現代恋愛の神話と構造

他律神経

本編

 僕は、大変、驚いたのでした。驚きというのは、瞬間的なものではありません。決して、瞬間的なものではないのです。継続性のある、連続的な、ある一定の期間そのものなのです。実際、僕は喉が乾き、次に舌がうまく動かなくなり、ついには息を飲み込む、という現象の中におりました。

「もう一度、もう一度言ってくれませんか」

 僕は、もしかしたら、聞き間違いをしたのかもしれない、今の自分のこの驚きというものは全て、聞き間違いから生じた間違った状態なのかもしれないと思ったのでした。いや、そういう希望を抱いたのでした。

「いや、だからな、俺はどうやら……朝香葉月(あさかはづき)に……どう表現しようか……。この精神状態は……。お前は、認めないだろうが、うん、どうやら、恋しているらしいぞ」

 僕は、はっきりと聞きました。間違いではありませんでした。聞き間違いなどではなかったのです。恋。恋と。あの、生まれながらの文学者、青菅(あおすげ)青年が、自分の精神を表現するのに、そのように俗な言葉を使うことがあるなどと誰が想像しえたでしょう。誰が。ああ、誰が。

「恋? 恋ってなんですか。具体的に言ってくださいよ。恋って、どんなものですか? 『恋とはどんなものかしら?』 え? 青菅君、答えてくださいよ。何ですか、恋って? え?」

 青菅は何も、答えませんでした。

「答えませんか? 答えられないのですか? なら、僕が代わりに答えましょうか。その神話と構造を。え?」

 恋愛とは、何であり、何でないのか。すなわちその定義はいかように可能なのか、という事について、僕と青菅はよくよく考え、そして考えたことを整理し、実際に恋愛とは何かを、まだ二十年も生きていない身でありながら、様々な先人達の頭ごなしに、定義したりしたものでした。

 というのも、我々は、人生が短いことを、それも自分のためにならぬことを多くするがために短くしてしまっていることをネロの家庭教師に教わるよりはやく、実践的に理解していたからなのです。

 我々は、絶対精神に、この計算することができない世界を計算できるようになる日に、一刻もはやく至らねばならないのです。無駄なことをしてはならないのです。

 そこで我々は、世間が賛美し、かつそれを行うように動員をかける、あの恋愛という奴がどんなものなのか、考える必要があったのです。それが本当に、世間の賛美する通りのものなのか、否か、考える必要があったのです。

 我々の得た結論は、否、ということでした。恋愛とは、恋とは、愛とは、ある他人を精神的肉体的に独占したいという欲望、それも極めて動物的な、端的に言うなれば性欲を柱として成立する、ある種の状態を隠匿するために作られたロマン主義的独我論の仮面なのです。恋愛とは和姦であり、恋とは和姦したいという意志であり、愛とはそのまさに和姦せんとする瞬間それぞれを隠匿するための不定形な観念なのです。つまるところ、それら全ては、性欲を、合理的空間に持ち込むための方便なのです。まったく、くだらないものです。全ての、文学的な、社会的な包み紙を剥がしとれば、そこにあるのは、性欲なのです。そうです、性欲なのです。

「青菅君、言いましたね、あなたは、言いましたね。恋愛とは、合理的空間に性欲とそのもたらすものを持ち込むための方便に過ぎない、と。言いましたね。え? つまり、ね、君は、朝香の肉体が欲しいのですよ。朝香とセックスしたいのですよ。え? 違いますか。え? それを恋だの、なんだのって美しく装飾してみたりして……。え? 哲学をするのが夢なのではないのですか? え? 分類するだけのつまらぬ哲学者でなく、実際に哲学する者すなわち哲学者となるのが夢なのではないですか? それを君、女の肉体を求めだして、おお、みっともない……」

「違う」

「え?」

「違う、と言った」

「な……!」

 僕は、青菅からの反論を予想していなかったのです。青菅と僕は、実際の討論を繰り返すなかで、恋愛、恋、愛、それらは全て性欲というものを飾り立てその本質を隠すための方便に過ぎぬという結論に至ったのですから。

 どうしてそれを今になって覆すのか。

 それも、言葉による、観念による反証でなくて、実践による……。

 朝香葉月……。

 同級生の雌の人間……。

「なぜ? なぜ?」

「わからんが……もしかしたら、性欲とは独立した、性欲とそれがもたらす悦楽を美しく飾り立てる、言葉としてのみ存在する恋とか、愛でなくて、人を想う気持ちとしての、現実的な存在としての恋とか、愛とかがあるのかも知れない、と今思うよ、俺は」

「バカな。いや、バカだ。ありえない。性欲に依存しない、肉体的欲望に依存しない、純粋な他者を想う気持ちとしての恋だの愛だのなど存在するはずがない。存在するはずがない。すべて、フィクションだ。性という現実から目を背けるために世間が作ったフィクションだ!」

 僕はついに叫んでしまったのでした。ある意味で、僕は敗北でした。周囲を見ると、性欲、性欲、性欲、と連呼する僕に白い目を向けている連中で溢れていました。僕はようやく、僕と青菅がいるのは、学生食堂の、その中心であることを思い出したのです。

 青菅も僕も、お互い論争をするため食事をとる手を休めていたのでしたが、それをやめて、昼食を食べ終えてしまうことにしました。それでも我々は食事をしている少しの間にも、会話をすることをやめはしませんでした。囁く様な小さな声で、会話を続けたのです。口の中に食べ物を含んだまま喋り続けたのです。

「え? なんですか、朝香のあれですか、あの短いスカートですか。え? あるいは、あのいやらしい太腿ですか。え? あるいは、鎖骨かな。鎖骨かな。鎖骨なのかな。え? どこに射精したいのですか? え? やはり粘膜ですか」

「やめてくれ。お前の皮肉にあいつを使うのは……。お前が、俺の状態をどう解釈しようと構わない。俺も今の状態はおかしいと思っている……。どうも、思考がうまくまとまらない。思索ができない。思惟が停止する。何について考えていても、朝香の影が立ち現れてきて、俺の邪魔をする……」

「それこそ、君が朝香葉月の粘膜への回帰願望を抱いている一つの証明でしょうが」

「だからな、俺はもうお前による俺の状態についての分析結果も聞きたくないのさ。今の俺とお前では議論しても無駄だからな。俺の思考の何一つとしてお前の思考と一致するものがないわけだから……。ただ、希望があるとすれば――」

「あるとすれば?」

「俺もお前も、俺の今の状態を正常ではないと考えている、ということでは一致があるという点だよ」

「なるほど。なるほど。たしかに、もう、見苦しいですよ。え? え? 見苦しいですよ。人間の雌に精神の安寧を脅かされている、肉体の促すままにありたいと願いはじめている君というのは。まったく、君の状態は解決されるべきです」

「そうだ、今の俺の状態は解決されるべきだ。だから、お前に協力して欲しい」

「協力?」

「うん。俺に朝香と……うん……俺と朝香との間に交流を作って欲しい」

 まさか、あの青菅が僕を頼る時というのが、やってくるとは……。こういう状況において、聞くところによると、人はある種の優越感を抱くらしいのです。しかし、僕には、まったくそういう気持ちは生まれませんでした。これは、僕自身不思議なことでした。何か、例えば、自分の精神状態と肉体に振り回されている青菅の精神状態を比較して、自分の方がよっぽど美しい静寂の中にあるとか、そんなことを考えて、青菅に対して自分が優れている、勝っている、という観念を抱いても、まったく論理の破綻はないわけです。それだと言うに、僕は、青菅に対して、何故でしょう、怒りのようなものを抱いていたらしいのです。わかりません。精神とは、言語で記述できるほど単純な機構ではありませんから……。ともかく、僕は怒りのようなものを、抱いていたのです。それが、どういう類の怒りなのか、僕にはまったく把握できませんでした。そのような不思議な怒りを抱えながらも、僕は青菅と共有してきた過去、というものの強大な圧力の故に、青菅と朝香葉月の間にどうにか交流を発生させることに決めたのでした。

「しかし、最後には、その論理的帰結として、君は、愛とか恋とかいう言説に隠匿された前時代的な、醜悪極まるものをみなくてはいけなくなると思います」

 僕は、もう、青菅に、肉体的なものを諦めろと説得するだけの気力を失っていました。また、時間も失っていました。まもなく、昼休みは終わるのです。ですから、僕は友人として可能な最低限の忠告を加えつつも、青菅と朝香葉月の間に交流を発生させることを決定したのです。そして、その交流の後に、現代恋愛の神話と構造が、青菅を静寂に引き戻す絶望が訪れることを願いつつ。

「わかっているよ。とにかく、頼むぞ。俺はもう幼稚園以来人間の雌というものとまともに会話したことがないからな……」

「僕だって、もう、ありませんよ。婦女子との会話など。ただ、作戦はあります」

「ほぉ?」

 作戦はあったのです。

 例えば、ある武将の首が欲しいとしましょう。

 どうするか?

