第4話 傷

 静かにたゆたう水面の中に、春の香りをはらんだ木漏れ日が染み通っていく。こんこんと湧き出る水は硝子のように澄み切って、森の色を映し、淡い緑に輝いていた。

 水底に沈む、色の褪せた倒木。皮がめくれてむき出しになった生木は目の覚めるような青白さで、およそ生命の息吹を感じさせない無機質な荘厳さをそなえている。その木肌と同じ色をした指が、透き通った水に触れてさざ波を立てた。

「ずいぶん綺麗」

 呟いて覗きこむ眼は、泉の水を凍らせたかのような深い緑をたたえている。すくい取った水の匂いを嗅ぐと、ほんの僅か、甘い花の蜜を溶かし込んでいる気がした。

「特に変なものも混ざってなさそう。これだけ綺麗な水なのに、人も動物も寄り付かないのが不思議だけど」

「飲んだらお腹を下すのかもね。まあ、僕らには関係ないさ」

 頭上から振ってくる声は、いつだって偉ぶっているように聞こえる。縁なし帽に縫い留められた木人形はふざけて王子様を自称しているけれど、万が一には本当かもしれないと思わせるところがある、そんな声だ。

「それもそうね。浴びるくらいなら大丈夫だと思うし」

 そう言うと、ノノラは縁なし帽を持ち上げて、岸辺にそっと置いてやる。後ろ手に束ねた髪をほどいてから、ぼろコートを脱ぎ、革製の胸当てを岩に立てかけた。それから、体のあちこちに括り付けた刃物を一つ一つ取り外しては、畳んだコートの上に整然と並べていく。

「え、ちょっと、何してるわけ?」

 ノノラが肌着に手をかけたところで、デクが頓狂な声を上げる。

「何って……服を脱いでるんだけど」

 そのまま上裸になったノノラは、それがどうしたとでも言いたげに革ベルトの金具を外し始める。その様子にデクはすっかり慌てふためいていた。

「な、何考えてるのさ! 隠す素振りもなく……」

「え? だって、他に誰もいないって、散々確かめたばかりじゃない」

 首だけ回して振り向くと、むき出しの肩口に下ろした髪がはらりとかかる。黒絹の髪は長らく結んだままだったのに、流れ落ちる滝のように滑らかだった。

 生き物との遭遇を好まないノノラは、自ら進んで水場に赴くようなことはめったにない。今だって泉の周りを一周して、足跡や動物の糞、枝の折れた跡なんかがないかと念入りに調べたので、こうして無防備でいられるのだ。

 しかし、デクの言いたいのはそういうことではないらしい。

「誰もいないって、僕が見てるじゃないか! 僕は首を回せないし、目も閉じられないんだよ?」

「見ててもらわないと困るってば。もし誰か来たら教えて欲しいし」

「そうじゃなくて、もう……君にもちょっとは恥じらいってものが……」

 そこまで言って、もごもごと口ごもる。ノノラはしばらく首をかしげていたが、ふと思い当たって、聞いてみる。

「もしかして、照れてる?」

「当たり前じゃないか! って、うわっ!」

 歩き出した拍子に、ノノラの腰からズボンがずり落ちる。一糸まとわぬ姿で歩み寄ると、デクは言葉にならないうめき声を上げた。

「ふーん、人形なのに?」

「だから今は人形だけど、僕はもともと人間だってば……」

「デクのことじゃなくて、あたしのこと。作り物、人形の体なのに、何を恥ずかしがることがあるの」

 裸を見たり見られたりするのが恥ずかしい、という気持ちが存在していることは知っている。しかし、命の営みから外れるノノラには、それを実感として持っていないのだった。

 デクはやれやれとため息をついた。

「君は自分が綺麗な少女の姿をしてるってこと、少しは意識した方がいいと思うよ……」

「さんざんそれで苦労してきたんだもの、わかってる。だから人目に付くところでは男装してるじゃない」

「それはそうだけど、なんというか……」

 デクは言葉を濁す。一方でノノラは思いついたことがあって、内心にやりと笑った。

「……それより、どうもありがとう」

「ありがとうって、何が?」

「綺麗だって褒めてくれて」

 ほころばせた顔を近づけて、ささやくように言ってやると、デクは息を詰まらせてすっかり何も言わなくなった。もちろん人形としての表情は変わらないが、人間だったら顔を真っ赤にしているのだろうと、ノノラにはわかった。

