終章 死人に口なし

「とっくん!」

 蝉が騒ぎ始めた初夏の朝方、照りつける日差しに目を細めながら石畳の小道に突っ立っていた僕は、門の向こうにタチの姿を認めて手を振り返した。

「ごめーん、待った?」

「うーん、ちょっと待ったかも」

「嘘言わないの。息上がってるよ」

「あれ、バレちゃったか」

「もう、意地悪」

「そっちだって遅れたじゃん」

「人んち行くときは、ちょっと遅れていくのがマナーだよっ」

「敵わないなぁ……」

 そうぼやくとそっとタチの手をとって、玄関への道を並んで歩き始めた。

 タチは水色のリボンのついた麦わら帽子をかぶり髪も下ろしていた。花柄が薄く透かしこまれた真っ白なワンピース姿で、ずいぶんとお嬢様然としている。

「どうしたの、めかしこんで」

「だって、こないだ来た時はこんな豪邸だって知らなかったんだもん。それに、今日は星野君のお母さんもいるんでしょう?」

「ああ、なるほどね……って、タチのお母さんはどうしたのさ」

「あっ……それは……」

 タチはぎこちなく笑って後ろめたそうに視線をそらした。けれどその前に僕は心中を読みとっていた。

「喧嘩したのか……まあ、しょうがないかな」

「問い詰められたら、話さないわけにはいかなかったの。何て危ない真似をするの、って怒られちゃった。うーん、当分は口利いてくれないかもしれないな……」

「まあ、今度また頭下げに行くよ。タチは完全に巻き込む形になっちゃったし」

「いいの。ついていくって言ったのは私だから」

「あらあら、それは残念」

 突然口を挟まれて前を向き、目と鼻の先の人影に気づいてひっくり返りそうになった。

「お、お母さん!?」

「ええっ、この人が!?」

 サングラスをかけ腕組みして僕たちを待ち構えていた母は、やれやれと首を振ってため息をついた。

「白宮さんのお母さんがみえるのであれば、いろいろお話ししようと思っていたのだけれど。来られないのなら仕方ない。どうやら一通りは丸く収まったみたいだし、後で報告を受けることにするよ。今日の話し合いは、子供三人水入らずでやって頂戴」

 母は来客用の簡素なスカートを翻して振り返ると、軽く手を上げて秘書を呼んだ。そのまま身振り手振りを交えながらあれこれ指示を出す姿を、二人で唖然として眺めていた。

「わ、若い……」

 ぽろっとこぼしたタチの言葉を耳ざとく聞きつけて、振り返った母は笑う。

「それはどうも」

 それを最後に早足で家の中に戻っていった。

 

 部屋に入ると、ちょうど百合子さんが机に紅茶とお菓子を並べているところだった。

「あ、あの、こないだは本当にお世話になりました」

 百合子さんはにこにこしながら空のお盆をとって、タチに向き直った。

「気にしないで。こっちだって、楽しませてもらってるんだから」

「え?」

 首をかしげるタチの脇を通り抜けて、百合子さんは鼻歌交じりに去っていった。

「どーいうことですかー?」

 その背中を追いかけるタチの視線に、赤くなった僕の顔が映らなくて幸いだった。

「遅かったな」

 ふんぞり返るようにソファに座る閃斗が、こちらに向かって手を上げた。

「大人二人はどうしたんだ?」

「えっと、いろいろあって、欠席みたい」

「なんだよ、脅かしやがって。どうやって言い訳したらいいかずっと考えてたのに」

「そんな偉そうに座って、よく言うよ」

 苦笑しながら、丸いちゃぶ台を囲む座布団に腰を下ろすと、おもむろに紅茶を含んで、ほとんど無意識のうちに砂糖を足した。

「で、あの時何が起こったんだ?」

 見慣れた動作はわざわざ突っ込まずに、閃斗はいきなり核心をついた。僕は手に取ったカップを戻して机の上で手を組んだ。

「……僕もよく分からないけど、たぶん、シンと同じような力を使ったんだと思う」

「洗脳か?」

 閃斗の眼は僕を責めるような、恐れるような、憐れむような、複雑な感情を呈していた。

「ちょっと違うかな……。僕はただ、今までに見てきた犯罪に手を染めてしまった人たちの心を、シンに強引に見せつけたんだ。途中からは僕の精神もシンと同化して、シンと同じように魂の叫びを聞いていた。都合のいい考え方かもしれないけど、シンはようやく人を殺める罪悪感を知って、川へ身を投げたんだと思う」

「心を見るだけじゃなく、他人に自分の心を見せる、あるいは他人の心を自分の心に同化させる、ってわけか。入力に対する、出力だな」

「そうだ……そう言えばあのとき、篠原さんの心が見えたよ」

「……そうか、俺も友璃の幻を見た気がするんだ」

「えっ……? それじゃあもしかして、幽霊? あの光景は、死んだ篠原さんしか知らないはずなんだけど……」

 閃斗は小さく首を振って、それを遮った。

「死人に口なし、さ。何かの間違いだろう」

「でも……」

「それでいい。俺はもう変な期待をしてしまう方が辛いんだ」

 ティーカップを手にとって一気に飲み干した閃斗は、ぎゅっと目を閉じ天井を振り仰いだ。しばらくそうやった後、不意に視線を戻して鋭く言った。

「シンは死んだと思うか?」

「わからない。ただ、あの傷で濁流にのまれたら、まず命は無いと思う。僕が思い出せる限りでは、水も飲みこんでいたはず」

「まあ、祈るしかないか……」

 閃斗は深刻そうな表情を崩さなかった。僕は視線を移して帽子を脱いだタチに水を向けた。

「タチは? 体調大丈夫なの? それと、あのときは一体……?」

「えっと、体調は大丈夫だよ。昨日までちょっとふらふらしてたけど、今朝起きたらすっきりしたし。ただ、傷を治すときは朦朧としてたから、私もよく分かんないんだ……。死んでたまるかって無我夢中で、『触覚』で傷の様子を診ながら、ここがこうなったら治るのになって考えてたら、本当に治っちゃったの」