 その武将の乗っている馬を攻撃し転倒させれば良いのです。

 例えば、資本主義の運動を止めたいとしましょう。

 どうするか?

 下部構造を変化させれば、運動停止の呪文を唱えやすくなります。

 つまり、こういうことです。

 ある対象を攻略する時は、その対象の基盤を攻略すれば良いのです。

 では、朝香葉月の基盤とは何か?

 高校生である朝香葉月の基盤とは何か?

 僕が午後の授業を全て放棄して観察したところによれば、青菅の名誉のためにその価値判断は保留にしておくにせよ、朝香葉月はいわゆる社交的性格であるように思えました。彼女の周りには、笑顔の、それも自然な笑顔の少女達にあふれておりましたから。勿論、この現象についての価値判断も保留することにいたしましょう。これもなかなか難しい個人主義思想と全体主義思想との優劣について考えなくてはいけなくなりますから。

 しかし、僕はまず将における馬、評議会連邦における衛星国家であるところの彼女の親友というものを探してみることにしました。無論、親友というものについても、現実において、世間の不明瞭な言語ゲームにおいて、の二つの存在様式を定義する必要がありますけれども、僕にそんな時間があるはずもなく、またそういった定義を行う時にいつも頼っていた青菅が正常に機能しない以上、世間がいうところの親友、という括弧つきの親友というものを探す他にはないのでした。

 そうして、僕は探したのです。

 観察、観察、観察の連続でした。

 あと一歩も、自分の社会的地位……いえ、社会的位置を間違えば僕は犯罪者とか、異端者とか、そんな風に罵られていたことでしょう。それだと言うのに、僕は観察を続けたのです。観察を、観察を続けたのです。青菅を、一瞬でもはやく不安定な精神状態から救うために。

 それは、僕がもう合計何時間、何十時間と観察をおえた瞬間のことでした。僕は突然、何の前触れもなく、朝香葉月の周囲の婦女子達の中にあるヒエラルキーとセクトについての全てを理解したのです。僕は、朝香葉月という人間の最も近くにある、物理的にではなくて、精神的に、近くにある婦女子も、今となっては言い当てることができました。それは、いつも朝香葉月とその友人とかいう連中から少し離れたところに微笑しながら座っている少女です。

 名簿によると、名を五百重結乃(いおえゆの)と言いました。名簿というのは、五百重結乃だけはあの朝香葉月を中心として、あるいは結節点として構成された集合の要素の中で、僕と同じクラスの人間だったからなのでした。

 あの友達とかいう連中がその意志に基づいて散り散りになっても五百重結乃だけは、朝香葉月のそばにいました。朝香葉月もそれを許していました。二人はいつも一緒にあります。しかし、かといって、何かを話すというわけでもないのです。お互いに穏やかな表情をして、読書もしくは、手帳に何かを書き込むということをしているだけなのです。これは、沈黙という交流を楽しめるほどの仲、ということの証明でしょう。友達というのがいかに定義されようと、その要素として必ずや、沈黙を楽しめる仲という条項が入れられなくてはなりません。そこで僕は、この五百重結乃というのは、朝香葉月の下部構造、衛星国、馬、靴、その他、某かを支える物を比喩として表現されるべき人間だと考えたのでした。

「五百重さん。少し、自由になる時間がありますか?」

 僕は五百重結乃に話しかけました。朝香葉月が何処かに、おそらく自分の所属するクラスに割り当てられた教室か何かに行ってしまった瞬間を狙いました。朝香葉月に、僕が五百重結乃に行う依頼を聞かれては面倒だからです。

 五百重結乃は、ほとんど自分が他人に話しかけるということをしない、それもその他人というのが婦女子であればなおさらという僕が話しかけたのが、驚きだったのでしょう。五百重結乃の主観世界の中に、ただ日常の背景として、あるいは日常の背景としてすら意識されていなかったはずのこの僕が、突然、同じクラスであるというそれだけの接点で、馴れ馴れしく侵入してくるのです。驚かない方が、むしろ不条理ですらあるでしょう。五百重結乃は、今まさに風呂敷で包まんとしていた空の弁当箱を手に持ったまま、硬直したのでした。そして、

「あぅ……うぁ……」

 五百重結乃は奥歯をすり合せるだけで、およそ言葉として解釈できるような音声を紡がないのです。話すのが苦手なのでしょう。

 わかります。

 僕もあまり話すが得意な人種ではないのです。

 得意な人種ではないのです。

 本当です。

 ただ、もう自分が未来永劫に渡って、最低で劣悪な人間と思われても構うものか、思われても思われなくても『どちらでも良いことだ』という態度で心を勇気づけることで喋ることが可能になるという人種なのです。それゆえ、話すのが苦手な人間に、はやく話せ、とせかすのは、罪悪であるということも知っていました。しかし僕には時間がありません。メトセラとは違うのです。それに、朝香葉月が戻ってきたら面倒です。

「どうなのですか? ありますか? ありませんか? なに、一瞬ですよ、一瞬なのですよ。僕の話を聞いて欲しい。とても、大切な話でして、ちょっと教室などという俗っぽい所では、とても、とても……」

 僕は、半歩だけ、五百重結乃に詰め寄りました。はやく、答えを聞きたかったのです。

 しかし五百重結乃は歯軋りを続け、ついには、その大きな瞳の底に、大きな涙を溜め始め、もう婦女子というのはあらゆる類型化の意志を挫折させる宇宙か迷宮であると僕が思った瞬間でした。

 熱、と表現するのが適切でしょう。それはもう痛みですらなく、一つの熱でした。左の肩に、僕は猛烈な熱を感じたのです。

 何だ?

 この熱は、何なのだ?

 その答えは、すぐにわかりました。僕は蹴られたのでした。細長い手足の婦女子が、スカ-トに隠された、あの聖域を見せることも厭わず、僕を思い切り、蹴り飛ばしたのでした。

 僕は痛みのために、叫び声をあげることすらできず、無言のまま、教室の壁まで飛行したのです。かつてない体験でした。僕の運動は壁に激突することで、ようやく終わりました。

 僕がどうにか動かすことができるのは、首だけでした。痛みのために、僕は、ただ、首しか動かすことができなかったのです。その、どうにか動かすことのできる首を、もともと僕が立っていた場所に向けて動かし、僕を空中へと追いやった者を見極めんとしたのです。

「結乃、大丈夫? いじめられた?」

 そこにいたのは、あの我らが数理哲学者青菅君を肉欲の彼方へと導こうとする魔女、朝香葉月でした。

「なに、あんた? 結乃に何をしていたの?」

 朝香葉月は、その胸に五百重結乃を抱いたまま、僕へと視線を飛ばします。それは、親の仇とか、誕生以来自分を虐げ続けてきた悪の根源とかを叩き潰さんとする前の人間だけがする、強烈な敵意を含んだ視線でした。

 どういうわけか、まことに不思議なことに、恐らくマゾッホ的な、あるいは侯爵的なものだと思うのですが、僕の中から痛みが消え、悦楽が誕生したのです。理解しかねることでした。僕は、そんな理解不能な快楽に身を委ねてしまったが故に、思考力を回復できず、朝香葉月に睨みつけられるままでした。

「あの……彼……笠置(かさぎ)君……前の……ほら……帰り……話した……」

 五百重結乃が、朝香葉月の腕に全身で絡み付いています。暴力をとめようというわけでしょう。僕はそこに、塩の行進的なものを読み取りました。

「え? こいつが? 前話してくれた、結乃の……」

「わぁわぁ……!」

 さきほどの非暴力による抵抗は何処に行ったのか、素早い動きで朝香葉月の口を封じます。なにか、言われたくないことでもあったのでしょう。

「へぇ、あんたがねぇ……」

 朝香葉月の手が、伸びてきます。その手をとり、立ち上がります。冷たい手でした。それにとてつもなく白いのです。まるで人形か何かです。実際、僕はこいつの体表面は陶磁器か何かでできてやしないだろうか、と疑ったりもしたのです。

「ごめんなさい……その……わたしのために……ちょっと……暴力的なの……彼女……」

 五百重結乃がそばにきて、僕のブレザーについた埃を払い落としながら言います。

「ほら……葉月も……謝ろうね……」

「ごめん、ごめん」

 手をあわせ、頭をさげて朝香葉月は謝罪しました。本当は、何か、嫌味とか罵倒のための言葉の一つや二つ、吐いてやりたかったのです。吐いてやりたかったはずなのです。しかし、どうにも、そういう気持ちが萎えてしまい、僕は「かまいません、かまいせん」と唱えるだけにしておきました。たぶん、青菅と朝香葉月の関係を構築しなければならない役回りですから、朝香葉月に嫌われては面倒であると、僕の何処か一部が思考したのかもわかりません。

