第3話 忘れ得ぬもの
白い風が駆け抜けていく。
氷雪を容赦なく叩きつけるそれは、びょうびょうと唸り声を上げ、雪の大地に爪立てて
削りとり、巻き上げる。草木どころか石くれの一つも見当たらぬ山肌は、押し固められ、風に削られた万年雪で鏡のような銀色を晒していた。
雪と風の住まう霊峰、およそ生命の営みと外れた、色のない世界。
にもかかわらず、脚を雪に埋めて行くものが、ひとりあった。
あるいは、だからこそ、と言うべきだろうか。
エメラルドの双眸で眼前に舞う雪を透かし見る、少女の形をした人ならぬもの。誰が呼んだのかノノラと名乗る人形は、素肌に霜が張らないよう両手両足に厚布を巻いているものの、あとは革製の胸当てと、こちらも革でできたぼろコートという、極寒の秘境にはそぐわない軽装で步を進めている。
実際、ノノラはほとんど何も考えず、ただ機械的に足が動くのに任せていた。少女のあどけなさを模す丸みある顔に浮かぶのも、生気のない無表情。幽鬼のような不気味さを醸す一方で、作り物としての美しさが際立っていた。
もちろん、人形の身とはいえ危険は尽きない。寒さも息苦しさもこたえないが、体が凍りつけば動けなくなるし、氷で隠れた谷に落ちれば命はない。加えて、払っても払っても、縁なし帽の上に雪が降り積もり、背負う荷に霜が育っていって、ずしりとのしかかってくる。ガラスのように硬い氷でできた斜面は鋲付きブーツでも滑りやすく、さらに氷雪を抱き込んだ重い風が転げ落とさんと吹き付けてくる。気を抜けば奈落の底へ真っ逆さま、となるのは目に見えている。
いつ果てるともわからない旅路は、無謀と言うほかなかった。
しかしその無謀さをノノラはつとめて考えないようにして、ただ淡々と前に進む。意思を持たない機械に、物に、成り下がろうとする。
まるで、人ならざるものとしての自分、物の理に生きる自分という存在、あるべき姿を、自身に刻み付けようとしているかのようだった。
びゅおおおっ、と白い風があざ笑うように鳴き声を上げる。その声は長く尾を引いて、あちこちにこだましていった。
「……冷たい」
ノノラはそれだけ呟くと、まぶたに張り付く霜をぬぐって、何人たりとも訪れることない頂へと、また一歩踏み出したのだった。
寝食を必要とせず、また動物の贄となることもないノノラは、旅路においてひとところに留まることはない。休みなく連綿と続く旅が生業と言っていい彼女の歩みは、一滴の水もない砂漠、獰猛な獣の住まう森、月明かりのない夜ですら止めること敵わない。
しかし、とある山麓に抱かれた樹海で、ノノラの足を止めるものがあった。
鬱蒼と茂る枝葉の暗がりに、木の根が蛇のようにのたくっている。樹木が光を独占しているからか下草は少ないが、雪融け水が地下に流れ込んで水脈を成しているのだろう、土はどこかしこも湿っていて、緑の鮮やかな木の葉が絨毯を作っていた。それを蹴散らかして倒木を飛び越えると、樹液をすする蛾が褐色の翅をひらひらさせて飛び立っていく。
蛾の羽ばたきにつられて木の向こうを見やると、ノノラはそれに気が付いた。
木の葉に埋もれるようにして、横たわる少女の姿。
暗闇の中でもはっきりわかる金髪が、土に汚れながらも鈍い光を宿していた。投げ出されたむき出しの腕は細く、青白い。人里離れた森の中だというのに、装いは旅のそれとは程遠く、着の身着のまま街を出てきたかのようだ。さらにはあちこち破れ、擦り切れ、ところどころ血がにじんでいる。誰が見ても行き倒れに相違なかった。
とはいえ物の理に生き、わけても旅の盗人であるノノラにとって、行き倒れの旅人などは金目の物を漁りこそすれ、助ける義理も人情も持ち合わせていないのだった。少女の様子では金品を身に付けているはずもないので、見なかったことにするのが賢明というものだ。
しかし何を思ったのか、ノノラは足を止めて少女のもとに駆け寄った。
近づくと、さやさやと枝葉の揺れる音に混じって小さな吐息が聞こえた。よく見れば、うつぶせに倒れこんだ体がわずかに上下しているのがわかる。頭からつま先まで素早く検分したところ、大きなけがもなさそうだ。水や食料どころか袋の一つも持っていないので、飢えて倒れたのだろう。
軽い体を抱き上げると、ふっと甘い香りが立ち上って、消えた。ノノラは眉を上げたが、それきりすんすん鼻を鳴らしても何も匂わず、かといって気のせいとも思えないのだった。
「おねえ……ちゃん……?」
薄く、ひび割れた唇が、かすれた言葉を紡ぐ。
顔は蒼白で、擦り傷と土の汚れが浮き上がって見える。まるでキャンバスに絵の具を塗りつけたようだ。痩せて骨ばってはいるものの、死に近づいているからか、整った顔立ちといい精巧な人形のようで、鏡映しに自分の顔を覗いている気分だった。
――助けよう。
そう思ったのは気まぐれかもしれないし、自分に似た容貌の少女に同情したのかもしれないし、はたまた姉と呼ばれたことで何らかの義務感に駆られたのかもしれない。それは、ノノラ本人にもわかりかねた。
ただ一つ確かなのは、ノノラがこの瞬間に盗賊としての領分、物としての領分を踏み越える決断をしたという、事実だけなのだった。
獣道や水音を頼りに小川を見つけるまで、さほど時間はかからなかった。水を飲まないノノラにとって人や動物の集まる水場は避けるべき場所で、ごくまれに体を洗うために使うくらいだったが、いつも積極的に避けているぶん場所の見当はつきやすかった。
