第5話 祈りの言葉
森を抜けると、かげりのない刺すような陽光にノノラは目をしばたいた。澄み切った空気、抜けるような蒼穹にも関わらず、黄金色の日差しにどこか枯れ木のもの悲しさを感じるのは、みずみずしい生命の息吹感じる森を踏み出したからばかりではなかった。
森の際からそう遠くないところに、幌付きの荷馬車が横倒しになっていた。古木の葉のような深い緑をたたえた幌は大きく破れていて、時折吹く風に情けなく揺らめいている。裂け目から見える荷馬車の中は割れた木箱がいくつかあるだけで、その断面はぼろぼろに朽ち果て、惨状の顧みられなかった歳月をありありと表していた。
「襲われたんだろうね」
縁なし帽から降る声に、ノノラはうなずく。
果たして、倒れた荷馬車の陰に、人だったものが転がっていた。
鳥に啄まれ、獣に噛み裂かれたのだろう、残っているのは土に汚れた骨だけで、その下にうっすら見える血の染みは、まるで死人がこの世に影法師だけ置き忘れてきたかのようだった。骨は大小あって、そのうちの一つ、小さなどくろがこちらを見上げているのを、ノノラはじっと見つめ返す。
長い時を経ながらも、事の顛末が目に浮かぶようだった。姿の見えない馬、折れた矢、折り重なった大人の骨と子供の骨。数からして家族だったようだ。両親が子をかばうようにして、寄り添ったまま骸になったとわかる。森に潜んでいた盗賊が通りがかった荷馬車を襲撃したのだ。馬車が通るような整備された道ではないから、逃げる間もなくやられたに違いない。矢を射かけ、荷車をひっくり返し、馬を捕えて襲い掛かる。荒っぽいが、まず足を潰して襲いかかるあたり連携と手際のよさが窺える。ひょっとして荷馬車がこんな荒れ道を通ったのも、近くの街道に工作があって、おびき出されたのかもしれない。
そんな周到な盗賊たちだから、金目のもの、役に立ちそうなものが残っているはずもない。しかしノノラは立ち去ろうとせずに、自分の顔よりも一回り小さいしゃれこうべに、そっと手を乗せているのだった。
「君だって旅の盗賊だろう? そんなもの放っておいて、さっさと街を目指すのが筋ってもんじゃないかい?」
「そう、なんだけどね」
板状の木人形、デクの言葉に、ノノラも我ながら呆れている風だった。
「なんか、そんな気分じゃないの。前にもこんなことがあったんだけど」
「……僕だって見捨てていくのは忍びないとは思うけどさ、旅の掟、盗賊の礼儀ってのは生き死にっていう人生の趨勢を決めるもので、そう簡単に歪めていいものじゃないでしょ? 前々から思ってたけど、君、あんまり盗人っぽくないよね。そんなんで……」
「よく生き残れたね、でしょう? あたしだってそう思うんだもん、言われても仕方ないよね」
言葉を継いだノノラは悪びれるでもなく、清々しい潮の香する風にお下げ髪を揺らしている。一つため息ついて、どくろの前に座り込んでから、こう切り出した。
「森を歩いている間ね、だんだん思い出してきたの。……ミミラのこと」
「左肩に刻まれた名前だよね。何かつらい思い出があったみたいだけれど」
「うん。行き倒れていたところを介抱したけど、結局助けきれなかった、あたしが人の営みに疎いせいで死なせてしまった、女の子。あのときどうして助けようとしたのか、自分でもわからなかったけど……今ならわかる」
瞳は強い光をたたえながらも澄んでいて、柔らかい新芽の若草色をしていた。擦り切れた黒革の装束はものものしい武人のそれだが、綿毛のように白く、丸みを帯びた目鼻立ちのノノラがまとえば、喪に服する少女の居姿に見えなくもない。
「あたし、ミミラの名前を知らないはずなの」
「どういうことだい?」
「本人に聞いたんだと思ってたけど、違った。ミミラはあたしのことをお姉さんだと勘違いしてて、それに便乗してたから名前を聞けなかったの。……死ぬ間際に尋ねたけど、答える前に逝ってしまって……」
「え? でも、ミミラって名前なんだろう? 肩に傷までつけて、君が覚えようとしたのは」
デクは当惑した様子で尋ねる。知っている名前を知らないと言うのだから、当然のことだ。
「前に言ってたよね。知りもしないはずの名前を覚えていたりしないか、って」
「……そういえば、言ったね」
