星見の塔とタキオン

八枝ひいろ

第1話

 ハンマーでこぶし大の石をかち割ったとき、ナシュは幼い息子の声を聞いた。

「おかえりなさい」

 砂まみれのエプロンを丸めて立つと、びっこを引く息子、フィリスが顔を出す。

「ね、今日のご飯はなあに?」

「できてからのお楽しみ」

 居間の安楽椅子に座らせると、フィリスは足をぶらぶらさせてはしゃいでいた。

「あのね、今日は化石の勉強をしたんだよ! お母さんから教えてもらったこと話したら、先生も友達もみんなびっくりしてたんだ!」

「あらあら、それは良かったね。どんなことを教わったの?」

「死んじゃった生き物が水に沈んで化石になるとか、生き物じゃなくて足跡の化石もあるとか、あとね、ちょっとだけ本物を見せてもらったんだ。お母さんの化石の方がずっときれいだったけど」

「こら、母さんは化石じゃないぞ」

「でね、お母さん!」

 冗談も分からず、フィリスは嬉々として語る。

「みんなに話したらさ、見てみたいって! 今度の休みとか、いいかなあ?」

「えっ?」

 埋み火をかき起こす手を止めて、ナシュは訊き返した。

「まさか、学校の友達をみんな呼んできたりしないよね。誰が来るの?」

「えっと、ルーカスくん、セミルくん、ニーニャちゃん、あとは……」

(ちゃんと片付けしないといけないってことね)

 温め直したスープの味を見て苦笑いが漏れた。仕事場の整理もそうだが、いかんせん料理が苦手なのも気が重い理由の一つだ。

「あと、先生も見に来たいって!」

「せ、先生も来るのか……」

 つまりはちょっとした社会科見学で、なおのこと普段通りの様子を見せるわけにはいかない。その代わり、大事な標本を壊されずに済むかもしれないが。

「だいぶ散らかってるからね。きれいにしないと」

「いいの?」

 気が乗らないのは事実だが、可愛い息子の頼みとあらば断れるはずもない。

「分かった。いいよ。先生にもそう言っておいて」

「やったあ! ありがとっ!」

 ぱちんと指を鳴らして喜ぶフィリスを見て、くすぐったい気分になるのだった。

「あ、代わりにフィリスも片付け手伝ってよ?」

「えーっ! そんなあ……」

 フィリスは素っ頓狂な声を上げて、がっかりしたように俯いた。

「そ、そんなに落ち込まなくてもいいじゃない」

「だってえ……」

 ぐずり始めたフィリスに驚いて、慌てて付け加える。

「じゃあ、また今度発掘に連れてってあげるから」

「本当? 約束だよ?」

 きらきらした視線を向けられて、敵わないなと内心ぼやく。

「うん約束。ほら、早く食べないと冷めちゃうよ」

「いただきます!」

 スプーンを口に運ぶ息子を眺めながら、ナシュは大きさも不揃いな野菜を取り分ける。フィリスが機嫌を直したのは良かったが、足の悪いフィリスを連れ回すことを思えば一人で掃除する方が楽に違いない。それでも、ナシュは後悔していなかった。

(琥珀を見せたら喜ぶかな。スケッチさせるのも面白いかも。貯めている試料も少ないし、化石探しは危ないからやって見せるだけにしておこう。せがまれたら断れる自信がないけど)

 年甲斐もなくワクワクしながら想いを巡らせる。息子の喜びが自分の喜びになっていることが、ナシュは素直にうれしかった。


 フィリスの学友が大挙して押し寄せたのは、よく晴れた日の昼下がりだった。

「アニングさん、はじめまして。フィリス君をお預かりしております、ツーベルクと申します。突然お伺いして申し訳ありませんが、今日はどうぞよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げたのは、まだうら若い女性だった。