 いつもからかうのはデクの役回りだったから、なんだか新鮮だ。デクがいつもこんな気分で自分をからかっていたのかと思うと複雑だが、悪戯心をくすぐられるこの感覚は確かに病みつきになりそうだった。

 しかし、慣れないことをしたせいで、少しばかり度が過ぎたらしい。

「……流石に怒るよ?」

 呆れたようにデクが言う。取り繕ってはいるがそこそこ本心で言っているらしくて、ノノラは驚いた。凍り付いた表情、飄々とした態度の裏に隠れている、デク本来の人となりが垣間見えたような気がした。

「ごめんなさい」

「……まったく、今日ほど人形の体を恨めしく思ったことはないよ」

 その言葉の意味は気になったが、あまり問いただしても嫌われそうだったので、やめた。

「でも、見張りはやってもらうからね。悪いけど、万が一のことがあれば取り返しがつかないし」

「わかった、わかったよ。旅のしきたりならしょうがないさ」

「ありがとう」

 苦笑いの声を漏らしたデクに微笑みかけると、縁なし帽を再び岸辺に横たえて、ノノラは泉に入っていく。

 間近で見れば水はいっそう透き通って、冷え切った体に生温いその手触りさえなければ、気が付かないのではと思うほどだ。ぱしゃりと水面をすくい上げると、散ったしずくは銀に輝き、青白い肌にぶつかって鈴の音を鳴らす。まるで水晶を鋳溶かしたかのようだと、ノノラは思った。

 水がこんなにも清らかなのは、湧き上がるに任せて留まることなく流れていくからだ。そう考えると、水というのは不思議な生き方をしている。人も物も、流れれば流れるだけ別色に染まり、元の自分ではいられないのに、水はひとところに留まるとかえってよどみ、濁ってしまう。

 では、自分はどうだろうか。

 人の営みに交わるまいと、流れるままに暮らしてきた。でも、思い返せば物の営みも、常に人の営みに寄り添って在った。人が使うための物なのだから、考えてみれば当たり前のことだ。物の営みに生きようとすると、いつも人の営みと交じってしまう。それが嫌で、また流れ流される生活に戻ってしまう。

 そして結局、この体には傷の一つも負わずにきている。新しい出会いがあるたびに古い出会いを忘れてしまって、心までまっさらのままに生きている。

すると、自分の営みは人でもなく物でもなく、水のそれに近いのかもしれない。生まれたままの姿でただ流れ、寄る辺を持たないことで自分を保とうとする、水の特質に。

 腕に振りかけた水が、肌に染みた土と煙の匂いをさらっていく。それでもひとたび水面に戻れば、ほのかな花の香をまとって、何事もなかったかのように小川の方へ下っていく。その行く先を目で追いながら、自分はどこへ下っていくのだろうと、つい考えてしまう。

「あれ、ノノラ?」

 後ろからの声に、はっとなって振り向いた。

「誰か来た?」

「違うけど、どうしたの、その傷」

「傷?」

「肩のところ。そっちじゃなくて、左肩の、先っぽのあたり」

 言われるままに、首を伸ばして確認してみると、確かに刃物でひっかいたように肌が削れ、ざらざらした断面を晒している。かなり深い傷跡で、ノノラの体質では永遠に治らないはずのものだった。