「それで、どうして結乃に迫っていたわけ?」

 ああ! 僕は忘れていたのでした。蹴りによって、忘却の海に落とし込まれていたのでした。僕は五百重結乃とただ二人で会見する機会を手に入れるべく、ここにあるのです。それだと言うのに、今はどうでしょう。五百重結乃を利用して攻略したいと考えていた朝香葉月がすぐそばにあるのです。もはや、言い訳はやめるべき段階でした。僕は五百重結乃の手首を取りました。

「大事な話が、とても大事で、五百重さんにしか話せない案件がありましてね」

 僕は五百重結乃を無理矢理邪魔者のいないところに連れ出すことにしました。昼休みはまだ終わりません。五百重結乃はその頬を赤くするだけで何も言いませんでした。抵抗の一つだってしません。僕は容易に五百重結乃を廊下まで連れ出すことができたのです。早足で、僕は正面玄関を目指すことにしました。それから、この知の時代の牢獄から出て、体育館の裏に行くという作戦です。

「結乃、頑張って! 落ち着くのよ。あんたには、いっぱい武器があるから大丈夫! 泣きそうな顔とか!」

 振り返ると、俯く五百重結乃の向こう側に、教室の扉から上半身だけを出して、我々を見送る朝香葉月の姿がありました。五百重結乃が頑張ることはないですし、僕は暴漢とは違いますから、武器など必要ないというのに。

 そうして、我々は、天より他には誰にも会話を聞くことの不可能な、体育館裏に辿りつきました。この段階になって、ようやく僕は、どれだけ五百重結乃の手首を強く握りしめていたのかを知りました。

 僕の手の平の表面が多量の汗を分泌しています。僕は、まことに勝手ながら、猛烈な勢いでその手を五百重結乃から振りほどき、飛び退りました。この人間の雌と僕は距離を置く必要がありました。人間の雌は、僕の思考をかき乱すのです。幾度も僕の頭の中で、五百重結乃の手首の柔らかさが繰り返すのです。僕は、僕だけは、青菅のように肉の徒弟となるわけにはいかないのでした。

「あの……笠置くん……お話は……?」

 僕は咳払いで五百重結乃を沈黙させました。

「五百重さん……」

 僕はこれから切り出す話の重大さのために、五百重結乃の瞳を真っ直ぐに覗き込み、これまでより低めの声で言いました。

「はいぃ……」

「好きになってしまったのです……」

「えぇ……?」

 五百重結乃は聞こえなかったようでした。そこで僕は繰り返しました。

「好きになってしまったのです……」

「えぇ……? よ、よく聞こえなかったなぁ……もう一度……もう一度言って欲しい……かもぉ……」

 僕は、四六時中朝香葉月と五百重結乃を観察していたことがありました。しかし、今の五百重結乃の表情はかつて見たことがありませんでした。廊下の、障害となるものの何ひとつない場所で、転倒し、五百重結乃が涙を流すのは見たことがあります。朝香葉月が何かの冗談を言ったか何かしたのでしょう、五百重結乃が微笑するのも見たことがあります。

 しかし、今、僕の眼前にある五百重結乃の表情と言ったら、ああ、乙女こそ現代社会に残された最後の秘境なのではないでしょうか?

 地球の外部の暗黒でもなく、地球の内部の暗黒でもなく、ただ乙女の暗黒こそが、最後の秘境なのではないでしょうか。

 僕の眼前にある五百重結乃の表情は、まったく奇妙なものでした。いつもの通り微笑している、その大きな瞳を細めて、いつもの通りの微笑をしているのです。しかし、同時に、その瞳は輝いているのです。涙のために、日光を乱反射しているのです。また、頬は紅潮していました。泣きながら微笑む人間を、僕は初めてみました。そのような奇妙な表情の五百重結乃は、耳の裏に手の平をあてて、僕に再び言いました。

「もう一度……言って……欲しいの……」

 五百重結乃はまるで小学生のような、朝香葉月とは正反対の、雌としての機能の成長する余地をかなり残した肉体をしています。けれども、今、五百重結乃は、成熟した女の声をだしました。

 しかし、五百重結乃の精神世界に、僕の振動させた空気がいかなる現象を巻き起こそうと知ったことではありませんし、五百重結乃が聞き取れなかったと言うのならば、もう一度繰り返すのが、僕の義務でしょうから、僕はもう一度、言いました。彼女の近くによって、その耳元に言ってやったのです。

「好きになってしまったのですよ……」

「わたしもぉ……ずっと前から……」

 これは。驚きでした。青菅に、朝香葉月に対して抱く不思議な感情、僕に言わせれば不気味な感情が誕生してしまったという事を、五百重結乃が把握していたのです。

「本当ですか? それは助かります」

「んぅ……ずっとぉ……前から……」

「ずっと前から把握していたのですか? 僕の友人が君の友人である朝香葉月を好きになってしまったということを? 正直なところ驚いています。いや、僕は君という人を過小評価していました。遠くから見ただけでわかりましたか? 僕の友人の異常――」

「待って……!」

 五百重結乃はいつの間にか僕の制服のネクタイをつかんでいます。僕は何か嫌な予感がして、すぐさま逃亡したくなりましたが、五百重結乃の言霊に筋肉という筋肉を支配され、それは不可能でした。

「はい?」

「好きになった……って言うのはぁ……笠置君のお友達が……葉月に……?」

「そうですよ。決まっているではありませんか。え? いかに解釈しようと、それ以上の意味を汲み取れないと思いますがね。え? まぁ、しかしわかっているのならば、話ははやいのです。貴女には――」

「ば……」

「ば?」

「ばかぁ……!」

 予測は的中しました。

「ぐぇ」

 ネクタイが、本来、可能であってはならない領域にまできつく絞められて、僕の喉が潰れたのでした。それは、呼吸の不可能性を意味します。

 僕は倒れました。冷たい地面に倒れました。まったく、どうしてこんなにも地面というのは冷たいのでしょうか。思うに、あらゆる意志の骸の集積だからではないでしょうか。

 ああ……。

 走り去る五百重結乃を見送ると、僕は疲れたので、その場に眠ることにしました。風邪をひくかもしれません。けれども、それが何だと言うのでしょう。僕は疲れたのです。授業の始まりを告げる音が、学校中に響き渡ります。一度くらい休んだとて、ついて行けなくなる様な進度で授業は進んでいません。僕は眠りを続けることにしました。僕は、別の世界にあったのです。そこで僕は一切の真理に包まれ……、

「おい」

 一切の混沌から解放され……、

「起きろ」

 起きました。目覚めた僕の世界にあらわれたのは、青菅でした。

「どうした? 何があった? 何故寝ている? 作戦とやらは?」

「一度に幾つも聞かないでください。僕は涅槃に到達していたのですからね。え? 理解できますか? え? 朝香葉月には五百重結乃という大変仲のよろしい友達がいます。僕はこいつを利用しようと思ったわけですな。そういう意味では。え? え? え? 理解できない? 理解できないと? 五百重結乃に協力を依頼したわけです。君と朝香葉月が物理的に近い距離に存在できる瞬間のために、ね。僕はそのことを五百重結乃に話したのですが、暴力をふるわれて、今に至るわけですな。え? 理解できますかな? 平和が一番でしょうに」

「理解できるとも……。しかし、『平和は支配の手段にもなる』からな」

「しかし、しかし、ここは学校法人の内部なわけで……」

「そんな衒学的なことより、どうやら、五百重はお前のことが……」

「僕のことが?」

 青菅は自分の顎に手をやりました。

「いや……なんでもない」

 嘘でしょう。何かあるのです。顔の一部に手を触れさせるのは、心理学的には自分の心理の隠匿を期待しての行為なのですから。それでも、僕は、鋭敏な痛覚の働きのために、青菅に質問して、さらに会話の幅を広げるような愚を犯したりはしまい、と心に決めていたので、質問はしませんでした。

 朝香葉月のように青菅が、手を差し伸べてくれることが期待できない以上、自分の力で立ち上がるより他には無いのです。僕は自分で立ち上がりました。

 そして、青菅に告げたのです。すなわち、作戦は失敗した、と。青菅は鼻で笑いました。お前には、最初から期待してねぇよ、と。そこには僕の失敗を慰めるような温度が介在していました。

 それでも、いや、それゆえに、僕は不満でした。どうして、失敗などということになるでしょうか。どうして、敗北などということになるでしょうか。ただ一瞬、あの瞬間の五百重結乃という生物が、僕への協力を拒否しただけで。

 ただ一枚の紙切れで勝利宣言をしたあらゆる共同体が、その後、歴史という大海に挫折させられる様を、僕は知っているのです。だから、僕は待機することにしました。あの、泣きながら僕のネクタイを締め上げた五百重結乃とは違う五百重結乃が僕への協力を申し出る瞬間が訪れるであろうということを宗教的確信とともに待機することにしたのです。