「よろしくおねがいしまーす」

 続いて子供たちが合唱する。あまりの人数に目を白黒させて、ナシュは引きつり笑いを浮かべていた。

「い、いらっしゃい。そんなに広くないけど、上がってもらえますか」

「ありがとうございます。お邪魔させて頂きます。ほらみんな、ご挨拶して」

「おじゃましまーす」

 また合唱。びっくりするくらい躾が行き届いているので、もしやこの教師、子供をだしに使うのに慣れているのではと、疑わずにはいられなかった。

 とりあえず居間に通すと、立ち見ながら部屋は一杯になってしまった。顔ぶれも覚えがあるのはせいぜい二、三人。我が家で奇妙な疎外感を覚えながらナシュは口を開く。

「はじめまして、ナシュ=アニングといいます。普段は古生物や地質の研究を……」

 話し始めると、途端に子供の視線が集まる。

「えっと、あの、あはは……」

 自分でも驚くほど緊張して、言葉に詰まってしまった。真剣そうに聞いているから余計に気まずい。

「『研究自体は道楽で、実際には収集した化石を売って生活しています』でしょ?」

「そうそう、そう言おうと思ってた……って、フィリス!」

「お母さん、あんなに練習してたのに忘れちゃったの?」

「フィ、フィリス! 余計なこと言わなくていいったら!」

「だってさ、昨日はうるさくて寝られなかったんだよ」

「うるさいっ! 黙る!」

「うるさいのはお母さんじゃん!」

「屁理屈言わないの!」

 赤面したナシュがフィリスの椅子を揺すり始めると、子供たちはどっと笑い出した。

「お母さん、とっても仲がいいんですね」

 先生もくすくす笑っているのに気がついて、ナシュは我に返った。

「……標本を取ってきますね」

 穴があったら入りたい思いで、ナシュは仕事場へのドアを開けた。


 めぼしい標本を食卓に並べると、それだけで子供たちは興味津々、目を輝かせて眺めてはナシュや先生に質問を浴びせるのだった。その一つ一つに、ナシュは丁寧に答えていた。

「これは琥珀。木の樹液が固まってできたものなんだ。まれに虫が入っていることがあるんだけど、どうしてか知っている人いるかな?」

「はい! 樹液の中に虫が閉じ込められちゃうの」

「その通り、よく知ってるね」

「こないだ先生に習ったから、ニーニャじゃなくても知ってるよ」

 拗ねたように呟く少年は、確かロビンと言ったか。

「へえ、色々教わってるんだね。じゃあ、琥珀を使って遊んだことはあるかい?」

「遊ぶ?」

「そう。琥珀の他にも使うものがある」

 そう言って、ナシュは鳥の羽を取り出し、フィリスのお尻から毛皮の敷物を抜きとった。

「使うのはこの三つだ。何をやるか分かる?」

 首を縦に振ったのはフィリスだけだった。

「フィリス、言うんじゃないぞ」

「わかってるよー」

「本当に?」

「わかってるってば!」

 とは言いつつ、フィリスは言いたくてうずうずしているようだった。恥をかかされた仕返しのつもりで、ナシュは悪戯っぽく笑う。

「さて、琥珀を羽に近付けてごらん。ゆっくりね」

 琥珀を渡されたロビンは、言われた通り羽に近付けていく。

「……何も起こらないじゃんか」

 むすっとした表情で何度も近づけたり遠ざけたりするが、特に変化はない。

「そう。このままじゃ駄目だ。けど毛皮を使ったらどうなるか。これで琥珀をこすってから、同じことをやってみて」

「こするって、こんな感じ?」

「もっと強く」

 最初こそおざなりだったものの、真面目に琥珀をこするロビンを子供らが囲んでいる。

「それくらいでいいかな。試してみよう」

 敷物を取り上げて笑いかけると、ロビンは緊張の面持ちで琥珀を動かす。

「くっついた!」

 すぐ右隣で歓声が上がった。近づいた琥珀に羽が吸い寄せられて、ぴったりと貼り付いたのだった。

「ロビン、代わってよ」

「じゃあ俺はセミルの次な」

「あっ、ずるい」

 ともかくいい反応を示してくれたので、ナシュは胸をなでおろした。一巡したところで質問を投げかける。

「じゃあ、なんでくっつくと思う?」

「くっつくってことは、磁石? こすったら磁石になるとか」

「羽って磁石にくっつくか?」

「じゃあ、羽も磁石になるんじゃない?」

「こすったのは琥珀だけでしょ。どうして羽の方まで磁石になるのさ」

「琥珀じゃないと駄目なの? 他の石も試してみようよ」

 予想外の盛り上がりにきょとんとする間、気がつけば子供同士で議論が始まっていた。

「ねえ、どうしてですか?」

「え?」

 虚を突かれたナシュは、自分に訊いていることに一瞬気がつかなかった。

「どうしてひっつくの?」

 ナシュの唇が、何度とも知れない苦笑いに歪んだ。

「えっと、ごめんね。実は私も知らないの。こういうことが起こるっていうのは有名なんだけど、はっきり原因は分かってないらしくて」

「えーっ!」

 口を揃えて叫ぶ子供たちを前に、すまなそうに頭を掻いている。

「みんなが来た時に教えるって言ってたのにっ!」

 中でも一番不満げだったのはフィリスだった。

「あー、昨日はあんまりしつこかったから、ごめんね……」

「嘘つき!」

「はは……じゃあ、お詫びにフィリスには化石探しやらせてあげるよ。準備するからついておいで」

「しょうがないなあ、もう」

 ころっと笑顔に戻るところがフィリスらしい。

「その代わり、いつもみたいにハンマー振り回すんじゃないよ」

「はーい」

「ちょっとナシュさん……大丈夫なんですか?」

 先生のツーベルクが、不安そうに引きとめる。

「冗談ですよ」

 あっけらかんと笑って、母子は部屋に引っ込んだ。

 

 化石探しの実演が盛況に終わるころには、すっかり夕方になっていた。子供たちが石の破片を片付け、見つけた化石の争奪戦をする様子を、ナシュは部屋の隅で眺めていた。

「今日は、本当にありがとうございました」

 隣に立ったツーベルクがぺこりと頭を下げる。

「こちらこそ。楽しかったですから。それにしても賢い子たちばかりで……正直驚きました」

「フィリス君も含め、本当に自慢の教え子たちです。みんな好奇心旺盛で、私が教えるのが勿体ないくらい」

 微笑むツーベルクは誇らしげだった。

「それで今回のように見学を? 他の親御さんのところにも行ったりしているんですか?」

「いえ、ここが初めてです。フィリス君がしきりに勧めてくれたので。最初は遠慮していたんですけど、やはりお伺いしてよかったと思います」

「そ、そうですか」

 友達と先生が是非来たがっているとのフィリスの口ぶりとは、だいぶ食い違っているようだ。とどのつまり、ツーベルクがフィリスをだしに使ったのではなく、フィリスがナシュをだしに使ったとそういうことなのだった。苦笑しながら送る視線の先では、フィリスが羊歯の葉の化石をロビンにねだっていた。

「しかしアニングさん、教えるのがお上手でしたね。ひょっとして私なんかよりずっと教師に向いているかもしれませんよ」

「言い過ぎですよ。謙遜しないでください」

「でも、初めてじゃないんでしょう。違いますか?」

「まあ、お互い物分かりが悪かったものですから」

「お互い?」

 訊き返されて、ナシュの顔に陰がさした。

「フィリスじゃなくて旦那ですよ。あいつは暇さえあれば星を見ていたんです。石と星、お互い全然知らない分野の話をして、気がつくとフィリスが横で聞いている。それが三年前までの日常でした」

「そうでしたか……」

 察したツーベルクは慰めの言葉を考えあぐねている様子だった。三年前、一帯を襲った地震は壊滅的な被害をもたらし、今でも『三年前』という言葉は例外なく地震の話の枕詞として使われている。ナシュの夫クルースはその日、行方をくらましたのだった。

「地震で、自然の凄まじさを思い知りました」

 子供に聞かれないように、ナシュは声を低めた。

「ご存知だと思いますけど、昔のものはそれだけ深いところに埋まっています。土砂が長い年月をかけて降り積もった地面は、そのまま時の流れを示している。過去は深く、今は足元に。しかし私は、地震がそれをめちゃめちゃにする様を目の当たりにしました。土砂崩れや地面の隆起で新しい地層が現れて、話によると層の上下が逆転しているところもあったとか。常識というか理というか、そういうものがひっくり返るんですよね。でもそんな一大事が起こるからこそ、私は過去を垣間見ることができるわけで。……あの日夫が行方をくらまし、フィリスも足が不自由になりましたが、一方で今まで見たこともない化石が採れるようになりました。まったく、皮肉ですよね」

「なるほど……」

 戸惑うツーベルクに、ナシュは微笑んだ。その笑みには自嘲の色が混じっている。

「ごめんなさい、随分年寄りくさい話をしてしまいました。……どうもおしゃべりが苦手で」

「いえそんな! こんな言い方をすると不謹慎かもしれませんが、その、とても興味深いお話でした。今まで地震のことをそんな風に考えたことは無かったので、新しい視点が増えたというか」

(新しい視点か……)

 ツーベルクの言葉はお世辞でも嫌味でもなく本心だとナシュには分かった。うろたえていたのも、夫との死別を持ちだされて返答に窮したためだろう。しかし言葉が嘘でないと分かっているからこそ、無性に寂しい気分になるのだった。

