雨降りは憂鬱
八枝ひいろ
第1話
「あたためてください」
フードの中で濡れそぼった前髪を顔に張り付けた、見知らぬ女が立っていた。体をすっぽり覆うレインコートは暗い緑色で、真夜中の蛍光灯の下、人型に黒く塗りつぶしたように見えた。
俺は安易にドアを開けたことを後悔して、ちっと舌打ちした。うつらうつらしていたとはいえ、独居のアパートでいきなり鍵を開けるのは不用心だった。
「あたためてください」
女はもう一度言った。寒さに弱っているのか、ひどく平坦な声だった。
面倒臭いことになった。寝不足に痛む額にしわを作ると、俺は不機嫌な声で言った。
「他を当たってくれ。俺は眠いんだ」
女は黙っていた。しかし、一歩も動こうとはしなかった。俯いて表情は見えず、小さくとがった鼻先だけが電灯に照らされている。
そのままドアを閉めようとして、俺は手を止めた。通路が狭いためドアは内開きになっているのだが、いつの間にか女が目と鼻の先に立っていて、どいてもらわねばドアを閉められないのだった。
「おい、わかったらどいてくれ」
声を荒げても女は動く様子がなく、やはり無言だった。耳を澄ませても近くの幹線道路を行き交うエンジン音と、ざあざあ降りしきる雨音が全てだった。大袈裟なため息をつくと、息はたちまち凍りついたように白んだ。
流石に突き飛ばしてまで閉め出すのは躊躇われた。かといって、このままドアを開け放したまま問答していればこっちまで凍え死んでしまう。それくらい今夜は冷え込んでいる。俺は悪態をつきながら、渋々体を引いた。
女は小さく礼をして中へ入った。俺はその横でがちゃりと音を立てて鍵をかける。なんとなく不安に駆られて、ドアチェーンも付けておいた。振り返ると、つるりとした女のふくらはぎが剥き出しになっていた。艶めかしい肌は冷えきって、生気のない大理石の色をしている。
女がそのまま上がり込もうとしたので、俺は慌ててタオルを引っぱり出して渡した。女はばさりとフードを下ろして顔を拭く。露わになった長髪は水を含んで黒々としていた。その髪を絞るように拭き、最後にコートの水滴をはたいて落とすと、女は俺に向かってぐいっとタオルをつき返してきた。
礼も言わないのか。ひったくるようにしてタオルを奪った俺は、少々頭にきていた。そのまま洗濯機に突っ込もうとしたところで床が濡れているのに気が付いて、仕方なしにかがみこむ。
と、女の素足が目に入った。不審に思って玄関を見てみると、見慣れたスニーカーがひっくり返っているだけだった。俺はいぶかしむ。
「お前、靴履いてなかったのか?」
女はこくりと頷いた。俺は呆れて、土足で上がったことを怒る気にもなれなかった。
「何があった?」
女は答えない。
苛立ちは募ったが、俺の怒りは多少冷めた。雨降りの深夜、裸足でうろつき回っていたのだから、よほど切羽詰まった事情があるのだろう。とんでもなく無愛想なのは警戒心からのことかもしれない。
「足も拭け。床を汚されたら迷惑だ」
タオルを押しつけると、女は素直に従った。小ぶりの足は意外にもさほど汚れておらず、ふっくらと丸っこく真っ白なので、どこか餅を思わせた。片足立ちになってふらふらしながら足をぬぐうと、女は再びタオルをつき返してきた。俺はそれを受け取って、洗濯機に放り投げる。
フードを払った女の顔には目を見張るものがあった。小さくとがった鼻、すっきりと形のいい顎。長い睫毛に覆われた目は澄んでいて黒真珠のようだ。柔らかそうな頬は化粧っ気がなく青白かったが、つるりと滑らかで透明感があった。相変わらず長い黒髪が額に張り付いている。
余程寒いのだろう、コートも脱がずに女はひたひたとフローリングを踏みしめて歩き、ちゃぶ台の前に腰を下ろした。俺はエアコンの設定温度を上げて、ベッドに座る。
「あたためてください」
何をすればいいかと考えあぐねていると、女が言った。
「わかったわかった」
とりあえず女に毛布をかぶせて、俺はキッチンに立った。茶でも出すべきだろうが、生憎そんな習慣は持ち合わせていないので、白湯で我慢してもらうことにした。薬缶に水を注いで火にかけ、沸くまで待つ。
