緑に光らせた。

「それは、あなたが力を持ち過ぎ、歩み寄る機会を見失ったからよ」

 竜鱗のダガー、何物をも切り裂くと誓った剣を、振り上げる。

「やめろぉっ!」

 その言葉を最後に、斬り伏せられた少年の姿は輝く光の束となって失せた。身の毛のよだつような暗黒は遠ざかり、星明りが街の底まで届く。

 ノノラは握りこんだ左手をそっとほどく。その手の中には何もなかった。しかし、中指にはめた白金のリングに寄り添うようにして、人差し指に金色のリングが収まっている。

 《魂喰らいの指輪》を手にした瞬間だった。



 港町の朝は早い。日の昇る前にしてうっすら空が明るみ始めたころから、露店の荷物を携えた人々がせわしなく行き過ぎていく。潮の香が満ちる前に人いきれと物産でごった返し、喧騒は波の音を覆ってしまう。この街において海は隠されているが、海あってこその盛況なのだ。赤土の地面も、よくよく見ればところどころ白いものが混じっている。それが砂粒なのか塩なのか、ノノラはあえて調べようとはしなかった。

 《蛇の尻尾亭》の前で佇んでいると、背後から呼び止められた。振り返れば、トーリョとグレムが立っている。

「早いのね」

「どうも不眠症らしくてな」

 そんな冗談に肩をすくめてから、二人について店へ入る。盗賊たちが起きるには少し早すぎるようで、一階には誰もいなかった。階段を上って、二人の取っている部屋に入る。

 二人の協力あって一対の指輪を手に入れることができたので、報酬の受け渡しをしようということなのだった。ノノラが荷を解いて貯め込んでいた盗品の数々を並べると、盗賊二人は息を飲む。

「……よくここまで集めたものだな」

「まあ、暇だったってことね」

 グレムの言葉に、ノノラは薄い笑みを浮かべる。いつの間にか、二人の前で笑うことに抵抗はなくなっていたのだった。

「どれか選べってことか?」

「何を言うの。全部よ。あなたたちがいなかったら絶対にうまくいかなかったし、腕前を考えても成功報酬としてこれくらいは払わないと」

 そう言うと、二人は揃って目を丸くした。

「いや、しかし……これはほとんど君の全財産だろう? 貰ってしまって大丈夫なのか?」

 気遣わしげにグレムが言うも、ノノラは気楽に返す。

「サファイアを換金した分と、今回の戦利品があるもの。ギルドからの報奨金を貰えば不自由はないから、大丈夫」

 なおも悩ましそうなグレムに、トーリョが割って入った。

「ありがたく貰っておこう。当人がこれだけ払ってしかるべきと言っているんだ。突っぱねるのも無粋だろう。……それに、これだけあれば目的を急ぐことができる。そうだろう?」

「……わかった。感謝する」

 そう言って、二人は受け取った宝物を大切そうにしまい込んだ。

「これから、俺たちは海を渡る」

 一息ついてからトーリョが言った。決意を目に秘めた、精悍な顔つきをしていた。

「とある島国に、少し因縁があってな。路銀を貯めて行くことが目的だったんだが、おかげで予定を早めることができる。……本当に、感謝している」

 そう言うグレムにも、揺るがぬ決意を感じさせるものがあった。

「こっちこそ、ありがとう。それだけの働きをしてくれたんだもの。他の人ではこうはいかなかったと思う」

 ノノラの方も礼を言う。二人は笑って、それから少し顔を見合わせて、居住まいを正して聞いてきた。

「……しつこいとはわかっている。しかし、あえてもう一度聞くことを許してくれ。……俺たちとともに行く気はないか」

 今度はノノラが驚く番だった。視線を落として、黙り込む。

 一度断ったのは、人の営みから離れていたかったからだった。そうしなければならないと、無意識に自分を縛っていたからだった。しかし、今は違う。物であろうが、人であろうが、対等な存在として向き合うこと、それを助けることが自分の本分なのだと、気が付いたのだ。何より、目の前の二人とはうまくやっていけるはずだと、今回の成功がはっきり示している。断る理由はないはず……と思ったのだが。

 海を渡る、その言葉がどうにも引っ掛かった。潮の香、寄せては返す波飛沫、その銀色のきらめき。無性に気味悪く感じる、体に纏わりつくように感じる、生命にあふれた臭気。その感覚は本能的なもので、どうにも抗うことができなさそうだったのだ。