「せんせー! お掃除終わったよ!」

 無邪気な声に誘われて、ツーベルクは子供の輪に入っていった。ナシュは邪魔にならないように壁にもたれかかる。

 生徒が並び終えて、ツーベルクが再びお礼の言葉を述べると、予想通り生徒の合唱がそれに続く。ナシュの傍らに立つフィリスは満面の笑みだった。

「みんな、またねーっ!」

 ナシュがくたくたなのに子供たちは元気だ。おしゃべりの花を咲かせ、化石を包んだ油紙を大事に抱えながら挨拶を交わす。一方で、ナシュは疲れをおして夕飯を作らねばならぬことを憂いているのだった。

「今度は、お母さんが発掘に連れてってくれるから!」

「は?」

 フィリスの声に、ナシュは自分の耳を疑った。

「ほんとう?」

「もちろん! お母さんと約束したんだ!」

「え? あの、フィリス?」

 ささやく声は子供らのざわめきにかき消され、フィリスの耳に入らない様子だ。あるいはあえて聞こえないふりをしているのか。言うまでもないが、ナシュはフィリスを発掘に連れていくと約束したのであって、フィリスの学友まで連れていくなどと太っ腹な約束をしたつもりは微塵もなかった。

「そうだよね、お母さん!」

 きらきらした視線が今は恨めしい。

「まあ、また都合のいい日ができたらお知らせしますね」

 言ってしまうと、子供たちは飛び跳ねながら帰っていった。唯一繕った表情に気がついたツーベルクが気遣わしげな視線を送ったが、一礼すると何も言わずに去っていった。

 扉を閉めて盛大にため息をつくと、壁伝いに足を引きずって寝室に逃れようとするフィリスの襟首を捕まえた。

「いつの間にか賢くなったね、フィリス。母さんは鼻が高いよ」

 しかめっ面に精一杯の皮肉を込めて詰め寄る。

「発掘に一人連れていくだけでもどれだけ大変か、今日一日どれだけ体力使ったか、分かってる?」

「だって、お母さんだって楽しがってたじゃん」

「迷惑だから来ないでなんて言えるわけないだろ! 分かってるくせに」

「そんなことないよ。お母さん、本当に楽しそうだったもん」

「私がしんどいって言ったらしんどいの」

「でも、楽しかったでしょ?」

「……また屁理屈言って」

 腕を組んでフィリスの定位置である安楽椅子に腰かける。勢いよく体重を乗せたものだから、ぎぃっと音を立ててかしいだ。

「とにかく、今日の晩御飯はフィリスが作ってよ」

 フィリスが言い返そうとするのを制して、ぶっきらぼうに言い放った。

「ええっ!」

 流石のフィリスもこれには驚いた。今まで掌の上で踊らされていた分、唖然とする息子に胸のすく思いがした。

「今朝買い物行ってきたから肉も野菜も床下にあるし、炭も納屋に積んである。包丁と鍋はかまどの傍。ソースやハーブは食器棚の上段。母さん、今日はもう疲れちゃったから。怪我とか火傷とかしないように気をつけるのよ」

「そんな、ねえ! お母さん!」

 泣きつく息子の手をそっと押しのけ、仕事場の扉を開いた。フィリスの目は見られなかった。

「火事になっても困るし、何かあったら呼んで。あと、母さんの分はいらないから」

 ナシュは殊更に音を立てて、扉を閉めた。



 石造りの塔、そのむき出しの階段を登るクルースは、西からの陽光を真っ白な衣に滑らせてそよ風のおもむくままに翻していた。目と髪は引き締まった黒で背も高いのだが、骨ばった痩せぎすの体からは芯の弱そうな印象を受ける。そのくせ妙に明るく快活で、冗談の大好きなつかみどころのない男だった。石にしか興味が無い娘だともっぱらの評判だったナシュが恋に落ちたのも無理からぬことだったのか、あるいは謎の多い身の上や、毎晩のように塔に籠って昼は眠そうな変人ぶりがナシュの好奇心をくすぐったのか、今となっては本人にも分からないが、二人が出逢うべくして出逢ったことだけは確かであった。

「今夜も星を見に行くの?」

 ナシュがそう言ったのは、しんしんと冷え切った冬も盛りの頃であった。

「ああ。今夜は新月だから暗い星も綺麗に見えるはずさ。一緒に行くかい?」

「今日は眠いからやめとく。前について行った時も寝ちゃったし」

「僕としてはナシュの寝顔も歓迎なんだけど」

 クルースは真顔でこんなことを言うのだから質が悪い。いつもなら怪訝な顔をするところだが、最近は慣れっこになっていた。

「だったら家に残って存分に見ていけばいいじゃない。星と私とどっちをとるの?」

「言うようになったな。でも、ナシュだって今日は部屋に籠ってスケッチしてたじゃないか。人のことが言える立場か」

「それは悪かったね。誰かさんのいびきで集中できなかったから、さっさと切り上げればよかったかしら」

 やり返すと、クルースは大笑いして手を叩いた。

「信じられない! 満点解答だよ。絵に描いたような堅物が成長したもんだ、ナシュ! 君からこんな言葉が聞けるなんてねえ、生きてて良かったよ。僕は嬉しい」

 クルースが大袈裟にはやし立てるので、ナシュは赤くなった。

「ちょっとやめてよ! 恥ずかしい」

 クルースはもうひとしきり笑って、茶目っ気たっぷりのウインクを付け加える。

「恥ずかしがるならまだまだかな。まあ、ナシュはその顔が一番可愛いから、そのままでいいんだよ」

「もう、クルース!」

 いよいよ真っ赤になって、ナシュは突き飛ばすようにしてクルースを見送った。宵とも黄昏ともつかぬ紺色に透き通った空、せっかちに瞬き始める星々にあいさつでもするかのように外套をはためかせると、クルースは星見の塔へ出かけていった。


 クルースと出逢って間もないあの頃はフィリスを身籠る前だったから、クルースが出かけると一人ぼっちだった。化石が友達と揶揄されながら涼しい顔で過ごしてきた青春時代、その時の自分に言っても信じてもらえないだろうが、恋人のいない静寂に沈んだ家で、ナシュは言いようもない寂しさを堪えていた。フィリスが生まれてからというもの、三年前の別れの後にさえ味わったことのないあの気持ちが、今再び胸の内にくすぶっている。

 ぴったり閉じられた樫の扉は沈黙し、耳を澄ましても居間の物音一つ聞こえない。石くれを砕く音が響かないようにと厚くした扉が、かえって自身を閉じ込める檻として機能しているのだった。

 一線を越えてしまった。それを自覚してナシュは酷く後悔していた。今すぐに飛びだして我が子を抱きすくめ、悪かったと謝るべきだ。しかし、そうする意志が萎えてしまっている。