あたりに人影のないことを確認してから、木の根元に少女をそっと横たえると、角ばった岩の上をぴょんぴょん跳んで渡り、水をすくってみる。上流なだけあって流れが速く、水はよく澄んでいて、特に匂いもなかった。
「ほら、起きて」
水を汲んだ瓶を片手に少女の肩をゆする。うめき声を上げるも目を開ける様子がないので、仕方なく抱き起こして瓶を口につけてやる。少し水を含ませてやると気がついたらしく、喉を鳴らして飲み始めた。
「大丈夫? 気分はどう?」
水を汲んでは飲ませるのを何度か繰り返してから、ノノラが尋ねる。意識はあるはずなのに、少女は未だ目を開かなかった。
「おなか……すいた……」
弱々しくも、さっきよりはっきりした声で少女が答える。
「わかった。ちょっと待っててね。ご飯を探してくるから」
言って、背を木の幹にもたせかけてやる。少女の顔がわずかにほころんで、もごもごと何かを呟いたが、すぐに寝息を立て始めた。
少女の髪をそっとなぜて微笑むと、獣脂のかけらに火をつけた。小さな火で暖は取れないが、鼻の利くノノラにはくすぶる煙の匂いが目印となる。狩り用ナイフの刃を改めてから、ノノラは森に分け入っていった。
ほどなくして、ノノラは兎を一羽と薪になりそうな小枝を手に戻ってきた。手早く火を起こすものの、兎を捌こうとして手を止める。とりあえず仕留めたのはいいが、食事の必要がないノノラには、調理の仕方がわからないのだった。
少女の方に目配せしても、すやすや寝息を立てている。そもそも旅の支度もなしに森へ足を踏み入れるくらいだから、起きていたとしても狩りの心得などないだろう。むーん、と唸って、仕方なしに大振りの短刀で首を落とす。清流に血を流しながら、ノノラはまだ生温い兎の骸と格闘を始めた。
生きている兎より死んでいる兎に苦戦するのは皮肉だったが、なんとかぶつ切りにした肉をナイフに刺してあぶっていると、少女が再び目を覚ました。
「もうちょっとで焼けるからね」
聞こえているのかわからないくらいにうつらうつらしながらも、少女は鼻をひくつかせて、肉の焼ける香ばしい匂いに夢中になっているらしい。きゅうっとお腹の鳴る音が聞こえて、ノノラまで腹が空いたような気分になった。
芯まで火が通ったところで肉を差し出すも、少女は反応しない。
「……おねえちゃん……まだ?」
目の前に焼けた肉を差し出されてもなお、お預けを食らっているようにそう言うのを聞いて、ノノラも流石におや、と思った。見れば、少女はまだ目を開いていない。起きているはずなのに、どうして。
そこで、ノノラは唐突に悟った。
――目が、見えないんだ。
しばし茫然として、せっかく用意した肉を取り落としそうになった。
「ねえ、おねえちゃん。お肉のいい匂いがするよ。もう焼けたんでしょう? 食べちゃだめなの?」
返す言葉が思いつかなくて、ノノラは何も言わずに肉の塊を押し付けた。よほど空腹だったのだろう、少女は獣のようにむさぼり始める。その姿をぼうっと眺めながら、ノノラはあることに思い至った。
――『おねえちゃん』は、どうしたんだろう。
聞くことはできなかった。きっと、この少女はノノラを姉か、あるいは少し年上の親しい人と勘違いしているのだろうが、ノノラが少女を見つけた時は一人で倒れていた。目が見えないのをいいことに少女を見捨てて行ってしまったのか、あるいはもう力尽きてしまって、盲目の少女がそれに気づいていないのか……
『おねえちゃんはここにいない』と、言ってしまうのは簡単だ。しかし、それは少女のためになるのだろうか。こんな森の奥深くに一人取り残されたと知ってしまったら、立ち直ることはできるのか。自分を偽ってでも、少女を安心させてやるべきではないのか。
ノノラにはわからなかった。
そんな葛藤をよそに、少女は顔を脂まみれにしながら手づかみで肉にかぶりついている。本当はノノラが口に運んであげるべきなのだろうが、生憎と食器の類は持ち合わせていない。ナイフや短刀はたくさん持っているのだが、どれも切れ味が鋭いので、下手に使うと怪我をさせかねないし、まして少女は目が見えないのだ。とりあえず一つ目の塊を食べ終えたら手を洗わせるのが先決だと、ノノラは苦笑いした。
「ごちそうさま! ありがとう、おねえちゃん」
しばらく経って最後のひとかけを口に入れると、少女は手を合わせて満足げだ。兎の半身を平らげただけのことはあって、だいぶ元気を取り戻したらしい。血色がよくなると、体の傷や汚れもやんちゃ娘の勲章に見えるのが不思議でならなかった。人間というのは食事ひとつでこうも様変わりするものかと感慨深かったが、同時になんだか寂しく感じてしまう。
「食べ終わったなら、体を洗おうか。そんなに汚れてちゃ気持ち悪いでしょう」
「うん!」
怖いくらい素直に少女が返事をする。ノノラの背中にすがりついて、無邪気に、何の疑問もなくおぶられるままになっている。
無防備な少女をかどかわすならいっそ盗賊らしいかもしれない。けれどノノラは『おねえちゃん』として振る舞おうとしている。ご飯を与えて、体を洗って、面倒を見ようとしている。
背中をつかむ手から、じんわりと温もりが染みてくる。ぷくぷくとして、果肉のように柔らかい手。
――どうせ世話をするなら、『おねえちゃん』でいいのかも。
盗人ノノラである限り、少女は助けられない。その手は人から奪うことはあっても、人に施すことはない。ならいっそ今は『おねえちゃん』になって、この少女を見守るのもいいだろう。懐炉のように暖かい少女を背負いながら、ノノラはそんなことを考えている。