「本当ね。でも、いつの間にこんなもの……」

「覚えがないのかい?」

「うん。戦闘で負ったにしては、変な傷だし……」

 その言葉の通り、傷跡は単調なものではなく、曲線と曲線が交わったり、点が打ってあったり、震えて縁がぎざぎざになっていたりする。

「文字、なのかな。ねえ、ちょっと読んでみてくれない?」

「なんだ、字は読めないのか」

「うるさい。物の分際で読み書きできてどうするの」

「ごもっとも」

 泉から上がって、傷を見せてやる。デクはううむと唸ってから、言った。

「汚い字だなあ。名前っぽいけど、作者の銘とかそんなだろうか」

「作者って、あたしを作った人ってこと? あたしみたいな人形を作る腕がありながら、こんなに下手な字を書くのかな」

「それもそうだね。あれ、ノノラって書いてある? いや、似た名前だけど違うな、これは……」

 不思議な傷跡とにらめっこをしながら、デクは悩んでいる。その間、ノノラはなぜか胸の内がざわついて、断崖に立っている自分を見下ろしているような、奇妙な感覚にとらわれていた。

「……『ミミラ』かな」

 ――ミミラ。

 その名を聞いた瞬間、ノノラは世界が歪むのを感じた。

「ちょっと、どうしたの!」

 デクの呼びかけも耳に入らずに、肌を切り刻む冷たさと、体の芯から暗雲のような何かがこみあげてくるのを感じて、無意識のうちに震えが止まらなくなっていた。

 ――なんなの、これ……? 

 ミミラという名前が何を意味するのか、ノノラは思い出せなかった。それでも、体は、心は、その名前を知っている。

 目の前を、白い風が駆け抜けていく。うずく傷跡、感じるはずのない吐き気。悪寒と、焼けるような痛み。

 自分の肩を抱き、不規則な荒い息をしながら、ノノラは胸に吹き荒れるこの嵐が、底知れぬ悲しみであることを悟った。

「……何か、悲しい思い出があるんだね」

「わかんない、わかんないの!」

 膝を折り、腰を抜かしてへたりこんでいるノノラは、駄々をこねる子供ようにわめき散らした。

 こんなに悲しいのに、人形の体では涙の一つも出てこない。こんなに悲しいのに、『ミミラ』が誰なのか思い出すこともできない。そんな自分が恨めしくて、空しくて、余計に悲しみがあふれてくる。そのやり場がわからずもてあますうちに、滞った感情は内側から自分を侵し、さいなんでいく。

「どうして、なんで、思い出せないの……大事なこと、忘れちゃいけないことだったはずなのに、どうして……」

 人であったなら、決して忘れるはずのなかったこと。それを覚えていないのが、とても罪深いことに思えた。

「……忘れてなんか、いないじゃないか」

「……え?」

 取り落とした縁なし帽の上で、アクアマリンの瞳がまっすぐこちらを見つめていた。

「君のその傷跡は、君のその悲しみはなんだい? ノノラ。君はミミラという名前に、まさしく心を動かしているじゃないか」

「でも、本当に思い出せないんだもの。その名が誰なのか、何が起こったのか、なぜこんなにも悲しいのか。あたしのような人でなしは、そんな大切なことだって長くは覚えていられない……」

「人間だってそうだよ」

 何でもないことのように、軽い調子でデクは言う。その声音は気取っているようにも、呆れているようにも、薄くはにかんでいるようにも聞こえる。しかし不思議と心の奥にすっと差し込んでくるような、聞いていて落ち着く言葉だった。

「人間だって忘れてしまう。いや、むしろ人間は思い出を作り変えてしまう、と言ったほうがいいのかな。自分ではその時のまま覚えているつもりでも、時間が経つにつれて細部はおぼろげになり、知らず知らずのうちに美化されたり、とるに足らない陳腐なものにおとしめられたり、たった一言の教訓に成り下がってしまったりする。ねえ、ノノラ。それは時として忘れてしまうよりも恐ろしいことなんだよ」

「忘れてしまうよりも……恐ろしい?」

「そう。でも君は、ノノラは、ありのままの気持ちを覚えている。そのときの気持ちを心と体に刻み付けて、本能として、忘れ得ぬものとして、間違いなく覚えている。それをどうして思い出せないなんて言うんだい?」

「それは……」

 体の震えは未だ治まらず、寒気も、傷の疼きも、止むことはない。ただの錯覚、幻想などではあり得ない。

 ――この感覚は、記憶、なの……?