 浮世離れしているという意識が無いとは言わない。事実、化石を掘り起こして売りまわる母親なぞ、この街に二人とはいないはずだ。それでも、愛しい息子とは通じ合っているつもりだったのに。今日思い知らされたフィリスとの隔たりを、どうやって埋めればいいだろう。

 残っていた試料を取り出し、苛立ちにまかせて叩き割る。はたから見れば八つ当たりだろうが案外そうでもない。化石と石の境目は空洞だったりして割れやすいので、下手に表面を削って探すよりも、思い切りかち割った方が綺麗に採れることが多いのだ。それでも一枚の葉っぱが真っ二つになることはよくあるし、珍しい化石を粉々にしてしまったりする。それでもナシュにとっては大事な研究材料で、欠かさずスケッチをとっては図鑑と照らし合わせて同定し、貴重なものは接着して復元する。しかし欠損した化石の商品価値は低く、フィリスでさえ瓦礫とみなすのが常だった。

 過去ははっきりとした形を持っていながら、それを硬い殻にひた隠しにしている。かと思えばその殻は存外にもろく、一度壊れてしまえば二度と戻ることはないまま忘れ去られてしまう。長年化石と向き合う生活を続けるうち、ナシュはそんな過去観を育んでいた。

 いくつか石の塊を瓦礫に変えると、気分が落ち着いてきた。フィリスとのいさかいも自分が大仰に考え過ぎているだけだと理解した。代わりに、今まで考えようともしなかったことをはっきりと意識した。

 今日明日にどうということはない。けれど、いつか必ずフィリスが私から離れる日がやってきて、四六時中、ずっと孤独にさいなまれることになる。今こうしているように硬い殻に閉じこもるか、床に転がる瓦礫と果てるか、二つに一つだ。自分でも信じられないことに、私はこんなにも簡単な事実に今日という日まで気がつかなかった。過去に目を向けるばかりで、未来のことなど見ていなかった。

 クルースと出逢ったこと、フィリスを授かったこと、それを後悔などしない。けれど、孤独がむしろ心地よかった自分、定まらない未来を憂うでもなく、過去に思いを馳せるだけで満足していた自分が、今は少し羨ましい。


 決心して手をかけると、樫の扉は意外にあっさり開いた。叱られた子供のようにしゅんとなって居間に戻ると、かまどに向かうフィリスの背中があった。

「あの……」

「お母さんは休んでて」

 フィリスはきっぱりと言い、振り返ろうともしなかった。やはり意固地になっているらしい。自分の頑固さにも気がついたばかりだが、面倒臭いところが自分に似てしまったようだとばつの悪い思いだった。そもそもフィリスには長時間の立ち仕事はできない。あろうことか私は、フィリスが母に頼らずに生きられないことを分からせようとしたのだ。

 キャベツと人参、玉ねぎ、鶏肉、卵、パン。フィリスは食材を並べ終えて包丁を手にしたところだった。フィリスの手に収まった途端、いつもは何でもない包丁が獣の牙のようにギラギラ光って見え、ナシュは身震いした。どう言って止めさせればいいだろう。もうすっかりやる気になっているフィリスを傷つけないために何をすべきなのか、いくら考えても分からなかった。

「心配し過ぎだよ、お母さん」

『心配し過ぎだよ、ナシュ』

 つっけどんな言葉が、記憶の中の声と重なって響いた。

「料理くらいしたことあるもん。お母さんは座って休んでてよ」

『料理くらいやったことあるさ。ナシュは座って休んでくれよ』

 付き合い始めてすぐの頃、熱を出したナシュの代わりにクルースが料理をふるまってくれたことがあった。思い違いかもしれないが、その時の口ぶりと瓜二つだった。

「……わかった」

 同じように答え、同じように安楽椅子に座り、ほっと息をついた。本当に危なくなるまで一人でやらせてみよう。フィリスを信じてみよう。それがきっと一番いいだろうと思うと、胸が軽くなった。

 包丁さばきはたどたどしいが慎重そのもので、危なっかしいと言うほど酷くはなかった。かといって落ち着いて見られるはずもなく、そわそわした態度のナシュがフィリスには鬱陶しいようだった。しかし、たとえ人参の皮を剥き忘れても、鶏肉に下味をつけなくても、根野菜より葉野菜を先に煮込み始めようとも、何も言わずに我慢していた。というよりは、ときどき自分もしてかすので言える立場になかったのだが。

「できたよ」

 差し出されたのは、肉や野菜のごろごろ入ったスープだった。

「お母さんはいらないって言ったけど、たくさん作ったから」

「ありがとう」

 分量が分からなかったのだろう、二人分どころか三人分くらいはある。それでも、やはりとやかく言わないことにした。素直に受け取って、食器を並べる。

 いただきますの合図で、フィリスとナシュはスプーンをとった。お互いしばらく無言のままスープをすする。お世辞にも美味しいとは言えないが、食べられないほどではなかった。人参が生煮えなのはまあ大目にみるとして、肉にはちゃんと火が通っているし、野菜の大きさも割に揃っている。煮込み料理なんて凝った料理に挑戦したにしては上出来だろうか。