長い髪が水に濡れると、少女はぶるるっと首を振って水滴を散らした。黄金色をした髪の揺れる先で、斜めに射す陽光で淡い紅に色づく水滴がそよ風にさらわれていく。気持ちよさそうに顔をほころばせて見上げる少女に、ノノラも優しい笑みを返す。少女が自分の肢体をさする間、ノノラは波打つ金髪に手櫛を入れながら、胸の奥に満ちてくる充足感に浸っていたのだった。
それから幾日が過ぎた朝、木の葉を重ねた寝床の上でうん、と伸びをする少女の姿があった。
「おはよう」
木に寄りかかって立つノノラが、頭上から声をかける。
「……おねぇちゃ、おふぁよ。……くぁ」
未だ眠りから覚めやらぬ、といったところだろうか。ろれつの回らない少女は大口開けてあくびをすると、あぐらをかいたままぼうっとしている。寝ても覚めても目を閉じているので、なかなか見分けがつかない。
しかし、ノノラには起きているのだろうとわかった。斜めに跳ねた前髪を直してやってから、ぽすんと縁なし帽を乗せる。ぼろコートと縁なし帽は今や少女の持ち物になっていた。お下げ髪が隠せず、ナイフや短刀も丸見えになってしまうが、人に会わぬ限り不便はないだろうし、薄い衣一枚の少女はあまりに寒々しいのだった。
「今日はどこへ行こうか」
「鳥さん! 鳥さんの声が聞きたいな」
川で顔を洗わせるとすっかり目が覚めたらしく、両手をひらひらさせてはしゃいでいる。はつらつとした笑顔に浮く傷はかさぶたが剥がれたばかりで、つやつやした薄桃色をしていた。
「鳥さんねえ……」
拠点に決めた川の周りはそれなりに探索を進めたのだが、鳥のさえずりには覚えがなかった。とはいえ、人や食料になりそうな獣がいないか注意していたので、気が付かなかっただけかもしれない。耳を澄ますと、遠くの方からチチッと鳴き声が聞こえた気がした。
「あっちの方にいるかも。行ってみようか」
「うん、行こう!」
ノノラが背を向けてかがむと、少女は何も言わないでも背中に取りついてくる。首に回された手の暖かさを感じながら、ノノラは森の中へと歩き出した。
地面はでこぼこしていて、濡れた落ち葉が敷き詰められている。あちこちで木が倒れており、朽ちた断面には苔や茸がびっしりと生えてむっとするような臭気を漂わせていた。
足場は最悪だったが、体に染みついた忍び足で苦もなく分け入っていく。少女をおぶっていてもなんのその。むしろ目の見えない少女に歩かせる方が危ないし、手を繋げば体温で人間でないことがばれてしまう。おぶっていても大差ない気はするが、ともかく直接肌が触れないように気を付けていた。
時々足を止めて、鳴き声を探ってみる。
「聞こえる?」
「え、どこ?」
少女は驚いた様子できょろきょろとあたりを見回す。盲人のしぐさには見えないが、耳を傾けて音を探しているのだろう。
「正面のほう。もうちょっと近づかないとダメかな」
ノノラは耳がすこぶるいい。茂みの擦れる音に埋もれる中から、ぴゅーいちよちよ、と笛の音のようなさえずりを探り当てていた。
「うーん、わかんないなあ」
そう言って悔しそうにうなだれる。少女はいつも感情を全身で表現しているような気がした。ひょっとして目が見えないことと関係しているのかしら、と考える。
「じゃあ、もっと進んでみようか。でも、ちょっと待ってね」
獣脂の煙の匂いがそろそろ薄くなっている。このあたりにもう一つ目印を作っておかないと、戻れなくなるだろう。少し逡巡してから、ノノラはあたりの枝を折りつつ進むことに決めた。あまりほうぼうに痕跡を残したくなかったが、もう一度獣脂を使っても匂いの区別がつかないので、今度はここから川の拠点がどちらかわからなくなる。
「よし、行こうか」
手始めにそのへんの小枝をぽきりと折ってから、ノノラは再び歩き出す。
しばし行くと、急に開けた場所に出た。
「あっ、聞こえる!」
少女が心底嬉しそうに声を上げる。まばらになった枝葉の隙間から、青黒く丸々とした小鳥が覗き見えた。さっき耳にしたように、ぴゅーいちよちよ、と鳴いている。
あるいは、色合いの鮮やかな小鳥もいた。頭頂部は黒で顔に白のラインが入り、橙色の胴体を鋼のような鼠色の翼が包んでいる。こちらは、ちちぴーちちぴーちち、とさえずって、揺れる枝の上で所在なさそうにしている。
他にも、姿は見えないが様々な鳴き声が響いてきた。ノノラも少女も静かになって、鳥たちの歌声に聞き入っていた。
ノノラが覚えている限り、こうやって鳥の声を静聴したことなどない。記憶は最近十年分くらいなものだが、それ以前にもこんな経験をしていたかどうか。鳥は求愛のために鳴くのだと聞いたけれど、そうならばノノラには縁のない出来事に違いなかった。
それでも、鈴音のように澄んだ声は清らかで、体の内を洗い流していく感じがした。琴線に触れるとはこういうことなのだろう、染み通った音が自分の中の何かを揺らすのがわかる。
動き、考え、話す。それでも結局は物の身である自分にも、生命の営みに触れて心動かされるのだと知って、懐が暖まるような心持ちだった。
「満足した……かな?」
どれくらいの時間そうしていただろう。興を削いではいけないと、そっと声をかけたのだが、少女には聞こえなかったらしく、返事はなかった。
その代わりに、息苦しそうな喘ぎ声が返ってきた。
「……どうしたの?」
「き、きもちわるい……」
緊迫した声で尋ねると、今度は返事があった。見れば、顔を火照らせて汗をかいている。背中からそっと下ろしてやると、うっ、と苦しげにうめいて、吐いてしまった。
