真午の柘榴
淡島ほたる
真午の柘榴
俺の心臓のうえに、あなたの大きな右足がある。痛々しい傷ばかりがならんだ、骨ばった大きな足がある。あなたの白っぽい爪先をみながら、俺は先刻たべた柘榴のことを思った。あの紅い実はこの不健康的な足に、じつに映えるだろうと思うのだ。
うらさびれた湯屋。膝のあたまにふれる湯の熱さ、「肩まで浸かれ」と俺を叱る、彼の低い声。
「
掌が熱い。あなたはしばらく黙っていたが、やがてちらりと俺を見遣るとすんと鼻を鳴らした。汗ばんだ髪の毛が頬にはりついている。遊びを終えて家路につく、夏の日の少年のようだと思った。
「出向くなら、あすの暮れだ。雨が降るほうが都合がいい」と、あなたはひとことそう言った。胸のなかの泉が熱くたぎった。夢にまでみた場所へあなたと往けるのだという実感は、春雷のように身体ぜんたいを駆けた。
俺は台所に立って、ふたりぶんの水をコップについだ。こぼさないように円卓に置く。あなたはそれをほとんど息継ぎもなしに飲みほす。あなたの体躯に水がそそぎ込まれるたびに、大きな喉仏が虫のようにうごめいた。
春鯨とは海のそばにある建物だ。真っ白で正方形の、箱みたいな外観をしている。人が出入りしているのはこの何十年のあいだ一度もみたことがないと、ある船乗りがおしえてくれた。春鯨は潮風に吹かれて、およそ百年前から存在していたらしかった。
なんの所縁もないこの地に恋慕のような情をいだいた自分を、軽々しく思った。俺は、どうして。そう思う気持ちと、やっと自分が望んでいた場所に来られたのだというよろこびが、同時に襲ってくる。
飴、要りませんか。すうすうしますよ。
薄荷味の飴がはいった小壜を巾着からだして軽くふると、あなたは頷いた。俺は飴玉をふたつ取りだして、ふたつともあなたに渡した。
汽車のなかに居ても雨は降る。車内の熱気と湿気で火照った頬に、雨粒がいくらかあたって冷たかった。十月、夕刻の雨は気配を残すようにしつこく降りつづける。空は灰色で、遠くに見える森もかすんでいた。錆びた窓は半分ほど開かれていて、ものを燃やす臭いが鼻を刺した。だれが持ちこんだのかわからないラジオが場違いなあかるい声をあげる。延々と七五三の話がおこなわれていて、不愉快だ。
はれがましいことは、いつまでたってものこしておきたいですねえ。そうですねえ、やはりじんせい、ときがふるごとに、おもいではうすまってゆくものですから。
「閉めますか」
俺の言葉に、あなたは首を横に振って、
「構うな」
と低くつぶやいた。窓の外にひろがる、変わりばえのしない田園風景。あなたはそれをじっとみつめている。その眼にはたしかに、怒りに似たものが滲んでいた。
そこに、春鯨に、あなたにとって触れたくはないなにかがあるのではないですか。まただ。また訊けない。
「あまり、身体を冷やされてはいけません。寒くなったらいつでも言ってください」
俺がそう言うと、あなたはようやく憑きものが落ちたように息をついて「ああ」と応えた。その横顔はもう、寸分たがわずいつものあなただった。
*
俺の腕にきざまれた刺青を、あなたはただの一度だって腐さなかった。ある晩、浅いまどろみのなかで仄かな熱を感じて目をあけた。睡魔が勝ってふたたび意識が溶けそうになる寸前、なんだろうかと考える。
しんと冷たい掛け蒲団のうちがわで、あなたの手が、刺青にふれているのだった。俺はその一時、あなたのまなざしをみた。あなたの眼は暗闇に置き去りにされているはずなのに、なぜだかたしかに感じた。慈しむような温度であなたは、俺をみていた。
あなたは建物の扉を開け放つと、おおきな声で女の名をよんだ。奥から出てきた女は、麻布の着物を羽織り、手のひらに臙脂色の線香箱をのせてやってきた。あなたは女からそれを受けとると、懐からいちまい、札を取りだして渡した。
あなたは女が言葉をひとことふたこと発するたび、喉からやさしく笑った。
「……なにも、おまえが波濤にあらわれに出かけたことは、さすがに言ってはいないさ」
女はほがらかに笑う。頬はちょうど、美しい桃のようにあかるく朱が差していた。俺は彼女をみながら、もしかしてあなたがここへ来たくなかった理由は、この女に要因があるのではないか、と考えた。
「……さあ、行くか」
そう振り向いたあなたの表情は目眩がする程にやさしく、柔らかで、混乱する。
どれがほんとうのあなたなのですか。どうしてあなたは、俺と生涯をすごすことを決意してくれたのですか。訊けないことは積もるばかりだ。
ぬるい風が、湿った砂浜を駆ける。知らない地ではあなたの後ろ姿だけが大きく、 やけにさびしく映った。
真午の柘榴 淡島ほたる @yoimachi
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