 どう言って褒めようかと考え始めた時、目の前でフィリスが渋い顔になった。何事だろうと思った直後、奥歯の間でじゃりっと音がして異変に気がついた。

「ねえフィリス、手は洗ったの?」

 俯いて、小さく首を横に振った。

「化石を掘った手でそのままご飯作ったら、それは砂も混じるよね……」

「ち、違うよっ!」

 フィリスは少し赤らめた顔を上げたが、すぐに視線が泳いだ。

「その、お母さんは石とか好きだし、喜ぶ……かな……って……」

 あまりにも苦しい言い訳に腹が立つはずもなく、吹き出さないように口を押さえて、代わりに小さく机を叩いた。

「わ、笑わないでよー!」

「ごめんごめん。いや、なかなか面白い冗談だけど、恥ずかしがってちゃまだまだだね。もっと堂々としていないと」

「……何の話をしてるのさ」

 唇を尖らせて、もう一度そっぽを向く。それもおかしかったが、何とか笑いをかみ殺す。

「それは置いといて、知らない間にお父さんに料理を習ったのね」

「分かるの?」

「もちろん。包丁の使い方とかそっくりだったから」

「そうなんだ……」

 寂しさと驚きと不思議さがないまぜになったような表情がフィリスの顔をよぎると、ナシュはぱんっと手を叩いて笑った。

「うん、きっとフィリスには見込みがあるよ。お父さんもね、母さんと知り合った時は料理なんて全然したことなかったんだから」

「えっ、ほんとう?」

 仰天して、フィリスはスプーンを取り落とした。

「そうだよ。母さんが風邪を引いた時に作ってくれたんだけど、なかなか酷いもんだったよ。今のフィリスと違って大人だから、さすがに砂が混じったりはしなかったけど」

「そうなんだ。お父さんのご飯、おいしかったよね……」

 言外の意味に少しばかり傷つきながら、ナシュは咳払いをする。

「フィリスもお父さんと一緒で几帳面だし、最低限の手順さえ覚えれば上手になるよ」

「お母さんよりも?」

「生意気な。調子に乗るんじゃないよ」

 言うと、フィリスに笑顔が戻った。ぎこちないが、挑戦的な笑みだった。

「まあ、やる気があるのはいいことだ。なんなら週に一回くらい、一緒にご飯作ってみる?」

「……お母さんは、それでいいの?」

 途端に顔を曇らせて、か細い声で言った。ナシュは黙って身を乗り出し、そっとフィリスの手をとった。

「ごめんねフィリス。母さんはようやく気付いたんだ。フィリスに構っていられることが、一番の幸せだって。だから、もう遠慮しなくていいよ」

「うん」

 ほっとしたように表情が緩んだが、眉のあたりに影が落ちている。せわしなく表情が入れ替わるフィリスにしては珍しくて、やはり負担を懸けてしまったのだな、と反省した。

「発掘にもみんなで行こうね。けど、ちゃんと車椅子に乗ってよ?」

「わかってるよ。発掘の時はいつもそうしてるじゃん」

「それならよし。さあ、冷めちゃう前に食べよう」

 落としたスプーンの代わりに新しいのをフィリスに渡す。しかし、フィリスは手をつけようとしなかった。

「でもいいの? 砂が入ってるんだよ……?」

「気にしないで。よけて食べればいいだけだから。折角フィリスが作ってくれたんだしね」

「あの、そうじゃなくて……」

 しばし沈黙。口をつぐんで言葉を探しているフィリスをいぶかしんでいたが、すぐに合点がいった。

「なに? もしかしてフィリス、食べたくないの? 駄目だなあ。自分で作ったものは責任もって食べなきゃいけない」

「はあい……」

 図星だったようで、フィリスはうなだれる。説教なんて性に合わないのでそこまでにしておいて、ナシュは鶏肉を口に運んだ。

「母さんだってそうしてるんだから」

 付け加えると、フィリスはぷっと吹き出した。

「お母さん、それ、面白い」

「……ほっとけ」

 少しいらっとしたが、そう言うフィリスもこの腕前なので、なんだかおかしかった。二人して笑いながら、つくづくフィリスはお父さん似だなと感じて、胸があたたまるような、それでいてちょっぴり妬ましいような、不思議な気分がした。

(ここにいないクルースの分も、今この時間を大切にしよう)

 心の中で、ナシュは誓った。



「こっちの黒いのが泥炭層。池や湖に沈んだ葉っぱや動物の死体が腐って炭になり、積もってできたものだ。隙間がないから水を通しにくくて、地面に染み込んだ雨水はここでせき止められる。最近は雨続きだったから上の層が湿ってるだろう?」

 昨日のうちに考えておいた口上を連ね、振り返ったナシュを出迎えたのは退屈そうに他所見する子供たちの姿だった。

「あらー。見事に聞いてない……」

 ため息混じりに本音が漏れたので、ツーベルクが慌てて叱咤する。

「ほらみんな、真面目に聞いて」

「いえ、いいんですよ。面白がって聞かなければ身になりませんから」

「発掘だって言ってたのに、地質調査に切り替えるからいけないんだよ」

 腕組みするナシュに、ほおを膨らませたフィリスが言い募る。

「そりゃ、こんなに大人数を発掘に連れて行ったら私の取り分が……じゃなくて、ハンマーが足りないし危ないし……」

「お母さんのケチー」

 しどろもどろなナシュに、フィリスはむくれる。

「うるさいっ! 生活かかってるんだからしょうがないだろ。フィリス、お前も人ごとじゃないんだぞ」

「あのー、本当に私たち来てもよかったんでしょうか……?」

「先生は気にしなくていいんですよ。私とフィリスの約束ですから」

 笑って言っても、ツーベルクは申し訳なさそうな顔をしていた。

「そう言って下さるのは有難いんですけど、前も随分気苦労なされていたみたいですし……」

「本当にお気遣いなく。前回のもいい経験になりましたし。ね、フィリス?」

「うん!」

 元気よく答えながら、フィリスは少し照れ臭そうだった。

「そ、そうなんですか……」

 状況が飲み込めないツーベルクは首をかしげるばかりだった。

「じゃあ、代わりに何をするかだけど……」

 ナシュはぐるりと辺りを見回す。来ているのは街から一時間程度離れた山中、ゆったりと水の下る川のほとりだった。先の地震であちこち崖崩れが起こって地層がむき出しになっていて、地層観察にはもってこいの場所である。地形的にも尾根が分断されたような形状をしていて、過去に断層の水平運動があったと考えられる。けれど、それに興味を持ってくれないなら、他の遊び方を考えなければ。

 ふと足元に視線を落とすと、一面に白灰色の砂利が敷き詰められていた。石英や長石を主成分とする花崗岩が、川を下るうちに丸みを帯びた典型的な石……

「これは使えそうだね」

 手頃な物を見繕って拾い上げると、子供たちに向き直る。

「みんな、水切りはやったことあるかな?」

「水切り?」

「聞いたことはあるけど……」

「俺はやったことあるぞ」

 とりあえず、地層の話をするよりは食いつきそうだ。見てごらん、と言って川べりまで歩くと、おあつらえ向きに風もなく、水面は鏡のように静かだった。

 振りかぶり、えいっと声を上げて石を投げると、白い石は一回、二回、小さな音を立てて水面を跳ねるも、三回目であっけなく沈んだ。

「さあ、何回跳ねるか競争してみよう」

 宣言すると、子供がこぞって石を拾い始める。ツーベルクが人にぶつけないよう注意する声と、微笑ましい騒ぎ声が河原に響きわたった。


「なんとか退屈させずに済みそうですね。あんまり川に近づき過ぎないといいけど」

 目論見通り、子供たちは川岸に列をなして真剣そうな表情で石を投げている。まだ要領がつかめないようで、あちこちで水音と水しぶきが上がり、空を昇ってきた太陽の光をきらきらと散らしていた。

「本当にすみません。わざわざ来て頂いたのに、子供たちのおもりのようなことをさせてしまって」

「いえいえ、何度も言いますけど私の好きでやっているんですから。それに、遊ぶだけで終わる気はありませんよ。石の種類や投げ方を変えて、距離を伸ばす工夫をさせるとか。どうして重い石が水面を跳ねるのか、このあたりの石が丸っこいのはなぜか、考えさせるのも面白そうです」