「……ごめんなさい、他の場所ならありがたくついていったんだけど、船旅は……あたし、海がひどく苦手みたいなの」

 ひどく申し訳ない気持ちで、ノノラは答えた。二人は肩を落とすが、どこか晴れ晴れとした表情をしていた。

「……残念だが、仕方ないだろう。俺たちも行先を変えるつもりはないからな。生業は同じだが……今度こそ、会うことはないかもしれない」

「しかし、君に認めてもらったことは忘れまい。同じ技を修めるものとして誇りとしよう。……達者でな」

「二人もね。……旅の無事を祈っているから」

 そうして、三人は手を重ねる。温もりを持つ手、持たざる手、その違いはもはや関係ない。いや、むしろ好ましいものにさえ思えるのだった。

「最後になるが、アクアマリンの持ち主にも、よろしく伝えておいてくれよ」

 デクの方を見てトーリョが言った。口に出さなかっただけで、どうやら前々から気が付いていたようだ。しかし、人の言葉は通じないのだと勘違いしているらしかった。

「全部聞こえてるんだけどなあ」

 デクがぼやいたのを伝えると、三人で笑う。

 そのまま部屋を出ると、二人は宿代を払って引き払い、港へ行くのだと言って《蛇の尻尾亭》を去っていった。

 ノノラにとって、思い出せる限り死を伴わない初めての離別は、涙なしに終えることができたのだった。



 二人と別れてからしばらくも、ノノラは何をするわけでもなく《蛇の尻尾亭》に佇んでいた。日も高くなってくると起き出してきた同業者で食事処は盛況だった。周りに聞こえないよう小声でデクと話しながら、ノノラは所在なさそうに、まるで何かを待っているかのように木卓に突っ伏しているのだった。

 そのうち、デクが呆れて尋ねてくる。

「一体どうしたんだい? ずいぶんとやる気がなさそうじゃないか。さしもの君も、昨日の今日じゃ疲れて動けないのかな。……それとも、そんなに別れが堪えたか」

「うん、それもあるけど……あたしの勘が正しければ、一番疲れるのはこれからな気がするのよね。今は何事もないよう祈りながら待っているところというか……」

 ノノラは気怠そうに答える。実際、気が重いのは確かだった。

「まあ、君が楽観視し過ぎていないようで、少しは安心したよ。でも生憎と何事もなしでは済まないみたいだね」

 デクはそう言って口をつぐむ。ノノラの方に歩み寄る人があったからだった。何の変哲もない、強いて言えばそれが特徴の男。情報屋として地下の小部屋に陣取る、おそらくは盗賊ギルドにおいて重要な地位にいる人間。

 肩を叩かれ体を起こすと、教えた覚えもないのに向こうはノノラの名を知っているようだった。地下へ来てくれと頼む口調は物柔らかだが、どこか有無を言わせないような含みを感じるものだった。

 指輪を入手したと知って、交渉をしに来たのだ。ノノラは確信した。

 隠し梯子を下った地下室に、今は人っ子一人いなかった。人払いがされているに違いない。懐に収まった一対の指輪の存在を意識しながら、ノノラは一度深呼吸をする。

 男に続いて開かれた鉄扉をくぐる。扉を後ろ手に閉めると、互いの身じろぎさえ聞こえるような静寂が訪れる。隔離されているのだと強く意識した。

「さて、我々は君が指輪を入手したと知っている。ぜひ、それを買い取らせてもらいたいわけだが」

 偶然か、それともわざとなのか、男は『目的の指輪』とか『依頼していた指輪』と言わずに、『指輪』とだけ言ったのだった。《魂喰らいの指輪》については、昨晩あれほど派手な立ち回りをしたのだから、勘付かれても仕方ない。だが、《魂鎮めの指輪》について、盗賊ギルドは知っているのかどうか。屋敷から盗んだことは気が付かれていないと思いたいが、もし戦いぶりを見られていたのであれば存在を悟られていてもおかしくない。『指輪』という言葉が片方を指しているのか、両方を指しているのか、ノノラにはわかりかねた。

 とはいえ、ただの深読みということもあり得る。ノノラは慎重に答えた。

「前にも言いましたが、あまりお金に困っているわけではありません。それに、あたしが手に入れた指輪はただの宝飾品というわけではないようです。初めに状況を整理させてください。まず聞きたいのは、買い取る値段です」