夢見心地からいっぺんに現実に引き戻されたノノラは、少女の背中をなでながら、どうしようかと慌てていた。
「大丈夫?」
ひとしきり吐いてお腹の中が空になったのだろう、それでもしきりにえずいては、ない食べものを吐き出そうとしている。果汁のような濁った淡黄色の液体から、つんと鼻につく刺激臭がした。
少女は首を横に振る。確かに、どう見ても大丈夫そうではなかった。
何が原因だろうかとノノラは必死に考えた。水はきれいなものを飲ませたし、肉もしっかり芯まで火を通した。傷は洗って布を巻き、睡眠もたっぷりとらせた。特に思い当たる節はない。
ともかく、今は少女をどうするかが先決だ。いつの間にか少女の体は火の玉のように熱くなっていて、このまま衰弱するのは目に見えていた。ひとまず拠点に戻ろう、とノノラは考える。必要最低限なものを除いて荷物は置いてきてしまっているし、これだけ吐いて、これだけ汗をかいていれば、脱水症状を起こすのは時間の問題だと思ったのだ。
「……いったん戻ろうか。捕まっててね」
やはりいらえはなく、ノノラの背を握る力も弱々しいが、少女はなんとかすがりつく。背負い上げ、ゆっくりと立ち上がると、ノノラは折れた小枝と、煙の匂いや水音を頼りに拠点まで戻ってきたのだった。
状況はかんばしくなかった。寝床に横たえた少女は相変わらず苦しそうで、水を飲ませてもすぐに吐いてしまう。仕方なしに濡らした布で体をぬぐってやるのだが、汗は止まらず、熱も引きそうになかった。
わらにもすがる思いで、ノノラは自分の荷をひっくり返す。油紙に包んだ獣脂、ランタン、火縄、火打石、のこぎり、砥石、厚布、裁縫道具、大小さまざまの瓶、金属の器、お金。あとは身に着けているピック、短刀、ナイフ、ロープ。かろうじて薬と呼べるものとしては、毒とその解毒剤しか持ち合わせていない。もちろんその薬効など知らないから、飲ませるわけにはいかなかった。
――どうしよう。
ノノラは自問する。少女の体力に懸けて自然に治るのを待つほかは、手の施しようがないように思われた。薬草を探そうにも、何が効くのかノノラにはさっぱりだ。ならば少女に寄り添って、衰弱していくのを指をくわえて眺めているだけか。そんなことをする自分が許せなかった。
「おねえ……ちゃん」
出会った時と同じように、少女がそんなうわごとを言った。
――あたしは、無力だ。
暗澹たる気持ちでノノラは認めた。物として森の中で生きていくことはできる。けれど同じようにしても、人として森の中で生きることはできないのだと、思い知らされた。
しかし、ノノラは諦めたわけではなかった。かがみこんで少女を見つめ、肩にかかる金髪をなでてやりながら、語りかけた。
「ごめんね。おねえちゃんじゃ、ダメみたい」
げほ、げほっと咳をしてから、少女はもの問いたげに首をかしげた。
「森を出て、街に行こう。そこで詳しい人に診てもらおう。その間、我慢できる?」
「う……」
声を出すのがつらいらしく、少女は朦朧としながらうなずいた。不安で仕方ないが、そうと決めたならすぐ行動に移すべきだ。
少女と会う前、ノノラが近くの街を出てこの森に入るまでにおおよそ一日を要した。休み休み進まなければならないから、もっと時間がかかるだろう。
ノノラは手持ちの瓶に入るだけ水を汲み、明け方に仕留めて解体しておいた兎の骸と、薪用の小枝を縄で縛って肩にかける。ひっくり返した荷を素早くまとめ、火の跡を消し、落ち葉を積んだ寝床を蹴散らかして目立たなくすると、少女を抱えて出発した。
少女をあまり揺さぶらないように、腰を落としてすり足で運んでいく。脚にかかる負担は相当なもので、痛みを感じない人形の身ながら、時折ぎいっときしむのがわかった。かといって歩みを止めるわけにはいかない。ノノラはほうっと息を吐いて、倒木をまたぎ越した。
木々は次第にまばらになり、やがて森を抜けたころにはすっかり日も傾いていた。出発してから半日と言ったところだろうか、そろそろ休む頃合いだろうと思って火を起こし、少女を下ろして、自分の膝を枕にして寝かせてやる。
少女は静かに寝入っていた。熱は下がらず、噴き出す汗も止まらなかったが、寝顔はそれなりに落ち着いている様子でノノラは安堵する。お金は十分に持っているし、街まで持ちこたえてくれればなんとでもなるだろう。
もう暗くてわからないが、街道もすぐそばにあるはずだ。日が昇り次第、街道を見つければ、あとはそれに沿って歩くだけ。途中で街に向かう馬車があれば、お金を払って乗せてもらうのでもいい。
ともかく、無理をさせた分、今はゆっくり休ませるのが肝要だ。定期的に薪をつぎ足し、汗をぬぐい、夜を明かす。
「おねえ……ちゃん……」
膝の上で少女が微笑んだ。それに笑みを返しながら、ノノラは水平線に光差すその時を、今か今かと待っていたのだった。
首尾よく街道を見つけて進んでいくと、多くの旅人が休息に使うのだろう、そこかしこに焚火の跡があるおあつらえ向きの広場に行き当たった。残念ながら他の人と行きあうことはなかったが、街まであといくらもないはずだ。少女の方も少しは元気を取り戻して、布にしみこませた水を含ませてやると飲ませることができた。
翌日の昼頃、無事に街の大門にたどり着いた。背丈の三倍くらいの市壁が緩やかな弧を描いて、見渡す限り続いている。鉄製の重そうな門扉が開かれた両脇に、革鎧の衛兵が短槍を掲げて立っていた。