「それはいいですね。とても教育的だと思います。……私なんかにはとても思いつきません」

「先生?」

 小さい背中がずらりと並んでいるのを確かめると、ツーベルクは俯いた。

「私、まだ新米なんです。今年から赴任したばかりで、子供たちとの接し方がまだよく分からなくて……。みんなお行儀がよくって優しくて、私には過ぎた生徒ばかりで助かってるんですけど、みんながこうのびのびと遊んでいるところを見ると、私といるのは窮屈なんじゃないかなって思ってしまうんです。少し前に、ローマ数字の例に時計を出したんですけど、みんな知らなかったみたいで、興味を失ってしまって……。逆に、アニングさんは子供たちを楽しませておいて、そこからさっと学問の世界に引き込んでしまう。そのかんどころをよくご存じなのが、羨ましくてなりません」

「買いかぶり過ぎですよ。それと、自分を卑下し過ぎです。先日、ツーベルク先生にフィリスを見て頂いてると分かって安心しました。逆にもし私みたいなのがフィリスの先生だったら、不安でしょうがないでしょうね」

「そうなんですか?」

「ええ。私はいつも一つのことにかかりっきりになってしまいますから。今だって、フィリスのことしか考えていません」

「どういうことでしょう」

 ナシュが指さした方向で、フィリスを含む四人のグループが順番に石を投げていた。番が回って来ると、フィリスは座ったまま石を放り投げた。

「フィリスは足が悪い。立って石を投げるのは疲れるので、ああやって座って投げることになります。力が入らなくて不利に見えますが、実はできる限り低い位置から投げた方がよく跳ねるんです。今にきっと、みんながフィリスの真似を始めますよ」

「なるほど……。確かに、少しひいきしているんですね」

「もちろん。私の息子ですから」

 ナシュはにやりと笑う。つられて、ツーベルクも表情が緩んだ。

「一方で、自分でそうは思わないかもしれませんが、先生は気配りが行き届いています。私には、過って石を人にぶつけてしまう危険は思いつきませんでしたし、グループ分けして順番に投げさせるなんて発想もありません。今だって、私と話をしながら子供たちが他所に行ったりしないか、目を光らせているんでしょう? だから、安心して子供をお任せできるんですよ」

「そういうものなんでしょうか……」

「そういうものですよ。思うに先生は私なんかよりずっとお若いけど、ずっと大人です。色々責任を感じるのかもしれませんが、もっと自信を持って……」

 そこで口をつぐんで、ナシュは青い顔で立ち上がった。

「ど、どうしたんですか?」

「ちょっと静かにしてください。変な音が……」

 ばっと振り返り、背後の崖を見やる。みしり、という低い音はもう聞こえなかったが、崖上の木が風もないのに葉っぱを揺らすのが分かった。

「崩れるぞ! 逃げて!」

 叫んで走り出し、フィリスを抱え上げる。一呼吸置いてツーベルクがやってきた。

「みんな、崖から離れなさい! 川に沿って上流の方へ!」

 ナシュの脳裏を嫌な光景がかすめた。三年前のあの日、崩れた家の下敷きなったフィリスが叫ぶ声。その悲痛さを思い出して震えが止まらなかった。

「アニングさん! 先導を!」

「分かりました! みんな、ついて来て!」

 ツーベルクの声で我に返り、フィリスをおぶったまま砂利道を駆け抜ける。振り返ると、ツーベルクがしんがりになって生徒を急かす。逃げ遅れた姿がないことを確かめ、後に続いて走り出した瞬間、右手の方で木がぐらりと傾いた。

「危ないっ!」

 どどどっと轟音を上げて土砂が雪崩れる。黄色がかった砂ぼこりを舞い上げ、赤茶けた土砂に混じった岩の塊が、ツーベルクに迫る。

「せんせーっ!」

「立ち止まるな! 走って!」

 悲鳴を上げる女の子を追い立てて逃げる。フィリスをおぶっている分、ナシュはあっという間に子供らに追い抜かれていた。ナシュも後ろは見ずに懸命に走るものの、土砂の音はまだ止まない。

 土煙にまかれて咳き込んだ。散り散りになった子供の影がぼんやりとかすんでいく。

「散らばるんじゃない! 川に沿って走るんだ!」

 声を張り上げたが、土砂の音がものすごくてかき消されてしまう。しまった、と思ったがもう遅い。今となっては、成り行きに任せるしかなかった。


 土の唸りがようやく収まった頃、ナシュは荷物をまとめていた広場に立っていた。怯えた子供の顔があちこちに見えたが、ナシュには判別がつかない。

「フィリス、大丈夫? 怪我はない?」

「うん。お母さん、みんなは?」

「分からない。一度ここに集まろう。フィリスも手伝ってくれる?」

「わかった!」

 頼もしくうなずいて、フィリスは叫ぶ。

「おーい、みんな! こっちに集まって!」

 よく通る高い声に気がついて、何人かが振り向いた。彼らが同じように声を上げると、林に逃げ込んだ子も姿を現す。

「よし、それじゃあここは任せたよ。母さんは先生を探してくる」

「気をつけて!」

「ありがとう。フィリスもね」

 広場は川べりから少し上ったところにあった。見下ろすと、崩れたのは尾根から切り離されてできた丘の一角で規模は小さかったが、川の中ほどまで土砂が押し寄せていた。逃げ遅れたら間違いなく生き埋めになっていただろうと思うと寒気がする。ほこりを透かして見える木の幹は傷だらけで、皮がはげ、真新しい生木を晒している。それに重なるいつぞやの光景を歯ぎしりして振り払うと、おっかなびっくり土砂に近づいていった。

「先生!」

 ツーベルクは土砂より手前のところ、河原にうつ伏せになって倒れていた。

「ア、アニングさん。子供たちは……?」

「分かりません。とりあえず広場に集めているところです。早くここを離れましょう。立てますか?」

「ごめんなさい、足が痛くて……」

 身を起こそうとするが、顔をしかめて倒れ込んだ。

「無理しないで。捕まってください」

 ツーベルクを抱き起こし、肩で支えて歩き始める。幸い、やられているのは片足だけのようだった。

「私……こんな……もし生徒に何かあったら……」

「しっかりしてください! ちゃんと先に逃がしたじゃないですか。大丈夫ですよ」

 無責任なことを言っていると自覚しながらも、励ますほかにないのだった。大人二人が取り乱していたら、子供はパニックになるだろう。

「そう、ですよね……私がしっかりしないと……」

 涙をぬぐって、あとは何もしゃべらなかった。やはりこの人はいい先生だとナシュは思う。

 ツーベルクを連れて広場に辿りつくと、かなりの人数が集まっていた。

「先生! 大丈夫?」

 ぼろぼろのツーベルクを見て、卒倒しそうになる子までいた。支えるナシュは、自分に心遣いはないのだろうかと思わないでもなかったが、それだけツーベルクが慕われているのだと感じた。