「今はできるの?」

「できないよ。できたら星野君の怪我を治してるし」

 シンとの斬り合いからたった二日では、そうそう傷も癒えるものではなかった。閃斗は服の下にびっしりと包帯を巻きつけている。特に太ももの刺し傷は完全に治癒するまで一ヶ月ほどはかかるだろうと言われた。ちょうど体育祭の時期と被っているから間に合うかどうかと内心穏やかではないのだった。

「強い生存への欲求か。どうやら、『視覚』や『触覚』の程度は意思の強さと密接なかかわりがあるらしいな。『視覚』でも心を見るだけでなく心を見せることができた。同じように、体内を知ることができる『触覚』の高次の能力として、体を治すことができたということか……。まったく、知れば知るほど訳が分からん。どうやったらそんな凄まじいスピードで代謝が進むんだよ」

 嘆く閃斗をよそに、僕とタチは紅茶をすすっていた。

「おいこら、ちょっとは反応しろよ」

「だって……」

「だよね」

 タチと顔を合わせてうなずき合う。それが可笑しくて二人して微笑んだ。そんな中閃斗だけが面白くなさそうに腕を組んで睨んでいた。


 話さなければいけないことは話し終わったので、あとは音楽をかけたりしながら、適当に談笑していた。思えば、三人でくつろぐのは初めての経験だった。シンのその後は気がかりだったけど、今日明日でどうこうということはないだろう。袋入りのクッキーを閃斗と取り合いながら僕はあっけらかんと笑っていた。楽しいひとときは飛ぶように過ぎ、いつしかお昼時になっていた。

「あーごめん、もう帰らなきゃ。お母さん怒ってたから、昼ごはんまでに帰るって言っちゃったんだ」

「そうか、それじゃあ仕方ないね……。帰り道分かる?」

 帰り道と言うのはこの部屋から玄関までの行き方のことだ。なんせ廊下は長いし階段もいっぱいある。僕だってしばらくは迷いっぱなしだったのだ。

「うーん、連れてってくれる?」

「分かった。閃斗はどうする?」

「パス。足が痛ぇから、あんまり動きたくない。また学校でな」

「うん、じゃあね。お大事に」

 手を振ったタチと連れ添って部屋を出ると、僕はゆっくりとドアを閉めて長い廊下を突っ切っていった。

「ねぇ、とっくん?」

 廊下を曲がって階段を降りようとした時、タチに服の裾を引っ張られた。

「何?」

 振り返ると、タチは細い眉をきりっと寄せて思いつめたような表情をしていた。

「私、全部思い出したの」

「思い出した? 何を?」

「シンに操られそうになって、とっくんの病室に行った時のこと」

 ぎくりとなって、僕はたじろいだ。

「たぶん、私に落ち着いて欲しかったんだよね。そう言ってたもん。だから、とっくんの眼を見たら急に意識が遠のいて、目が覚めた時にはなんだか自分のしたことがすとんと受け入れられて、客観的に見られるようになってた。きっと、閃斗が言う『出力』の一種だと思う。あのときのこと、最初はすっかり忘れてしまっていたんだけど、断片的に少しずつ思い出していったの。それで昨日全部思い出したんだ」

「うーん、僕も何が起こったのかよく分かってないんだけど、たぶんそういうことなんだろうね……」

 しどろもどろに答えると、案の定はねつけられた。

「ごまかさないで。何言いたいか、分かってるくせに……」

 タチは口を尖らせてぱっと頬を赤らめると、そっぽを向いてもごもごと言った。

「い、今もさ、同じなの? その、一緒にいたいっていうのは……」

 じっと考え込むようにして、僕はどう言うべきか悩んだ。

「ちょっと違う」

 僕はできるだけ平静を装って、小さく首を振った。

「えっ……」

 視線を戻したタチの表情が強張った。僕はそんなタチに歩み寄ると、そっと肩に手を置いた。ほとんど同じ高さのこげ茶色の瞳に、僕の蒼い目が映っている。

「好きってどういうことか分からないなんて、もう言わない。僕もタチが……好きだよ」

「あっ……」

 その瞬間、タチの眼の中で、ふわりと喜びの色が舞った。その色合いはとても華やかで、たとえようもなく綺麗だった。嬉しそうに目を細めてくしゃっと笑うタチが眩しくて、僕も思わず頬を緩めた。

 顔を赤くして微笑み、どぎまぎしながら見つめ合っていた僕らは、やがて、どちらともなくゆっくりと顔を近づけていった。


***


 玄関から階段を上りきったそこには、春も盛りの森の中で小鳥のつがいが鳴き交わしていた。偶然にもその絵の前に立っていた二人は、初夏の喧騒から切り離された廊下の真ん中で柔らかい光に包まれていた。

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SENSOR 八枝ひいろ @yae_hiiro

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