言葉を弄することができる物には二種類あって、一つは長きにわたって知性や意思、生命の鼓動と触れ合うことで自我に芽生えた物、もう一つはデクのように人間の魂が宿った《魂宿り》だ。ノノラに人としての記憶はないから前者なのだろうが、もしかして人の魂に感化されることもあるかもしれないと、デクが言っていたのだった。
「ミミラのお姉さん、ノノラって名前だったみたいなの。声も一緒だって、間違えるわけないって、ミミラが言ってた」
言うと、その意味するところにデクは興味をそそられたようだった。
「……自分にはミミラの姉、『ノノラ』の魂が宿っていて、彼女の人としての心が、君に憐憫の情をもたらしている、と?」
「たぶん、だけど」
「うーん、あり得ない話じゃないと思うけど……」
デクはしばし黙り込んでから、恐る恐る口を開く。
「それなら、ノノラって名前は、そのお姉さんのものなのか、それとも、君はもともとノノラを名乗っていたのか、どっちなんだろうね」
「あたしも、同じことを考えてたの。どこまでが本当のあたしなんだろうって。この意思は、心は、魂は、借り物なのかもしれないって……」
言葉尻はかすれて消える。しかし腰の鞘に手を触れて、竜鱗の収まったくろがねから勇気をもらうと、大きくかぶりを振った。
「……でも、そんなのどっちでもいい、関係ないんだって、気付いたの。……このダガーの、自らの意思を失ってでも完成させて欲しいって覚悟は、たとえキラタさんの借り物だったとしても、格好良かったもの」
「そうだね。竜はやたらプライドが高いし、自己犠牲の精神なんて持ち合わせているとは思えない。その剣の意志は多分に刀匠の影響が大きいはずだ」
まるで竜を見てきたかのような物言いに少し引っ掛かったが、気にしないことにしてノノラは続ける。
「それに、変わることは怖いことばかりじゃないってわかったから。……ううん、むしろ生きているんだって思えて、嬉しかった」
「と、言うと?」
「あたし、飢えとも渇きとも無縁だから、何もしなくても生きていけるの。それこそ、荒野の真ん中で突っ立っているだけでも……。それに、あたしがいなくても人の世は勝手に回っていく。あたしにとって、生きるっていうことは惰性でやってることで、人や物と話すのもただの気まぐれ。意味なんてないって思ってた」
「……なるほど、僕には耳の痛い話だね」
ノノラと同じ人形でありながら、文字通り手も足も出ないデクは、なぜか少し愉快そうな声でそう言った。
「でも、あたしが自分から遠ざけていただけだった。ミミラのことがあって、他人を変えてしまうほど深く関わり合うのを、無意識に遠ざけていた。ひとところに留まらず、流れ、流されるままに自分を清く保つ、水のように生きてきたの。あなたと会うまでは」
「なんだい、それは。回りくどい口説き文句かい?」
「違うったら。ただ、同じく人形で寄る辺のないあなたは連れていくことができたって、言いたいだけ。……でも、おかげで人との交わり、物との交わりが大事なことだってわかったの。自分のありようを考えて、見つめ直して、変わっていける機会。変わること、昨日とは違う自分になること、それがあたしの生きることだって思えたから」
「そうやって君は自身の首を絞めて、君自身という存在を脅かしていくのかもしれないよ? ……かつて、左肩に傷をつけたように」
いきなり低くなったデクの声は、お腹の底の方にずしりと響く。同時に、刃をこすり合わせたような、身の毛のよだつような異音が、頭に蘇った。
「……確かに、ミミラを亡くした後、天衝く峰の頂で、あたしは死ぬつもりだった」
言うと、眼前のどくろが不敵に笑った気がした。風が一瞬静まり、デクも沈黙を守る。ひとときの空白、断絶、静寂が場を支配した。
「ミミラか、それともノノラかが止めてくれたんだと思う。だから傷を残すだけで終わった。ううん、本当は単に怖かっただけかもしれない。あの時、生きていたいって強く思ったもの。天と地のはざまで、あたしは脆く、儚く、危うい存在だった。でも、生きているってそういうことでしょう?」
「……そうだろうね」
デクは一つため息をついて、静かに笑う。相も変わらず表情の読めない顔をしているが、今日は一段と何を考えているのかわからない声音をしていた。