「みんな静かに! さっきの班に分かれて並んで!」

 涙の跡はもうなく、気丈にふるまう姿は称賛に値するだろう。生徒たちは騒ぐのをやめ、言われた通りに並ぶ。

「一班、全員いる?」

「います!」

 二班、三班、四班と聞いていっても、行方不明の子はなかった。どの班も揃っていることを確かめ、念のため全員の点呼をとる。驚いたことに、ツーベルクは見学に参加した生徒の名前を一人残らず覚えているのだった。欠けている子供は、いなかった。

「良かった……本当に良かった……」

 緊張の糸が切れたのか、ツーベルクは泣き崩れた。肩が重くなって倒れそうになったナシュとしてはたまったものではなかったが、目を腫らしてわんわん泣いているツーベルクの横顔を見て、やはり胸を打つものがあった。ゆっくり座らせると、子供たちが駆け寄ってきて一緒に泣き始める。ようやく、ナシュは胸をなでおろした。

「そうだ……誰か怪我してない? 大丈夫?」

 しばらくして泣き止んだツーベルクは、腰を抜かしたまま不安そうに言った。

「珍しく詰めが甘いですね。大丈夫、先生以外はぴんぴんしてますよ」

「でも、ルーカス君は膝をすりむいてるし、リカちゃんは手を切って……痛っ!」

「動かないでください、先生。その右脚、間違いなく折れてますよ。今手当てをしますから」

 いてもたってもいられない様子のツーベルクを諭して、立ち上がろうとするのを止める。

「ごめんなさい……私のかばんを取ってきてくれますか。包帯やガーゼ、消毒液が入っています。赤色の、花柄のやつです」

「さすが、用意周到ですね」

 感心しながら、ナシュは笑う。


 全員の手当てを終えたところで、今日は引き返すことになった。予定の時間よりはだいぶ早いが、いつまた土砂崩れが起こるかもわからないし、何よりツーベルクを早く医者に見せるべきだった。フィリスの車椅子にツーベルクを乗せ、子供たちが押していく。フィリスは歩くと言ってきかなかったが、もたもたするわけにもいかないので、歩みが遅くなったところでナシュがおぶって歩いた。

 街に入ると、ツーベルクの指示で解散し、子供たちは家へと帰っていった。ナシュはフィリスを下ろし、家まで歩けそうだと判断すると先に帰るように言った。

「母さんは先生を病院に連れていくから」

「わかった。先生さようなら! 気をつけてねー」

 ひらひら手を振って、びっこを引きながら歩いていった。

「ち、ちょっと、大丈夫ですから、お構いなく」

「怪我人に拒否権はありませんよ。それに、ここに放り出されたら動けないでしょう」

 言ってもなお遠慮がちだったが、話があると伝えるとようやく従った。がらがらと音を立てて煉瓦の道を通り抜け、角を曲がったところで口を開いた。

「今日は申し訳ありませんでした。私の不注意です。雨続きだったのに地滑りの可能性も考えないなんて、地質学者が聞いてあきれますよね」

「しかし、気がつかなかったのは私も同じですし……」

「気がついたとしても、私が大丈夫だと言ったらついて来たでしょう。先生はあれこれ背負い過ぎです。それに、私は先生に感謝してもしきれないくらいなんですから」

「ええっ、私に?」

「もちろん。私だけだったら絶対に子供を助けられませんでした。あの状況だったら、足の悪いフィリスは間違いなく生き埋めになっていたでしょう。先生がいたから、私はフィリスを連れて逃げ出せたんです。いえ、フィリスだけでなく他に何人も犠牲になったに違いありません。それくらい、先生の指示は的確でしたから。土砂が川下に流れると考えて上流へ避難させたこと、はぐれないよう川に沿って逃げるよう指示したこと、フィリスを背負った私を先導に立てて目印にし、自分は逃げ遅れる子がないように最後までとどまったこと、普通の人にはとても咄嗟にできることじゃありません」

「とんでもない! あのときは、本当に無我夢中で……」

 聞こえないふりをして車椅子を停め、前側に回り込むと、ぺこりと頭を下げた。

「改めてありがとうございます。おかげで助かりました。お礼になんて足りないと思いますけど、後日親御さんへお詫びに回るでしょうから、その時はご一緒させて頂きます。それと、この車椅子はしばらく使ってください」

「そんな! フィリス君が困るじゃないですか。それに、アニングさんだってお忙しいのに……」

「忙しかったらこんなことしませんよ。フィリスの方も大丈夫です。車椅子は遠出するときにしか使いませんし、だいぶ歩けるようになってから、本人が使うのを嫌がるんです。学校に行くのは杖で十分ですから、遠慮なく使ってください。もともと、治療費もお支払いするつもりですし」

「か、勘弁してください! そこまでお世話になるわけにはいきませんからっ!」

「じゃあ逆にお伺いしますけど、治療費を払う余裕はあるんですか?」

 うっ、と息を詰まらせて、ツーベルクのほおを汗が伝った。

「確か今年赴任されたばかりとのことでした。貯金もまだほとんどないのでは?」

「そ、それは……」

 それまで必死に食い下がっていたのが嘘のように、勢いがなくなる。

「なら、遠慮せずにお世話させてください。自分で治そうだなんて考えないで下さいよ? もし歩けなくなったりしたら、子供たちも責任を感じてしまうかもしれませんし」

 一度言葉を切って、念を押すように血の気の引いた顔を覗き込む。

「あと一応言っておきますけど、化石掘りが儲からない職業だって馬鹿にしちゃいけませんよ? これでも親子二人、とうぶん暮らしていけるだけの蓄えはありますから」

「お、お言葉に甘えさせて頂きます……」

「それでよし」

 したり顔で、ナシュは再び車椅子を押し始めた。



「おかえりなさい、お母さん」

 居間に戻ると、安楽椅子の中からフィリスの声がした。そういえば、フィリスに出迎えられるのなんて久しぶりかもしれない。

「ただいま、フィリス……って、どうしたの?」

 思わずぎょっとしたのは、フィリスがいつになく神妙な面持ちをしていたからだった。ついさっき明るい顔をしていたのは、先生に気を遣わせたくなかったからなのだろうか。

「先生なら大丈夫だよ。骨は折れてるけど、砕けてるわけじゃない。よくよく聞いたら土砂に潰されたんじゃなくて足を引っ掛けて転んだんだってさ。一ヶ月もすれば綺麗に治るってお医者さんが言ってた」