 青菅は僕に絶望し、朝香葉月と交流をもつ機会を手に入れようとする様々な策謀について、自分で行うと言い出し、言い続けました。そこで、僕も言い続けました。やめておきなさい、と。僕が土の上で眠ったあの時から、今、朝香葉月について考える再びの昼休みまで、暇さえあれば、青菅は自分で考えた策謀を僕に披露しましたが、それは全て稚拙なものでした。

 それから幾日か過ぎた、昼休みのことです。僕は、青菅と向かい合って(それは、心理学的には、対決の構図でした)座っていたのですが、青菅の肩越しにみた事のある少女が確認できました。

 あの……二次性徴がその生理学的帰結に基づいて正常に開始されているのか不安になるような、童女みたいな肉体……。

 五百重結乃に間違いがありませんでした。食堂の、人の群れの中に立ち尽くし、泣きそうな顔をしています。誰か人を探しているのでしょう。僕は彼女の探している人間というのが、僕に違いないというセカイの果てからの啓示を手に入れました。

 僕は立ち上がり、五百重結乃へと近づいていきます。人間が多すぎました。あらゆる人間の、あらゆる部位にぶつかりながらも、僕は歩を進めて、五百重結乃へと辿り着いたのです。

「五百重さん、五百重さん。貴女、僕を、え? 僕を、そう意味では、え? 探していませんか? もしも僕の過剰な自意識によって貴女がそう考えているに違いないと思っただけで、まったく真実ではないのであれば、どうか、鼻で笑ってください。僕は眼前から、ただちに立ち去りましょう」

 果たして、五百重結乃は、僕を探していたのでした。

「……ごめん……この前は……その……暴力……」

 どうやら、僕の僕による青菅のための作戦に、五百重結乃は協力してくれるように心変わりしたらしいのです。助かりました。青菅の考えた全ての作戦を嘲笑し、聞くこと自体が一つの徒労であると考えていた僕ですが、実は、もう五百重結乃に協力を依頼するということ以外に、作戦を思いつかずにいたのです。まったく、助かりました。

「いや、なに『理非無きときは鼓を鳴らし攻めて可なり』ですよ。理非はありましたが」

「コーシ……?」

 僕は五百重結乃の手首を引いて歩き出しました。ブレザー、シャツという幾重もの障壁を隔ててはいましたが、そこには人間の雌の柔らかさが確かにありました。けれども、僕は何も感じません。青菅であったらどうでしょう。青菅も五百重結乃では何も感じなかったでしょう。朝香葉月であれば、何かを感じたはずです。この二つの違いは何か?

 朝香葉月の二次性徴は教科書通り、あるいは教科書的予測をも超えて、人間の雌として完成されつつあるが、五百重結乃に関して言えば、二次性徴の二の字の片鱗を発見するのも困難という肉体の状態にある、という差異によるものでしょうか?

 違います。青菅が、朝香葉月の肉体に、美を、欲望を解消してくれる機会と機械を解釈しているからなのです。朝香葉月の肉に溺死したいと考えているからです。

 我が校のように巨大な高等学校ともなると、食堂も尋常でない数の人間に溢れかえるのでした。仮に今、五百重結乃とはぐれてしまったとしたら?

 そして、僕と五百重結乃の間に、時間という壁が出現したとしたら?

 その壁がまた五百重結乃に心変わりをもたらしたとしたら?

 それは、恐るべきことです。もう、僕には後がないのですから。

「わぁ……二度目……」

 二度目。確かに、このように、僕と五百重結乃が肉体の一部を積極的に接触させながら、目的地をともに目指すという状況は二度目でした。我々が幾度目かの人間という障害物を乗り越えた時、ようやく青菅が現れました。青菅は、僕の苦労も知らず、ラーメンの汁の表面に浮かんでいる油を一つに集合させて、その表面積を増やすという遊びに熱中していました。

 まったく友達が努力している最中になんということでしょう。

 席につくと、五百重結乃と青菅はお互いに会釈しつつ名前を告げ合うだけで挨拶を終えてしまいました。

 問題は青菅なのです。ここまでの全ては、数日前から今この瞬間までの僕の言動は青菅の心的問題の解決のためという大義に規定されていたのですから。しかし青菅は、五百重結乃に何も話を切り出しません。僕の隣に座っていた五百重結乃も、五百重結乃で、「隣……隣……」という意味不明な呪文を呟くばかりで問題を提起する役割としてまったく役に立ちませんでした。

 僕はラーメンの汁の海に浮かぶ油に対して集産主義の野望を実行しようとする男をみて昼休みを終えたくはありませんでしたし、「隣……いま……すぐ隣……」と呪術を行いつつ赤い顔をする婦女子にも興味はないのです。そこで、僕が話を切り出そうとした時でした。

 青菅が、ラーメンの汁の中に突っ込んでいた箸を持ち上げて五百重結乃をその先端で指し示したのです。おや、これは朝香葉月と自分をどうにか交流させてほしいという依頼をするための前ふりかなと僕は思いました。しかし、どうやら違うのです。青菅は相変わらず顔は俯けて、ラーメンの汁の表面を観察しながら言いました。

「五百重さん……あんた……」

 青菅の腕が、そして、その末端である指につかまれた箸が緩慢に移動します。それから、指し示したのです。この僕を。僕は軽い先端恐怖症でしたから、背中を冷たいものが駆け抜けて、心の自由を奪われたのでした。ラーメンの汁の表面を映してはいましたが、青菅の目つきは真剣でした。僕は思わず『全てか、無か』と叫んで踊りだし、青菅の真剣の炎を滅したいという衝動にかられました。ところで、五百重結乃は沈黙しておりました。

「こいつのこと……」

 一息。五百重結乃も息を飲んだようでした。それは何かの秘密を暴露されてしまう、ああ、待って……という人間の顔をしています。青菅が溜息をつきます。

「いや……やめとこう……」

 五百重結乃も溜息をはきました。青菅と五百重結乃、この間でどんな駆け引きがあったのでしょうか? 僕には想像することさえできません。

「あんたも変わった人だな」

 青菅が笑います。五百重結乃は頬を薄い血の色に染めて俯きました。なにをどうして青菅が鼻で笑ったのか、また、どうしてそれをうけて五百重結乃が俯いてしまったのかも僕にはわかりませんでした。もしかしたら僕が必死に五百重結乃を懐柔し仲間にくわえようと企んだ、そのはるか昔からこの二人は親密な間柄だったのではないか、と僕は考えてしまうくらいでした。そこで僕は前置きやら、説明やらを全てを省いて問題を提起することにしました。それほど仲が良いのであれば、二人でこの問題に立ち向かえば良いのです。

「それで、青菅君と朝香葉月の間に交流を生み出すための作戦について話したいのですが、良いですかな? え?」

「ああ、頼む」

「どうぞぉ……」

「五百重さん、我々の前に再び現れて、こうして会話をしてくれているということは、作戦への協力に同意したということでよろしいですね? え?」

「ん……そぉ……だね……」

「では!」

 僕は食堂の机を二回ほど叩いて、青菅と五百重結乃の注意を促しました。ボヘミアの伍長のような演説的効果を狙ったのです。青菅と五百重結乃は僕に釘付けになりました。狙いは成功でした。

「そもそもの問題は! よろしいか? 問題は! 問題は? 青菅と朝香葉月の間に一切の交流がないということです。このために発展の可能性も」

 僕は青菅に視線を飛ばします。青菅に対して強調しておきたいことがあったのです。すなわち、

「絶望の可能性も、肉体についての絶望の可能性も生まれないということです」

「わかった、わかったよ……。声大きくないか?」

「そこで、僕は青菅君に朝香葉月と交流を与えてやりたい。僕としては、青菅君に、恋愛やら恋やら愛というものの本質について覚醒していただきたいものですからね」

 五百重結乃が青菅を睨みつけていた僕の視界に入りこみました。小さく挙手しています。この光景を僕は小学生の時見たことがありました。それは、先生に気づかれたい、意見が言いたい、しかし恥ずかしい……そういう内向的な小学生の幻でした。

「本質についてのカクセー……?」

「つまり、文学やら詩の中にある、あらゆる創作作品の中にある恋愛やら恋やら愛というものは、まったく定義されていない、世間の中で漠然と共有されたお洒落な常識に過ぎない、ということであり、現実世界に適応する形で定義しようとすれば、限定しようとすれば、この性と暴力を徹底排除した現代社会に性交したいという欲望を密輸入するための方便に過ぎないという本質について、この青菅君に気づいてもらいたいのですよ。青菅君はそれこそ数理哲学者のように論理を重んじる人間だったのですが、今では論理を受け付けないので、朝香葉月との恋愛やら恋やら恋愛についての実践でそれに気づいていただこうと思いましてね」