しかし不気味な女だ。口を開いて言うことは、『あたためてください』のただ一つ。意思の疎通はできているようだが、明らかに会話を避けている様子だった。レインコートを着ているから雨が降り出した夕方以降に外に出たのだろうが、深夜三時まで女一人でうろついているのは、あまり褒められたことではないだろう。
当の女は頭から毛布に包まって、こちらには背を向けていた。丸まったピンク色の毛布の下から足が突き出ていて、正座をしているのだと分かる。
しゅ、しゅっと薬缶が息を吹き始めたので、やかましい笛の音が鳴る前に火を止める。マグカップに注いで運ぶと、湯気が白くたなびいて糸のようだった。換気扇のスイッチを切ると、がたんと音がする。
「で、いつまで居るつもりだ」
欠伸を噛み殺しながら訊いた。正直もう寝たかったが、得体の知れないこの女について、少しは知っておきたかった。
女は湯の入ったマグカップで手を暖めながら、目を半ば閉じてじっとしていた。寝ているのかもしれない。白い湯気が女の額に吸い込まれていた。
この部屋は二階だ。俺は考える。そもそも女が雨宿りを求めていたとして、いきなり俺の部屋にやってくるのは不自然だ。普通は下の階から回るだろう。いくら夜遅い時間とはいえ、俺以外に起き出したやつもいたはずだ。何らかの理由で住人を知っていたとしても、わざわざ野郎の部屋に上がろうとは思わないだろう。確か、二つ隣には女が一人で住んでいたはずだ。
「お前、ひょっとして俺に用があって来たのか?」
女の指がぴくりと動いた。ぎこちない動きで湯を口に運ぶと、女はふうっと息をついた。
「あたためてください」
またか。
「悪いが、俺にもう出来ることはない。無理に追い出したりはしないが、気が済んだら帰ってくれよ。俺はもう寝る」
ふわあと大きく欠伸をして、俺は電灯の紐を引いた。カチッ、カチッと音がして、夜の帳が下りる。知りたいのはやまやまだし、美貌の女と二人きりというのはそう巡り合えることではないだろうが、俺は気味が悪くてこれ以上話したくなかった。
女はまだ寝ないかもしれないので、オレンジ色の豆電球だけ点けておく。冷えきった布団にもぐりこむと、思わずぶるりと震えた。毛布がない分寒いのでエアコンの設定温度をさらに上げると、ごおうっと唸りを上げて温い風が吐き出され、顔を撫でた。目を閉じてじっとしていると薄布団も次第に温まり、とろとろと眠気が押し寄せてきて、俺は傍らの女のことも忘れ、前後不覚に寝入っていた。
ざらざらと、金盥に豆をひっくり返したような雨の音がした。
どうっと夜気が吹き込んで、身を切り裂くような冷気が駆け抜けていった。
驚いて目を覚ます。開け放たれた窓の脇で、黒いカーテンが風に煽られぬらぬらとうごめいていた。裏地に雨を張り付けたカーテンは稲光を浴びて、粘液に包まれた軟体動物の不気味な真珠色をしていた。閃光に続いて、ばりばりと薄紙を破いたような雷鳴が耳をつんざく。
ベッドの上に女の姿があった。
「何してるんだ!」
起き上がろうとしたが無理だった。のしかかる女は鉛のように重く、身動きが取れなかった。手を伸ばして窓を閉めようと試みるが、ぎりぎりのところで届かない。なんとか指を引っかけたその時、するするとサッシを滑ってガラス戸がひとりでに閉じ、かちりと鍵のかかる音がした。雨粒の混じった暴風は止み、部屋には静寂が訪れた。
「あたためてください」
感情のない平坦な声が部屋を支配した。空気が粘度を増し、ずしりと垂れ込めたようだった。
寒気と恐怖が背中をぞろりと蝕んだ。いっぺんに総毛立ち、喉が渇いて張り付きそうだった。歯をがたがた鳴らして震え出すと、止まらなくなった。
レインコートのフードを目深に被って、女がこちらを見下ろしていた。顔は陰になって塗り込めたように暗かったが、濡れた前髪が額に張り付いているのは分かった。氷柱のように垂れ下がった黒髪が枕を撫で、柔らかい腿が布団の上を転がっている。はだけたコートの隙間に丸みを帯びた肌が覗いていた。女はコートの下に何も着ていないのだった。
「何なんだ、お前! 早くどけ! どっか行ってくれ!」
パニックになって、半泣きになりながら叫んだ。
振り回した手をむんずとつかまれて、寝台に叩きつけられた。女のものとは思えない万力のような力だ。
女は突然狂ったように笑い出した。ほとんど悲鳴のような甲高い金切り声。腹を震わせて笑う女の動きに合わせて、振り乱した髪が波立つ。まるで操り人形の糸のように、意思を持った妖しい動きだった。