「そこの君、この街にどんな用事かな」
二人のうち、右側に立っていた兵士が聞いてきた。ノノラはあらかじめ考えておいた通りに答える。
「私は先日この街を出立した旅人です。ここから街道を少し進んだところで茂みの中にこの子が倒れているのを見つけました。隊商からはぐれたのか、詳しいことはわかりませんでしたが、ひどく体調を崩していて私の手には負えないとわかったので、街の人に診てもらおうと連れてきたのです」
虚実織り交ぜて話し、ノノラはおぶった少女を見せる。人に会う時に不審がられてはいけないので、縁なし帽と革コートは返してもらっていた。破れた薄衣一枚の少女に兵士も同情したらしく、一人が詰所に引っ込んで毛布を持ってきてくれた。
「失礼だが、お金は持っているかね?」
「通行税ですね。おいくらでしょう」
どこの街でも、狩りや採集が必要な狩人や薬師、材木商、あるいは組合に登録している行商人のように許可証を持っている者を除いて、市壁の出入りには少なくない税が課せられるのが普通だった。後ろめたい目的で街に訪れるのを防止し、逆に食い詰めた人間が夜逃げするのも防ぐ意味合いがある。
しかし、懐を探るノノラを手で制して、兵士は言った。
「いや、通行税は大目に見てやろう。医者にかかるためにとっておきなさい。それより、街医者とはいえ結構な料金を取られるが、大丈夫か」
「え? ああ、ありがとうございます。手持ちはそれなりにあるので大丈夫だと思いますが……よろしいので?」
不審がってノノラは尋ねる。こういう衛兵はたいてい杓子定規で、しかも街の中枢組織と通じているから、余所者が欲張って誤魔化そうとすると痛い目に遭うものだと相場が決まっていた。もちろん、だからこそ衛兵などが務まるわけだが。
「なに、やんちゃな娘っ子が市壁の外に飛び出して、懲りて戻ってきただけのことだ。なあ?」
「そうだな、昨晩はどうやら居眠りをして、人が出て行くのに気がつかなかったらしい。上に知れたら大目玉じゃないか。困ったなあ。これは黙っておいた方がいいだろうか」
毛布を渡してくれた兵士の方も、にやにや笑いながらそんなことを言っている。
「というわけだから、気にしなくていい。通りなさい」
「……ありがとうございます」
いまだに狐につままれたような心地で、ノノラは門をくぐる。その背中を追いかけるように、兵士が付け加えた。
「そうだ、街医者は大通りの向こう側に居を構えている。通りに看板が出ているからわかるはずだ。……女の子、よくなるといいな」
礼は言い尽くしてしまったので、代わりにぺこりとお辞儀をすると、人通りに従って大通りへと入っていく。その間少女の寝息を聞きながら、疑ってしまった衛兵に後でもう一度お礼を言おうと決めたのだった。
二度と来ることはないだろうと思っていた大通りに足を踏み入れて、久方ぶりの活気が肌に伝わってきた。よく整備された石畳の通りは貿易都市の名に恥じないもので、両側に商店がこれでもかと立ち並び、あちこちで馬車から荷を下ろしたり積んだりと忙しそうにしている。取引が紛糾しているのか、店番と行商人が怒鳴りあっている一方で、別な場所では笑顔で握手を交わしていたりする。とかく人の営みにうといノノラにはそんなやりとりは理解しかねるが、いちばん人間を人間らしいと感じる光景の一つだった。
通りを中央で二分するように鐘の釣り下がった塔が建ち、その周りは広場になっている。ここには商店も個人もいっしょくたになって露店を立てていて、食料やら生活用品を売る市場と化していた。果物、香料、肉、魚、薬草、金物、木製品、さらには人の汗の匂いまでないまぜになった独特の臭気がたちこめている。にぎわう人々の波をかいくぐるようにして、ノノラは広場の向こう側、街医者の居へと続く道を目指す。
「お嬢ちゃん、どうだい、何か買っていかないかい?」
そんなノノラに声をかける店主があった。先を急ぐと言いかけたところ、そこが駄菓子屋であることに気が付いて、飴くらいなら少女も食べられるかもしれない、と思い当たる。
「……おねえ、ちゃん? ここは……?」
そのとき、少女が目を覚ましたらしい。あたりの匂いを嗅いで、きゅっと顔をゆがめた。
「街の市場に来てるの。ねえ、飴を舐めるなら大丈夫かな?」
「えっと……」
今までに比べてずいぶん意識がはっきりしていたが、ノノラの問いには答えず、かなりそわそわしている様子だった。毛布の中で身じろぎをして、顔には不安の色が濃い。ノノラにすがる手の力を強くして、肩を震わせていた。
「どうしたの?」
「だって……」
言いかけて口をつぐむ。少女を支える手を通じて、ノノラにも胸を揺り動かすような不安が伝ってくる。
「大丈夫、すぐにお医者さんのところに連れて行ってあげるから」
ほとんど自分に言い聞かせるようにして少女をなだめる。けれども少女の怯えは止まず、ノノラもすぐにこの場を離れないといけないような気がしはじめていた。
「お嬢ちゃん、その娘は……」
やり取りを聞いていたのだろう、店のおばさんが猜疑の視線を向けてくる。少女の顔を食い入るように見つめていると気が付いて、気味が悪かった。
嫌な予感がして、少女の顔を肩の後ろに隠す。しかしかえってそれは不審を誘ったらしく、商売っ気に満ちた笑顔が、きっ、とひきつった。
「忌子だ! この娘、《無明の忌子》だあよ!」
市場の喧騒を切り裂いて、店主の声が響き渡る。
息を飲む音が重なり合い、時間が凍り付く。
水を打ったような静寂。
――これは、いったい……?