「セイコー? サクセス?」

「いや、違うだろ、こいつが言っているのは……」

「セックス、ですね」

「セセセセぇ……!」

 またも五百重結乃は俯いてしましました。これでは話になりません。「せ……せ……」泣きそうな顔でまたも呪文を呟いています。もう僕は五百重結乃の相手をするのが面倒になってしまいました。

「それで、作戦内容ですが……」

「いや、フォローしろよ!」

「頑張るの……」

 五百重結乃はどうにか正常な判断力を取り戻したようでした。しかし、どうして性交という単語ごときであそこまで恥じらいをみせるのか、理解ができません。それは生物学的な必然を音で表しただけのものであり、それ以上の意味などありはしないと言うのに。セイコー。セイコー。もしかしたら、五百重結乃はピアノの足に靴下をはかせる人間かもわかりません。

「それで……作戦の内ヨーは……?」

「ああ、そうでしたね、そうでしたね。作戦の内容について話さなくていけませんね。ところで、人間と人間の交流というものはどのようなものでしょうか? 五百重さん」

「えぇ……! ん……お喋り……とかぁ……?」

「え? おしゃぶり?」

「お喋りぃ……!」

「失礼、失礼。あなた、声が小さいってよく言われません?」

「ん……言われるけどぉ……」

「確かに、我々、高等学校の生徒という身分で社会から許容される最も簡単な交流は会話でしょう。というのも、交流というのを一般化すると、そこにあるのは思想の交換、混合ですから」

「他はぁ……?」

「例えば健全な肉体を持つ男女であれば……」

「黙れ。黙れ。会話……ねぇ。なんだ、それ、俺が朝香に話しかければすむ話しだろ?」

 馬鹿な男です。青菅よ。君は馬鹿な男です。それができないから、これほどまでにこの僕が作戦を考えているのではないか。また、それができたとして、共通の話題が彼と彼女に存在するでしょうか? 存在しません。

「なら、いますぐしてきてください。いますぐに。はやく!」

「う……。それは無理だ」

「そうでしょう? そうでしょう? え? ですから、僕の作戦があるのです。僕は考えました。青菅と朝香葉月の間に交流を、具体的には会話やらを発生させ、かつ共通の話題やらに事欠かない様にするための作戦を……それは……すなわち……グループ交際!」

「グループ交際? 死語……?」

「いや、死語ではないと思うが……。死語なのか? グループ交際って……。つまり、お前は俺と朝香の間の交流を円滑にするため計画的に配置された人間の集合の中でそれを行いたいということだな? おまえ風に言えば、だが」

「そうです、その通りです。僕の考えたグループ交際作戦の登場人物は、僕、五百重さん、青菅君、朝香葉月、です。僕と五百重さんが青菅君を支援しつつ、朝香葉月をより良い方向に調整するわけです。一種の、関係心理学のレギュラシオン学派というところでしょう」

「いや、それ、うまい例えでも何でもないからな? わかっているか?」

「ならぁ……お昼ご飯……いっしょに……食べよ……?」

 病人のようなかすれた声で五百重結乃が言いました。それは、なにかとてつもない位置エネルギーを解放してしまった後の人間のようです。今の発言に、何を覚悟しないといけないことが含まれているのか、僕には不明でした。しかし、青菅は違いました。五百重結乃の撫肩に激励のための拳を軽く叩き付けながら、

「だってよ。それが一番良い気がするぜ? 俺のためにも、五百重さんのためにも」

 全ては、雌の肉体に目覚めながらも、それを隠蔽するための様々なイデオロギーを振りかざす青菅を再び真理の世界に戻すため、この企画があるのであって、五百重結乃は単に僕が頼み込んだことでしぶしぶ手助けを了承してくれた善人に過ぎないのであって、まことに申し訳ないことですが、五百重結乃に利益などないのです。その意味で青菅の言葉には無責任が含まれておりました。

 しかし、僕は耐える男です。僕は耐える男なのです。僕は五百重結乃の案をのむ事にしました。考えていたのは、多少、五百重結乃と似た様な作戦なのです。それは、何処かレストランやら何やらに休日、僕、青菅、五百重結乃、朝香葉月の四人で行くという作戦だったのです。この作戦にはメリットがあります。不確定要素の排除です。昼食を食べるのが何方にせよ、そこが我が高等学校の敷地内である限り、我々の作戦への、計測できない、不確定要素の侵入は避け難いのです。五百重結乃の案を受け入れはしましたが、それが僕には不安でした。それで、そのことについて五百重結乃に言うと、五百重結乃は、「なんとか……する……よぉ……」と言いましたので、仕方ありません、証拠や証明や論拠を提出するという命令を出せる身分でもない僕は、ただ了解しました、と返すより他ないのでした。

「それでは、五百重さんの計らいにより、我々は自然に、朝香葉月を含めた我々で自然に食事をともにすることが決まったわけですな。え? え? この摘要に文句、不満、反論がある者はいませんね? え? では、解散しましょう。それぞれ授業がありますからね」

 それから、僕は「お疲れさま。解散」と言いました。意外にも僕は、精神の安定のために形式主義を採用する類の人間なのです。この時も昼食を食べていた器にお辞儀をしたところでした。といっても、カップラーメンの残りの器ですが。食堂の商品は、新自由主義者に一億総中流の幻想が破壊されたこの現代社会における(これはもしかすると、頭『痛』が『痛』いということなのかもしれませんが)一般的プロレタリア家庭に養われている僕の自由に扱える金額からすると高いのでした。そこで、そんな消費手段から疎外された僕は、毎日という毎日、来る日も来ない日も、カップラーメンを食べて、昼食をすませていました。この情報がどうやら、五百重結乃の何かのアンテナに拾われたらしいのです。五百重結乃は、「ごちそうさま」と僕が箸を置いたカップラーメン容器に手をのばしたのでした。

「毎日ぃ……これだけなの……?」

 そして、誰ともなく呟いたのです。誰ともなく。そこで、僕は何も返事をしませんでした。なにも、五百重結乃の質問を頓挫させることで、五百重結乃を不快にし、そうして、五百重結乃が不快であるという想像から快楽を得ようと思った、とかそういうわけではないのです。ただ、青菅が答えるだろうと思って黙っていたのです。それよりも、僕の中には、朝香葉月の細長い手足が収束し、拡散し、再び収束し……ということが繰り返されていたものですから。朝香葉月は青菅をその非公式な伴侶として認めるでしょうか? 認めるでしょうか? 認めたとして何なのでしょうか? その時でも僕は変わらず、冷静な、絶対精神を目指し進歩し続ける人間の一人として、青菅に、恋愛だの、恋だの、愛だのという漠然とした、世間でなんとなく美しいものかのように扱われているものが極めて動物的で我々が類人猿であること証明するばかりの、取るに足らないものであるということを、青菅に対して証明し続けるだけです。

 そして『向上心の無い者は馬鹿だ』……と言ってやるのです。

「こいつは毎日カップラーメンか板チョコ一枚だぞ」

「お腹……減らないの……?」

「笠置が空腹を訴えたところを見たことがないな……。まぁこの通り無駄な肉がほとんどない人間だから。普段から食わないわけだ」

「でもぉ……身体に悪いの……」

「良いのですよ。僕は肉体という奴を自我の獲得以来憎み続けていますからね」

「ん……でも……」

 なにか言いたいことがあるのだが、烏滸がましいので、あえて遠回りに、迂遠に、それも緩慢に言葉を紡ぐことで、烏滸がましさへの免罪符にしようとしている人間のような雰囲気が五百重結乃にはありました。

 僕は、はやいところ教室に戻って次の授業の準備をしたかったのですが、五百重結乃がそんな様子でしたから、席をたつことができないので、たいへん困りました。それで、僕は助けをもとめて、青菅に視線をおくりました。青菅は一体、僕の視線に何をどう解釈したのでしょうか。どうしても理解できません。青菅はかつてない、頬の肉を釣り上げるという素人役者の微笑みを顔面に発生させつつ、こう言ったのですから。

「五百重さん、笠置に弁当作ってくれば? そんなに心配なら。それに、こいつを俺たち四人で食事する口実にすれば良いだろうし」

「いやいや、僕みたいな人間に労働力の結果を持ってくるとなれば、五百重さんは苦痛だし、それを口実にする、だなどと……五百重さんの名誉に関わりますからね、やめるべきですよ」

「下手でも……良い……?」

 この娘は僕の言葉の一部すらも聞いていなかったのでしょうか。何でもかまわないのです。何故って。僕はそんなことを依頼していないから。

「晩飯の残り物でもバケツに詰め込んで持ってくれば、笠置は喜んで食べるよ」

 そこには、相変わらずの素人役者の微笑みと素人役者の台詞を持ち合わせている青菅がありました。僕は、肯定の返事をするより他にはありませんでした。他には、なかったのです。