「……よかった」

 険しい表情は少し和らいだが、すぐに元に戻ってしまう。ナシュは眉をひそめた。

「何かあったの? フィリス。もしかして怪我してるんじゃ……」

「ううん、違うよ。その逆」

「逆?」

 狐につままれたような心持ちで先を促したが、フィリスはしばらく黙っていた。

「今日の僕、いっぱい歩けたよね」

 ぽつりと呟いた言葉は、それほど深刻なものにも思えなかった。

「そうだね、よく頑張ったよ。母さんがずっとおんぶしてあげられたらいいんだけど、フィリスも大きくなって、そうもいかないからね」

「お父さんがいなくなってから、もう少しで三年だよね」

「う、うん、そうだけど……。それがどうしたの?」

 どうも話が見えない。しかし、天真爛漫なフィリスがこれほど思いつめた顔をしているのだから、何か相応の理由があるはずだった。

「僕ね、もうそろそろ上れると思うんだ。……星見の塔に」

「星見の塔?」

 星見の塔と言えば、クルースが毎晩のように上っては天体観測をしていた場所だ。ナシュも何度か出入りしたことがあるが、望遠鏡をはじめ観測装置や天球図、クルースの書いた膨大な計算データがある他は、特に物珍しいものはない。よほど星に興味がなければ退屈な場所だろう。フィリスもクルースに連れられて行っていたが、まだ幼くて計算がよく分からなかったのもあってか、自分から行きたいと言うことはなかった気がする。確かに、地震があってからはフィリスが足を悪くして行かなくなったけれど。

「別に行くのは構わないけど……どうして急に?」

「お父さんのことがよく分からないんだ。もっと知りたい」

「確かに、お父さんは不思議な人だったけど……。なんて言うか、今更って感じじゃない?」

 生まれも育ちも親のありなしも、結局最後まで教えてもらえなかった。唯一はっきりしているのは、彼と出逢った日に小さな地震があったことくらいだ。さらに極めつけは、三年前のあの日、星見の塔に出かけたはずのクルースはそこにいなかったことだ。地震に耐えた塔の中を探し回ったが姿はなく、臨時の安置所に遺体が運ばれることもなかった。しばらくの間は、何食わぬ顔で戻って来るのを何度となく夢に見たけれど、クルースはまるで神隠しにでも遭ったかのように消えてしまったのだった。

「時計が気になるんだ」

 フィリスは言う。

「時計?」

 あまりよく覚えていないが、確かにクルースは時計を持っていた。時計は高級品だが、毎日きっかり同じ時間に観測を行うために、なくてはならないものだったはずだ。

「ちょっと前にね、ローマ数字を習ったんだ。だから気がついたんだけど、お父さんの時計はすごく変なんだよ。針は右に回るんだけど、文字盤がね、十二の次が十一で、十一の次が十で、全部さかさまになってるんだ」

「逆向きの時計……? 確かに変だね」

「だから、確かめたいんだよ」

 フィリスは決意に満ちた顔つきをしているが、正直あまり気が進まなかった。諦めても諦めきれないクルースのことだけに、思い出の場所に赴くのは辛いだけだろう。

「フィリスがどうしてもって言うなら連れて行くけど、母さんはあんまり行きたくないな。泣いちゃうかもしれないし……」

 素直にそう言うと、返ってきた答えは意外なものだった。

「僕ね、一人で行ってみたいんだ」

「え?」

「一人で行ってみたい。三年間ずっとお母さんと一緒だったから、今お父さんと向き合うなら、一人じゃなきゃいけないと思うんだ」

 今度は、ナシュが黙る番だった。小さな息子の緊張した視線を感じながら、フィリスの意図をくみ取ろうとしていた。

「フィリス一人なら、お父さんに会えるかもしれないって思うの?」

「わからないけど……」

 フィリスは、意外にも首を横に振った。

「でも、一人でどこかに行ってみたいんだ。誰にも頼らずに、この足で。そうすれば、何か変わる気がするんだ」

「そうか……」

 フィリスが立ちあがる日、待ち望んでいたはずの瞬間があまりにも唐突に、寂しさと不安という意外な感情を伴って訪れたのを、ナシュは感じた。

 三年前のあの日、フィリスが足を失った日。

 三年前のあの日、フィリスが父を失った日。

 ナシュは、生涯をかけてフィリスを支えるつもりでいた。フィリスの未来を見ていなかったからだった。過去のだんらんばかりを求めて、一人分抜け落ちてしまった愛情を取り戻すことを夢想していた。

 今を大切にしようと誓った日、フィリスを支えるのではなくて、フィリスの背中を押すのが自分の役目だと、ようやく気がついた。けれどこんなにも早くその時がやってくるとは思ってもみなかった。土砂崩れから命からがら逃げたしたことで、フィリスは思うところがあったのかもしれない。そんな考えが頭をかすめた。

 それでも、もう決めていたことだった。


 地震から三年後の夕方がやってきた。フィリスはおろしたてのコートに袖を通してご機嫌な様子だった。せっかく星見の塔に上るなら夜がいいと言うので、慌てて用意したものだ。まだ冬は先だが、暖炉もない石造りの塔はことに冷える。クルースも、必ず厚手の外套をひっかけていた。フィリスは望遠鏡を覗いてくるつもりらしく使い方をおさらいしていたが、クルースの望遠鏡を壊しかけてからナシュはほとんど触らせてもらえなかったので、あまり覚えていなかった。

 落ちかかった太陽の光が夜の闇とせめぎ合い、空をつかの間の紫に染め上げていた。風はなく、流れるようなフィリスの髪も穏やかだ。宵の明星が西に輝き、黄色を帯びた月が二人を見下ろしている。

「フィリス、杖はいいの?」

「いらない。頼らないことが大事だと思うから」

 きっぱりと、凛々しい声で断った。

「そう……わかった。お父さんに、よろしくね」

「うん。行ってきます」

「気をつけて」

 白いコートをはためかせて、煉瓦の道を踏みしめる。ナシュにはその背中が大きく見えて、やるせなかった。

「……待って」

 フィリスの手を掴んで引きとめる。小さく、暖かい手だった。

「……なあに?」

 何も言うことはないはずなのに、何も渡すものはないはずなのに、引きとめてしまった自分が許せない反面、そうでもしないとちぎれてしまいそうな自分がいた。

「一緒にご飯、作ろうね」

 絞り出した言葉がそれだった。フィリスは小さくうなずいて、ナシュの手を握り返す。

「行ってらっしゃい」

 ナシュはフィリスの背中を、そっと押した。

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星見の塔とタキオン 八枝ひいろ @yae_hiiro

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