 この部屋の中では情報と金銭は等価だが、売買交渉をするというなら値段を提示するのは当然だ。男はあっさり値段を告げる。もともと提示されていた依頼の成功報酬より桁が二つほど違っていて怖気づいたが、裏を返せば喉から手が出るほど欲しいということ、ある意味で弱点を晒したことになる。交渉の余地はあるはずだった。

「では、あたしが売らないと言ったらどうなりますか?」

「これはこの件に限ったことではないが、依頼を受領することで情報を得る権利が生じ、その対価として依頼主の意向に従う義務が発生する。それを突っぱねるのなら、違約金など何らかの形で罰則が下ることになる」

「この件の場合は?」

「違約金がある」

 と言って、値段を告げる。これもまた法外な額で、盗賊二人への報酬を出す前ならわからないが、今となってはとても払える額ではなかった。しかも言外に金銭以外の罰則を匂わせるあたり、実力行使もいとわないと宣言しているようなものだった。きっと違約金を元手に依頼を出して追っ手を差し向け、強奪しようとしてくるのだろう。そう簡単に奪わせない自信はあったが、名を知っているくらいだから腕前は把握しているはずだし、油断できる相手ではないはずだった。仮にトーリョやグレムのような熟達者が何人もいたとしたなら、逃げおおせるのはかなり厳しい。

「……指輪を使って何をするつもりか、買えますか?」

 その質問も想定の範疇だったのだろう、さらりと答えた値段は法外なんてものではなかった。指輪の売値よりも数倍は高い。真っ黒だ、とノノラは思った。すなわち、この値段よりもさらに数倍か数十倍の利益をギルドは指輪に見出しているのだ。ノノラには見当もつかなかったが、この街のような大都市か、小国家の趨勢に関わる額に違いなかった。

 大きな潮流が、自分を飲み込もうとしているのを感じる。

 しかし、ノノラは余計に売りたくないという決意を強くした。ただの天邪鬼ではない。心に秘めた理由、《魂喰らいの指輪》と対峙した時に気が付いた、大きな信念があった。

 そして、何ら無策でここまで出向いたわけではない。

「……売りたい情報があります」

 同情も暴力も、この場では通用しない。動くのは情報と金銭のみ。情報を買うのに金が足りないとなれば、それに見合った情報を渡すだけだ。

 とはいえ、それがどれだけの価値を持つものなのかノノラには測りかねた。だから、これは純粋な賭けだ。せめて違約金分の値がつけば、今後のことはさておき指輪を持っていくことはできる。それが叶わなければ、売るしかない。ノノラは長い息を吐いた。

「……あたしは人形です。疲れず、眠らず、食事を要さず、傷つけば直ることのない代わりに延々と生き続ける存在です。人とも物とも対話ができ、自分の意思とは別に人の魂を宿しています。証拠として、あたしの肌に触れれば人でないことがわかります」

 一息に言い切って、ノノラは男に向き直る。

「この情報は、いくらになりますか」

 男は眉一つ動かさない。ノノラは拳をぎゅっと握り込んだ。

「……金にはならない」

 その言葉が体の中を通り抜けていくのに、しばらくかかった。どうしてと問いたい一方で、やっぱりと諦める自分も確かにいた。

「……理由を聞いても?」

 金は請求されなかった。男は答える。

「その情報は既に買っているからだ。君からね」

 男が何を言っているのかわからず、ノノラは怪訝そうに見つめ返した。しかしそれ以上説明はない。しばし考えてその意味に気が付いた時、愕然とした。

 初めて情報を売った時、サファイアの値がついた理由。

 高値がついたのはどの情報だろうとノノラは悩んだものだが、他でもない、ノノラの正体こそが高値のついた情報なのだった。男はあの対話の中でノノラが人形であることを見破り、それにこっそりサファイアと同じ値をつけ、ノノラに支払っていた。

「……見破ることができた理由、推測の過程を聞くには、いくらかかりますか?」

 大体の見当はついていたが、これは是か否かで答えさせてもあまり意味がない。男の考えた通りに聞きたかった。幸い大した額は請求されなかったので、支払う。

「一番の手がかりは下手人が《物聞き》だと見抜いたことだ。誰かが《物聞き》であることを見抜くのは、自身も《物聞き》でなければ難しい。もう一つは、君の年齢と身のこなしの冴えに覚えた違和感だった。見た目通りの歳ではあり得ない技術を持つ、人外の類であることはすぐにわかった。姿形を変えずして成長できる《物聞き》ともなれば、人形であると推察してそう間違いはないだろう」