 さて、次の日の昼休み、僕と青菅は校舎の屋上に向かうことになりました。五百重結乃が、天気が良い時は、朝香葉月と昼食をとるため、いつも、校舎の屋上にいると言うからです。青菅は心なしか、静脈の目立つ、弱々しい血色の顔をしていました。くわえて、常よりも半分ほどしか、喋らないのです。不気味でした。しかし、朝香葉月を前にして、欲情してしまうよりはずっと良いですから、僕は今の青菅の状態について嘲笑することは避けました。時と場合さえ違えば、僕はおよそ考えうる限りの大きな声で、青菅についてその状態がどれほど特殊でみすぼらしいか、嘲笑し、罵倒していたでしょう。それぐらい、今の、子犬の様におとなしくなっている青菅というのは、常と比較すると異質なものだったのです。

 我々は屋上につきました。冬も終わり、次の季節が来ることもあり、また、昼間であるということも幸いして、あまり寒くはありません。さらに素晴らしいのは、今の屋上には、ただ二人の少女しかいなかったことです。

 それは五百重結乃と朝香葉月でした。五百重結乃がこちらに気づき、手をふります。僕はたしかに、青菅が身震いするのを認識しました。こういう時、僕はすかさず青菅に嫌みを言うことを一つの義務にしていました。しかし、僕は青菅に対して何ら言葉を放つことがありません。

 ありません?

 いえ、できなかったのです。僕は自分が恐ろしくなりました。恐ろしくて、血の涙すら流しそうになりました。絶対精神に至るための道程に大きく立ちふさがる障壁を、僕は認めたからなのです。そして、それが、その障壁というのが、僕自身なのではないかという、僕という物質なのではないかという、幻想を認めたからなのです。この幻想は確実に僕の中で強くなっていました。

 幻想?

 これは、あまりに現実的な幻想なのでしょうか?

 そうでないとすれば?

 これが、精巧な幻想などではなくて、粗雑な現実なのだとすれば?

 そうだとすれば、僕は青菅と同じになってしまうでしょう。肉欲の表現としての『恋愛』やら『恋』やら『愛』という記号に囚われた青菅のように……。

 というのは、僕もまた青菅が震えるのと同じように、同じ内的原因をもって身を震わせているように思われたからです。僕は僕の視覚の限界までの能力をもって、朝香葉月を自分の精神世界に閉じ込めようとしました。

 僕は、不断の努力で、朝香葉月の風で舞う髪、その髪を押さえるために側頭部に添えられた白く細長い指、陽光に艶をしめす脚、スカートやブレザーの表面に発生した陰影、それらを自分の精神世界の内に獲得しようとしたのです。もう、僕の中には、青菅も、小さく手をふる五百重結乃の映像も消えていました。僕の狭い脳の中には、朝香葉月の亡霊がおよそ可能な限り、詰め込まれていたのですから。

 僕は見逃しませんでした。朝香葉月の口元が笑いを示すのを。僕は見逃すことがありませんでした。朝香葉月の目が弓のように細められる瞬間を。僕は、朝香葉月の声を聞きました。朝香葉月の声だけを聞きました。

「はやく、はやく!」

 我々と朝香葉月の間にはまだ距離がありました。これはきっと、青菅にとって幸運であったと思います。青菅と同じような精神状態にある僕にとってあまりにも幸運だったのですから。青菅にも幸運として作用することは間違いのないところなのでした。

 我々には時間が必要でした。朝香葉月にその心的現象を操作された我々には、時間が必要でした。

「お前が緊張する必要はないだろ?」

 青菅が僕の肩を叩きます。もしかすると、青菅が僕の肉体に触れたことで、僕の心理が青菅に対して流失するのではないかという空想をした僕は、すぐさま青菅から距離をとりました。

「え? なに、いやに肉感のある女だな、と思いましてね、朝香葉月がね、え? ああいう人間の雌が好みなわけですか、え?」

 我々は歩き出しました。

 青菅は手の平に爪を食い込ませながら。

 僕は唇を震わせながら。

「青菅君、やめなさい、やめておきなさい、女との交際など、やめておきなさい。性欲に由来しない、動物的本能に由来しない、純粋に文学的な他人を思慕する気持ちなどありはしないわけですからね、え? まさか、あなた、え? 小説や戯曲の世界と我々のこの物質世界が同じ因果律で構成されていると信仰しているのではありませんよね? え?」

 青菅は黙って歩き続けます。僕は、大変な不安にかられました。青菅の修養や道についての不安ではありません。告白しましょう。そうではないのです。説明ができません。ただ、大変な、しかし漠然とした不安だけがありました。僕はどうにか青菅の朝香葉月を求める情動を頓挫させなくてはならないと思い始めていました。そうしなければ、それこそこの不安が確固とした悪夢へ変貌するであろう、という予測もまた、確かにあったのです。僕は喋り続けました。

「青菅君、帰りましょう。あの女どもとの接触はあなたに破滅をもたらしますよ、え? え? やめましょう。あなたが――」

 青菅が歩くのをやめました。ベンチにいる朝香葉月と五百重結乃は驚いているようです。僕も驚きました。それが突然だったものですから。

 そしてそれが、あまりに、ある思想信条のために命をも投げ出さんとする、革新と確信のために死んでいった者達だけが持ちうる態度に似ていたからなのです。

 その猛禽類的眼。

「笠置」

 その冷たい声。

 普段の青菅とは違う青菅が僕の眼前にいました。僕は息を飲みました。

「俺は、信仰しているのさ、非神秘主義的でありながら、同時に反物質主義的な存在とか様式を」

 冷たい汗を腋の下に作りながらも、僕は言い返します。

「馬鹿馬鹿しい。ありえると思いますか? 論理以上の存在や様式がありえると思いますか?」

「あり得るさ。あり得るよ。それよりも、俺には、常に論理的でなければならないというお前の態度こそが、非論理的に思えるがね。笠置、俺には、お前こそが何かの情念に囚われているように見える……。どうした? 朝香葉月っていうのは、もしかして、最悪な女だったりするのか?」

「いやっ……いやっ……」

 あるいは、朝香葉月がいかに人間として最悪なのか、という作り話を僕は作れば良いのかもしれません。けれども、僕はそういう事はしたくありません。そもそも、どうして、僕がそういう事をしなければならないのでしょう。そもそも、どうして、僕は青菅の愛の実在論について反証を組み立てねばならないのでしょう。青菅の、愛の実在論の証明を挫折させるため? では、どうして、それを挫折させなければならないのか?

 僕は理解しました。完全に理解しました。電撃的に理解しました。

 朝香葉月という、諸々の感覚器官への信号を受けて、僕の精神状態にどんな生成変化が起きたのか?

 それはわかりません。

 しかし、その変化の幾何学的結果が、青菅と同じであるということだけはわかります。わかっていたのです。変化の直後に、そのことは理解していました。言語化できていました。しかし、その結果がもたらすものを、想像できていなかったのです。その結果がもたらすものとは?

 青菅との対決……!

 青菅との対決です……!

 恐るべきことでした。

 青菅との対決?

 だとすれば、今までの僕が組み立てた論理は、すべて青菅との対決を避けるために捏造されたものだったのでしょうか。いえ、捏造したものだったのでしょうか。

 しかし、いったい、どんな人間が、物質世界という枠組みを超越することができるでしょうか。人間は動物なのです。獣なのです。遺伝子の船なのです。利己的な遺伝子の奴隷なのです。そそりたつ性器なのです。

 けれども一方で、この論理が、捏造されたものではなく、現実に作用するものであるとすれば、僕に何ができるでしょう?

 僕に、青菅を止めるどんな論理や理屈を採用することができるでしょう?

 僕もまた、物質の、肉体の動員するままに、朝香葉月をもとめているというのに?

 いや、今や、血の涙を流しながら、物質や肉体を超越した思慕の念というものが存在するはずだ、という信仰を獲得したいと願い始めているというのに!