俺は早く逃げ出そうと躍起になっていた。しかし女の質量は増すばかり。身じろぎすることすら敵わずに、言葉を飲んでただ震えていた。
女は俺の手首を押さえつけていた手を放し、掌で俺の腕を撫ぜた。つぅっと指先を滑らせて俺の手を握り、指を絡めてきた。
突然、女の体が軽くなった。いや、元に戻ったと言うべきか。慌てて払いのけようとするが、冷えきった体は金縛りにでも遭ったように動かない。額に浮いた汗が流れて目尻に入ってきた。塩気のある汗は目に染みた。
「寒いでしょう」
笑うのを止めた女は、切なくいじらしい声で言った。このままでは凍えて死ぬと、まさに俺が思ったその時だった。ほとんど反射的に、俺は頷いていた。
「私もなんです」
女は言って、俺の頬にぽとりと涙を落とした。ぽつ、ぽつ、ぽつと小雨のように降り注ぎ、顔を伝って流れ落ちていく涙は、凍りつきそうなほど冷たかった。
寒い。寒い寒い寒い。俺は脳内で繰り返した。足の方は既に感覚が失せている。自分の心臓が濁った拍動を繰り返しながら、徐々に力を失っていくのが分かる。ずるりと布団が滑り落ち、しんと冷えた夜気が俺に纏わりついた。目は霞み、頭がぼうっとしてくる。
指を絡めた手に力がこもった。異常な怪力ではなく、か弱い女の力だった。擦り合わせた滑らかな肌からじんわりと熱が染み通る。人肌の暖かさだ。俺は手を握り返した。
「あたためてください」
すがるような声で女が言った。小さくとがった鼻と、みずみずしい唇がはっきり見えた。
俺はたまらず、女の体を抱いた。
レインコートに触れるとビニールの感触はたちまち消え、線の細い肢体が露わになった。つるりと滑らかで、柔らかい肌。
肌と肌の触れ合う場所から、じんじんと体温が伝ってくる。快い温もり。俺はがむしゃらに抱く力を強める。女もそれに応えた。
豊かな膨らみが俺の薄い胸板に押し付けられる。体の輪郭が溶け出して、ゆるゆると接合していく錯覚に囚われた。投げ出された黒髪が俺の手に絡まる。女は満足気にふるりと震えた。
みずみずしい唇が誘うように睦み言を囁いた。混濁した意識にその内容は定かではなかったが、俺は操られるようにして華奢な体を抱き寄せた。
重ねた唇は、ひやりとした。
***
「東京、新宿区のマンションで二十二歳の男性が死亡しているのが見つかり、警視庁は事件と事故の両面で捜査を始めました。
死亡していたのはマンションの一階に住む学生の○○さんで、昨日午後五時ごろ、自宅を訪ねてきた友人によって発見されました。警視庁によりますと、遺体は裸のままベッドに横たわっており、部屋の窓が開いていました。体温が低下し衰弱死したものとみられています。遺体に拘束された痕跡があったことなどから、警視庁は事件と事故の両面で捜査をしているということです」
じじっと灰の燻ぶるようなノイズを挟みながら、真四角の液晶テレビが朝のニュースを告げた。それだけ言うと、テレビは力尽きたようにぱちんと切れて沈黙する。女が立ち上がると、つるりと滑らかなふくらはぎが露わになった。
「寒い」
窓の外の電線に雨粒が滴っているのを見ながら女は呟く。長い髪をレインコートの背中に押し込んで、目深にフードを被る。
体の熱はとうに冷めていた。いくら体温を吸っても足りることはない。女は虚ろだった。
ひたり、ひたりとフローリングを踏みしめて、女は玄関で立ち止まる。ひっくり返ったスニーカーを一瞥してぷいっと目を背けると、素足のまま玄関土間に降りた。鍵とチェーンの付いたドアを引き開けることなく、するりと通り抜ける。
暗い緑色のフードの中で、額に濡れた前髪が張り付いていた。
女は素足で廊下を進むと、外付け階段の踊り場に薄暗がりを見つけて、そこに溶け込むように消えた。手すりの上で丸まっていた猫がぐにゃあと声を上げて、跳び下りる。
雨は勢いを弱め、微かに朝日が覗いていた。しかしきっと、夜にはまた本降りになるだろう。そうなれば、レインコートの女はまた現れる。
雨降りは憂鬱だ。女もそう思っていることだろう。
雨降りは憂鬱 八枝ひいろ @yae_hiiro
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