 何のことはない。鋭い洞察とはいえ、聞いてみれば当たり前のことだ。ノノラは打ちのめされた気分だった。秘密を見破られていたことではない。自分の価値、希少性を買いかぶり、正体を明かせば何とかなるだろうと考えていた浅ましさに気が付いたのだった。目の前の男は、自分の正体、人形であるという情報にサファイアの値を付けた。それはそのまま自分という存在の価値に他ならないのだと、ノノラは感じた。普通の人間にそんな値はつかないだろうが、値が付いたところで違約金には及ばない。この状況はどうしようもない。携えた手札としては全くの無価値なのだ。それを思い知らされた。特別であることそのものを武器にできるほど、自分は特別ではなかった。

「他に売りたい情報は?」

 そう言われては、黙る他ない。

「なるほどね、思いつかなかった。着眼点はなかなか悪くなかったと思うよ」

 デクが言った。慰みごとは虚しいだけだからやめて欲しかった。しかし男の前でそう言うわけにもいかない。ノノラはじっと耐えるしかなかった。

「物珍しさで言ったらとびきりだ。ただね、盗賊ギルドは好奇心から情報を買っているわけじゃない。その情報が金に変わり得るから買っているんだ。そこを勘違いしてはいけない」

 デクの言葉は、慰めというより諭すような口調だった。ノノラはいぶかしむ。今更やれることは何もないのに、今ここで反省しても仕方ないのに、デクは何が言いたいのだろう。デクは弁が立つが、余計な口を挟むようなことはしないはずだった。

 ――売れる情報がまだあると、そう言いたいの……?

 あり得ない。自分の正体の他に誰も知らないような秘密、それも金になりそうな秘密など、あるはずがない。ノノラは必死に考える。竜鱗のダガーのこと、《魂鎮めの指輪》のこと。それくらいしか思いつかなかったが、竜鱗のダガーの情報が金になるとは思えないし、《魂鎮めの指輪》について教えるのは危険過ぎる。

 面と向かっての探り合いに経験の少ないノノラが無表情を貫くのは、そろそろ限界だった。それを察したようで、デクが言った。

「トーリョやグレムだって気が付いたんだ。どうせこの男も僕の存在には気が付いている。だんまりを決め込む必要はない。だから今ここで、君の口から、僕に教えて欲しいことがある」

 物問いたげな、困ったような、情けないような視線を、ノノラは上向ける。

「……君は、どうしても指輪を持ち帰りたいのかい? もしそうなら、その理由を、決意を、覚悟を、聞かせて欲しい」

 その問いに、ノノラはデクの思惑が何となくわかった気がした。デクは相応の覚悟を求めている。それと同じだけ、デクにも覚悟があるということ。

 デクは、ノノラが知らない情報を売れと言っているのだ。

 ノノラは口を開く。

「あたしは人であり物であり、同時に人ではなく物でもない。でも人とも物とも対等でありたい。人の営みと物の営みの両方に寄り添って、その尊厳を大切にしたい」

 よどみなく、決然と語る。

「人の本分、物の本分、そのどちらも貶めたくない。蔑ろになんかさせたくない。人と物との在るべき場所、在るべき関係を探していきたい。だから……この指輪の使い道は自分で決めたいの。たとえこの身を危険に晒してでも。それがこの指輪の意志を曲げた、あたしなりの義務だと思うから」