「どうしたの? 喧嘩? 二人とも、凄く怖い顔をしているけど」

 いつのまにか、我々のすぐ近くに、朝香葉月は立っておりました。朝香葉月は、僕の胸を手の平で軽く叩きました。

 その温度に、僕の世界は回転してしまいました。それでも僕は、朝香葉月の額だけは視界から逃す事がありません。それから、革靴の表面も……。革靴の表面の、微細な埃や光の反射ばかりを見ていたからでしょう。僕は朝香葉月が眉をさげた、他人を心配する時に用意された顔をして、僕にまた一歩近づくという確定された未来を手に入れました。そして、手に入れた刹那、僕は全速力で屋上から、朝香葉月から逃げ出したのです。

 あるいは、僕を圧迫するすべての存在者から逃げ出したのです。

 青菅と朝香葉月の関係の発展やら後退やらという事情について、僕はもう関知したくありませんでした。僕は辛かったのです。端的に申しましょう。僕は朝香葉月を獲得したい、と思い始めていたのです。そしてそれは叶わぬ願いであることも僕は理解していました。そのために、僕にはただ、想像を絶する、心の痛みだけしか残されなかったのです。

 端的に言い表せることと、そのもたらすものの度合いとは比例関係にはありません。いえ、むしろ、反比例の関係にあるとすら言えるのです。ただの一言が東西の壁を貫通することもありえるように。

 学校の敷地から出ようと思えば出ることができました。校門というのは、警備員も置いていない、遅刻者のために解放された門ですから、僕はそこから外の世界へといつでも逃げ出すことができるはずなのです。それでも、僕は逃げませんでした。あるいは、逃げられませんでした。僕はどうにか、這々の体でいつかの体育館の裏にある空間に逃げ込んだのでした。

 体育館の裏には、体育倉庫へと至る階段がありました。コンクリートで作られた、腰掛ける物として使用するにはあまりに冷たいそれに、僕は腰掛けました。どうしても、嘔吐がしたかったのです。内蔵が外界を拒絶するままに、全身をまかせたかったのです。そうして、僕は嘔吐いたしました。

 朝食は緑茶を一杯飲んだだけ、昼食はこの通り会食の現場から逃げてきてしまったので、食べておりませんでした。僕の咽喉を焼きながら出てきたのは、ただ液体だけでした。

「――君……――置君……笠置君……」

 僕は地面を湿らせ、微妙な傾斜に従いながら何処かへと消えていく、自分の生み出した液体を注視していたため、その声に気づきませんでした。

 僕のすぐ隣に、五百重結乃が座っていたのです。そして、僕の背中をさすりながら、僕の名前を念じているのです。その繰り返された僕の名前の呪文によって、僕はどうにか回復しました。僕はこの段階でも、婦女子の一般的嗜好というのを理解しておりませんでした。しかし、西洋の、近代の枠組みから逃れた愛しき熱帯の人々も、おそらく人間の吐瀉物はみたくないでしょう。ですから、衛生の観念が、生権力と結びつき異常発達した現代人であれば、なおのことです。そこで僕は靴で(解剖学的には体外ですが)体内から自由を謳歌するため飛び出してきた黄色い液体に土をかけました。

「五百重さん、いつから?」

 僕の喉は酸で焼かれたばかりでしたので、まともな声がでていなかったらしいのです。五百重結乃は僕の言葉を無かったように扱いました。

「……どう……したの……? 急に……」

「いえ、なに、体調が悪くなりましてね。アントワーヌ的状況に……」

「自由の刑……? それより……保健室……いこ……」

「あの養護教諭について言えば、僕がかなり好きな人間の部類ですね。しかし、どうにも、保健室で解決できる問題ではない……。医療の度合いではなくて……。僕の問題で言うと、医療の出る幕がないのですよ。誰が実存主義の問題を医学的に解決できるでしょう?」

「でも……より良い……という事もあるの……」

「いやいや、ありはしないのですよ。ところが、ね。全てか、無か。この二択なのですよ。そこで、僕はこの後の授業を欠席することにいたします」

「……ん……なら……わたしも……」

 そう言ったきり、五百重結乃は沈黙しました。僕も沈黙しました。喋ることがないから、当然の帰結です。これはもう完全に、僕の偏見で、まったく変更すべき感覚なのですが、僕は婦女子と沈黙を共有する日は永遠にこないだろうと予測していました。しかし、それは今、打ち砕かれました。僕は五百重結乃とあまりに心地好い沈黙を共有していました。青菅ともこれほど心地好い沈黙を共有することはありえないでしょう。正確に言えば、もう、ありえないでしょう。ありえたかもしれない。青菅と、これまで通り、絶対精神への道を歩き続ける可能世界をありえたかもしれない。

 いいや。

 ありえたのです。

 しかし、その可能世界は、この僕がその手で自ら二度と収束不可能なまでに破壊しました。もう、ありえないのです。

 もう一度、臓器という臓器に痛みが走った時でした。温かいものが、僕の手に触れました。それは、五百重結乃の手でした。それは、まったく、僕よりも小さくて弱々しいものです。しかし、僕はそれに縋り付いて涙したいという衝動に襲われました。

 もうあとちょっとでも、僕が逃げ出して、物理的に距離をとった連中について考察したら、僕は本当に、僕の私的所有を止揚して涙しなくてはいけないでしょう。鼻水と涙を、五百重結乃の小さな手にまき散らすでしょう。僕は僕の注意を、僕をここまで追いつめた存在から別の方向へ変えることにしました。

「青菅は完璧な男です。僕よりも、人間として、数倍も優れているし、数倍も美しい。いや、形状についてだけではなくてね……」

「……ふぅん……」

 僕から能動的に、人間と人間の間に生まれた沈黙を壊すというのは、珍しいことでした。僕はそういうことをするのは好まないのです。むしろ憎む立場にあるものでした。

「本当に、まったく、最高の男ですよ。え? わかりますか? え? この僕が、他の全てを批判することで自分の正しさを証明しようとしたこの僕が、ですよ……この僕が友人として選んだ男ですよ。むろん、友人という集合をどう限定するか、という問題はありますけどね……。それでも、青菅の価値は変わりませんよ。あの男は……現代の賢人ですね……それでいて、『ヒト』をわかっているのですよ……」

「……そう……ん……そうだね……」

 五百重結乃の、僕の手を握る力が強くなりました。それこそ痛みを感じるほどです。

「青菅と朝香葉月は、今、どうしていますか?」

「ん……笠置君を追おうとしたのを……私が止めて……青菅君と二人で……食事中……の……はず……」

「そうですか。なるほど。僕はね、あの二人はたぶん、すばらしい持続的かつ先進的な関係を作り上げるであろうと予測していますよ……なぜって――」

「笠置君」

 不気味なくらい明瞭な声で五百重結乃が、僕の名を呼びました。これまでにない、そのはっきりとした、凛とした、かつ類いのない緊張を含んだその声に、僕は旧支配者の影を視たような恐れを抱き、自分の主張をやめました。

「はい……?」

「ここに……葉月が……来て欲しいって……そう……思った……?」

「あの……僕は……五百重さんが来てくださって……それで……話を聞いてくれて……それだけで嬉しくて……」

 これでは、まるで、五百重結乃の喋り方を真似しているようでした。

「んーん……思った……よね……?」

 五百重結乃の顔が、今や、すぐ近くにありありました。幾度も近づく機会はありましたが、これほど我々が物理的に近しくなったことはありません。僕の青ざめた顔が、五百重結乃の瞳の中に閉じ込められております。僕は、その青ざめた顔を救出しなくてはならない、という童話を思いつきました。

「はい」

 五百重結乃は笑顔でした。何処までも、何所までも、笑顔でした。これにもまた、僕は恐怖しました。実際、僕は膀胱が少し緩んだぐらいなのです。

「……ごめん……なの……」

 ついに僕は尿の幻臭を得ました。

「でも……きっと……笠置君は……葉月がきても……きっと……」

 まともに応対できなかったことでしょう。まともに、会話することはできなかったことでしょう。それは、正確で、正当な推測でした。そこで、僕は、

「ありがとうございます。五百重さんが、代わりに来たのもまた、僕への配慮だった……いえ……理解できます。理解できますよ、そういう意味では、え? え? そして、感謝すらしていますよ」

 言い切った。しかし、五百重結乃は何も言葉を返さない。再びの沈黙。今度の沈黙について言えば、僕はこれについて楽しんだりする余裕はなく、ただ恐怖をそこに解釈したのみでございました。というのは、五百重結乃は、先ほどから、僕に、自分の存在が朝香葉月の代替で、しかも醜悪な代替物だと僕が考えているだろう? と看破しようとしたその瞬間からの、代わらぬ笑顔なのです。僕はさすが泣きながら微笑した少女だな、と思いました。

「そっかぁ……ん……そっかぁ……そうだよねぇ……」

 五百重結乃は、僕でもなく、しかし、何かの物体でもなく、まだ収束しない波動としての未来を見ておりました。

「そうだよぉ……ん……そうだねぇ……」

 五百重結乃が僕の肩に顔を付着させます。目を隠し、口元を影の中に連れ込んで。僕は僕のブレザーの肩が濡れていく速度を理解しました。

「泣いて……いるのですか? 五百重さん? 僕のために……泣くのですか?」

 五百重結乃は、涙と鼻水に顔面を弄ばれるままにしながらも、なにかのあまりの愚かしさに驚愕している、という顔で僕をみました。口をあけ、目を大きく見開いたその顔は、僕に言わせれば滑稽ですらあります。しかし、勿論、滑稽ですね、と指摘する権利もその権利を手に入れるようと努力する熱意も僕にはありません。ですから、僕は何も指摘することはありませんでした。