おどろおどろしい視線に突き刺されて、息が詰まり、足が縫い留められる。
つとめて人の世に交じらず陰に生きるノノラにとって、鉄釘のような視線はおぞましいなんてものではない。それが数えきれないほど、見渡す限りの目という目が集まり、どろどろに凝り固まった嫌悪の泥濘へとノノラを飲み込もうとする。ノノラは人形の身に、初めて総毛立つ感覚を知った。
ノノラも、それを取り囲む人だかりも微動だにしない中、唯一わなわなと震える指を背負った少女へと向ける店主が、言い募る。
「その娘だ、おぶられている娘! 目が見えないのさ。罪深さゆえに光を失い、自ずから災厄を振りまく。《無明の忌子》に、間違いないよ!」
再びの沈黙。
ノノラは目の前の女性が何を言っているのか、まるでわからなかった。ぎゅっと背中を握る手が冷え切って、粘っこい汗で湿っているのを感じる。少女は熱があったはずなのに、その冷たさは死人のようだった。
「そんな、ただ目が見えないだけなのに、どうして……」
ノノラの言葉に、人だかりがどよめく。そのざわめきは波となって、うねりながら伝っていく。
「ただ目が見えないだけ、だって?」
いきり立った女性は火炎にくべた鋼のように赤熱して、ノノラに食ってかかった。
「冗談じゃあないよ! 慈悲深い神様が、何の理由もなしに光を奪うような仕打ちをなさるもんかね! 盲目は邪悪のしるしだよ。神の導きたる光を享受できないのだから、当然さね!」
そうだそうだ、と野次が飛ぶ。思いがけない理不尽には怒りすら湧かず、ただ呆れてものも言えない。夢でも見ているような現実感の薄さに戸惑うばかりだ。
しかし、うなじのあたりをびりっ、と痺れさせるような気配に、ノノラは我に返る。
咄嗟のことでよろめいた、その僅かな隙が致命的だった。
重い衝撃が背中を打ち、ノノラはたまらずつんのめる。
少女の重みが消えて、どさり、と体が石畳に打ち付けられる音がした。
血相を変えて振り返り、少女の名を呼ぼうとして、その名を知らないことに気が付いた。幸い気を失っているだけのようだったが、なすすべなく倒れる少女を見下ろしながら、胸に広がる虚無感を噛みしめていた。
「おい、この娘、見たことあるぜ」
少女を殴り飛ばした男が愉快そうに言った。むき出しになった腕は隆々としていて、いかにも荒くれ者といった風体の三人組が、少女を取り囲んでいる。
「こないだ逃げられた奴だな。確かクソ生意気な姉がいたはずだが……」
足で少女の体を転がして顔を確認すると、ノノラと見比べる。情けないことに、ノノラは金縛りにでも遭ったかのように体が動かなかった。
「似てねえな、じゃあ別人だ。ほら、用がないなら行った行った」
そう言って、邪険に追い払うようなしぐさをする。ノノラが動かずにいると、すっと目を細めてにじり寄ってくる。
「……聞こえなかったか、それとも、言わなきゃわからねえか? 今すぐ立ち去るならいいが、かばうってんなら容赦はしねえぞ」
ただの憂さ晴らしだ、とノノラにもわかった。三人の男は一様に嗜虐的な笑みを浮かべて、少女やノノラをねめつけている。しかし取り巻く人々はみな我関せずと言わんばかり、押し黙って事の成り行きを見届けようとしている。
ずっと一人旅を続けてきたノノラだが、これ以上の孤独に覚えはなかった。
操り人形なら、糸が切れたようと言うのだろう。途方もない無力感に頭の芯まで麻痺してしまって、遊離した自分の魂が自分の体を見下ろしている気分だった。
「……まあ、邪魔する気がねえなら、そこで黙って見てな。邪悪な忌子が死ぬところを」
――死、ぬ。
その言葉、その意味が頭の中に滑り込んでくる。張りつめた空気で固まった体がほどけて、何かがお腹のあたりにすとん、と収まるのを感じる。
「……その言葉を口にするってことは、あなたたちには覚悟があるのね」
ゆらり、と、蛇が首をもたげるように立ち上がる。
エメラルドの瞳が、ぴかり、と無機質な光を放った。
「……ああ?」
男の顔が醜くゆがむ。それは怒りのためではなく、獲物が増えるのを喜ぶ狩人の顔だ。
今、獅子に屠られるとも知らないで。
「……命のやり取りをする、覚悟が」
刃が風を切り、ひゅううん、と鳴いた。
音もなく抜き放たれ、虚空を疾走したナイフは、五歩離れた男の喉笛にあやまたず突き刺さり、濁った断末魔へと変わった。
左半身から石畳に崩れ落ちた男は、がぽっ、ごぽぽっ、と血の泡立つ音を漏らして、真ん丸に見開いた目を一瞬ノノラに向ける。怨嗟に満ちたその視線に全く怯むことなく見つめ返すと、ノノラはかがみこみ、無造作にナイフを引き抜いた。どぽり、と冗談のような量の血が噴き出ると、男の体が痙攣して、動かなくなる。
血の色を映したエメラルドの瞳が、輝きを増していた。
「て、めえ!」
残りの二人が短刀を引き抜いて、周りから狂乱の声が上がる。我先にと逃げ出す者、足に根が生えたかのように棒立ちになっている者、ごくまれに、腕に自信があるのか不敵な笑みを浮かべてたたずんでいる姿もあった。けれども、そういった外野の出来事は薄ぼんやりと意識するだけで、ノノラはもっぱら二人の男の一挙一動に神経を逆立てていた。