 ノノラはそこで口をつぐむ。意思を聞き遂げたデクは、それをとっくりと吟味してから、言った。

「よくわかった。君は自分の本分を見つけたんだね。その覚悟、確かに聞いたよ」

「……助けてくれるの?」

 か細い声で聞くと、デクは得意げに、しかしどこか達観したかのような声で言った。

「借りは返すって言っただろう? ……今から言うことを、一字一句その通りに繰り返してくれるかい」

 不思議な申し出だったがノノラはうなずく。いくよ、と前置きしてからデクが話し始めた。

「……世に聞し召すテシクミエハの血は絶えども、その意思は未だ絶えず」

 厳かな、宣旨を下す神官のような声音だった。驚きながらもその通り復唱すると、男が表情を変えた。

「権謀術数の末に、皇帝陛下リューティア=ミン=テシクミエハは義ある側近とともに亡くなられ、罪を着せられた嫡子サイハル=ガラ=テシクミエハはその肉体を失った。しかし忠ある呪術師の手によってサイハルの魂のみが救い出され、永らえるに至る。皇帝の座を奪ったキッタカ=ファヂ=ナーダミラハークの不義を暴かんとするも叶わず、呪術師の死とともにその行方知れず。しかしテシクミエハの名にかけて、必ずや身の証を立てて祖国へ舞い戻り、悪辣なる偽帝の謀略を白日のものとし、愛すべき民草を正しく導かんとすることを、今ここに宣言する」

 震える声で、ノノラは繰り返した。男は動揺を隠せずにいる。言い終わったとみて、ノノラは叫んだ。

「デク⁉ いや、えっと……?」

「……お前がその、サイハル王子だと?」

 男は縁なし帽を見てそう言った。やはり、デクの存在には気が付いていたらしい。

「そうだよ、って伝えて。ノノラ」

 茫然としながらその通りにすると、男は吹き出した。

「はっはっは! いいだろう、情報料としては十分だ。気兼ねなく指輪は持っていくといい! ただしその前に、真偽は確かめさせてもらうぞ」

 馬鹿にした様子の、しかしどこか期待のまなざしを浮かべる男に、畳みかけるようにしてデクが言う。

「呪術師の名前は、ティリオ=カダールナ。彼の真名を知るのは僕と、ともに暮らしていた義兄弟だけのはずだが、覚えがあるかな?」

 伝えると男は急に静まり返り、あっけにとられて固まったままのノノラに低い声で言った。

「二つ、教えることがある。一つ目、指輪は自由にするといい。我々に強奪する意思はなくなった。危害を加えることはないと誓おう。二つ目、《魂喰らいの指輪》だが、制御できる手段、例えば相応の呪物と呪術師さえいれば、命あるものの魂を動かすことができる。例えば魂を抜き取って殺したり、死体に魂を植え付けたり、とな。我々はその力をもって権力者を傀儡とし、政治の采配に食い込むことで勢力拡大を謀っていた。……以上だ」

 男はそれきり口を閉ざした。もう伝えることはないと、そういうことらしい。

 違約金ばかりかギルドの目的も引き出すことができ、さらに襲撃をしないとの確約、指輪の使い道まで対価として貰うことができた。本当の話なのだ。この場で話されることほど信憑性の高い情報もないが、その衝撃にノノラは未だ頭が追いついていなかった。逃げるように後退り、鉄扉に手をかける。

「……殿下を、頼んだぞ」

 鉄扉を開く瞬間、微かに聞こえた。その言葉は男が言ったものなのだろうが、男はそんな素振りもなく、無表情で座っている。ノノラの目にも哀愁は見あらわせなかった。

 ノノラは扉から走り出て、隠し梯子に取りつき、一段とばしに昇る。

 一度も振り返らなかった。



 市壁の外まで出て、街道を外れて茂みに飛び込むと、ようやくノノラはへなへなと腰を下ろした。息が荒く、動悸と無縁なはずの体が火照っているように感じた。縁なし帽を持ち上げてそっと目の前に置き、自分の腕を抱いた。

「……どうして」

 聞きたいことは山ほどあったが、何をどう聞いたらいいのか見当もつかない。結局、どうしてとしか聞けなかった。

 デクは寂しげに笑う。

「……いずれ話そうとは思っていたんだけどね、話したからってどうというものでもないだろう? 話せば役に立つ機会だったんだ。ちょうど良かった。普通に話しても信じてくれたかわからなかったし」

 デク、と言いかけて、ノノラは言葉を詰まらせる。

「……何て呼べばいいの?」

「デクだよ、今の僕は。何もできない木偶人形さ」

 言葉の重みをひしひしと感じた。自嘲気味な、何もかも諦めてしまっているような声。ノノラは大きく首を振った。

「何もできないなんてこと、ないでしょう。あたしと一緒に来てくれた。ダガーを完成させてくれた。迷うあたしを励ましてくれて、祈り方を教えてくれて、指輪を奪取してくれて……それでも、何もできないだなんて言うの?」