「人の領分、物の領分、それを違えてはいけない……」

 口をついて出た言葉が、体を一巡りして収まるところにすとんと収まるのを感じた。思えば、そう考えるようになった根拠、理由、きっかけは、今まで意識したこともなかったのだった。

「ミミラ……」

 言葉にしてみると、その名は呼ばれることを待ち焦がれていたのだとわかった。その響きはあまりにいとおしく、ずっと知りたいと思っていた、かけがえのないものだった。

「ごめんね、ミミラ……やっと、やっと、わかったよ。あなたの名前……」

 涙が流れないことなど、もうノノラは気にしていなかった。魂の揺り動くままに、清い泉のほとりでノノラは泣いた。武器も装具もない生まれたままの姿で、体を震わせ、悲愴な声を上げながら、確かに泣いていたのだった。

 いつしか日も高くなっていて、遮られることなく降り注いだ日差しが、泉の底をあららかに照らし出していた。淡い緑の輝きも薄れ、沈んだ倒木の生々しさが浮き上がるようだった。

 ノノラの髪にも、肌にも、暖かい日が差していた。柔らかく照り返す肌はかすかに赤みを帯びて、可憐な艶めかしさをそなえている。人ならぬ少女の、人よりも命を感じさせる幻想的な居姿。それを、涙の色したアクアマリンの瞳が、穏やかに見守っていた。



「これでよし、と」

 髪を束ねてから上体をひねって、装具に違和感がないことを確かめる。最後に縁なし帽を持ち上げてから、ぽすんと頭に乗せた。お下げを帽子にしまうか逡巡して、結局出したままにすると、泉の方を見やる。

「結局、誰も現れなかったね」

 頭の上から、デクの声が降ってくる。

「そうね。なんというか、あたしたちにおあつらえ向きの場所、って感じだった」

「確かに。ひょっとして、僕らがここを去ったら消えて無くなっちゃったりするのかもね」

「まさか」

「夢がないなあ」

 そう言って、デクは笑う。

「はいはい、どうせ血も涙もない人間ですよ」

 ノノラも笑ってそう言うと、デクの方は驚いた風だった。

「それは違うと思うけど」

「えっ?」

 こちらも驚いて聞き返す。デクはもったいぶるように間を置いて、言った。

「……だって、血も涙もないのはそうだけど、ノノラは人形じゃないか」

「ちょっと、そっちじゃないでしょ。もう」

 頭上を睨み付けると、デクは相好を崩す。

「ごめんごめん、突っ込んで欲しかったのかと思って」

「ちょっとは期待したあたしが馬鹿だった」

「ごめんったら。一応釈明しておくとだね、僕はそういう説教めいたことは好きじゃないんだ。本当は。さっきだって我慢したんだよ、こう、小恥ずかしくなってくるのをさ」

「まあ、それはありがとうって言っておくけれど……」

 はあ、と大きなため息をつくと、喉の奥でくすぶっていた感情の残り火が煙となって流れ出ていく。忌々しいが、独りで悶々とするよりデクにからかわれる方がよほど気が紛れるのだった。