 それから一度全身を震わせ、何かに気づいたらしい五百重結乃は先ほどまで自分が濡らしていた肩、つまり僕の肩を小さな、しかし存外に頑丈な右の拳で思い切り殴ったのでした。それは見事な、あまりに見事な右のストレートでした。

「馬鹿……だね……! 度し難い……度し難い……馬鹿だね……! 笠置君のために……泣く訳がないよ……!」

 それだけ、死に急ぎながら生き急ぐ連中と比較すればゆっくりではあるが、しかし、普段の五百重結乃と、少なくとも僕の知っている五百重結乃と比較すれば、極めて早口に言うと、五百重結乃は再び僕の肩を濡らす作業を再開したのでした。

「笠置君が……」

 泣いているために、よく聞き取ることができませんでした。いつものか細い声に加えて、嗚咽という雑音が入り込んでいるのです。どうしても、聞き取ることができません。

「シアワ……」

 それから僕は全感覚器官を動員して、五百重結乃の言葉を汲み取ろうとしました。しかし、どうしてもわかりません。やがて五百重結乃はなんら発声することがなくなり、我々は再び沈黙の守護に包まれたのでした。

 我々はどれくらい、体育館の裏にいたでしょう。それこそ、座っていたコンクリートの階段に心臓を与えてしまうくらいの時間いたと思います。

 我々が校舎に戻る時、校舎に人間はほとんどいませんでした。体育館や校庭から荷物を取りに来る部活動の連中、仕事を少しでもはやく終わらせようと各教室の窓の鍵が施錠されているかどうか確認する当直の先生ぐらいのものでした。

 太陽が日本方面に光線をおくる仕事を終える時間が近づいておりました。僕は、五百重結乃に帰り道をたずねて、あなたの家の近くまで送りますよ、と言いました。どうも周辺の治安を守る官憲の話によると、下半身の血流が活発な中年男性がその孤独感をどうにか解消しようと躍起になっているらしいですから。そうすると、五百重結乃は、「ん……ありがと……」と先ほど僕の肩を殴り罵った者と同じ者とは思えない声で言いました。

 そこで、我々は中庭を経由して、校門にでることにしました。我が校の校舎は、今は舌を噛み切って自殺してしまった神様の視点からすると、凹の字に見えます。中庭というのは、この口のへこんだ部分にございました。それで、その場所から、全ての棟の屋上の、一部分だけを垣間見ることができるのでした。そのためでしょう。五百重結乃が屋上にいる、朝香葉月と青菅の姿を発見したのは。

「あ……」

 五百重結乃の視線を辿ると、そこに朝香葉月と青菅の姿があったのでした。朝香葉月はフェンスに指をからませて空を見ており、その朝香葉月のすぐ背後に青菅の姿がありました。

 僕は走り出しました。これはもう、情念は論理に勝る、ということの一つの証明でしょう。僕の体育の成績はよろしくないものでした。しかも、それは決して何かの主義思想からそうなるよう仕組んだわけではなく、むしろ僕の可能な限りの運動をした結果でした。つまり、その成績というのは、正確に僕の身体能力を表現していたのです。

 それで僕は必死に走ったのですが、五百重結乃はその小さい身体ながら、僕に言わせれば憎らしいほど悠々と僕の背中についてくるのです。息がすっかり荒くなっていましたが、五百重結乃に言いました。

「意外と、ぅえ、意外と、走れるのですね、ぐぇ、ひぃひぃ、五百重さん、あなた」

「ん……たぶん……相対的な問題……かなぁ……」

 僕はなかなか詩的な言い回しで五百重結乃に僕の運動能力の低さについて罵倒されたりしながらも、どうにか一瞬たりとて足を休めず、屋上へ向かって走り続けました。

 屋上へ出るための扉は半開きです。おそらく、これは奇跡とか魔法とかと呼ばれる現象の一つのためでしょう。僕はそこから、屋上で繰り広げられている有象無象を視認することができました。五百重結乃の息を飲む音が、すぐ近くで聞こえました。扉の隙間から屋上を覗き込むこの僕の胸の下から、さらにまた屋上を覗き込んでいたのです。

 僕は?

 僕は息を飲むこともしませんでしたし、驚くこともありませんでした。何故って、僕は科学者なのですから。

 扉の隙間から我が友の声が漏れだしました。

「好きだ」

 わぁ……という五百重結乃の声がしましたが、僕はそれについて、その意味するところを解釈したりしている余裕がありませんでした。僕は恐るべき自己増殖する情念の運動体に脊髄を犯されていたのです。僕は今すぐ屋上へ飛び出して、青菅の告白も、そして、それを受けて笑みを浮かべる朝香葉月も滅茶苦茶にしたい、と思ったのでした。

 愛などというものは、恋などというものは、恋愛などというものは……貴様等が考えるような……肉欲に依存しない純粋な思慕の念などありはしない……! と二人の前に出て怒鳴り散らしてやりたかったのです。けれども、僕はあと一歩が踏み出せずにいました。あと一歩。二人の未来を滅茶苦茶するための、もしくは僕と彼および彼女との関係を滅茶苦茶にするための後一歩が踏み出せずにいたのです。

「駄目っ……駄目ぇ……」

 五百重結乃は僕の腰にすがりついてきました。しかし、これが、後一歩踏み出せない理由ではありません。本当にその小さくて細い体躯通りの軽い娘で、いくら筋力のない僕とはいえ振りほどき前進するのは不可能ではなく、むしろ容易なことでした。ですから、これは後一歩踏み出せない理由にはなりえません。

 では、どうしてか?

 おそらく、これはおそらくですが、いや、そうであって欲しいのですが、朝香葉月の顔も、青菅の顔も、恐ろしく神々しかったからでしょう。僕は疲労とその神々しさへの畏怖から脚が、足が震えて、その場にしゃがみ込みました。

「笠置君……」

「僕は、信じていません。肉欲に依存しない、純粋な思慕の念など信じていません……。恋だの、愛だの、恋愛だの、それらは、最後には和姦に至りたいという連中が、その道程を隠すための方便だ! 嘘っぱちだ! 薄汚い、薄汚い粘膜への回帰願望だ……! それだと言うのに……! ああ! ああ! 僕はそれを認める! 僕の朝香葉月への想いはただ、薄汚い胎内回帰願望の発露だと認める! だから、僕は青菅とその専属淫売を批判させてもらう! 青菅の奴は、僕を裏切った!」

「そんなことないよ……」

「何が、そんなことがないと言うのですか? え?」

「きっと、物語の中みたいな……綺麗なものが……この世界にも……あるよ……じゃなかったら……どうして……こんなに悲しいの……笠置君の失恋だもの……嬉しいはずなのに……はぁ……なんだろ……すごく悲しいの……」

 どうして五百重結乃が僕の失恋とやらで利益を得るはずだったのか、僕にはいまいち理解ができませんでしたが、しかし五百重結乃が悲しんでいるのはわかりました。

 その瞳が、憂いを帯びているのです。その縁が、扉の隙間から差し込む夕日に輝いているのです。

 この段階でも僕は青菅を罵りたい気持ちで一杯でした。今すぐに、その粘膜への願望を暴露してやりたいという気持ちで一杯でした。

「お祈りしよう……二人が……」

「二人が、何ですか? 二人の何を祈るというのですか? え? もしかして、ナニを祈るのではないでしょうね?」

「ん……幸せになれるように……」

 この瞬間、先ほど、体育館の裏で、五百重結乃が言おうとして果たせなかった言葉を理解しました。そして、それが、一つの行為、祈るという行為に連なる言葉であることを理解しました。すなわち、あの時この少女は何の見返りも期待せず、祈ったのです。あの時は、手の形を見ることができませんでしたが、きっと、今のようにその指は組まれていたでしょう。

 ですから、涙してしまったのです。

 僕は涙してしまったのです。

 僕は祈りの形式を知りません。

 当然です。かつて人の幸せのために祈ったことなどありはしないのですから。その報いが、これなのです。

 そこで瞳を閉じることにしました。

 願いの純潔を守り、祈りへと昇華するために。

 結論としては、

「青菅君と……葉月が……幸せになりますように……そして……笠置君に……」

 存在したのです。

「祝福を……」

 僕が否定し、青菅が信じ、五百重結乃が試みた、それは。

「祝福を……」

 存在したのです。

 こんなにも、明瞭な光芒をもって存在したのです。

 そして、これからも存在し続けることでしょう。

 あらゆる悪意と誤解と嘲笑にさらされながらも。

 存在し続けることでしょう。

 僕の肯定、青菅の信仰、そして一人の少女の実践という形で――

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現代恋愛の神話と構造 他律神経 @taritsushinkei

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