 ノノラはほとんど泣きそうだった。初めて会った時、木人形は名前なんてないのだと言っていた。自分がデクと呼んだ時、何を思っただろう。

「これから、どうするつもり? やっぱり祖国を目指すの?」

「帰るつもりはない」

 即答するデク、サイハル王子に、ノノラはうろたえる。

「……だって、さっき言ってたじゃない。国に戻って、権力を取り戻すって」

「その場しのぎの戯言さ。今の僕が戻ったってどうしようもない。在るべきものが在るべき場所に収まってしまった後なんだ。国の存亡、権力者の交代なんて人の世に幾度となく起こってきたけど、それを取り返した例なんてほとんどない。無謀なんだよ」

 そんなことはないと思ったが、ノノラが否定したとして何の励ましにもならない。ノノラは国の趨勢など気にしたこともなかったし、口を挟んだとしてそれこそただの戯言に過ぎないのだった。

 しかし、言えることがないわけではない。

「あの男の人、あなたを知っているみたいだった。指輪の使い道、魂を移し替えることができるって教えてくれた。……あなたの言葉を、信じているんじゃないの?」

「帝国の再興ともなれば、黒い仕事には事欠かない。僕に期待しているのはそうなんだろうけど、望んでいるのは金だ。他の方法でいくらでも稼いでもらうさ」

「あなたのこと、殿下って呼んでいたけど」

「……呪術師ティリオの名を知っていたようだから、彼の義兄弟が盗賊ギルドに話すなり、情報を盗まれるなりしていたんだろう。何かと手癖の悪い奴だったけど……まさかね」

「変装はしていたと思うよ?」

 言うと、デクは黙った。あの男が呪術師の義兄弟なのかどうか、その可能性を考えているのだろう。そのうち、大きくため息をつく。首を振れたら横に振っていただろうが、きっと、そうできないのをもどかしく感じているだろう。

 ノノラは続ける。

「それに、魂を手繰ることのできるこの指輪があれば、あなたは人の体を取り戻すことができるかもしれない。決して手の届かない話じゃないはずよ」

 その言葉に、デクは厳しい口調で言った。

「それが、君が考える指輪の使い道かい? ……死体に僕の魂を移し替えるだなんて、盗賊ギルドがやろうとしたことと何も変わらないと思うけどね」

「そうだけど、でも、何もないよりは、その……」

 言いよどむノノラに、デクは呆れたような、でも少し元気づけられたような様子だった。

「わかったよ。旅は続けてくれるんだろう? なら、何か策が見つかるかもしれないさ。でもね、僕はあんまり期待し過ぎないようにしたいんだ。幸いに寿命は尽きないし、気楽にいきたいんだよ。気楽にね。……思い詰めると、本当に気が狂いそうだったから」

 ノノラと出会う前は孤独に生きてきたのだ。しかも手足を動かせず、言葉を交わす相手もなしに、流されるままに流されてきたはずだった。

「そうね。気ままに、今まで通りに旅を続けましょう。……この指輪だって、そんな旅の中で見つけたんだし」

 ノノラは懐から一対の指輪を取り出す。もう隠しておく必要もないだろう。邪魔にならないように左手の中指と薬指にはめておく。そういえば、どたばたしていてどちらもちゃんと眺めていなかった。二人はしばし指輪の輝きに見入る。

 太陽の光の下で、《魂喰らいの指輪》は遠洋を思わせる紺碧、《魂鎮めの指輪》は叢林を思わせる深緑をしていた。夜に見た時はそれぞれ燃えるような緋色、紅葉のような赤褐色をしていたから、どちらも色変わりの宝石を抱いているのだ。しかし、《魂喰らいの指輪》にはまっているのはサファイアだろうが、《魂鎮めの指輪》の宝石には心当たりがない。デクも知らないらしく、相当に珍しい石なのだろうと知れた。

 片やツタを模した金のリング、片や炎を模した白金のリング。回転する台座と、その裏に刻まれた目の紋章。どれをとっても対と呼ぶにふさわしい、似通った意匠をしていた。一つの手に並べてつけておくことが、なんだか申し訳ない気分にさえなる。