 それに、ノノラの方だって、意図せずとはいえ自分を人間と呼んだことに、我ながら驚いたのだ。

「……ねえ、あたしって、人と物と、どっちに近い存在なんだろう」

「苦手だって言ったそばからそういう話題を振るかなあ」

「血も涙もないんだもの、意地悪でも仕方ないじゃない」

「根に持つねえ。まあいいけどさ」

「言ってみただけだってば」

 ノノラが唇を尖らせると、デクは少し間をとって考える。話し相手はお互い一人なのだから、なんだかんだ言いつつも応じてくれる。

「結局、君がどうしたいかだと思うけど。人として生きたいのか、物として生きたいのか。でも、敢えて言わせてもらうなら、君ほど人間らしい存在もないと思うね」

「あたしが、人間らしい? どうして?」

「心当たりはないの? まあ、時々抜けてるところがあるとか、一人を寂しく思うところとか。人間らしいというよりも、子供っぽいの方が近いかな」

「えーっ、あたし、そんな風に思われてたの……?」

 冗談を言う口ぶりではなかったので、ノノラは割とがっくりきてしまった。しかし、デクは構わずに続ける。

「それと極めつけは、ただ一度の失敗に向き合わないまま長いこと引きずって、そのままにしているところかな」

「……手厳しいのね」

 ノノラも、そう言われては苦笑いで済ませられなかった。

「正直に答えて欲しかったんだろう? まあ累計じゃわからないけど、君に比べたら少しは年の功ってものがあるからさ」

「……失敗と向き合う、か」

 ミミラのことは、結局はっきりと思い出すことはできずにいる。しかし、自分の中に沸き起こった悲哀、後悔、自責の奔流から察するに、きっと自分のせいで酷い目に遭わせてしまったのだろう。それをきっかけにして、人の営みに交わってはならないと、長い間、知らずして自分に戒めを課してきたのだ。

 けれど、ノノラが引き起こす不幸を知っていたとして、ミミラはノノラと一緒にいることを拒んだだろうか。

 思い出せない今となっては、何もわからない。答えを見つける機会は、とうに失ってしまったのだから。

 でも、これから確かめることはできる。たとえそれが過ちだとしても、答えを探そうと苦心することがミミラの記憶と向き合うことであり、一種の贖罪でもあるように思えた。

「ねえ、デク? 次の街に着いたら、特に用がなくても一週間くらいはぶらぶらしてみようと思うのだけれど、どうかな」

「いいんじゃない。すぐに飽きると思うけど。まあ盗人なんだから、口約束の一つや二つくらい構やしないよ」

「なんで守らない前提なのよ」

「生き方を変えるのって、簡単なことじゃないから。僕なんかは、嫌でも変えざるを得なかったけど」

「……そうね」

呟いて、左肩をそっとさする。この傷跡も、デクが人形になったのと同じように、生き方を変えざるを得ないきっかけだったのだろうか。

 傷の疼き、重みに思いを馳せながら、ノノラは言う。

「まあ、なるようになるかな。幸か不幸か、時間はたくさんあるんだし」

「そのうち、今日の決意も忘れちゃったりしてね」

「それならそれでいい気もする。落ち着くべきところに落ち着いたってことだから」

「そうそう、気負いすぎる方がかえってうまくいかないと思うよ。気楽にいこう、気楽に」

「なんかデクが言うと説得力がある」

「微妙だけど、褒め言葉ととっておこうかな」

「じゃあ、そういうことで」

 二人して微笑んで歩くうち、もう泉は見えなくなっていた。

「さて、行先はどうする?」

 デクが聞く。ノノラは四方八方に広がる木々を見つめながら、答えた。

「とりあえず、森を出てから考えればいいと思うけど」

「違いない」

「決まりね、ちょっと見渡してみようかな」

 ノノラは腹に巻いたロープをほどくと、手ごろな木に放って登り始める。しばらく枝葉をがさがさ揺らしているうち、視界が開けてきた。

 土と湿った葉を一緒にした、むせ返るような森の匂いが薄らいで、微かな潮の香が風に乗って流れてくる。森の果ては臨めないが、さほど遠くはないのだろう。

「……海が近いみたい。潮の匂いがする」

「本当? 僕は見たことがないんだけど」

「あたしもしばらくぶりな気がする。折角だし、行ってみる?」

「ぜひ行きたいね。海かあ、楽しみだなあ!」

 人のことを子供っぽいと言っておきながら、童心に返ったように嬉しそうなデクがおかしくて、取り付いた枝から落っこちそうになる。

 ――ミミラは、海を見たことがあったんだろうか。

 重なり合う木々の向こう、彼方の水平線を探しつつ、ノノラはそんなことを考える。すぐ真横から、どこか懐かしい、小鳥のさえずる声が聞こえてきた。

 そのさなか、ノノラは涙のないはずの目元を、自分でも気が付かないうちに、そっとぬぐっていたのだった。

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