血にまみれたナイフと男たちの得物とを見比べて、ノノラはナイフを懐にしまう。二人の武器はノノラが持っているものよりリーチが長く、重いので、斬撃を受け止めるのは難しいだろう。同時に斬りかかられた時のことを考えると、下手に武器を持つより柔軟に対応できる素手の方がいい、と判断したのだった。
手ぶらで少女の前に立ち塞がったノノラの所業を、男たちは挑発ととったらしい。ほとんど同時に唸り声を上げて、勢いよく短刀を突き込んできた。
勝敗は一瞬で決した。
ノノラは少しかがみながら、相手の腕に内側から自分の腕を合わせて外側に押しやり、そらす。そのまま器用に二人の手首をつかんで、下に押し付けながら手首を返してやると、短刀はあっけなく地に落ちた。二人の腕を引きつつ、一人は顎下から蹴り上げて悶絶させ、もう一人は関節を極めて体制を崩してから、袖口に仕込んだナイフで首筋を切り裂いた。蹴り上げた方も、倒れ伏したところを膝で押さえてとどめを刺す。
流れるような立ち回りに、見る者は息を飲んだ。
首を裂かれ血だまりに沈むならず者が三人と、小柄な少女の形をしたノノラ。血をかぶった顔に浮かぶ冷徹な無表情、澄んだ緑の光をたたえるまなざしを、誰もが魅入られたように眺めていた。
辺りをぐるりと見回してから、死人の服で返り血とナイフについた血をぬぐって、抜身のまま転がっている短刀を一瞥する。無駄に刀身がぶ厚く、刃もあまり手入れがされていなさそうだったので、無視して立ち上がった。
「こ、ここ、こんな……こんなことをして、あ、あんたは!」
最初に少女へ指を向けた、駄菓子屋の店主が言った。無感動に、すっとそちらへ視線を向けると、ひいっと声を上げてたじろいだ。
「盲人は殺すのがあなたたちのルールなら、連れに害なす人は殺すのが旅人のルール」
ノノラは少女を担ぎ上げると、店主など目もくれずに、すたすたと歩き始める。
「どいて」
そう言うと、茫然と立ちすくんでいた人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
あれだけにぎわっていた広場は今や無人で、露店は売り物がそのままになっている。物陰から、好奇心旺盛な野次馬たちに見られているのがわかったが、気にも留めずにノノラは歩く。
がらんどうの通りを歩けば、目的地はすぐだった。大通りに面した街医者の居は、他のどの建物とも同じようにぴったりと扉を閉ざし、沈黙を貫いていた。
「もしもし、どなたかいらっしゃいますか」
重厚な樫の扉を叩くも、返事はない。
「あの、連れの調子が悪いので、診ていただきたいのですが」
気持ち声を大きくして尋ねても、やはり応える声はない。
「あの!」
「うるさい! 忌子を癒すつもりはない。帰ってくれ!」
扉の向こうで、男のしゃがれた怒鳴り声がした。
頭の芯が、すうっと冷えていくのを感じた。
「邪悪な使い魔め、殺すなら殺せ! 私は『人』の傷を癒し、病を治すのが責務だ。《無明の忌子》に施す手などない。死んでも診てやるものか!」
声音は少なからず怯えていたが、はったりには聞こえなかった。ノノラは扉を検分して、蹴破るか、それとものこぎりで切るか、考える。
「おねえ、ちゃん……」
少女がうわごとを言った。見れば、ぐったりと力のない腕でノノラの手をとどめようしていた。
はっと我に返って、ずいぶんと空しい気持ちになる。
ただ一人助けるために、自分は何人もの人間を殺さなければそれができないのだと、ノノラは気が付いたのだった。
背中をそっとなでてやると、少女はほっとしたように手を下ろして、再びか細い寝息を立て始める。物言わぬ扉を見つめると、そのまま踵を返して、その場を立ち去った。
それから、二度とこの街に戻ることはなかったのだった。
――あたしはいくつ、間違えたのだろう。
見上げると、紫がかった空が一面に広がっていた。
雲を突き抜けた霊峰の頂は存外に雪が少なく、足でこするだけで剥げてしまって、岩盤の硬い感触が鋲付きブーツの底から伝わってくる。風はなく、音もなく、少女の形をした精巧な人形が一人立ちつくしている、ただそれだけだった。
頭上には空、足元には岩。
世界は恨めしいほどに二分されていた。
――あたしはいくつ、間違えたのだろう。
空を仰いで、ノノラはもう一度自問する。
戯れに人を助けようと思ったこと、人の生きる術も知らずに高をくくっていたこと、水を沸かさずに飲ませたこと、『おねえちゃん』の振りをして少女に身の上を尋ねなかったこと。
回復しきっていない少女をささやかな冒険に連れ出したこと、少女の意思もろくに確かめずに街まで運んだこと。
露店で足を止めたこと、不穏な空気を察してすぐに逃げなかったこと、人を三人殺したこと。
いちいち数えればきりがなかった。