 唐突に、指輪を見つめていたデクが呟いた。

「……僕はまた、自分の足で歩くことができるのかな」

 その声の先には、アクアマリンの眼した板状の木人形。初めて聞いた幼子のような泣き言に、ノノラは優しく微笑んだ。

「できるよ、きっと。あたしだって人と向き合うことができるようになったんだもの。そうだ、魂の出し入れができるようになったら、あたしの体を使ってみる?」

「やめてくれよ、それじゃあ意味がない」

「意味がない、って?」

 尋ねると、デクは赤くならない顔を赤くしたように見えた。

「……なんでもないよ」

 それだけ言って沈黙する。ノノラは首をかしげた。

「……でも、人形の体を作ってもらうっていうのはいいかも。そもそもあなたの魂の依り代として作ったものに宿るなら、誰も何も貶めなくて済むもの」

「また、雲をつかむみたいな話をするね。君の作者でも探すつもりかい?」

「旅人には無限の可能性が広がっている。まして、あたしたちは老いることがない。時間だって有り余っている。できないことはないはず」

「その間に国が滅んじゃってたりしてね」

「本末転倒って、そういうことを言うのね」

 少し前まで自分の身の振り方さえままならなかったのに、こうして二人でやたらとスケールの大きい話をしているのがなんだか馬鹿馬鹿しく、それでいて真実味がないわけではないのだから、冒険心をくすぐられるようでおかしかった。夢見がちな人間というのは、きっとこういう気分なのだろうと、ノノラは思う。

「もし自分の体が手に入ったら、初めに何がしたい?」

 明るい声で聞く。ここで話したことは端から叶いそうな、そんな予感がしていた。

「……そうだね、その指輪はつけてみたいかな。一つだけでいいからさ」

「《魂喰らいの指輪》と《魂鎮めの指輪》、どっちを?」

「その時決める。言い出した時、どっちをどっちにつけているかわからないからね」

 デクは気取った口調でそんなことを言う。ノノラは狐につままれたような顔をして、二つの指輪を見比べる。左手の、中指と、薬指とにはまった指輪。

「まあ、いいけど……」

 しかし、人の世に疎いノノラはその意味を知らないのだった。

「約束だよ」

 言いつつも、デクは動かない肩をすくめて、やれやれと笑う。

「次の行先はどうするんだい?」

 そうしていつもの質問をする。ノノラは驚いて、まじまじとデクを見た。

「え? まだ行かないって。一週間はぶらぶらするって決めたもの。あと一日残ってるから、街に戻る」

 港町に入ってから今日が六日目なのだった。デクは苦笑する。

「そういえば、そんなこと言ってたね。律儀なことで」

「折角換金できたのに、使わなくちゃ重たくてしょうがないもの。出るときにはほとんど文無しになるかもしれないけど、今までお金に困ったことなんてないし、何とかなるでしょう。しっかり旅支度を整えて、ついでに近くに面白そうな街がないか聞いてみようかな」

「……すっかり旅人だね」

 デクが言う。心底嬉しそうだった。

「今までも、これからも、ずっと旅人だと思うけど」

「人間の旅はいつか終わる。でも僕ら人形なら、そういうこともあるのかもね」

 含みのありそうな言葉だったが、何となく、デクはそんな旅路が長く続くことを願っているような気がした。

「うん」

 大きくうなずくと、ノノラは縁なし帽を持ち上げて被り直す。黒絹のお下げ髪は出したままにしておいた。

 立ち上がると、照り付ける日差しの下、草いきれはむせ返るようだった。がさごそと音を立てながら茂みを出て、街道に足を踏み入れる。荷馬車が一台、幌を翻しながら行き過ぎていった。人馬の通う道だ。時に獣の出ることもあるだろう。ノノラは気を引き締めて、街の方を臨む。

 赤土の広々とした街道が、うねりながら街へと続いていた。多くの足跡が降り積もっている道、その上に重ねる自分の足跡は、どんな意味を持つだろうか。

 市壁にぐるりと囲まれた街には、湿った海風が吹いている。それを補って有り余る人の熱気が渦巻いている。そしてその下には、黒々とした陰謀、社会の裏を統べる闇が人知れず横たわっている。その彩り、様々な表情こそが人の営みそのものなのだ、ノノラには無性におかしかった。

「行こう」

 ノノラとデク、どちらともなく言って、歩き出す。

 エメラルドとアクアマリン、二対の緑柱石の瞳は、どんな景色を臨むのか。

 いずれ、誰かが語り継ぐのかもしれなかった。


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盗人ノノラと木偶人形 八枝ひいろ @yae_hiiro

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