説教めいたことをするのは苦手だと言っていたのを、ふと思い出す。
「デク、あなたはどう思っているの? 自分にとって、生きるってこと」
「あんまりきつい話を振らないでくれよ」
おどけた口調で言うけれど、取り繕っている風なのがかろうじてわかった。デクの方も、ノノラがいたたまれない様子なのを察したらしく、気まずそうに唸る。
「元は人間とはいえ、君よりはよほど物に近い存在だ。でも、僕のすることと言えばもっぱら考えることと話すことだからね、現状にさほど不満はないさ。これで本でも読めれば言うことないんだけど、まあ高望みしても仕方ない」
一度に言い切って、間をおいてから付け加える。
「だから、もし君が人間に近づきすぎて、僕の声が聞こえなくなるようなことがあったら、困るってわけさ」
「そんなことがあり得るの?」
「今の君だって、そうそうあり得ないような存在だよ?」
「そうかな。でも、それなら心配いらないでしょう?」
「え?」
虚を衝かれたらしく、デクは柄にもなく頓狂な声で聞き返す。
「あたしが人間になれるなら、きっとあなたも人間に戻れるはず。もしもそんなことになったら、探してあげるから。その方法を」
「……期待していいのかい?」
聞かれて、ノノラはもちろんと請け負った。
「ただ、借りは高くつくから」
「うへえ、盗人なんかに借りを作ったら、どうなることやら」
「まあ、身ぐるみ剥がすじゃ済まないかもね」
デクの冗談にノノラもそんなことを言うと、二人して笑う。乾いて消えかけた血だまりと薄汚れた骨たちの傍らに、無邪気な声が響いた。
「弔っていくのかい?」
いつの間に日は傾いて、たなびく薄雲が紫煙のように漂っている。立ち上がり、服についた砂を払うと、少女はゆっくりうなずいた。
「埋めていこうと思うの。都合のいい道具はないけど、幸い時間と労力は有り余っているもの」
「でも、弔い方なんて知っているのかい?」
「だから、あなたが教えてくれるんでしょう? 冥福を願う、祈りの言葉を」
「まあ、そうなんだけどさ」
提案を先読みされて、デクはきまりが悪そうに苦笑する。
「ありがとう」
「そうするのが当然みたいな言い方しておいて、礼は言うんだね」
「……あたし、何も言ってないけど」
「え?」
ノノラは足元を見やる。子供大の頭蓋骨は、どうやら少女の物だったらしい。ただ、それきり声は上げなかった。ノノラはかがみこんで、もう一度なでてやる。砂を被った骨はざらざらしていて、冷たい。
「……君の声に似てたけど、この子も姉妹かな?」
「そうあちこちに居るわけないでしょう。それより、早く教えてよ」
「そうだね。僕の知ってる葬儀がこの人たちのそれと一緒かどうかわからないけど、まあ、やらないよりはいいかな」
「お礼言われたんだもの、あたしは見様見真似だってやるからね」
「はいはい、それじゃあ……」
ノノラはデクの指示のままに、ナイフで土をほじくり始める。もともと穴を掘るような道具ではないから突き崩すのがせいぜいで、土を掻き出すのはもっぱら素手だ。それでもめげずに掘り返しているうちに、あたりは暗くなる。
今日は月のない夜だった。星たちは気ままに空を彩り、各々の拍子でまたたいている。ノノラは星明かりに目を凝らしながら黙々と手を動かし、デクも呆れるくらい懸命に作業を続けていた。
ようやくそれなりの大きさの穴ができて、まずは一人分の骨を埋めることにする。少女の骨に触れた瞬間、何か温かいものが指先に伝ってきた気がして、ノノラは驚いた。
「どうしたの?」
デクが聞いてきたときには、その温もりは消えている。ノノラは小さく首を振って、なんでもないとだけ呟いた。
「じゃあ、僕に続けて言ってね。リ・タキット・マスール……」
そうして、祈りの言葉を紡ぎ始める。その意味するところはわからないが、手を組んで、目を閉じて、ノノラは一心に祈る。
ノノラの肌はうっすらと燐光を放ち、宵闇の中、敬虔な祈り捧げる横顔が黒装束から浮かび上がっている。その間、ひょっとしてこの少女の魂も自分に宿ることがあるのかと考え、指先の温もりを思い出しては、穏やかな心持ちで、祈りの言葉をささやいているのだった。
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