どさり、と座りこんで、ノノラは空に向かって手を伸ばす。ぐっと握りこんだ手に残るものは、何もない。
――所詮、あたしは物なのだ。
いくら過酷とはいえ、地続きの、この山の頂に立つことはできる。しかし人間は、巨大な風船を不思議な空気で満たして、空を行く術を持つという。たくさんの人が協力して知恵を絞り、身を粉にして働き、作り上げたであろう技術の結晶。とてもノノラに成し得る所業ではない。
そう考えると、ここはまさに人と物の領分がせめぎ合う、境目といえた。
ノノラはごつごつした岩盤をなでる。使い物にならないくらいぼろくなったコートの袖口から、ほつれた糸が手に垂れ下がった。
――あたしは、眺めることしかできない、許されない。
空を、人の営みを。
ノノラは歯ぎしりする。
――眺めることしか、できなかった……
人の、弱っていくさまを。
そうして、耳の中に少女の言葉が蘇ってくる。
「おねえ、ちゃん……」
「ごめんね。本当に、ごめん。黙ってて、騙して、ごめんなさい……」
少女は、薄ぼんやりとまぶたを開いていた。その目は虚ろだが、はっきりとどこかに焦点を結んでいるような気がした。
「あたしは、『おねえちゃん』じゃない。あたしがあなたを見つけた時には、あなたは独りで倒れていたの。だからきっと、『おねえちゃん』は、もう……」
ショックを受けるだろうとわかっていた。いまさら言っても仕方ないとわかっていた。それでも、言わないで済ますことはできなかった。
「なにを、いってるの……?」
か細く、美しい声。そう、まるで黒絹でできた、髪の毛ように。
人と死者の境界。物に近づいた者の、美しさ。
少女はなぜか、優しい笑みを浮かべた。
「じょうだんは、やめてよ……おねえちゃんの声だもん。まちがえるわけ、ないよ……」
幻を見ているのだと、ノノラはいっそう哀れに感じた。だから思い切って、少女の手を自分の手で包みこむ。
「……冗談なんかじゃないの。そもそも、あたしは人間じゃないもの……ほら、手だってこんなに冷たいでしょう?」
言いつつ、少女の手も同じくらい冷たくなっていることに、ノノラは気が付いた。
「わかんない……わかんないよ。おねえちゃんは……おねえちゃんなのに……どうして、そんなこと……いうの……?」
人形のそれよりも青白い唇が、言葉を紡ぐ。
「ノノラおねえちゃん……」
ノノラは仰天して、思わず口走る。
「あたしの、名前を……どうして……?」
もちろん、少女には名を明かしていない。そもそも盗みを生業とするノノラは名乗ることなどほぼないから、少女はノノラの名を知らないはずなのに。
「しらないわけ、ないよ。ずっと、いっしょだったもん……ノノラおねえちゃん……」
ならば、少女の姉もノノラという名前なのか。そんな偶然があり得るのか。
「いっしょに、いてくれ、て……ありがとう……おねえ……ちゃ……」
急速に声が先細っていく。包みこんだ手から、力が抜けていくのがわかる。
「待って!」
悩むのを後回しにして、ノノラは叫ぶ。
「お願い、名前を……あなたの名前を教えて! あなたのこと、忘れたくないの!」
少女は長い息を吐いた。唇がかすかに動くも、声にはならない。
それきり、少女は二度と動かなくなった。
――忘れてしまうのだ。
やはり霊峰の頂で、ノノラは小ぶりなナイフの刀身に瞳を映しながら、嘆息する。
絶対に忘れたくない少女の記憶。しかしノノラは、それを十年と覚えていることができない。
――忘れてしまうくらいなら……
ノノラはナイフの切れ味を今一度確認する。普段から整備された刃は今まさに研ぎ上がったかのようで、鋭さは折り紙付きだった。
ノノラの肌は、人でいうと皮の厚さぶんくらいならば、風化しても長い時間をかけて元通りになる。
見れば、白磁のように滑らかなはずの掌は、岩と雪に削られてがさがさになっている。だが、これくらいならばいずれ元通り、何事もなかったかのように治ってしまうのだろう。
とはいえ、深い傷ならば、一生癒えることはない。
壊れてしまえば、戻ることはない。
ならば、いっそ、このまま……
肌に触れた刃先から、とてつもない悪寒がぞろりと全身を這い、蝕んだ。
感じるはずのない吐き気。体が裏返りそうな、不快感。
ノノラは、自身の生への欲求に、初めて気が付いた。
そして、それがどうしようもないくらい罪深いことに思えた。
歯を食いしばり、握るナイフに力を込める。
ぎゃりりぎゃりぃっ、と、頭の中でけたたましい異音が鳴った。焼けるような、体の芯を貫くような激痛。それでいて体はいっぺんに冷たくなって、ぶるりと震えた。叫び出しそうになって、ノノラは必死にこらえる。噛みしめた奥歯が、かちかちかちと音を立てていた。
「ぐ、ううっ……つうっ!」
気が狂いそうになりながらも、ノノラは力を抜かなかった。
かすむ視界、薄れゆく意識。
その中でノノラは、か細く、甘い、少女の声を聞いた気がした。
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